父の先見
日本の名匠
中公文庫 1979
鹿児島生まれの海音寺潮五郎の晩年は、やはり西郷隆盛だった。何回にもわたって西郷を描き、さらにこれを大作に仕組んで、その完成を俟たずに亡くなった。ぼくはその西郷論に少なからぬ影響をうけた。
海音寺の作品では、一般によく知られているところでは『天と地と』が大ベストセラーになった。上杉謙信を描いた長編だが、昭和44年にNHKの大河ドラマになったときは、「文学がテレビの助けを借りねば読まれないなんて情けない」と強い不満を述べ、いっときは文壇からの引退を決意した。
そういう人なのだ。
海音寺はもともと歴史が歴史学やメディアによってしか伝わらない風潮が大嫌いで、なんとか人々の歴史語りによって時代を継承していくことを訴えてきた。つまりは大河の脇に家を構えているような作家なのである。
そういう海音寺の傑作のひとつに『平将門』とともに、『武将列伝』『悪人列伝』がある。
いずれも連作で、かつ人々が武将や悪人をどのように口の端に伝えてきたかという語りの構図を多重に組み入れている。
なにかのきっかけでこれを読んで、するするとその語り口に吸引されていった。「史伝語り」とでも名付けたいその語り口は、作家が主人公を嵩に着てどうだと威張っている態度がまったくなく、しかも史実の細部をこんなに知っているという脇道の扱いも、絶対に退屈させない。何が自分の主観で、どの見方が何の史料によるものかも、いつも巧みに物語のなかに語られている。
本書はそうした海音寺の大きくて反骨的で、かつ屈託のない歴史観が、前半は刀匠・陶工たちに、後半は将門から西郷までの武人にあてられ、それぞれ短文ながらコクのある語り口が一挙に読めるようになっている。いわば海音寺潮五郎入門にふさわしい一冊なのである。
最初は刀匠の話である。
越前の虎徹、その弟子の興正、ニセの虎徹をつくった環正行こと山浦清麿というふうに追って、清麿が長州に流れて周防の仁王の刀工清綱(仁王三郎)と出会うあたりから、叙述の半分くらいが物語仕立てになる。
もともと日本刀というものは古刀と新刀とが分かれている。新刀は、秀吉お抱え鍛冶の埋忠明寿やその門下の肥前に生まれて京都堀川に住んだ堀川国広・肥前忠吉からをいう。その国広の下に国路・国貞・国助が出て、さらに国助の弟子に初世助広や近江守助直らが輩出した。助直については江戸末期の林鶴梁が書いた漢文『刀工助直伝』があって、ぼくも気になっている。
海音寺はこのへんの人物を適当につまみつつ、しだいに正統派の刀工以外の"変わり者"に愛着をむけていく。刀工でありながら自身で『剣工秘宝』を書いた大村加卜などがその一人である。このあたりの"寄せ"が海音寺潮五郎なのだ。
現代の刀匠からはふいに宮入昭平が紹介される。清麿を鏡とみて人間国宝になった。
代々が鍛冶職で刀狂いの男だが、昭和12年に東京に出て栗原彦三郎の日本刀鍛練伝習所に入った。栗原は噂では西の月山貞一に並び称されていたものの、実は刀工の腕はなく、雑誌『日本刀及び日本趣味』などを通して啓蒙活動をしているだけだった。いったん失望した宮入だが、思いなおしてここに入って修行する。ありとあらゆる日本刀の知識が得られることと、兄弟子たちの叱正が薬になったからである。
やがて宮入は研師の平井千葉(古刀)や平島七万三(新刀)の工房に出入りして話を聞き、自分なりの組み立てに執心すると、最初に出品した刀でいきなり展覧会の総裁賞をとった。しかし時は太平洋戦争に突入していく時期、かなりの人を殺すための軍刀を作らされた。もっとも、それも糧になったようである。
戦後、宮入の名がまた高まったのは、伊勢神宮遷宮のたびに62口(ふり)の宝剣が奉納されるのだが、そのうちの7口を納めたことだった。神代以来の直刀である。
こんなふうに書きながら、つづいて陶工の話に入る。
藤四郎、加藤民吉、志野宗信、織部、加藤景光・景延、長次郎、光悦、乾山、仁清を次々に素描する。
海音寺がこれを書いたとき、実はこのような陶工伝ともいうべきものは、世の中にひとつもなかった。すべては陶磁史だった。いま読めばきっと遺漏の多いこととはおもうけれど、当時は画期的だった。ぼくが織部・光悦・ノンコウ・宗和・仁清をつないで読めたのも、この文章が最初だったような気がする。
だいたい陶工には伝承しか残っていない。藤四郎(加藤四郎左衛門景正)にしてさっぱりわからない。道元に伴って中国に渡ったとか、承久の乱で後鳥羽院に与した後藤基運が父親だったとか、ともかくいろいろの話がある。デタラメも多い。そこを海音寺は瀬戸や久尻や美濃に出向いて話を集め、そこに数本の筋を撚る。すると何かがそのあいだに見えてくる。けっして勝手な決定をしない。
それでも文化文政期の吉左衛門や民吉くらいからは、しだいに陶工たちの人物としての図柄が見えてきて、染付が瀬戸にもちこまれた事情も黄瀬戸や志野が出てきた背景もすこしは形がついてくる。
ぼくはそのころしばしば考えていたことに、陶工というものは長いあいだ禁忌の職能だったのではないか。土をいじるのは穢れとはいわないまでも、そのことを語ることは憚られたのではないかと推測していた。それが土師器や神器にかかわる者たちをどこかで宿命づけていたのではないかと見たわけである。
必ずしもそういうことはなかったのだが、それらしきことはよくおこっていた。陶邑の一族が分かれて常滑に及び、瀬戸に入って北条経済文化によって掬いあげられていくプロセスには、似たような話がいろいろ見えるからである。
しかし、結局このタブーは破られた。そして茶匠が出現し、景光や長次郎の陶工が注目され、織部・光悦におよんで陶芸は一挙に歴史の前面に出た。
茶の湯がすべてを変えたのである。あるいは技術と美意識の結託が経済文化をゆるがした。そうおもうと、従来の茶の湯の役割についての説明はまだまだかなり物足りないということになる。
海音寺は茶の湯にはあまり深くは入らない。文ではなく武が好きなのであろう。それで職人か武人か悪人にだけ筆を進めた。
しかし、それがかえって歴史の暗部をあきらかにした。本書の後半も、その観点から将門、純友、清盛、謙信、西郷が描かれる。話はわくわくする素材の掘りおこしによる推論が多い。このたびは再読はしなかったのだが、きっといまでも仮説に富んでいるのではあるまいか。
たとえば、多治比文子の巫覡によって道真が天神になったとするなら、その道真信仰に加担した平将門に八幡の神託が降りたという『将門記』の記述は何を意味するか。将門と純友が叡山中で共同謀議をしていたという『外記日記』の記述は否定されているが、もし純友が藤原北家の一族の者ではなく、伊予の高橋味の出身だとするとどうなるか。討幕の思想を最初に抱いたのは宇都宮の大橋訥庵、庄内の清川八郎、久留米水天宮の真木和泉、筑前の平野国臣、薩摩の伊牟田尚平らだが、これらをつないだネットワークとは何だったのか。こういったことが歴史学にとらわれないで、丹念に、また大胆に綴られている。
とくに真木和泉を参謀格として摘出してみせた幕末の動きについては、ぞくぞくして読んだ記憶がある。ぼくがその後、真木についての文献をずいぶん読むことになったのも、本書を読んでからのことだった。
こうして最後には、得意の西郷についての文章になる。本書では明治維新のとき、天皇がわずか17歳であったことに視点をおいて西郷の改革断行の意志を述べている。
西郷が骨を折ろうとした改革は、要約すれば5つある。廃藩置県、宮中改革、軍制確立、警察設置、銀行設立である。なかで海音寺は宮中の官僚的疲弊の一新に蛮勇を奮った手腕をそうとうに評価し、一方で、山形有朋らを動かした軍制の確立に対する西郷の懸念を指摘した。
ただし、本書は随筆の再録程度のものなので、とくに濃い話は書いてはいない。それでも昭和36年から「世界」に連載された『史伝西郷隆盛』がそうであったように、西郷の敬天愛人の確固たる意志ともいうべきがよく伝わるはずである。
よろしいか、海音寺潮五郎を読みなさい。歴史学が苦手な者にはとくに勧めたい。