ウィリアム・ギブスン
ニューロマンサー
ハヤカワ文庫 1986
ISBN:415010672X
William Gibson
Neuromancer 1984
[訳]黒丸尚

 この作品が出たときは、唸った。こういう感覚が出てきてほしいよなとおもっていたところへ、まさにドンピシャの人工虚構現実感覚のカレイドスコープだった。
 ハイパー・ヴァーチャル=リアルなのである。冒頭一行目から次のように始まっているのも気にいった。「港の空の色は、空きチャンネルに合わせたTVの色だった」。これで、この新人作家ウィリアム・ギブスンがレイ・ブラッドベリの再来であることがすぐわかったが、読みすすむとギブスンはブラッドベリではなかった。ブラッドベリよりずっとオーガニック・マシナリーで、ずっとヴァーチャル・ダンディだった。
 この作品は出現したとたんに「サイバーパンク」(cyber punk)というニュージャンルをつくり、あっというまにSFの歴史を塗り替えた。そして、またたくまに文学史を飾る古典となった。
 サイバーパンクと命名したのはブルース・ベスキで、それを広めたのはSF編集者のガードナー・ドゾワだったが、この用語はSFの領域を示しているのではなく、新たなスタイルをさしていた。ここには電子的未来の原郷が示されていたからだ。ここから、その後のデジタル・センセーションの大半のアイテムが電子銃のように飛び出していった。たとえば最近でこそ知られてきたけれど、「マトリックス」という言葉を共感覚幻想の意味につかったのは『ニューロマンサー』が最初だったのだ。
 
 舞台は、ニュー・イエン(新円)が乱れとぶ未来の日本の千葉シティである。主人公のケイスは、かつてコンピュータ・カウボーイで伝説のハッカーだったディクシー・フラットラインの際立つ弟子だというふれこみだ。話は、そのケイスが全身武装のブラック・ゴーグルの女モリイから「マトリックス」へのジャック・イン能力の修復をしてもらう代償に、コンピュータ複合体「冬寂」(ウィンターミュート)への潜入を依頼されるというところから始まる。
 いったん始まったらどこにも停まらない。出てくるものは電子擬態をこらしたマシンの数々、アーティフィシャル・ホルモンを打ちこんだ人造感覚の持ち主たち、本物か虚偽か見分けのつかない映像網もどき、暗号と記号に満ちた会話とシステム、その手の電擬的なものばかりだ。一ページ進むたびに、いくつもの電界現象が仕組まれていて、そのVとRがごっちゃになったブレードランナー的疾走感がたまらない。だから筋書きのほうは容易につかめない。
 女サムライ然としたモリイ・ミリオンズの依頼によって「冬寂」に潜入したケイスは、そこがどこかが仕組んだAIであること、その黒幕がアミテージという男であること、「冬寂」のほかに「ニューロマンサー」というAIがあることなどを察知していくのだが、だからといってこれで話の筋が少しでも見えてくるなどということは、おこらない。だいたい登場人物がすぐに半アンドロイド化するのだから、人脈図がつくれない。
 とにもかくにも想定しうるかぎりのサイバーセンスの大半がこの作品に萌芽し、装着され、解離されていったのだ。ギブスンがその試みをすべて言語でこなしたことにはただただ脱帽するばかり、それが千葉シティでおこっていて、場末にニンセイ(仁清)などという治外法権区、チャツボ(茶壺)という変てこバーもあるというのでは、こちとらは腰が浮くばかりだった。

 きっと『ニューロマンサー』は生まれるべくして生まれた作品だった。そういう時代の足音が近づいていた。
 一九七九年に、デビッド・マーの『ビジョン』(産業図書)、ホフスタッターの『ゲーデル、エッシャー、バッハ』(白揚社)、ラヴロックの『ガイアの時代』(工作舎)が揃い、それにちょっと自慢をいえば、ぼくが漆黒の反転文字による『全宇宙誌』(工作舎)を出していた。ウォークマン、PC8001、YMOが登場した年でもあった。ここが『ニューロマンサー』の出発点なのである。
 ついで一九八〇年、CD、CNN、トーキング・ヘッズ、キース・ヘリングとともにトフラーの『第三の波』(日本放送出版協会)がお目見得し、マトゥラーナとヴァレラの免疫学的自己創出理論が躍り出た。一九八一年は、エリッヒ・ヤンツの『自己組織化する宇宙』(工作舎)とMTVとウィザードリィ、一九八二年がATT分割とリドリー・スコットの《ブレードランナー》である。ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を下敷きにしていた。まだ富士通のワープロ専用機「オアシス」が七五万円もしていたころだ。
 一九八三年、パイオニア10号が太陽系を脱出したとき、地上ではHIVエイズウイルスが発見され、ファミコンとハッカーが登場していた。そして一九八四年、32ビットのマッキントッシュやTRONとともに『ニューロマンサー』が登場する。お膳立てはすべてできあがっていたのである。
 タイトルの『ニューロマンサー』はニューロ・マンサー(神経的人間性)とニュー・ロマンサー(新浪漫派)が二重意味になっている。このあたりのネーミングも、当時のニューロダイナミックスやニューラルネットワークの研究前線を反映していた。

 作者のウィリアム・ギブスンはぼくの四つ下だから、ほぼ同世代である。ベトナム戦争の渦中にぶつかり、兵役を逃げたくてカナダに移住すると、ヒッピーやティモシー・リアリーやLSDやロックによるカウンターカルチャーを浴びた。
 一九七七年ごろからSFを書き出したようで、そうだとしたらパンクロックが歌枕になっていたはずだが、八二年に書いた短編『クローム襲撃』(ハヤカワ文庫SF)が注目されると、そのまま『ニューロマンサー』に突入していった。その勢いはそのまま『カウント・ゼロ』『モナリザ・オーヴァドライヴ』(ハヤカワ文庫SF)のスプロール三部作になった。
 サイバースペース(ギブスン自身の造語)に意識ごとジャック・インするという発想は新しいものではないけれど、「ガジェット」と総称される電脳界の道具立てにけっこう徹底したせいで、ぶっちぎりのSFスタイルを確立させた。なぜギブスンにそれができたのかはわからないが、一九八〇年代前半に生命・情報・機械の区別がアップル・コンピュータや《ブレードランナー》やロックミュージック・シーンによって擬態的な重合をはたしつつあったこと、それらがハッキング・テクノロジーと裏腹のリバース・エンジニアリングにもとづいていたこと、もはや官能がマン・マシーン化しつつあったことが、大きかったのだろうとおもう。

 ギブスンより思想的に正当かつ過激で、どこかに電脳ヒューモアを介入させているのが、ギブスンと『ディファレンス・エンジン』(ハヤカワ文庫SF)を共作したブルース・スターリングである。
 セルビア人の作家ジャスミナ・テサノヴィッチと結婚してからはベオグラードに住んでいた。もともと父親の仕事の関係でインドなどの海外生活が多かったらしい。
 作品は、香ばしさには欠けるものの、いずれも読みごたえがある。逃げないのだ。『ニューロマンサー』の翌年に発表された『スキズマトリックス』(ハヤカワ文庫SF)は人類の宇宙進化を追うというSFの王道のサイバーパンク化を試みていて、好ましかった。無数のスペース・コロニー上で進化(分化)をしていった人類が生物機械的な変容をとげつつ、どんな生︲情報系をコミュニケートしていくのかという設定で、月の衛星軌道コロニーの住人のリンジーが、ノマド的な遍歴をする物語になっている。
 どこかで書いていたか話していたのかとおもうが、スターリングのSFの師は六〇年代のJ・G・バラードで、その手法のルーツはマックス・エルンストやウィリアム・バロウズだった。主題をつねに人間の思考動向におき、組み立てはコラージュやカットアップやサンプリングを駆使する。きっとスターリングは「メディアとしてのサイバーパンク」を追求したかったのである。だから、今日のメディアの有様にはそうとう失望しているはずだ。多くのメディアがデッドメディアに見えていた。

 今日は二〇〇〇年六月二日である。そこかしこに二十世紀最後の黄昏がたちこめているはずだが、事態はぶじぶじと停滞しきっていて最悪だ。ポストモダン思想とサイバーパンクが何かを費いはたして「からっきし」を露呈させたと言われかねまい。
 そんなふうに感じるとしたら、主題と主観によって社会や世界を見ようとしすぎたからだろう。これではすぐに「からっきし」がやってくる。そうではなくて、方法の世紀が始まろうとしていると見るべきなのである。主題の世紀がヴァニシング・ポイントに向かっていて、これに代わって「方法」を語る時が来ていると思えばいいのだ。
 ポストモダン思想はともかくとして(こちらからも方法だけを探り出したほうがいいが)、サイバーパンクから移植されるべきは「準同型」や「擬同型」の方法思想というものだろう。“homo-morphism”や“quasi-homo-morphism”である。
 すでにSF界ではさまざまな試行がされてきた。たとえばトマス・ピンチョンの『V.』(一九六三)ではVを捜すハーバート・ステンシルが収集した一八九八年からの雑多な情報集積が、ウィリアム・バロウズの『ワイルド・ボーイズ』(一九七一)ではバラバラに切り刻まれた文章がカットアップ手法によって組み替えられ、別様の可能態をあらわしうることが告げられていた。
 サイバーパンク作品でも、ヴァーナー・ヴィンジの『マイクロチップの魔術師』(一九八一)やルーディ・ラッカーの『ソフトウェア』(一九八二)が、脳に直接接続された部品やそれにつながるガジェットによって、準同型や擬同型がおこることを描いていた。ぼくがギブスン以上にうまいと感心したグレッグ・ベアの『ブラッド・ミュージック』(一九八五)では、DNAの再起動プログラムが「血」にまじっている。こういう試みは、そもそもが二一世紀的なポストモダンでサイバネティックなヴァーチャル=リアルを標榜した「もどき」の手法なのである。もっと明解には大友克洋が『AKIRA』(一九八二)においてその相互擬体力を描ききっていた。文学史としては巽孝之の『サイバーパンク・アメリカ』(勁草書房)が解説してくれている。
 主題ではなく方法であるということは、方法の本質がアナロギア・ミメーシス・パロディアにあるのだから、事態は「ほんもの」と「にせもの」の見分けがつかず、生体と擬体と機体の区別が複雑に組み合わさり、かつての生命の機構が生︲情報系としてウイルスやミトコンドリアを探りあてていったように、外系と内系とが混ざっていくということなのである。いやいや、思想や文学を持ち出さずとも、この方法はすでにアートやポップスやファッションにおいて擬かれていた。
 サイバーパンク。悪かろうはずがない。マルコム・マクラーレンとヴィヴィアン・ウェストウッドが仕掛けたセックス・ピストルズからして、パンクは高度情報社会の裏道にどうしても必要なものだった。それはそもそもにしてファッションであり、ラディカル・スタイルなのである。だとしたら、以上の話はすべからく着脱自在でなければならないはずだった。今後のAIやロボットがサイバーパンクをいたずらにハードエッジにしていかないことを、希いたい。

参考¶ウィリアム・ギブスンには『カウント・ゼロ』『クローム襲撃』(いずれもハヤカワ文庫)『ヴァーチャル・ライト』(角川文庫)などの著作もある。
またギブスンはブルース・スターリングと組んでも傑作を発表している。その代表作が千夜千冊0008『バベッジのコンピュータ』でも紹介した『ディファレンス・エンジン』である。

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