才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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絶対に行けない
世界の非公開区域99

ガザの地下トンネルから女王の寝室まで

ダニエル・スミス

日経ナショナル・ジオグラフィック社 2014

Daniel Smith
100 Places You Will Never Visit : The World's Most Secret Locations 2012
[訳]小野智子・片山美佳子
編集:朝日メディアインターナショナル
装幀:渡邊民人・森田祥子

燃える町セントラリア
バローシャのゴーストタウン
地雷原バスクール
パイオネン・ホワイトマウンテン
寧辺原子力施設
秘密収容所キャンプ1391
ボヘミアン・グローブ
ウーメラ立ち入り禁止区域
米墨麻薬密輸トンネル
パドマナーバスワーミ寺院地下室
砂漠の核施設アル・キバル
バチカン機密文書館
米軍基地ディエゴガルシア
ヤマンタウ山地下施設
これらがどういうところか、わかるだろうか。

 箱根大涌谷の火山蒸気が激しくなったと思ったら、口永良部島の火山が水蒸気爆発をおこした。この1週間は浅間山である。それぞれ立ち入りが難しくなったし、近隣住民や島民はなかなかホームに戻れない。
 小笠原諸島近海ではずうっと海底地震や海底噴火が続いていて、新島もできた。海溝では海底600キロでプレートが動いていて、地震学者もお手上げのマグニチュード8・1の深震がおこっている。海底だけではない。海面にも奇妙な現象がおこる。
 「太平洋巨大ゴミベルト」として知られるハワイ沖には、世界中のプラスチックの破砕ゴミが海流に乗ってぐるぐると巨大な渦を巻き続けている。ヨットレースに参加していた海洋研究家のチャールズ・ムーアが発見した。1平方キロあたり75万個におよぶ人工ゴミらしい。こうした区域はすぐに立ち入り禁止になる。
 海に危険が広まっている。16年間にわたって海面温度も上がっている。それに加えて「海の軍事化」が激しく進行していて、各国が「海の取り合い」をする。ソマリア沖のように海賊も出る。そうすると、そこが秘密軍事基地のようになり、相互の立ち入りが極端に制限される。
 中国が南沙諸島(スプラリー諸島)の一部の島嶼を軍事化しつつあるというニュースは、いまや世界を駆け巡っている。フィリピン政府の抵抗もG7の申し合わせも空しく、なんとかアメリカ空軍が南沙上空から撮影を試みているが、委細ははっきりしない。中国も頑として譲らない。
 日中で領土権を争っている尖閣諸島の現状だって詳らかではない。そこに緊急火急の「世界モデル」の縮約があるのに、そこは立ち入りできないのだ。

太平洋巨大ゴミベルト
北太平洋域の「ゴミベルト」は海流が渦を巻くことで形成される。科学者の推定では浮遊するプラスチック片は1平方キロあたり75万個にのぼる。

 地球上には「見えない場所」がいっぱいだ。なかなか行けないところ、非公開のところ、隠したいところが軒並みだ。そこにはエクストリームな極自然もあるけれど、人為的でシークレットな”極所”もある。立ち入り禁止や厳密な出入り制限になっている場所はやたらに多い。
 そういうところには、見たことがない異様な光景が立ち尽くし、出入りができないのだから、航空写真で憶測するしかない「危険な何ものか」が息を潜めている。なかにはついに廃市となるところもある。
 1962年、ペンシルヴァニア州の炭鉱町セントラリアで不始末の火が原因で坑内火災がおこった。むろん消火にあたったのだが、すべて失敗で火は燃え続けることになった。1981年には地面が陥没し、犠牲者が出た。連邦政府は4200万ドルを投じて住民移住にとりくんだ。1991年、セントラリアのすべての郵便番号が抹消され、異常なことだが地上の全住所リストからこの町は消え去った。2009年には最後の数人の住民の強制退去を断行した。それでもセントラリアはいまなお「燃え続けている町」なのである。
 ゴーストタウンという言い方は、近代国家がつくった。地球上に3万カ所くらいのゴーストタウンがあると言われる。そこは廃墟でもあるが、廃墟は都市の中の建物にもある。ゴーストタウンは広域廃墟なのである。廃市なのだ。人工災害が町を滅ぼすことも少なくなかった。

炭鉱町セントラリア
1962年の坑内火災により、2000人を超える住民は移住を余儀なくされた。鎮火にはあと250年かかるともいわれている。

 1986年4月26日に爆発してメルトダウンをおこしたチェルノブイリの原子力発電所は、プリチャピの住人ほか35万人が移住し、周辺8000平方キロの農地と7000平方キロの森林が放置され、いまなお立ち入りが禁止されている。
 メルトダウンした福島原発の原子炉の中もロボットしか入れない。非人間化された場所なのだ。
 一方、北朝鮮の寧辺(ニョンピン)の原子力施設は、5メガワットの原子炉と燃料再処理施設があることはわかっているが、別の理由で入れない。北朝鮮はゴーストタウンなのではない。いままさに活動しているにもかかわらず、世界を寄せ付けていないのだ。非人間化ではなく、「北朝人間化」が強化されているわけだ。
 この国にはそういう場所がいくつもある。祖父の金日成(キム・イルソン)の頃からの秘密基地だった「白頭山の隠れ家」や、ニセ札や麻薬をつくっているとおぼしい「朝鮮労働党39号室」は、いまもって欧米人も中国人も入ったことがない。
 こういうところを数枚の航空写真や偶然に撮ったスナップ写真などで見せられると、なんとも気分がざわざわ騒ぎ立つ。見てはいけない「あかずの間」を見たからではなく、「見るべきもの」が「見えなくさせられている」ということに蟻地獄のごとく引き込まれてしまうのだ。

白頭山の隠れ家
北朝鮮の建国の父である金日成(キム・イルソン)は、1954年まで、白頭山の深い森の中で、占領国日本への抵抗運動を指揮していたとされる。

朝鮮労働党39号室
平壌(ピョンヤン)の中心地区に立つ朝鮮労働党ビルの中央委員会内にある。スーパードルと呼ばれる1980年代末から世界中に出回った偽100ドル札は、様々な方面に疑いが向けられているが、朝鮮労働党39号室がもっとも疑わしいとされている。

 秘密軍事基地は各国にある。ゲリラやテロリストも各所に秘密の拠点をもっている。当然ながら関係者以外はすべて未公開なのだから、中身はわからない。ところが中身がわからないからこそ想像の翼がどんどん変なかたちになっていく。ネバダ州の「エリア51」などその典型で、ずいぶん前からUFOやエイリアンの極秘研究をしているといった噂が立ってきた。
 「エリア51」はもともとエドワーズ空軍基地の管轄である。敷地は365平方キロにも及び、敷地内には乾燥したグルーム湖がすっぽりおさまっている。そのグルーム湖では第二次世界大戦中は大型爆弾実験が、50年代以降はロッキード社のスカンクワークス開発のもとにU2偵察機の試験が、その後はステルス戦闘機の開発がおこなわれてきた。こんな基地だから、何が秘密研究されていてもおかしくないのだが、それでもいっこうに実態はあきらかにならないままにある。ひょっとしたらエイリアン対策本部があるのかもしれない。
 しかし、そんなことはどの軍事基地でも同断で、イギリスのポードダウンにある国防科学技術研究所など、1916年設立からずっと化学兵器製造をしていたはずで、実際にもサリンの犠牲者を出したほどだった。ごく最近にいたるまで過酷な身体被害を被った369人の原告がこの施設を告発していた。
 よく知られたペンタゴン(米国防総省)、DARPA本部(米国防高等研究計画局)、米ホーソーン陸軍補給基地(ネバダ州グレートベースン)、モスクワ・ルビャンカ広場のFSB本部(ロシア連邦保安庁)、中国の海南島軍事基地、アメリカとオースラリアのパインギャップ共同防衛施設(オースラリア中部砂漠)なども、むろんのこと、さまざまな軍事機密を伏せている。
 世の中、秘密基地だらけなのである。日本中の米軍基地だって、何が秘められているか、わかったものじゃない。オスプレーなど、むしろわかりやすすぎるほうなのだ。

エリア51
ネバダ州にある米国空軍施設の一部。1947年、米国ニューメキシコ州ロズウェル近郊に墜落した宇宙船の残骸と宇宙人が、エリア51に運び込まれたという噂で有名になった。

ポートダウンの国防科学技術研究所
土地専有面積は28平方キロにもおよび、英国防省でもっとも厳重に機密が守られている機関の1つ。ほぼ1世紀にわたり、科学生物戦に重点を置いた研究をおこなってきた。兵士に対し不当な人体実験を実施しているという疑惑がある。

 活動施設が伏せられれば伏せられるほど、その実態を知りたくなるのが時代のスノビズムというものだ。ただし知りたくっても機密は機密なのだから、とうてい全貌は出てこない。そこで僅かな隙間から漏れてくる情報やデータや噂をたよりに、世間のほうも推理を捏造することになる。そのため奇妙な「非公開像」というものが出回っていく。
 それがまた噂の噂になっていく。ニューメキシコ州の核廃棄物隔離試験施設、CIAが密かに運営しているという国防省の「ハーベイポイント」、地下ペンタゴンとかサイトRとかの俗称をとる「レイブンロック・マウンテン複合施設」など、いまやかなりの陰謀説が渦巻いている。
 「ハーベイポイント」はノースカロライナ州のパーキマンスという所にあるらしく、もともとは第二次世界大戦中の水上飛行機の離発着がおこなわれていたという。ところが1998年にニューヨークタイムスが、ここでCIAによる情報将校18000人のテロ対策訓練がおこなわれていることをスッパ抜いた。すでに周囲40キロが飛行禁止区域になっていた。
 キャンプ・デーヴィッドの近くにある「サイトR」はトルーマン時代からの対ソ戦略用の軍事基地だったが、ゴルバチェフの登場以降は時代遅れのものになっていた。ところが2001年、ジョージ・ブッシュ政権の副大統領ディック・チェイニー(史上最強の副大統領)がここに滞在していたという情報が漏れて、多くのマスメディアが実態を知ろうとした。何もかもがヴェールに隠されていた。すでに「サイトR」を囲む広大な区域が通信不能だったのである。
 いま、世界のどこにも「平和」なんて、ない。「基地」と「武器ビジネス」と「難民」と「通信不能」という非公開区域が、次々にふえているばかりなのだ。

レイブンロック・マウンテン複合施設
核攻撃などの有事の際に政府の代替作戦基地として機能するように岩山の地下に建設された。短く「サイトR」ともいわれている。

 怪しげな変遷をへて島まるごとが軍事化された島もある。インド洋のチャゴス諸島のひとつを占拠する「ディエゴガルシア米軍基地」が、そのひとつだ。モルディブの南に位置する。
 ここは16世紀にスペインの航海士が発見し、しばらくイギリスの東インド会社によってハンセン病の隔離施設がつくられていたのだが、18世紀末にフランスが植民地化するとココナツのプランテーションを運営するようになり、さらにナポレオンの失脚後は1814年のパリ条約でイギリスに譲渡することになった。イギリスはプランテーションを拡張して労働者をふやし、飛行場なども建設していった。
 これに目をつけたのがインド洋に拠点をつくりたがっていたアメリカだった。冷戦下の1966年、イギリスから長期にわたってディエゴガルシア(ディエゴ・ガーシア)を使用する権利を得た。イギリスは財政負担を軽減し、アメリカもかなり安い経費で軍事拠点を入手できたので、双方の利害が一致した。ただアメリカは「住人のいない島」を貸与条件にしたので、イギリス政府は巧妙な手段で住民に不法滞在通告ができるようにしくみ、アメリカはまんまと無人島を手に入れた。
 さっそく海軍戦艦の港湾、空軍戦闘機の離発着飛行場、最新レーダーシステムが完備され、いっさいが機密化されていった。こうして2000年代のアフガニスタン紛争とイラク戦争ではステルス戦闘機専用の格納庫が用意され、ここからB2スピリット戦闘機などが飛び立って、中東に対する最大の爆撃拠点となったのである。
 ここまでなら軍事基地としての特別昇格だが、ところがディエゴガルシアにはその後もキナ臭い噂があれこれ絶えなかった。なかでも2014年3月8日にクアランプール発の中国行きマレーシア機370便が消息を断って世界を騒がせたときは、370便がディエゴガルシアに立ち寄ったのではないかという憶測がそうとうに流れた。ドイツ紙もそう報道したし、ロシアの船団もただちにインド洋に向かったと報道された。アメリカ空軍がマレーシア機を捕獲して、ディエゴガルシアに着陸させたというのだ。乗客は中国人が多かったのだが、CIAはそのうちの20人に目を付けていたとも言われる。
 この真相はいまだにはっきりしない。ただ、このような軍事基地は世界中のどこにも配備されているということ、日本人もそろそろ知ったほうがいい。すでに『リア王』(600夜)が言っている。「いいか、世界は裂け目でできているのだぞ」。

ディエゴガルシア米軍基地
インド洋に浮かぶディエゴガルシア島は正式には英国領だが、1970年代初期から、米軍の戦略上の重要な基地になっている。最新のステルス爆撃機専用に設計された格納庫があり、1990年代末から、米国の軍事作戦で使われてきた。

 本書は、こうした世界の立ち入り禁止地区や機密保持施設や理解不能地域を99ケ所にわたって紹介した一冊で、ナショナルジオグラフィック社の長期にわたる取材力と撮影力から切り取られた、ちょっとした“お宝本”である。
 ナショジオにはもともとこういう力があった。ぼくは1983年の夏に筑波の科学万博のパビリオン「テクノコスモス」のため「1/f劇場」を構想し、ここに多くの画像を25個のマルチプロジェクターで連続投影しようということにしたのだが、そのための画像を大量に入手するべくワシントンに滞在して、ナショジオの編集室を何度も訪れたことがあった。膨大な画像アーカイブの一端に接して驚嘆したものだが、親切な対応で目ぼしいものをいろいろ入手できた。

テクノコスモスで投影された画像(筑波科学博 1985)

 『ナショナルジオグラフィック』誌の創刊は1888年だった。当時の地理学者や歴史学者や民族学者たちが協会をつくり、レポート誌を刊行しようと決めたのが始まりだ。それがグラフィカルな雑誌になっていった。
 以来、毎月あらゆる特集を組んで今日にまで至るのだが、ぼくがこの「黄色い枠」をもつ雑誌に憧れたのは、京都三条のアメリカ文化センターに通っていた中学生時代だった。それからどこの図書館でもたいていパラパラ手にとるようになり、工作舎をつくる頃には次から次へとバックナンバーを神田の古本屋で入手するようにした。当時はカラーコピーなどなかったので、ずいぶんハサミでページを切り抜いたものだ。いまでもその一部がゴートクジの本棚の片隅に残っている。
 ともかもナショジオの画像や映像はすばらしい。つねに「未知」と「究極」の提示がめざされてきた。
 1997年に100年以上の画像アーカイブがCD-ROMとなり、大いにファンをよろこばせた。ただし一部に著作権のクリアがなかったらしく、訴訟が続いていた。それでも2008年12月、ついに1888年から2008年までのすべてのナショジオ誌がデジタル発売された。バンザイだった。
 他方、同年にナショジオのテレビ・チャンネルが登場して圧倒的な映像を繰り返し届けてくれるようになった。ぼくの深夜は、ほとんどナショジオ、ヒストリーチャンネル、アニマルプラネット、ディスカバリーチャンネルの(あとは囲碁番組と格闘技とCNNの)、つけっ放しオンパレードなのである。

ナショナルジオグラフィック電子版
雑誌「ナショナル ジオグラフィック日本版」の記事内容に加え、未掲載の写真や動画、アニメーションによる図解などを収録している。
http://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/e/

 今夜とりあげたのは、そうしたナショジオの画像をもとに、名うてのノンフィクション・ライターのダニエル・スミスが「絶対非公開区域」を100カ所近く簡潔にまとめた一冊で、本格的というより興味本位に編集されている。
 しかしこの手のサブジェクトはそもそもが興味本位でこそ成り立っているのだから、これでいい。「一知半解」をあえて伝えるのが、この手の本の使命なのである。世の大半の“廃墟本”もこの系累に入る。
 なぜ「一知半解」でいいのか。理由はかんたんだ。ガザ地区の密輸トンネルって何を密送しているのか、世界中の植物の種子を保存するノルウェー・スピッベルゲン島のスバールバル世界種子貯蔵庫とはどういうジーンバンクなのか、テルアビブから1時間ほどの秘密収容所キャンプ1391に収容されている凶悪犯っていったい誰々なのか、007のMI6に対抗しているMI5の本部テムズハウスはこっそり何をしているのか、こういうことはやっぱり誰だって気になるからだ。
 しかし、何かを説明されたからといって、それで気になることが消えてもらっても困るのだ。

ガザ地区の密輸トンネル
1990年代から、エジプトとガザ地区を隔てるフェンスの下に、何本ものトンネルが掘られてきた。トンネルは密入国や、武器などの輸送に使われている一方で、食料品や日用品を不法に運び込む命綱でもある。

スバールバル世界種子貯蔵庫
世界種子貯蔵庫は、世界中の種子貯蔵庫から、万一の場合のバックアップとして種子のサンプルを預かっている。政治的にも安定し、永久凍土が種子の保存に理想的な温度を保ってくれる北極点から1300キロの場所にあるスバールバル諸島(ノルウェー)は、種子の保存に最適であるとされる。

 ずっと以前から謎めいたままになっている非公開区域もある。ノアの方舟が乗り上げたアララト山の山頂の奇妙な物体、契約の箱アークを納めているらしいエチオピアのアクスム礼拝堂、秦の始皇帝やチンギス・ハーンの墓、伊勢神宮の内陣‥‥。これらは古代から封印されていた。
 教皇パウルス5世が設置して以来のバチカンの機密文書館、部屋ごとナチスに盗まれて行方不明になっているゾフィー・シャルロッテがプロイセン大王フリードリッヒに造営させた「琥珀の間」、異教的な「グリーマン」と呼ばれる髭面の彫刻が120体もあるウィリアム・セント・クレア卿が建てたエディンバラ郊外のロスリン礼拝堂‥‥。これらは王権が乱立しつつあった近世的なものだ。
 いずれにしてもこれらは数百年にわたる封印施設なのである。15世紀に建てられたロスリン礼拝堂はクレア卿がフリーメーソンとテンプル騎士団の会員だったので、きっとその系統のものだろうと憶測されてはいるが、あいかわらず内部の仕様はさっぱりわからない。別の例だが、カナダのノバスコアの海に浮かぶ無人のオーク島には以前から巨大な竪穴があって、そこからは不思議な文字を刻んだ石板や木製の朽ちた箱が見つかってきたのに、なぜか18世紀以来その実態があきらかになっていない。こういう例がけっこうあるのだ。
 まことに不埒なことである。しかしまたなんとも奇怪なことである。ともかくも、こういう本はいつ見ても興味津々だ。「不埒な一知半解」こそがお約束なのだから。

伊勢神宮
神道においてきわめて神聖な場所であるため、内院という奥の聖域への立ち入りは厳しく制限されている。皇族出身の高位の神職しか入ることができない。

バチカン機密文書館
教皇とローマカトリック教会の歴史に関する最重要文書の保管場所。許可を得た研究者にとっても閲覧禁止の文書も多く、黒い過去を隠蔽しているという批判もある。

琥珀の間
かつてプロイセンからロシアに友好なシンボルとして贈られたものだが、第二次世界大戦中、ナチスの軍隊によってソ連から盗まれたあと、混乱の中で所在不明となった。所在地はドイツとチェコの国境付近にある地下洞窟と推定されている。復元された琥珀の間はサンクトペテルブルク郊外にあるエカテリーナ宮殿で見ることができる。

 ところで本書には、あいかわらずのCIA本部、アメリカ大統領の専用機エアフォースワン、世界の公的貨幣金準備の5分の1を蓄えるニューヨークの連邦準備銀行の地下保管庫、フォートノックス金塊貯蔵庫、ホワイトハウスなどとともに、コカコーラの味の決め手「製品7X」を隠すアトランタのレシピ保管庫、あらゆるセキュリティで守られているトーマスストリート33番地のAT&TKロングラインズビル、また英国王立造幣局ロイヤルミント、英国空軍メンウィズヒル、KGBの伝統を踏襲するルビャンカ広場に立つロシアのFSB本部、CERNの大型ハドロン衝突加速器、中国甘粛省の酒泉衛星発発射センターなども出てくるのだが、あまりに有名すぎておもしろくない。
 それよりもここでは少々変わった「一知半解」のほうを二、三、紹介して、今夜のツトメを果たしたい。

 1870年代にパリの仕立屋ナタン・ウィルデンスタインが始めた美術コレクションは、息子のジュルジュ、その孫のアレクというふうに代々継承されてきた。噂ではジョット、カラヴァッジョ(1497夜)、レンブラント(1255夜)、フェルメール、モネ、ゴッホらの作品が唸っているという。しかしその全貌はまったく公開されていない。1999年の当主の離婚訴訟のときその一部がリークされ、推定100億ドルに達していると推測された。
 監獄や刑務所も気になる。本書には、麻薬犯の巣窟といわれるバンコクから数キロのバンクワン中央刑務所や、いっときその不法監禁と理不尽な拷問で問題になったグアンタナモ湾岸収容所(アメリカがキューバ海岸にもつ面積120平方キロの基地内収容所)が採り上げられていた。
 なぜ気になるのか。ミシェル・フーコー(545夜)が『監獄の歴史』でその秘密を解読してみせたけれど、一言でいえば、そこには「時間の封殺」と「人間の沈黙」が強いられているからである。
 しかしその一方で、そこには例外的な「脱出」と「解放」も待っている。フランス革命はバスチーユ牢獄の解放から始まったのだ。世界一脱獄不可能なアルカトラズ島の連邦刑務所をはじめ、巌窟王モンテ・クリスト伯(1220夜)が脱出した「シャトー・ディフ」や高倉健のご存知「網走番外地」などが、何度も何度も男たちの”活劇”の舞台として描かれてきたのも、そうした封殺と沈黙に対する大逆転に、世間がやんやの喝采をおくったからだった。

 海賊の町ホビョも、近年やけに気になる禁断地区だ。ここは海賊国家ソマリアの拠点のひとつで、ここから海賊たちが出撃して毎年数百の軍船や輸送船や漁船が襲われてきた。各国は撲滅をはかりたいのだが、この海賊たちがイスラ過激派の抑止力にもなっているため、実は手が出せないでいる。
 禁断地区というのは、当事者によってタブーとされるだけではなく、関係双方や関係多数派によって「禁断の入会地」となることも少なくなかったと見たほうがいい。最近のクリミアもそのひとつで、ここはプーチン・ロシアが素早く分捕ったけれど、こういう地域はまだまだある。カシミールの停戦ラインやガザ地区などは、いつも狙いを付けられる。
 危険な入会地を先手必勝しようという勢力も後を立たない。イラクとシリアにまたがるイスラミック・ステート(IS)は、そのような多数の利害が出入りして決定打をもちえない区域の“落城”ばかりを狙っている(1578夜参照)。

海賊の町ホビョ
ソマリア東岸の海沿いの町ホビョは、多くの海賊が住んでいて、乗っ取った船の係留地にもなっている。内線によって周辺地域は無法地帯となって、外部の者は一切入れない。

 世界中にアジール(asile)というものがあった。アジールは避難所であり隠れ家であり、またアジトであった。その歴史的意義はアーヴィング・ゴフマン(1317夜)の『アサイラム』にも、網野善彦(87夜)の『無縁・公界・楽』にも、また夏目琢史(1559夜)の『アジールの日本史』にも、言及されている。アジールは力を失った者や追われている者の“駆込み寺”だったのだ。
 では、ヒトラーの地下壕やビンラディンの隠れ家は何だったのか。これまでのアジールではあるまい。20世紀と21世紀の現代史は新たな「隠れる」や「匿う」を問うているとも言える。
 こうした、隠れざるをえなかった者たちの現代史はいまだ記述されていない歴史観を必要とするだろう。それがどんなものになるか予想したいところだが、そこにはもうひとつ加えるべきものがある。それは電子ネットワーク時代の「ハッキング・エリア」とは何かということだ。
 バチカンの機密システムに最初に侵入したのは、ほかでもないアップル創業者のスティーブ・ウォズニアックだった。そこからいつのまにかアップル・コンピュータが生まれ出た。ハッキングが次代のマンマシン・システムをつくったのだ。エリック・レイモンドからジュリアン・アサンジまで、マイケル・カルスからケヴィン・ミトニックまで、アノニマスから中国紅客連盟まで、ハッカーたちが何をどうしようとしているのか、これからはこの問題にも言及する必要がある。
 かれらこそは21世紀の「未公開地区」を暴露する担い手なのである。ここには「編集の解放」さえもうずくまっている。勇猛果敢な明日の歴史家諸君、いよいよもってポール・グレアム(1534夜)の『ハッカーと画家』など、じっくりと読んでほしい。

ビンラディンの隠れ家
隠れ家があったのはアボダバードというパキスタンの中流下級の町だった。ビンラディンがこの隠れ家に移ったのは、おそらく2006年1月6日のこととされ、数々のテロを起こした張本人が、少なくとも5年間ほど暮らしていた。

ヒトラーの地下壕
地下壕は旧総統官邸の地下にあった。戦後、何度か爆破が試みられたが完全に爆破はできていない。東ドイツがソ連の勢力下に置かれたことが幸いして、地下壕は歴史の記録から抹消されて放置されたまま人々の記憶から消えていった。

スティーブ・ウォズニアック

⊕ 『絶対に行けない世界の非公開区域99』 ⊕

 ∈ 著者:ダニエル・スミス
 ∈ 発行者:伊藤 達夫
 ∈ 発行所:日経ナショナルジオグラフィック社
 ∈ 装幀者:渡邊 民人(TYPEFACE)
 ∈ 印刷・製本:大日本印刷株式会社
 ⊂ 2014年12月24日発行

⊗目次情報⊗

 ∈∈ まえがき
 ∈ 沈没した潜水艦K-129
 ∈ 太平洋巨大ゴミベルト
 ∈ HAARP研究施設
 ∈ ボへミアングローブ
 ∈ スカイウォーカーランチ
 ∈ グーグル・データセンター
 ∈ ホーソーン陸軍補給基地
 ∈ スカンクワークス
 ∈ 米墨麻薬密輸トンネル
 ∈ エリア51
 ∈ グラナイトマウンテン記録保管庫
 ∈ ADXフローレンス刑務所
 ∈ ダルシー基地
 ∈ シャイアン・マウンテン複合施設
 ∈ 核廃棄物隔離試験施設
 ∈ 法医人類学研究施設
 ∈ 月試料研究施設
 ∈ フォートノックス金塊貯蔵庫
 ∈ コカ・コーラのレシピ保管庫
 ∈ 米国疾病対策センター
 ∈ アイロンマウンテン社の保管施設
 ∈ マウントウェザー緊急事態指揮センター
 ∈ レイブンロック・マウンテン複合施設
 ∈ CIA本部
 ∈ DARPA本部
 ∈ ぺンタゴン
 ∈ 米国大統領執務室
 ∈ 燃えつづける町セントラリア
 ∈ ハーべイポイント
 ∈ ニューヨーク連銀保管庫
 ∈ AT&Tロングラインズピル
 ∈ イェール大学のトゥーム
 ∈ エアフォースワン
 ∈ オーク島の巨大な竪穴
 ∈ グアンタナモ湾収容所
 ∈ へビ島
 ∈ 手つかずの島、スルツェイ
 ∈ 英国王立造幣局ロイヤルミント
 ∈ ガーディアン電話交換局
 ∈ 英国政府通信本部
 ∈ ポートダウンの国防科学技術研究所
 ∈ 英国空軍メンウィズヒル
 ∈ バッキンガム宮殿 女王の寝室
 ∈ MI5本部、テムズハウス
 ∈ ホワイトホールの地下トンネル
 ∈ イングランド銀行保管庫
 ∈ PINDAR地下司令部
 ∈ ロンドン塔ジュエルハウス
 ∈ ロスリン礼拝堂保管庫
 ∈ ウイルデンスタイン美術品コレクション
 ∈ 地雷原バスクール
 ∈ ビルダーパーグ・グループ本部
 ∈ 大型ハドロン衝突型加速器
 ∈ スイス・フォートノックス
 ∈ “小鬼の穴”エルドシュテーレ
 ∈ 琥珀の間
 ∈ ヒトラーの地下壕
 ∈ バチカン機密文書館
 ∈ ラジオ・リパティー・ビル
 ∈ スパールパル世界種子貯蔵庫
 ∈ パイオネン・ホワイトマウンテン
 ∈ パローシャのゴーストタウン
 ∈ ガザ地区の密輸トンネル
 ∈ モサド本部
 ∈ ネゲブ核研究センター
 ∈ 秘密収容所、キャンプ1391
 ∈ 砂漠の核施設アル・キパル
 ∈ アララト山上の奇妙な物体
 ∈ チェルノブイリ立ち入り禁止区域
 ∈ UVB-76放送局
 ∈ FSB本部
 ∈ モスクワのメトロ-2
 ∈ ヤマンタウ山地下施設
 ∈ 海賊の町ホピョ
 ∈ 「契約の箱」の礼拝堂
 ∈ フォルド・ウラン濃縮施設
 ∈ トラポラ洞窟要塞
 ∈ 米軍基地の島ディエゴガルシア
 ∈ ビンラディンの隠れ家
 ∈ カシミールの停戦ライン
 ∈ パドマナーパスワーミ寺院地下室
 ∈ 北センチネル島
 ∈ 人工の新首都ネピドー
 ∈ パンクワン中央刑務所
 ∈ ゴビ砂漠の不明建造物
 ∈ 酒泉衛星発射センター
 ∈ 秦の始皇帝陵
 ∈ 海南島海軍基地
 ∈ チンギス・ハーンの墓
 ∈ 中国サイバー部隊
 ∈ 朝鮮労働党39号室
 ∈ 寧辺原子力研究センター
 ∈ 白頭山の隠れ家
 ∈ 朝鮮半島の軍事境界線
 ∈ 第22号管理所
 ∈ 伊勢神宮
 ∈ ウーメラ立ち入り禁止区域
 ∈ パインギャップ共同防衛施設
 ∈ オーストラリア国防軍統合作戦司令部
 ∈∈ 索引
 ∈∈ 謝辞
 ∈∈ クレジット

⊗ 著者略歴 ⊗

ダニエル・スミス
ノンフィクションの執筆、リサーチを手掛ける。題材は政治、社会史、経済、シャーロック・ホームズなど幅広い。英国ロンドン在住。