才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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ユーミンの罪/オリーブの罠

酒井順子

講談社現代新書 2013・2014

編集:井本麻紀・安藤茜
装幀:中島英樹

たまにはひとり どこかへ行きたかった
たまには少し 心配させたかった
次の夜から欠ける満月より
14番目の月がいちばん好き。
そう歌った「ユーミンの罪」とは何だったのか。
友達と会ったらパーソンズおしゃれ
大親友だってライバル
おめかしはエスプリきかせたジーンズおしゃれ。
そう謳った「オリーブの罠」とは何だったのか。
ぼくには、いささか遠い流行だった。
酒井順子が懐かしそうに解読してくれた。

 酒井順子を褒めたくて本書二冊を選んだ。千夜千冊で二冊を掲げて案内するのは初めてだが、そうしたくなる。
 二冊は呼応しているが、もともとは『ユーミンの罪』が書かれ、一年後に『オリーブの罠』が上梓された。『ユーミンの罪』のとき、ふーん、やったな、酒井も担当編集者もうまいなと思ったが、これに続く『オリーブの罠』がまるで焼肉の網焼きの目のようにクロス模様となって交差したのには、腕ひしぎ十字固めにかけられたようで、うっうっと唸った。そんな関節技をすらりとこなす酒井はかなりの寝技師だ。
 あらかじめ断っておくが、ぼくはユーミンにもオリーブ少女にもまったく無頓着で、彼女らが活躍した二十年ほどのあいだ、ずっと没頓着だった。けれども『ユーミンの罪』という現代新書の表紙の文字ヅラを見たとたん、これはぼくの同時代認識の欠如を補うものだ、これは刺されたいと思えた。それで二冊同時をあえて選んだ。酒井の著書からすればもっと出来のいいものがあるのだろうが。

 酒井順子をキーワード的にいうと、立教大学、博報堂、泉麻人の助手、「オリーブ」専属ライター、鉄道女子(宮脇俊三ファン)、『負け犬の遠吠え』(講談社)大当たり、ほのエロ主義、日ハム・フリーク、結婚疲労宴ってどう?、ないものねだり、女も不況、地震でも独身……というふうになる。
 ま、これだけ揃えば、そのエディターシップを応援したくなるのだが、とはいえ、いまさらぼくが肩入れしなくともこの人はリッパに書けている。それもたくさん書いている。売れっ子らしくほとんど文庫化されているが、タイトルを並べるだけでその虚を突いたセンスに、われわれオヤジ(オジン)は目が眩む。
 たとえば、こうだ。『お年頃―乙女の開花前線』『丸の内の空腹』『テレビってやつは』『東京少女歳時記』『女の旅じまん』『入れたり出したり』『ほのエロ記』(以上が角川文庫)ときて、『自意識過剰!』『ギャルに小判』『世渡り作法術』『おばさん未満』(以上が集英社文庫)と続き、さらに『ニョタイミダス』『女流阿房列車』(以上が新潮文庫)、『その人、独身?』『いつから、中年?』『女も、不況?』『こんなの、はじめて?』『昔は、よかった?』『もう、忘れたの?』(以上が講談社文庫)などなどと、念を押す。
 着眼も寝技も文才も自在だが、ことにタイトリングは達人級だ。みんなが知っているコトバを組み合わせているだけなのに、女ならではの魔法になっている。『丸の内の空腹』『おばさん未満』はなかでも極上だった。

酒井順子の著書
独特なタイトリングが特徴的な、酒井順子の著書の数々。

 酒井の本にはあきらかな特徴がある。「女」を「女の耳目」が綴っている。女性エッセイストなら桐島洋子から中野香織まで、読ませるものを書く“つわもの”はいくらでも登場していた。香山リカの刊行量など、群を抜いている。「女」を相手にしているエッセイストだって、林真理子・光野桃から辛酸なめ子・蝶々まで、それなりの激戦区だ。
 けれども酒井はそんな女々めく洪水の中で、みごとに「本の女舟」を次々に漕ぎ出した。それでいて、酒井の属する時代社会の観察に徹して、どの本もぶれなかった。よほど“勘察力”がいいのだろう。
 そういう酒井の、この二冊なのだ。ユーミン音痴でオリーブ無知には有難い。一読、世の中、そんなにユーミンとオリーブだったのかということに、あらためて驚いた。そもそもユーミンが「欲しいものは奪い取れ」と言っているとか、ユーミンの歌は当時の女の子たちの「進軍ラッパ」だったということを、知らなかった。こんなメッセージを歌い続けていたのだとしたら、これはたいへんなプロパガンディストだが、ユーミンはそんな気もなく女たちに女々メッセージを送り続けたのだろう。だからユーミンは罪なのだ。
 一方、一九八二年創刊の「オリーブ」が最初はLA感覚のシティ派女子大生向けだったのが、途中からフランス風の「リセエンヌ」を狙いにした女子高生向けになっていたということも、まったく知らなかった。まして「ワードローブの中に、ひとめ見て大きいとわかるシャツやジャケットなど、男物の服がさりげなくまじっていたら、あなたはもう立派なオリーブ少女」というような触れ込みに、そのころの少女たちが背伸びしながらどぎまぎ胸をときめかせていたなんて、そんな少女が学園内外で進捗していたなんて、もっと知らなかった。
 そういう時代を、今日のぼくのまわりのオトナ女子たちも、大小多寡はあるだろうもののそれなりに通過していたことを、酒井は初めて教えてくれたのだ。きっとユーミンはオイルショックやドルショック後の日本の、オリーブはバブルに向かう地上げ日本の、最もポピュラーな感受性の担い手だったのだろう。ぼくは彼女らのプチロマンチックな冒険と、香ばしい失望をすっかり見逃していたということなのである。

1982年にマガジンハウスから創刊された雑誌『オリーブ』

 八王子の荒井呉服店に生まれ育ったユーミンこと荒井由美が、レコードデビューしたのは一九七二年である。田中角栄が首相になった年で、山本リンダの《どうにもとまらない》、小柳ルミ子の《瀬戸の花嫁》、森昌子の《せんせい》、郷ひろみの《男の子女の子》がヒットして、まだ一部のファンしか知らなかったはずだが、池田理代子の『ベルばら』(週刊マーガレット)と萩尾望都の『ポーの一族』(別冊少女コミック)の連載が開始していた。ついでにいえばこれは「遊」創刊の翌年のことだ。
 こういうときユーミンの《ひこうき雲》や《ベルベット・イースター》が登場した。ニューミュージックなどと呼ばれもしたはずだ。少々我田に水を引いていえば、この七二年前後には角栄やリンダやユーミンや郷ひろみだけではなく、名付けようのないものが次々に誕生していた。たとえば石牟礼道子は『苦海浄土』を発表し、川久保玲はコム・デ・ギャルソンを、山本耀司はワイズを始めたのだが、その狙いなど誰にもわからなかったのだ。加うるに田中泯も踊りだしていた。ユーミンも「遊」も泯も、名付けようがない現象だったのだ。
 ユーミンは一九五四年生まれだからぼくより十歳年下である。最近になっても見かけはたいへん若いようだが、檀ふみ・林真理子・大友克洋・安倍晋三と同い歳である。ちなみに中島みゆきはユーミンの二歳年上、山本リンダと五輪真弓は三歳年上、石川さゆりと岩崎宏美が四歳年下、山口百恵が五歳年下だ。もっとも中島みゆきが《アザミ嬢のララバイ》や《時代》などでデビューしたのは七〇年代後半で、五輪真弓の《少女》は早くにリリースされていたが、世間が聴き始めたのはずっとあとだった。ちなみにユーミンとは一度だけだが、対談をした。若かった。

宮﨑駿監督映画『風立ちぬ』(2013)
ユーミンの『ひこうき雲』が主題歌となった。

中島みゆき『アザミ嬢のララバイ』『時代』(1975)

 というわけで、ユーミンのデビューアルバム「ひこうき雲」はニュージャンルの歌をもって七〇年代をリードした。
 六〇年代後半に身近な仲間たちがフォークに熱中し、七〇年代はほとんどブリティッシュロックかジャーマンロック、あるいは森進一とちあきなおみにはまっていたぼくにとっては、残念ながらユーミンの歌は鮮烈ではなかったが、本書が証したように、それはぼくのような男たちのためではなかったのである。それでも四番目のアルバム「14番目の月」(一九七六)までの、《海を見ていた午後》《ルージュの伝言》《中央フリーウェイ》などは、ユーミン音痴のぼくの耳にも付きまとっていた。
 「小さいころは神さまがいて/不思議に夢をかなえてくれた」「たまにはひとり どこかへ行きたかった/たまには少し 心配させたかった」「二人して流星になったみたい」「つぎの夜から欠ける満月より/14番目の月がいちばん好き」といった歌詞とメロディのくっつきかたも、ほうほう、この手があったのかと思ったおぼえがある。
 言葉が板チョコのカット割りのようになっている。歌詞がソーシャルセンスでつくったおいしいキャンディや綺麗なケーキなのである。口に入れるとすぐほろ苦く溶ける。それでいて「14番目の月」というような言葉のオシャレも随処に盛ってある。ふんふん、新世代のシンガーソングライターとはこういうものか。
 こんな言い方はぼくの無骨が適当に反応したもので、酒井はこうしたユーミンの感覚に「泡沫感」「助手席感」「湿度を抜いている」といった抜群の形容をもって当てていた。「助手席感」というのはイイ男の助手席にいる女子のイメージというものらしい。なるほど、そういうことか。まだ女たちが車をぶっ飛ばすには早かった時期だったのだ。女たちがぶっ飛ばすには、山口百恵が真っ赤なポルシェに乗って「馬鹿にしないでよ」と啖呵を切ったときまでかかるのだ。それはユーミンではない阿木燿子の詞だ。

松任谷由実「海を見ていた午後」(1974)(動画)

 酒井の指摘でさらに感心したのは、七番目のアルバム「悲しいほどお天気」(一九七九)あたりから、ユーミンは「外は革新、中は保守」をやってのけたというふうに見ていることだった。その意図が「どうしてなの 今日にかぎって/安いサンダルをはいてた」という歌詞にあらわれているとも見た。
 エレガントでカッコいいそぶりはする。一応はお嬢さまっぽくもする。できればカルヴィン・トムキンズの『優雅な生活が最高の復讐である』(新潮文庫)のようにする。そうでないなら茶髪にも金髪にもしてみせる。ところがついつい今日にかぎっては、うっかり安物のサンダルだったのだ。《気ままな朝帰り》の「北風のベンチでキスしながら 心では門限を気にしていた」も「中は保守」っぽい。
 女子の諸君がこれほど表面の完璧を装いつつも、それが綻びることを怖れているとは思わなかった。男はユーミンにくらべれば矛盾まるだしの、綻びばかりのドーブツなのである。

 ユーミンの「外は革新、中は保守」はさまざまな方面に影響を与えた。「外は革新」をもっと進めたものも「中は保守」をチューンアップしたものも出た。一九七五年に創刊された光文社の女子大生雑誌「JJ」は「中は保守」の刷新をめざしていた。
 米澤泉の『私に萌える女たち』(講談社)などによると、「JJ」はフランス仕込みの「アンアン」、自立女性路線の「ノンノ」という二人の姉に対して、お嬢さま志向の妹雑誌としてスタートした。それとともに「女性自身」の妹分でもあったので「JJ」なのである。むろん本物のお嬢さまではない。ママ譲りのブランド志向やニュートラやハマトラが遊べればよかった。
 この「JJ」に対して「アンアン」の卒業先になったのが「クロワッサン」(一九七七)で、「アンアン」の妹分になったのが「オリーブ」(一九八二創刊)だった。酒井は『オリーブの罠』でその変遷を追った。
 ちなみに「JJ」を追った対抗雑誌「CanCam」(小学館)や「ViVi」(講談社)などを、雑誌ギョーカイでは「赤文字系」という。いずれも赤い題字だったからだ。ところが「オリーブ」はそこを白ヌキにした。マガジンハウスの多くの雑誌をデザインした堀内誠一の図抜けたセンスだった。堀内は早逝したが、「anan」も「BRUTUS」も「POPEYE」も「Olive」もみんな自分で手描きしてみせたのだ。

「anan」(1970)「JJ」(1975)「non-no」(1971)
「anan」、「non-no」に対する妹雑誌として誕生した「JJ」

堀内誠一の手がけたロゴ

 さて、『ユーミンの罪』にはアルバムごとにチャプターが割ってあって、ひとつずつに時代社会のコンセプチュアル・コピーが付けてある。ユーミンの歌とともに時代社会が手短かにミラーリングされ、巧みにヘッドライン化されているので、ユーミン音痴でも十分に読める。
 八〇年代のヘッドラインなら、こんなふうだ。サーフィンとスキーが急激なブームになっていた8「SURF&SNOW」(一九八〇)は「“つれてって文化”隆盛へ」、10「PEARL PIERCE」(一九八二)は「ブスと嫉妬の調理法」、12「VOYAGER」(一九八三)は「女に好かれる女」、ラグビーな男の子の肉体を意識した13「NO SIDE」(一九八四)は「恋愛格差と上から目線」というふうに。「ブス・嫉妬・恋愛格差・上から目線」といったキーワードを強めに前面に出し、女ならではのユーミンの“女に好かれる芸風”を、酒井は時代社会を剥ぎ取って解釈してみせたのだ。

左:「ひこうき雲」荒井由実(1973) 
右:「14番目の月」荒井由実(1976)

左:「悲しいほどお天気」松任谷由実(1979)  
右:「SURF&SNOW」松任谷由実(1980)

左:「PEARL PIERCE」松任谷由実(1982) 
右:「VOYAGER」松任谷由実(1983)

左:「NO SIDE」松任谷由実(1984) 
右:「DA・DI・DA」松任谷由実(1985)

 ユーミンが一〇枚目のアルバム「PEARL PIERCE」をリリースした八二年、平凡出版(のちのマガジンハウス)が「オリーブ」を創刊した。その六年前に創刊していた男子大学生向けマガジン「ポパイ」の女子大生版で、はじめは田中康夫の『なんとなく、クリスタル』を受けた“savvy”な感覚を謳った。“savvy”は「~に精通した」という意味で、これを「オリーブ」は「もののわかった子」というふうに設定した。まあまあいい訳だ。
 ところがサヴィな子というのは何かというと、バレイガールだというのである。ロスの谷間のサンフェルナンド・バレイに住んでいるような子で、日本でいうなら青学・学習院・慶応・上智・成城・立教にいるような女の子、それが「サヴィでバレイな子」だというのだ。いったい何のこと?
 こんなマーケティングでは狙いがさっぱりわからない。そこで創刊一年後、泉麻人のオリーブ・コラムに酒井順子が“助手のアシカガ”として起用され、東京の女子学生を「アオガク系(青学)・セイシン系(聖心)・ケーオー系(慶応)・オーツマ系(大妻)・トキワマツ系(常盤松)」というふうにマッピングしてみせた。酒井も勘でマッピングしたと告白しているが、この程度で「なんクリ・サヴィ」ができあがるとは思えない。それに東京の女子大や女子高だけでは全国区にならない。
 結局、この女子大生シティ感覚路線は当たらなかった。それで方針を転向することになったのが、その後の「オリーブ」の定番となったリセエンヌ女子高生路線だったようだ。フランスのリセにいるような女の子を、ニッポン女子も真似っ子しようという路線だ。リセは後期中等教育機関のことで、日本の高校にあたる。三年制の学業コースと二年制の職能コースになっている。
 こんな歯が浮くようなことが「オリーブ」の誌面で進行しているとは想像だにしなかったけれど、もともとがおフランスな「アンアン」の妹なら、むしろこちらのほうがぴったりだったのだろう。爆発的に当たったのである。しかしその「オリーブ」も、バブルの渦中になるとまたまた転換し、ナチュラル&カルチャー志向になっていった。

『Olive』 過去に展開された特集ページの一部 その1(『GINZA』No.214より)

『Olive』 過去に展開された特集ページの一部 その2(『GINZA』No.214より)

 一九八五年にコキン法が制定された。男女雇用機会均等法だ。そのころ上野千鶴子から、「まあセイゴオさんに言う必要はないかもしれないけれど、念のために言っておくと、このコキンの年のことを忘れないでね。女を見る目も変えなさいよ」と言われた。はいはい、むろん従いました。
 当時、酒井順子は大学一年で、漠然と「これからやっと男女が平等なのか。いままで何だったのかな」と思ったらしい。コキン法のせいではないだろうけれど、ユーミンもアルバム「DA・DI・DA」(一九八五)で「待つ女」を歌った《シンデレラ・エクスプレス》を最後に、だんだん「自立な女」のほうに舵を切っていったようだった。《たとえあなたが去って行っても》では、「捨てられなかった最後の手紙 四月の空に窓を開いて吹雪にした」となり、「自分から溢れるものを生きてみるわ」になっていく。
 一九八七年のアルバム「ダイアモンドダストが消えぬまに」では、OLたちにも引導を突きつけたのだそうだ。《月曜日のロボット》は「パスを見せて ブザー鳴って 階段おりて/わからないのよ どこに向かってるのか」「カード押して おじぎをして ファクスを受けて/いつか愛するあなたとめぐり逢うまで」と迫ったのでありました。うん、これでよくわかった。まさしく、いよいよもっての「女の軍歌」なのである。そのくせ本人自身は結婚して、荒井由美からさっさと松任谷由美になっていった。

 こうして世相はあのバブルの狂騒曲に向かっていく。お金や土地のバブルだけではない。感覚や恋愛もバブル化していった。「ワンレン・ボディコン・ジュリ扇」は女たちの“地上げ”でもあったわけである。酒井はユーミンの歌も「恋愛のゲーム性」のアヤに向かったと見た。たしかに当時の女子たちは、合コンをやるごとにアッシー、メッシーたちを従えて、みんながみんな中森明菜チックになっていったのだ。そんななか、ユーミンは勝負に負けた女性の心の傷を絶妙にカバーした。
 バブル日本に何がおこったかといえば、勝ち組・負け組がはっきりしてきた。九〇年、ユーミンは三六歳になっていた。伊丹十三は《あげまん》を映画化し、二谷友里恵は郷ひろみと派手な結婚式を挙げて『愛される理由』(朝日新聞社)をベストセラーにした。ドリカムだって《決戦は金曜日》(一九九二)なのである。女たちの鼻息が荒くなっていた。
 しかしかんたんに勝ち組になれるわけはない。そもそも日本中がバブルだったのである。まことにバカバカしい「浮かれ世」だった。トレンディドラマのようなヒロインが次々に生まれるわけがないし、負け組がダメであるはずもない。それなのに日本中が勝ち組幻想をもち、何がなんでも負け組になりたくないなどという最悪のポピュラー選択に陥ったのだ。谷村志穂はさっそく『結婚しないかもしれない症候群』(主婦の友社→角川文庫)を書いた。案の定、バブルはあっけなく潰れ、銀行は一斉に「貸し渋り」になった。それなら恋愛だって「貸し渋り」なのだ。
 その後、日本は新格差社会に突入し、小泉劇場が新保守主義や新自由主義を煽れば煽るほど、少数の勝ち組と大多数の負け組の分層がおこっていった。
 山田昌弘はそれを「希望格差社会」と名付け、負け組の居直りが事態を歪めていると見た。鈴木謙介はそれを「カーニヴァル化する社会」と名付け、大量の分衆が短時間のカーニヴァルを日々消費しつづけていると指摘した。三浦展はこれらをまとめて「下流社会」の進行と見て、その第二章に「なぜ男は女に“負けた”のか」とタイトリングした。男たちがニート、フリーター、ヤンキーに後ずさりしていったのだ。
 ユーミンはどうしたか。初めてユーチューブでこの時期のアルバム「天国のドア」「DAWN PURPLE」を聴いてみたが、なんとも中途半端だった。何かに向かっての「脱出」を暗示したいようなのだが、ぼくが聴くかぎりは、どうにも志操がはっきりしない。《SAVE OUR SHIP》では「永遠に漂流する魂だから せめて今は強く抱いて 見えぬ未来を乗り越える/SAVE OUR SHIP/それぞれの光めざし」と歌っているのだが、「それぞれの光をめざす」と言っても「見えぬ未来」では迷うしかないだろう。いや、ユーミンだけではない。かくして日本の船の全体が「失われた十年」後に沈んでいった。

左:「天国のドア」松任谷由実(1984)
右:「DAWN PURPLE」松任谷由実(1985)

 話を佳き日々の女たちに戻すと、「ユーミンの罪」と「オリーブの罠」とは、さて、いったい何だったのか。わかるようで、わからない。わかるのは女子高校生や短大生や女子大生たちが、この罪と罠とを存分におもしろがり、平気で駆け抜けていったということだ。
 わからないのは、これほどの綿密でロマンチックな仕掛けも、二一世紀に入るとすべてが「ガーリー」で「かわいい」に席巻され、総じてはユーミンもオリーブも、モーニング娘やAKBらの「成長しない少女」の軍門に降ってしまったことだ。なぜ、こんな体たらくになったのか。その理由がどこにあるのかということが、わからない。
 酒井は、大意、こう書いている。ひょっとしたらユーミンは「救ってくれすぎた」のである、と。また、どんなときも「自分だけではない」と思わせてくれすぎたのである、と。なるほど、これがユーミンの罪だったのだ。実際にはユーミンはけっこう「無常」を歌っていたはずなのだが、そのユーミンを受け取る女たちのほうに「熟聴」する力がなかったのだろう。一方、また、こうも書いている。オリーブ・エディトリアルに通底していたのは「異性のために装わない」ということではなかったのか、と。
 けれども「オリーブ」終刊後、少女たちは出会い系に走り、ヴァーチャルキャラのコスプレにはまり、結局は大人たちのビジネスに奉仕してしまったようだ。ようするにみんなでモー娘したりAKBすることになったのだ。日本全国津々浦々、あざとい「かわいい」を争う日本少女時代になってしまったのだ。それにしても、これがオリーブの「罠」だったとは。ならばぼくとしては、何をか言わんやだ。せめて本格的なオトナ女向けの雑誌が登場してほしいと思うばかりだ。嗚呼、「マリ・クレール」はどこへ行ったのか。

1954年に刊行された少女雑誌『ジュニアそれいゆ』
女性の美しい心と暮しを育てるというコンセプトで、ファッションデザイナー中原淳一によって刊行され、戦後の少女たちの夢を育てた。雑誌『オリーブ』のファンの間で『オリーブ』は「現代版それいゆ」とも言われていた。

松任谷由実「Babies are popstars」(2013)(動画)
2013年にリリースされたアルバム「POP CLASSICO」収録曲

「おとなのオリーブ」
2015年3月発売の『GINZA』No.214では、別冊付録「おとなのオリーブ」として1冊だけ限定復刊した。

⊕ 『ユーミンの罪』 ⊕

 ∈ 著者:酒井 順子
 ∈ 発行者:鈴木 哲
 ∈ 発行所:株式会社講談社
 ∈ 装幀者:中島英樹
 ∈ 印刷所:大日本印刷株式会社
 ∈ 製本所:株式会社大進堂
 ⊂ 2013年11月20日発行

⊗目次情報⊗

 ∈ 1 開けられたパンドラの箱 「ひこうき雲」(1973年)
 ∈ 2 ダサいから泣かない 「MISSLIM」(1974年)
 ∈ 3 近過去への郷愁 「COBALT HOUR」(1975年)
 ∈ 4 女性の自立と助手席と 「14番目の月」(1976年)
 ∈ 5 恋愛と自己愛のあいだ 「流線型‘80」(1978年)
 ∈ 6 除湿機能とポップ 「OLIVE」(1979年)
 ∈ 7 外は革新、中は保守 「悲しいほどお天気」(1979年)
 ∈ 8 “つれてって文化”隆盛へ 「SURF&SNOW」(1980年)
 ∈ 9 祭の終わり 「昨晩お会いしましょう」(1981年)
 ∈ 10 ブスと嫉妬の調理法 「PEARL PIERCE」(1982年)
 ∈ 11 時を超越したい 「REINCARNATION」(1983年)
 ∈ 12 女に好かれる女 「VOYAGER」(1983年)
 ∈ 13 恋愛格差と上から目線 「NO SIDE」(1984年)
 ∈ 14 負け犬の源流 「DA・DI・DA」(1985年)
 ∈ 15 1980年代の“軽み” 「ALARM a la mode」(1986年)
 ∈ 16 結婚という最終目的
   「ダイアモンドダストが消えぬまに」(1987年)
 ∈ 17 恋愛のゲーム化 「Delight Slight Light KISS」(1988年)
 ∈ 18 欲しいものは奪い取れ 「LOVE WARS」(1989年)
 ∈ 19 永遠と刹那、聖と俗 「天国のドア」(1990年)
 ∈ 20 終わりと始まり 「DAWN PURPLE」(1991年)
 ∈∈ あとがき

⊕ 『オリーブの罠』 ⊕

 ∈ 著者:酒井 順子
 ∈ 発行者:鈴木 哲
 ∈ 発行所:株式会社講談社
 ∈ 装幀者:中島英樹
 ∈ 印刷所:大日本印刷株式会社
 ∈ 製本所:株式会社大進堂
 ⊂ 2014年11月20日発行

⊗目次情報⊗

 ∈ 序章 『オリーブ』誕生
 ∈ 第一章 オリーブ伝説の始まり
 ∈∈ 1 一九八三年の大転換
 ∈∈ 2 ターゲットは女子高生
 ∈ 第二章 リセエンヌ登場
 ∈∈ 1 オリーブ少女とツッパリ少女
 ∈∈ 2 リセエンヌ宣言
 ∈ 第三章 『オリーブ』と格差社会
 ∈∈ 1 付属校カルチャー
 ∈∈ 2 八〇年代の格差
 ∈∈ 3 アイコン、栗尾美恵子さん
 ∈ 第四章 『オリーブ』とファッション
 ∈∈ 1 おしゃれ中毒
 ∈∈ 2 コスプレおめかし
 ∈ 第五章 オリーブ少女の恋愛能力
 ∈∈ 1 非モテの源流『アンアン』
 ∈∈ 2「聖少女」願望
 ∈∈ 3 オリーブ少女の男女交際
 ∈ 第六章 オリーブ少女の未来=現在
 ∈∈ 1 『オリーブ』の教え
 ∈∈ 2 オリーブ少女の職業観
 ∈∈ 3 オリーブチルドレン
 ∈ 終章 オリーブの罠

⊗ 著者略歴 ⊗

酒井順子
エッセイスト。1966年東京都生まれ。立教大学卒業。2004年『負け犬の遠吠え』で講談社エッセイ賞、婦人公論文芸賞を受賞。『そんなに、変わった?』(講談社)、『泡沫日記』(集英社)、『下に見る人』(角川書店)など著書多数。