才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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一揆の原理

日本中世の一揆から現代のSNSまで

呉座勇一

洋泉社 2012

編集:長井治
装幀:菊地信義

同盟、一揆、コミューン、SNS。
これらは似ているのか、そうでないのか。
おそらく一揆は日本に独特な「絆」なのだろう。
そこには一味同心、一味神水という
不思議な結社結党感覚が加わっている。
ぼくはあと数日で古稀を迎えるが、
いっそうささやかな一揆を
そこかしこに結んでいきたいと思っている。

 著者はまだ34歳の気鋭の歴史学者である。察するに村井章介(1224夜)さんの門下だろうか、松浦一揆の研究などをやってきたようだ。
 一揆を研究するのは、いわゆる「革命」の名のつく社会改革史をもってこなかった日本研究のなかで、きわめて大きな意味がある。日本の一揆には「体制打倒」や「体制転覆」の計画がない。トマス・ミュンツァーの農民蜂起やパリ・コミューンなどに匹敵する思想性があるわけでもない。一味同心した者たちが心を合わせた土発活動なのだ。

 中世・近世の日本社会を一揆を除いて語ることはできない。それほど一揆は頻繁だった。しかしその活動の主体には百姓一揆が多かった(と、思われていた)ため、文書にのこる証拠が少なかった。そのため、その実態や意義はなかなか把握されなかった。
 やがて起請文(きしょうもん)の調査などがすすみ、青木美智男・入間田宣夫・佐藤和彦が編集構成した『一揆』全5巻(東京大学出版会・1981)が先駆して、勝俣鎮夫が建久9年(1198)の興福寺牒状がもつ意味の研究などを浮上させ、しだいにその全貌を見えやすくしていった。
 その後も神田千里の『土一揆の時代』(吉川弘文館)や久留島典子の『一揆の世界と法』(山川出版社)などの詳細研究がすすんできた。しかし、ぼくの不明がそうさせたのだが、どうも一揆の歴史的な意義をしっかり掴むことがしにくい。過激のようでいて、とても柔らかいからだ。
 そんなふうに感じていたとき、若い本書が登場してきた。そのタイトルもずばり『一揆の原理』だ。うまくまとまっていた。

 ふつう、一揆というと百姓一揆に代表されると思われている。その光景も白土三平(1139夜)の『カムイ伝』が描いたような、農民が竹槍で悪代官を襲う場面をもって語られることがけっこう多い。けれども、これはまちがいだ。
 農民が竹槍を持ち出したのは明治になってからのこと、明治6年の筑前竹槍一揆あたりが有名だ。
 では江戸時代の百姓はどうしていたかというと、竹槍ではなく鎌や鍬や鋤を大半の武器にした。その理由を以前の歴史学では、「農民は刀狩りで武器を取り上げられてしまったので手近の農具で戦った」と解釈したのだが、これもまちがいだ。藤木久志は、刀狩りは百姓の帯刀を免許制にしたにすぎず、武装解除がなされたのではなく身分統制が眼目であり、秀吉は「兵農分離」をおこしたかっただけだと説明する。
 だから江戸時代の百姓は刀剣を持とうとおもえば持てたのだし、鉄砲も認可されれば持つことができた。鹿・猪・猿・雉などの害鳥獣を駆除するための鉄砲だ。ところがかれらは、一揆に決して刀剣も鉄砲も使わなかった。ここに一揆の本質の一端が見えている。

武左衛門一揆の銅像
江戸時代後期に南予(伊予南部)の伊予吉田藩で発生した百姓一揆

 江戸時代を前期と後期に分けると、前期の百姓一揆は主に直訴(じきそ)や逃散(ちょうさん)をおこなった。直訴は代官をとびこえて藩主や幕府に不正・不平等を訴えるもの、逃散は現場放棄をして集団逃亡を企てるストライキのようなものだ。
 それが後期になると、大規模な強訴(ごうそ)をおこす「全藩一揆」に変わっていった。「惣百姓一揆」ともいわれる。
 もともと徳川政権下の武士は、幕府や藩から与えられた領地を自分で統治する役割をもつ領主か、あるいはそのシステムに組み込まれたスタッフである。武士の主要な仕事には年貢の取り立てがある。幕府は「隣郷」と同量の年貢を奉行所に納入するように求めた。
 しかし武士は領土にいるとはかぎらない。役人に任せると勝手な徴発もする。異常に高い年貢をとりたてる不埒な代官もいた。
 こういうとき、百姓はしばしば直訴や強訴によって対抗した。それが藩主に対する怒りにまで発展したのが「全藩一揆」だ。それでも百姓は決して鉄砲や刀剣や弓矢を用いなかった。『因伯民乱太平記』には「百姓の得道具は鎌・鋤より外になし。田畑に出よふが御城下に出よふが、片時もはなしはせじ」とある。

昭和の無声映画『虹の松原』
唐津藩の重税策を無血で撤回させた農民一揆に感銘した寺の住職が私財を投じ製作した。

 天保7年、三河国加茂郡(現在の豊田)で百姓一揆がおこり、挙母(ころも)藩や岡崎藩が出兵して鎮圧し、首謀者の辰蔵を捕らえた。国学者の渡辺政香がその記録を『鴨の騒立』に綴った。
 それによると辰蔵は、百姓には「天下の御百姓」という気持ちがあるのだから、ものものしい武装でわれわれを痛めてはそれこそ損をなさるでしょう、という意識をもっていたようだ。百姓一揆は「お上」を諌めているのであって、叩こうとしているわけではないのだ。
 これは百姓たちが、当時の言葉でいう「百姓成立」(ひゃくしょうなりたち)という仁政イデオロギーの持ち主だったことをあらわしている。それゆえにこそ、これらは幕末に向かっては「打ちこわし」から「世なおし」に向かっていった。これでわかるように、一揆は反体制活動ではなかったのだ。

『鴨の騒立』(渡辺政香著)
三河国賀茂郡で起こった百姓の「騒立ち(一揆)」の記録。

 それどころか中世では、一揆は社会的に認められていた。だから百姓だけではなく、武士も僧侶も歌人も一揆を結んだ。代表的な一揆には次のようなものがある。
 中世の百姓は、荘園領主に対して年額の減額や代官の更迭を請願する「荘家(しょうけ)の一揆」を結んだ。江戸時代の百姓一揆に性格が似ているが、荘園単位の一揆になっている。京都の東寺(教王護国寺)の荘園である若狭国の太良荘(たいらのしょう)であれば、太良荘御百姓が一揆を組んで東寺御公文所に要求を出した。荘家というのは、荘園の現在地におかれた管理事務所のことで、ここに代官がいた。
 民衆が酒屋や土倉などの金融業者を襲撃するのが「土一揆」である。正長の土一揆(1428)が教科書でも有名だが、1450年代からの20年間には都合8回の土一揆が都を襲った。
 土一揆にはいろいろのヴァージョンがある。荘家の一揆の変形もあるし、土民や武士が参加したものもある。正長の土一揆のことを綴った興福寺の大乗院尋尊の「大乗院日記目録」では「土民蜂起す」という表現になっている。
 幕府に徳政令を出させることで借金をチャラにしようというのが「徳政一揆」だ。民衆のみならず武士も参加した。武士だけの一揆には名称がないらしいが、著者は「国人一揆」とよぶのがいいだろうと言っている。

ゲーム「信長の野望」でも農民一揆が描かれている。

 宗教教団や信仰集団による一揆も見逃せない。本願寺教団が畿内や北陸に展開した「一向一揆」は蓮如に導かれ、ついに信長がつぶさざるをえないほど強大になった。ほかに法華一揆や根来一揆もある。
 これらは、もともとは山門(延暦寺)などの僧侶集団である大衆(だいしゅ)による強訴が発展したもので、社寺が結託することもあった。山門は比叡坂本の日吉社の神人(じにん)らが担ぐ神輿をデモンストレーションに使い、興福寺は春日神社の神木を担ぎ出した。一見、かなり武力的な示威行為のように思われるかもしれないが、かれらにしてみれば神威が天罰をくだしているという解釈だった。
 大名クラスの一揆もあった。世に「御所巻」(ごしょまき)という。たとえば康暦元年(1379)の4月に斯波義将・京極高秀・土岐頼康らが軍勢を率いて義満の室町殿、つまり「花の御所」を取り囲み、管領の細川頼之の罷免を求めた。義満は脅しに屈し、細川は三百騎の手勢とともに都を去って四国に落ちのびた。
 教科書や年表では「康暦の政変」といわれる官邸包囲デモのような事件だが、一揆としては「御所巻」なのである。三条公忠の日記『後愚昧記』には「一揆衆の所行なり」と記録され、こういう行動も一揆とみなされていた。

三河一向一揆(1563-1564)
「大樹寺御難戦之図 三河後風土記之内」 月岡芳年筆

 このように、中世から近世にかけては一揆は多くの層が参画した。目的や手段もいろいろだ。なぜこんなにも一揆は広く求められたのか。
 一揆の「揆」という文字は原義では「はかる」という意味をもつ。計画するとか、計測するという意味だ。そこから派生して「教え・方法・行為」などを意味した。孟子は「先聖、後聖、その揆は一つなり」と説明している。昔も今も聖人の国や民を治める方法は同じだということだ。孟子が「揆」を好んだことについては、いずれ千夜千冊する。
 こうしたことから平安時代には、一揆は「それぞれ同一である」という意味で使われ始めていたのだが、鎌倉時代からは「心を一つにして」とか「一致団結して」という気持ちをあらわすようになった。さらには「同心する」とか「与同する」とおなじように活用されて、南北朝には武士の結団をも一揆と言うふうになった。
 武家の一団そのものを一揆という例は『太平記』に早くも使われている。旗印に独自の色を選んだ赤旗一揆・黄旗一揆・白旗一揆、平(へい)一揆などの表現がある。カラー・エンブレムをもってチーム・アイデンティティの代名詞として「一揆」を使ったのだ。
 一揆とともにたちまち「一味同心」という言葉も流行するようになった。一味は強い絆で結ばれた集団のことだから、中世では「一同」「一味」「一揆」がほぼ似たような意味になったのである。いずれもどこか運命をともにする運命共同体的なイメージをもつ。

歌川芳員『太平記長嶋合戦』
長島一向一揆では本願寺門徒らが蜂起した。

 永享5年(1433)、伏見宮家の荘園の伏見荘の百姓たちが沙汰人(荘園の管理人)の指令を待たずに、以前から山の境界をめぐって争っていた醍醐寺三宝院所領の炭山に押し寄せ、そこの郷民3人を殺害するという事件がおこった。
 荘園領主の伏見宮貞成親王はこの出来事に怒って沙汰人を呼び付け、張本(ちょうほん=首謀者)を差し出せと迫った。すると沙汰人たちは「これは一揆なので、誰か一人を特定できない」と答えた。
 一揆は共同意思の活動なのである。昔も今も権力者というものは、何かの暴動や反乱がおこると、たいてい誰かが扇動しているとみなす。しかし、最近のエジプトやリビアやシリアの大衆運動がそうだったかもしれないように、扇動的首謀者や陰謀組織がない「一味」や「一同」も十分にありえるのだ。
 それならバラバラになりそうな一揆の集団意思は、いったい何によって束ねられているのだろうか。そこにある束の核心のようなものは何なのか。「正義」なのか「自由」なのか。「革命」なのか「革新」なのか。どうやらそういうヨーロッパ的なカテゴリーでは説明がつかないものがある。

FacebookやツイッターなどのSNSによって民主化の動きがアラブ諸国で拡散した。

 勝俣鎮夫が注目したのは、建久9年(1198)の興福寺牒状だった。興福寺は和泉国に荘園をもっている。そこへ和泉の国司が重税を課した。そこで興福寺の衆徒たちが上洛して強訴した。
 朝廷は言い分があるなら法廷で述べるように命じたが、興福寺は拒否した。その理由が牒状に次のように説明されている。
 朝廷の刑罰の法には従うべきだろうが、どんな案件にも情状酌量というものがあるはずだ。そもそも興福寺3千人の全衆徒が「同心」した奏状を提出しているのだ。この訴えを疑い、申し開きをせよというのは前代未聞である。
 寺院には周知のように大勢の僧侶がいる。祈祷や教務に専念する学侶(がくりょ)、仏神に奉仕する堂衆(どうしゅう)、実務をする行人(ぎょうにん)などがいる。これらの僧侶はそれぞれ顔が違うように一人ひとりの心も異なっている。だからよほどの異常事態でもないかぎり、全衆徒たちの意見が一致することはなく、絶対の決義であるという核心がなければ満寺(興福寺全体)が結束することがない。
 ところが今回は考えがぴったり一致した。みんなが「同心」するという奇跡的な状況になった。それなのに、ここで法廷での対決などに応じたならば未来に悪影響をもたらし、世間からも非難されるであろう――。
 こういう理由なのだ。いかにも都合のよいロジックをつくりだしたようにも見えるが、必ずしもそうではない。ここには一揆の性格がよくあらわれている。

 寺院の意志決定はふつうは集会(しゅうえ)でなされる。大事な問題については満寺集会が開かれ、大衆僉議(だいしゅせんぎ)がおこなわれる。
 延暦寺では大講堂の庭に全員が集まり、破れた袈裟で頭と顔を覆い、互いが誰かはわからなくする。衆徒はそれぞれ入堂杖を持って小石を一つずつ拾う。提案者が議題を説明すると、大衆たちは「尤々」(もっとも、もっとも)あるいは「謂はれなし」(反対!)と言う。ときには声を変えていたともいう。小石による投票もあった。これらを総じて「多分の儀」と言った。
 かつて山本七平(796夜)が「ここに日本の民主主義があった」と自慢したしくみのひとつだ。勝俣は「音声にもとづく多数決」と名付けた。

山城国人たちは平等院で集会を行っていた。

 僧侶たちが一味同心することは、文覚(もんがく)が神護寺に定めた四十五カ条にもあらわれていた。その第1条に「寺僧等一味同心すべき事」とある。
 ならば、これは仏教教団がもともとめざしていたものかというと、そうではない。仏教では全員の心が近づいている状態は「一味和合」と言った。サンガ(僧伽)はこの一味和合にもとづいている。しかし一味同心はそれを超えてあえて誓いあうものなのだ。このことは一味同心を示した起請文(きしょうもん)があきらかにしてくれる。
 起請文は前書と神文(しんもん)で構成される。前書で誓約内容を記し、神文には「もし誓いを破れば神仏の罰を受けてもやむをえない」という自己呪詛の文章を認(したた)める。「若し此条々偽り申し候はば、日本国中大小神祇、殊には伊勢天照大神、熊野三所大権現、正八幡大菩薩、天満大自在天神、御罰を蒙るべく候」というふうに。
 二つの名著、佐藤進一の『古文書学入門』(法政大学出版局)や佐藤弘夫(668夜)の『起請文の精神史』(講談社)にも詳しいように、起請文は神仏の賞罰に結び付き、とくに仏像のイコンとしての力に依存する。そこには本地垂迹を一味同心に重ねるという考え方がなされている。
 一揆は、仏教教団のサンガが来世の救済を約束させることによって一味和合を共通させているのに対して、あくまでその時その場の現世の賞罰をフィーチャーして、同心を謳っていたわけである。

織田信長の起請文
信長の血判が押された「織田信長起請文」は、信長の惣赦免に対し石山の退去、人質を差し出すなどの七か条がかかれている。

後白河法皇自筆「文覚四十五箇条起請文」(国宝)
文覚の神護寺再興を援助した後白河法皇が文覚の求めに応じて自ら記して起請文の巻首・巻末に朱印を押したもの。

 寛延2年(1749)、陸奥国の信夫・伊達の両郡の幕領68カ村の百姓たちが桑折(こおり)の代官所に押し寄せて、年貢の減額と延期を要求した。伊信騒動とよばれる。
 このとき「天狗廻状」というものが出回った。寛延2年12月3日子の刻に信夫宮代村の山王権現に集まるべしというものだ。集まって何をするのかというと、全員で連判状を書く。起請文に誓約の証しとして自署して判を捺す。ときに血判になる。寄書きを円形状に連署するときは「傘連判」や「車連判」になった。
 ついで、この連判状を神前で焼いてその灰を神水に浮かべて全員で回し飲みをする。一同が一味して神水を飲むのでこれを「一味神水」と言った。
 このように一揆にともなって神前で一味神水する例は、けっこう多かった。いわゆる「固めの杯」に近い。そこに天狗廻状のような呼び名が付されたのは、勝俣によると、全員が天狗に変身して勧善懲悪に向かう誓いをしたからだという説明になるのだが、さあ、真意はわからない。
 ともかくも一揆に参加する全員が一味同心をあらわすために一味神水をした。一揆に神仏が持ち出されるのだ。
 このいささか大袈裟な手立てはいったい何を物語っているのだろうか。日本的コミューンの本質を語っているのか。そうとも言える。裏切りや漏洩が心配なのか。そうとも言える。そうだとすると日本人は外部に訴えかける方法を工夫するよりも、集団の内部の意思一致の方法に工夫していたということになる。

一味神水を酌み交わす動物たち
『十二類合戦絵巻』より

生駒谷に残る傘形連判状

 芸能や遊芸にも一揆めいた一味同心や一味神水は重視されていた。とくに連歌である。
 後醍醐天皇(1223夜)の頃、当時の世相を揶揄した二条河原の落書が流行した。そのなかに「京鎌倉ヲコキマセテ 一座ソロハヌエセ連歌 在々所々ノ歌連歌 点者ニナラヌ人ソナキ」とあって、「一座ソロエヌ連歌」がはびこっていたことが指摘されている。いいえれば「一座ソロエタ連歌」が認められていたということだ。
 この一座とは遊芸のために一座建立された座のことで、芸能史的には神仏をたのしませる「法楽」であるが、社会史的にいえば一味同心した「一揆の座」なのである。これらは鎌倉中期から南北朝にかけて流行した「花下連歌」(はなのもとれんが)や、見物人までが笠を着ける「笠着連歌」などとして広まった。なかには長期にわたって開かれた「天神連歌講」もあった。
 貞治年間に始まって戦国年間のあいだくりかえし催された宇陀の染田天神が、その代表例だ。これは国人一揆と連動したもののようで、年預(ねんよ=年ごとの幹事)が選定され、「多分評定」(多数決)などもおこなわれるという徹底ぶりだった。
 連歌にも一揆の性格が帯びていたということは、つまり一揆は社会でも宗教でも文化でもあったということなのである。こういう一揆を、たんにコミューンとか共同体的蜂起組織と呼ぶことはできない。もっと緩やかで、きわめて日本的でエフェメラルな組織なのである。

染田春日神社「染田天神」
南北朝時代に土豪多田順実が天神講の行事として連歌会を催した。

 本書はこのように一揆のさまざまな特色を紹介整理して、これはSNSが北アフリカや中東ではたした役割や、ウェブ社会でフェイスブックが実名性を重視したことに似ているのではないかと言う。
 また本書は、一揆の一味同心の感覚は、他人とのネットワークに親子兄弟的な絆をつくる方法というもので、ここには新たな「縁」をつくりだすきわめて効果的な方法が芽生えていたのではないかと言うのだ。
 なるほど、そういう面があるような気もするが、一揆や連歌は必ず地縁性や対面性を強くもっていたので、そこに今日のSNSにつながるネットワーク感覚が先行していたとは言えまい。そういうネットワーク感覚をもっていたのは、むしろ遊行僧や高野聖や芭蕉(991夜)や、平賀源内や頼山陽(319夜)や吉田松陰(553夜)だったろう。それでもかれらはいちいち地縁性と対面性を重視した。
 一方、日本人にこのような一揆の行動と意識が色濃くあったということは、やはりのことヨーロッパ型の市民革命や中国的な易姓革命のDNAは乏しいということなのだ。そのかわり、日本人は変革組織の内部的な結束に関心が強く、外部性については既存体制のさらに“上”のほうにある神仏や天皇を志向したのだった。
 それゆえ、一揆の目的ははなはだ現実的なものになっていた。社会変革のヴィジョンにもとづいていたものではなかった。
 このような点については、最近になって鋭い日本歴史論の視点を提出している與那覇潤がそういう指摘をしているのだが、百姓一揆は「政治はすべて武士に任せ、ただし増税は一切を拒否する」というところに如実にあらわれていたとも言える。ちなみに與那覇は、それが戦後の革新政党の態度に投影されてきたのではないかとも指摘した。おもしろい見方だ。

地租改正反対一揆(伊勢、1867年)

 さて、ぼくはそろそろ古稀を迎える。それ自体、どうということはない経年の出来事だけれど、30代の前半に、よせばいいのに「70歳になったら暴走族!」などと嘯いていた。
 その当時は70歳になったらオートバイに乗るぞという程度の意図だったのだが、ついにその年代に突入してしまった。気がつけば膝ががくがくで、まわりからは「そんな危険なことはやめなさい」と言われている。
 そこで最近は‘‘深層の暴走族’’でありたいと思うようになった。それも「絆」や「縁」のために伴走するためだ。称してさしずめ「深層圏暴走族伴走派」とでもいうものだ。
 このような気持ちがはたして一揆に似ているのかどうかは、わからない。だいたいこれからどんな“晩年”にしようか、いっこうにまとまらない。いま実感できるのは、世のラディカル・ウィルの持ち主を応援していきたいということ、また勇気あるリプリゼンテーション(表現)を試みている諸君を応援していきたいという、ただそれだけのことだ。だから、一揆でないとも言えないだろう。
 とはいえ、ぼく自身がやりのこしてきたことも、かなりある。いろいろあるが、なかでやり遂げてみたいのは、ぼくなりに考えてきた「仮説」をいくつも提示しておきたいということだ。これ、“仮説一揆”とでも名付けたい。

今年の書初め「深層圏暴走族伴走派」

 

⊕一揆の原理―日本中世の一揆から現代のSNSまで⊕

∃ 著者:呉座勇一(ござゆういち)
∃ 発行者:江澤隆志
∃ 発行所:株式会社 洋泉社
∃ 印刷・製本所:中央精版印刷株式会社
∃ 装丁:菊地信義
∃ 本文組版:フジマックオフィス
⊂ 2012年10月11日 初版第1刷発行

⊗ 目次情報 ⊗

∈∈∈ はじめに 一揆は反体制運動なのか?
∈∈ 第Ⅰ部 一揆とは何か
∈ 第一章 百姓一揆は幕藩体制がお好き?
∈ 第二章 中世こそが一揆の黄金時代
∈∈ 第Ⅱ部 一揆の作法
∈ 第三章 一味同心―正義と平等
∈ 第四章 一揆のコミュニケーション
∈ 第五章 「一味神水」はパフォーマンス
∈ 第六章 起請文が意味するもの
∈∈ 一揆の実像
∈ 第七章 「人のつながり」は一対一から
∈ 第八章 縁か無縁か―中世の契約
∈ 終章 「一揆の時代」ふたたび
∈∈∈ あとがき
∈∈∈ 参考文献

⊗ 著者略歴 ⊗

呉座勇一(ござ・ゆういち)
1980年東京都生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)学位取得。日本中世史専攻。現在、東京大学大学院人文社会系研究科研究員。共著に、村井章介編『「人のつながり」の中世』(山川出版社)、村井章介編『中世東国武家文書の研究』(高志書院)など、主な論文に、「松浦一族をめぐって―国人一揆論の新段階へ―」(『東京大学日本史学研究室紀要』14、2010年)他がある。