父の先見
アウトブリード
朝日出版社 1998
誰しもときどき何かが思い浮かんで、そのことが気にいるときがある。ただし、たいていは忘れてしまう。
ひょっとするとイルカの知能は禅の高僧のようなものではないかという思い、サッカーのセンタリングの瞬間にばらばらのニューロンが力を合わせているんだろうと予想すること、きっとエマニュエル・レヴィナスは「知の停滞」なんじゃないかという合点、「人間についての言葉は書かれすぎたんだ」という大きな反省、身のまわりの科学を解説する本なんてキライダとする一気の爽快、下北沢の町角に飼われているサルによってなぜ「心の段差」がおこるかについて長々と考えること、深沢七郎の言葉のはずれかたを故郷山梨の文化に託してみたくなったりする直観‥‥。
保坂和志が本書に書いていることには、たとえば以上のような感覚の断片が含まれている。こういうことが、文中にふいに現れ、消えていく。もちろんちゃんとそのことが書いてあるのだから、忘れてしまったわけではない。
小説を書くときはどうなのかは知らないが、こうしたエッセイを書くときの保坂は驚くほど直截である。思想や論理が先にあるのではなくて、ふと思ったことがきっかけになったり、転換点になったりして、進む。そこが気持ちがよい。
読書というもの、ごく僅かな内部の反応に関連してすすむものである。体の調子が悪いときはそのような振動がおこっているし、新幹線の中で読むときは車窓に流れる風景のスピードとのかねあいが出る。だから風呂上がりにニーチェは似合わないし、食べ過ぎたあとに吉本ばなななど読まないほうがいい。
ぼくはとくに読書のしかたが変化するほうで、一杯呑み屋のおやじのように読んだり、アスリートのように読んだり、重病人のように読んだり、雨に降られたときの気分で読んだりする。読書だからといって、読書のための一定の姿勢や情感のようなものがあるわけではない。いつも「そのつど」なのだ。
ただし、これは誰もがふだんしていることだが、納豆を食べるときはいかにも納豆を食べる感じになり、スキヤキをつつくときはスキヤキをつつく感じになるように、読み方にも慣れればそれなりの“作法”というものもつくられてくる。
書物にはもともと勝手な想像性や夢中な遊びや重たい理屈や毒々しいリズムなどが含まれているので、こちらとしてもあれこれ工夫が必要なのである。
ところが、そういうギアチェンジをしなくてすむ本もある。構えなくていい本である。生硬な学者や研究者たちの本にはこういうものは少ないが、作家やエッセイストの本には、こちらにムダな努力をさせないものが少なくない。
本書もそういう一冊だった。それからというもの、ぼくは保坂和志には無防備でむかうことにした。本書の帯には「小説家の芯にはこんなに硬いものがある」とあったが、ぼくは硬いものより柔らかい反応体のようなものを感じた。
そういえば、スペースシャワーTVというCSを見ていたら、ギターポップのバンドのリーダーが「ぼくは保坂和志の言葉がすごく好きで、ああいう感覚で音楽をつくりたい」と言っていた。存分に頷けることである。