才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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知識の社会史

知と情報はいかにして商品化したか

ピーター・バーク

新曜社 2004

Peter Burke
A History of Knowledge―From Gutenberg to Diderot 2000
[訳]井山弘幸・城戸淳
編集:渦岡謙一
装幀:虎尾隆

「6万冊の本と一緒にゴートクジにお引っ越し」。
この移転通知ハガキの文言をもって、
われわれは師走の都心を、
ミサイル発射も選挙もものともせずに、
よいしょよいしょと大移動した。
これは物理的にはとても小さいけれども、
ぼくのジンセーにとってはけっこう大きな
「知の移転」作業なのである。トランスフォームなのだ。
歴史上、書物に知識が蓄積されるにつれ、
これまで多様多彩な「知の社会」が提案され、
形成され、試作され、自慢されてきた。
しかしその試みは、いまや学問の府や図書館やグーグルから
共読コミュニティのほうに移転されるべきである。
ではゴートクジにおいてはその可能性を
いったいどのくらい開陳できるのか。
ぼくはいま、日夜そのことでうんうん唸っている。

 われわれはずいぶん以前から知識と情報にかこまれた「知識社会=情報社会」の中で暮らし、日々、「知識経済=情報経済」を活用してきた。ピーター・ドラッカーの見立てではマネジメントとは知識労働のことであり、どんな企業もそのおかれている環境は「知識社会」なのである。
 ふりかえってみても、情報の商品化は資本主義と同じくらいに古く、系統的に収集された人口情報を政府が利用したのは古代ローマや古代中国にさかのぼる。カール・ポランニーが何度も指摘したように、知識や情報はとっくの昔から社会に埋めこまれ、社会に溶融してきたのだ。
 西ヨーロッパでは十二世紀以降、都市の興隆と大学の設立と職人組合の発生がほぼ連動しておこって、「知」の体系化にとりくみはじめた。そのアーキタイプはまずは修道院のスクリプトリウム(ヴィヴァリウム)にあったけれど、そのうちボローニャ大学とパリ大学がその後の大学のプロトタイプに発展すると、オクスフォード大学、サラマンカ大学、ナポリ大学、プラハ大学、パヴィア大学、クラクフ大学、ルーアン大学、グラスゴー大学というふうに、ルネサンスまでにたちまち約五〇の都市大学が出現した。
 都市大学はだいたいが似たことばかりをやっていた。図書館をつくり、自由学科(リベラルアーツ)を教え、真理についての自尊心をもち、その知識をもって社会に打って出た連中は、たいていが政治と経済と文化のガバナンスの中心人物になるというふうになったのだ。
 つまりは、これらの大学は知識を発見するためのものでなく、あきらかに知識を伝達ないしは拡張するためのもので、そのために「主題」が選定され、その主題にもとづいて行動できる人材が有望視されたのだ。
 この主題はもっぱら中世の「スコラ」(教会と修道院の付属学校の学習プログラム)にもとづいていた。だから、こうした流れは良くも悪くも、一種の「知識のマネジメントシステム」を中世このかた形成していたわけだ。そのマネージ・ルールは規範となるべき「テキストを共有する」というものだった。

 しかしそれから時代がめぐって、産業革命がおこり、近代代理国家が確立し、すべての知識がネーションステート(国民国家)の管轄のもとに組み立てられるようになると、知の大半が官僚機構とそっくりな階層構造に入れられるように仕切りなおされた。
 他方では、それらの「管轄された知」から逸脱するとみなされたものは、おしなべて表現社会や芸術社会のものと扱われ、それはそれで〝創造力のある知〟などとメディアでもてはやされ、結果としてはマネージとイメージが切り離されたのだ。
 こうして「テキストを共有するマネージ派」と「自由テキストをばらまくイメージ派」とが、情報社会のなかでしだいに対立するようになって、これを統合できるのは「欲望と商品を結びつけている市場だけだろう」ということになったのである。強力な市場主義の登場だった。このとき知識はことごとく商品化もされた。
 が、それだけではすまなかった。さらに時代がデジタル・イノベーションに向かってすすんでいくと、知識もグローバル化に屈服するかのように靡くようになり、国際会計基準がそうであるように、知識もやたらにデファクト・スタンダード化してしまったのだ。これではグーグルが勝つのは当たり前だった。
 それで何が抜け落ちていったかといえば、各民族各地域の言葉によって編まれてきた「記憶」と「本」というものが、それぞれの知識の共同体から追い落とされそうになってきたわけだ。

 本書はケンブリッジ大学の文化史学者ピーター・バークが、近代直前までの知識の系譜がどのようにつくられてきたかを述べた一冊である。よく書けている。
 これを読めば、たとえば「体系」「博識」「著者」「権威」「目次」「検索」といった言葉の最初の語用例の背景の歴史はむろん、知的所有権をブルネレスキが最初に獲得した理由とか、知識の取引にいかに経済力が必要であったかという時代社会の「富の意味」の隠れた力とか、書物が収納されたアーカイブがその都市一帯にもたらした絶大な経済文化的な効力などなどが、手にとるようにわかる。
 が、バークがあきらかにしたことは、そういうことだけではなかった。社会の中から知識や情報を持ち出してくるには、それなりの方法が必要になるのだが、そしてその方法にはさまざまな技能的な工夫と手続きがついてまわるのだが、その工夫と手続きをともなう方法にこそ「もうひとつの知」が必要だったということを明示したことだ。

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本書の目次ページ

 もとよりぼくも、知識を配分することなんかよりも、その知を凹凸をもって動的に出入りさせる「方法のための知」こそが、知を知たらしめていると思ってきた。そんなことは大学でベンキョーする必要はない。第一、大学はそういうことを教えない。それよりも「本」を本気で扱ってみたほうが、「方法の知」はたちまち見えてくる。本の入手から読み込みをへて、その本をどこかに提示しておき、その提示された本を何度も自分や他人に出入りさせてみるということをいささかでも続けてみれば、「知」を活性化させるにはこれを出入りさせるエディティング・インターフェースこそが重要で、その「出入りの知」をもって「分類の知」を動かすことこそが、本来の知の歴史の中央に列することではないかと確信できるはずなのだ。
 それには、市場の本や流通資金で集まった本をいじっているだけではダメだ。自分で本を集め、騙され、また本に手を出し、読み込み、さらにはその本たちをなんとかして新たな「テキスト共同体」のなかで相互的にリトリーヴァル(検索)できるようにすること、そのことが不可欠だ。

 さてさて、このところ、編集工学研究所(E)と松岡正剛事務所(M)はゴートクジ赤堤への移転にともなって、全員が約六万冊の本たちを限定された書棚空間にえっちらおっちら配架する作業に追っかけられている。
 数万冊の本をA地点からB地点へ移すだけなら、その作業の七割くらいは物理的な手続きですむのだが、話はもう少しややこしくて、もうちょっと複雑だ。そのため最近のぼくのアタマとカラダはこの問題で悩ましく悶え、それでも辛うじて踏んばっている状態にある。今夜はその話もしておきたい。というのも、六万冊の本の移動には、それなりの知識社会学の応用が試されるからである。

 本というのは一言でいえば、中身にいろいろのコンテンツを入れこんだ紙冊子というものである。放っておけば世間の中でも一個の人格の中でも、必ずやばらばらになってしまうだろう情報コンテンツを、古来このかた版元や著者や編集者たちが「一冊」ずつの単位でパッケージにしていった。それが「本」というものだ。本はたいそうよくできたコンテンツ・パッケージなのである。
 そんなふうにたくさんの情報や知識が詰まっているわりには、一冊ずつの本はかなりのチビである。けれども本は、その中身も外見もアナログでできているから、チビなのに重い。それが数百冊、数千冊になると、むちゃくちゃ重いだけでなく、それなりのカサになる。ずらずらとした知の配列にもなっていく。
 しかもその本は捨てるか売るか、燃やすかでもしないかぎりは、その場からなくならない。レイ・ブラッドベリの『華氏451度』(ハヤカワ文庫SF)は本の知識が権力者の邪魔になったのでこれを燃やしていく計画を推進しはじめたのだが、本好きだった一人ずつが「プラトンさん」「ヘミングウェイ君」「ケプラー先生」になっていったので、ようするに「生ける本」になったので、その独裁国家の手先となっていた主人公もついに本に魅了されていく物語だった。
 すなわち、本は複製力のある物理的実体であるにもかかわらず、記憶の領域にも入りこんで、アタマやカラダの装いを変化させもするわけだ。

 本にはいろいろな面倒もつきまとう。なんといっても、本は放っておけばたまるばかりだ。草森紳一ほどの溺読者ならともかくも、たまった本をうず高く積み上げるだけでは、いつか崩れ落ちてしまうから、これは本棚に収容するしかない。
 ところが本を活用するための収納本棚のほうにも言い分がある。そもそも本棚にはタテとヨコのグリッドによる格子組があって、その本棚を置く建物のほうにも床と壁によるタテヨコの区切りがあるので、ここで本の分量と本棚と建物の容量がぶつかりあうわけだ。たいていどちらも譲らない。
 これにどう折り合いをつけるかというと、答えはひとつだ。本がソフトウェアで、本棚がハードウェアだとすれば、この両者がぶつかりあうところに、本を相互に出入りさせるための新たな〝ウェア〟ができあがるとみなすのだ。それが「ブックウェア」というものだ。
 その硬軟両者が遭遇するブックウェアを、どう案配するか、どのように活力のあるものにするかというのが、ぼくが二十代後半に工作舎をつくったときからの長きにわたる格闘だったのである。その工夫の日々の一端は和泉佳奈子とともにつくった『松丸本舗主義』(青幻舎)に書いておいた。新宿のローヤルマンションの十階に黒い本棚を製作したときからの話だ。
 けれどもいまは、赤坂からゴートクジ赤堤に仕事場を移転するにあたって、その格闘の歴史そのものが大きな転換を迎えざるをえなくなっていて、それでぼくのアタマとカラダがこの問題で悩ましくも悶えている最中なのである。

 知の区分の仕方には、むろんいろいろな方法がある。たとえばレヴィ゠ストロースは歴史社会の「知」を扱うにあたっては、自然と文化で分けるのではなく、「生なもの」と「修繕されたもの」によって見るべきだと考えた。修繕(ブリコラージュ)されたものというのは、「編集が進んだもの」という意味だ。ユルゲン・ハーバーマスは知識をコミュニケーション行為に照らし合わせて「人間の関心」と「公共圏」の関係で分けた。ミシェル・フーコーは知を「考古学・系譜学・制度学に入れなおす試み」としてとりくんだ。分け方はいろいろで、どれが正解かということはない。
 もともと知識は種々雑多にできている。概念を組み立てた大系になっている知識もあるし、しぐさになっている知識も、思いつきばかりの知識もある。ファッションやヘアースタイルやフードやスポーツになっているアップデートな知識もある。会話やニュースや音楽だって、れっきとした知のレパートリーなのである。
 それでも「記憶の知」と「記録の知」はやっぱり異なるが、その記録の仕方は時代・民族・言語・領域によってまちまちだ。記憶のほうも千差万別に取り出されてきた。まさに雑華荘厳だ。
 そこでジョルジュ・ギュルヴィッチは「知覚的、社会的、日常的、技術的、政治的、化学的、哲学的」という七つに分けて知識のグラデーションをつけることを提案した。一九二〇年代のフランス社会学を代表する「知の層位社会」の研究者だ。これだけ多方面な組み合わせをすれば、それなりに有効だろう。これらを仮に「見える知」と「見えない知」にグラデーションをつけながら分けてみてもいいだろう。
 ところが、どっこい、どっこいなのである。そういう試みをしてみると、知というものはたいていはどこかでつながっていて、どこにも分類や分断をしたくなることなんてないこともわかるものなのだ。これを解消するには、「知の色立体」や「情報知識の色環」のようなものを想定するしかない。

 こういう問題に悩んだのは、ぼくが最初であるはずがない。十九世紀末に「知識の社会学」の確立を提唱したオーギュスト・コントは、それらの悩ましい正体をまとめて「名称なき歴史」と言っていた。
 コントの提唱を継いだエミール・デュルケムやマルセル・モースらも、それなりの見方を工夫した。知識を「時間的な知/空間的な知」「聖なる知/不浄なる知」「人格にまとまっていく知/集合的な表象になる知」などという区分に分けながら、その歴史に分け入ったのだ。その後のアナール学派の連中もこの見方を踏襲した。リュシアン・フェーヴルは知識にひそむ集団的心性に注目し、これを「知識の共有された時空」だとみなした。つまりはみんながみんな、知の分類や知の配当に悩んできたわけだ。

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P12 – 13

 本を、著者やタイトルや版元をもった情報商品あるいは学術商品として並べるだけなら、こんなにも悩むことはない。おもしろくもなんともないが、図書館の十進分類法にしたって、アルファベット順にしたってかまわない。グーグルやアマゾンの巨大倉庫での並べ方だっていいだろう。
 ただしそうするのなら、その本を取り出して「読む」ときの空間を独自に作る必要がある。これをネグレクトするのはいけない。本は知的な編集インターフェースの「あいだ」で出入りしているべきなのだ。それにはレヴィ゠ストロースからリュシアン・フェーヴルにいたる悩ましい試みを無視してしまっては、よろしくない。

 ぼくが五十年近くにわたってそれなりに格闘してきたのは、そういう「リバースリーディング・スペース」としてのブックウェア空間をどう作るかということだった。リバースというのは、本棚から本を取ってきて〝読みニケーション〟をそこでしてしまえるかどうかという、そのリバースである。ちなみに松丸本舗での実験店舗には五万冊が入ったのだが、その本棚以外のスペースがあまりに小さすぎて、このリバース型のインターフェース機能をとることがほとんどできなかった。
 というわけで、松丸本舗が五万冊、赤坂にためた本が六万冊。ただしゴートクジは赤坂よりもだいぶん広い。よし、よし、だ。さあ、それなら六万冊をゴートクジに引っ越すにあたっては、なんらかの転換装置が必要だということなのである。ぼくは移転先がゴートクジに決まったその夜から、この転換をめぐって悩むことになった。
 この悩ましく響いているものの正体を、かんたんに説明してあげる気にはなれない。なかなか微妙なものであって、きわめてドラマティックな性格のものだと言っておく。かつまた読書社会の飛躍や二一世紀の新人文学的テキスト共同体の発現にとっても、はなはだラディカルな問題を提起できるはずのものだとだけ言っておこう。

 ゴートクジの物件は、京都三角屋の三浦史朗くんが今年(二〇一二年)の夏の初めに捜し当ててくれたものだった。不動産屋とともに現場で待っていた三浦くんは、にこにこしながら「松岡さんにぴったりかもしれない」と言ってくれた。ぼくはすぐに「京都からの贈りもの」だと感じた。
 藤本ペコちゃん(藤本晴美)の紹介で数年前に出会えた三浦くんは、京都きっての数寄屋棟梁だった中村外二や朝比奈秀雄のピカピカの弟子筋になる。そこで至高の工法を身につけたのち、ニューヨークのブティックから愛知の知多半島の素封家の瀟洒な数寄屋建築まで、いろいろの物件を多種多彩に仕上げてきた。当代きっての異能の建築師だ。十文字美信や糸井重里が自分の家屋やスタジオの設計を託したくてやっとめぐりあえた建築師でもある。
 三浦くんは、当然、ゴートクジを「松岡さんが好きになる時空間」というふうに思ってくれたので、さっそく一階の高さ四メートルのスペースや三階のぼくの書斎スペースのラフスケッチを提案してくれた。視界がすばらしい屋上にも仮設の「かこい」ができそうだというので、方丈ロフトふうの絵を描いてくれた。つまりは、ごっつい枠組みだけの倉庫ビルのような三階建ての構造に、柔らかな木工組みによる柔らかな知的空間が出現できるように提案してくれたのだ。そこには「松岡正剛という生き方」への三浦くんなりの想像的愛情が溢れていた。

豪徳寺駅・山下駅の前を散策する三浦史朗さんとセイゴオ。
右は和泉佳奈子。

天井高4メートルにおよぶ1Fフロアの視察。

 しかし、しかしながらであるのだが、次のようにも言わなければならなかった。EとMの空間は、本こそ長年にわたってぼくが好んで収集してきたものであり、そのほかにも手塩にかけてきた建具や机などが幾つもあるとはいうものの、物理空間としてのスペースは、さまざまな動機と機能が組み合わさって渾然一体になっている「会社」にほかならない。経済がたちゆかなくなれば、あるいは人気がなくなれば、すぐに機能不全に陥るカンパニーなのだ、というふうに。

 E&Mは編集制作の現場であって、赤堤通の一角で家賃を払っている会社である。また、みんなのPCが立ち並ぶ仕事場なのである。
 加うるに、内外の人物が出入りするコミュニケーション空間であり、個性や人生の一部始終が出入りするエゴイスティックな空間で、それでいてイシス編集学校の偉大なる拠点であって、そのうえで、ぼくが千夜千冊したり、着替えたり、食事をしたり妖しい電話をかわしている窪みなのである。そこに大量の本が長年にわたって棲息してきたわけだった。
 ぼくにとっては、本の中からカンパニーが生まれてきたようなものなのだが、さすがに二五年もたてば、本たちはカンパニーの付属物にすぎなくなったのだ。六万冊の「質」やぼくの「ライフスタイル」は、その系列の資産勘定のどこかの一隅に配されているものなのだ。
 それゆえ三浦くんの「和」の提案を受容するには、以上の諸要件をどこか縮退させていくか、解釈を変じるか、もしくはもっと大きなスペースが必要だった。というわけで、当初の三浦案はいったん保留させてもらうことにした。残念ながら「セイゴオ数寄屋の夢」の大半は先送りにさせてもらったのだ。

 E&Mが移転するにあたっては、東亨くんの提案も同時進行していた。東くんもやはり藤本ペコちゃんの紹介だった。当時は乃村工藝のバリバリで、ぼくの仕事では「連塾」の舞台まわりやホワイエの仕立てを引き受けてくれていた。その後、帝京大学の図書館MELICに登場させた「共読ライブラリー」のための黒板本棚を作ってもらったりするうちに、「本棚で空間を作り上げていく仕事」に、もうちょっと広くいえば「知が組み上げていく空間」に大いなる開発意欲を発揮しはじめた。東組というスペース・エディティングを標榜するチームも立ち上げた。
 E&Mが引っ越すことが決まってからというもの、その東くんにも何かと仕事場のアイディアをいろいろ出してもらうことになった。設計図面は東くんの仲間である一級建築士の林尚美さんが、心くばり豊かなアイディアを随処にこめて描いてくれた。こうして三浦案とともに東・林案がそれぞれぼくの手元に届くようになったのだ。
 ゴートクジのスペースプランを本気で決めなければならなくなっていたころ、ぼくは十月二七日に南禅寺の龍淵閣で中村文峰管長らとともに講演をすることになった。会場に入って話しはじめ、ふと見ると客席に三浦くんと東くんがいるではないか。別々の席に座っている。えっ、二人とも来ているのか。ぼくはその日は南禅寺や夢窓疎石にちなんだ「山水を読む」という話をしたのだが、話しているうちについつい別のことを考えてしまっていた。このあと、ゴートクジのことのすべてをこの京都でこそ決めるべきだと思ったのだ。そこで講演と食事会がおわるやいなや、同行していた和泉佳奈子とともに、堺町三条のイノダコーヒ本店に三浦くんのクルマで赴くと(三浦くんは京都在住)、四人で丁々発止の京都密談をした。
 いま実行しているゴートクジ・プランの大半は、この京都イノダ密談で決めたものなのである。ぼくは三浦くんの提案を別途いかしつつ、なんとか東くんのスペース・エディティングと融合できる方法に辿りつくことを心した。

 あらかたのプランは決めたものの、実際に六万冊をどのように配架していくかとなると、まだまだけっこうな難問が残っていた。いや、その前に赤坂から赤堤に現物を移動させなければならなかった。赤坂から赤堤までの、つまりは赤「坂」から赤「堤」へという程度のささやかな移動だが、これはこれでけっこうな「知識の移転」なのである。小さいながらもそれなりに大胆な変化をともなう「知識社会」のブリコラージュ(修繕≒編集)なのだ。
 もっとも重さと多さと埃っぽさをべつとすれば、今回の知識移転はもっぱら「本を移し替える」ということだけなのだから、物理的な作業手順はシンプルだ。和泉と渡辺文子が中心になり、次のような手順で移転を敢行することになったのである。

改装工事中のゴートクジISIS(1F)。

現場視察中。手前右から林さん、セイゴオ、東さん。

 赤坂のすべての既存収納本棚を区割りしてそれぞれ番号を付け、区割りごとの写真を撮っておく。ついで本たちを次々に梱包し、約二〇〇〇箱となった段ボール函にこのアドレスと写真を一函ごとに貼り付ける。これをいったん日通に運び出してもらって倉庫に預け、一方でゴートクジ三階建ての通称「ISIS館」の二階と三階のあちこちに、カラの本棚を次々に配置する。地震対策のためにこれらにはビス打ちをする。
 ここまでは赤坂にあった既存の本棚の組み替えで、林さんとスペースエディターの東くんの仕切りにもとづいた。二人とも「本による知の空間」が新たに出現することに大いに好奇心を注いでくれた。天井高四メートルの一階については、京都イノダ会議にもとづいて、いささか凝ることにした。玄関ホールと、ぼくがとりあえず〝本棚劇場〟と呼んでいるスペースとに分けて、まったく別々の本棚空間を組み上げたのだ。

赤坂での搬出準備作業の様子。
各棚のボックスを単位としてナンバリングし、
札づけしていく。

移転先で再現が可能なように、
各棚のボックスごとの並びを撮影し、
段ボールに同封する。

赤坂からの搬出の日は雨天だった。

 玄関ホールはすべて木工で組み上げた。ぼくなりの三浦くんへのカウンタープレゼントだった。大小四パターンの本箱ユニットを提示した。三浦くんはみごとな指図を引いて、熊谷俊次さんを棟梁とする大工連が仕上げた。
 三浦くんは丁寧にも、木工書棚の奥板に一枚一枚の和紙を貼った。玄関ホールがほぼ四畳半であることを見てとった三浦くんは、ここをいちはやく〝本の茶室〟に見立てたのである。ぼくもこの発想に大いに共感し、ちょっと不思議な「躙口」や「床の間」を作ってもらうことにした。こうして、会社の玄関に“本の茶室”が出現するという前代未聞が姿をあらわした。
 一方の〝本棚劇場〟は鉄骨でバッチリ組み上げることにした。こちらは東くんの指揮と手作業のもと、外山貴洋くんたちが業者を巻きこんでダイナミックに組み立てていった。1トンの荷重に耐えられる通称「ネステナー」という鉄骨モジュール(五角パイプ)が基本単位になっている。南北の壁をそれぞれ四メートルの二階建の本棚にして、その一方を舞台仕立ての〝本棚劇場〟にした。ちびステージも作った。背景に本がぎっしり並んだホリゾントがある舞台だ。能舞台でいうのなら、本舞台の松羽目と橋掛りの背景がすべて本棚になっていると思ってもらえばいい。「本楼」と名付けた。

三浦史朗さんの設計による“本の茶室”に見立てられた玄関ホール。
(1F:エントランス)
素木の棚組みが壁面全体を覆う。

堅牢な鉄骨モジュール「ネステナー」の搬入。

「ネステナー」で組まれた舞台仕立ての“本棚劇場”。
(1F:オープンスペース)
ステージ上の舞台で打ち合わせをする
東さん(左)セイゴオ(中)外山さん(右)。

藤本さんのディレクションのもと、
6WのLED照明の明るさを体験。

綿密な打ち合わせは連日深夜におよんだ。
右から林さん、東さん、セイゴオ、
藤本さん、三浦さん、和泉佳奈子。

 かくて二〇一二年十二月三日、本を詰めた二〇〇〇箱の段ボール函が、次々にトラック横付けで届いたのである。まずは二階ぶん、三階ぶんとして。これで何がおこるかといえば、「送り出された知」が「迎え入れる知」に変わる。それがたった半日くらいでの高速変換だ。
 とうていスタッフだけではまにあわない。ここからは編集学校の自主参加組からゴートクジ近隣組まで、ぼくが脅迫して呼んだキレイどころからこの日を待ち望んでいた助っ人まで、ともかくも玉石混交・素人玄人の混成人海戦術での大リレー作戦になっていった。目印にしたがってカラ本棚の前に次々に積み上がっていく段ボールを片っ端から開けていき、これをひとまず本棚に詰めこんでいく。けっこうランボー、けっこうゾンザイだ。それしかない。ひたすら迅速でなければならない。小森康仁が獅子奮迅の活躍をした。佐々木千佳は女手なのに段ボールを一人で持ち上げていた。

内部、助っ人、日通スタッフの総出による搬入作業。
次々に運ばれる段ボールを各ゾーンに配置していく。

搬入した段ボールは書物だけで2000箱におよんだ。

段ボールの搬入が完了した瞬間。
青帽の日通スタッフへの感謝の拍手。

段ボール搬入直後の記念撮影。
内部、助っ人あわせて50名ほどが作業にかかわった。

 が、本番はここからなのである。どの本棚のどの棚に、どの程度の本をどんな順に並べていけばいいのか。厳密な手筈はない。あえて大雑把にしておいた。これをその棚の前に立った担当者が否応なくも、とりあえず文脈的に並べていかなければならない。
 たいへん申し訳ないことだけれど、その棚の前に立ったのがウンのつきなのだ。一人でだいたい一〇〇〇冊くらいを相手にしなければならない。編工研のスタッフは日常業務をネグっているわけにはいかないから、この作業にも助っ人の諸君に「本の文脈づくり」の順番がまわる。
 とりあえずの大きい配当は、ぼくと和泉が予想した配当図にもとづくのだが、実際に本棚一段ぶんに一〇〇冊程度の単位で本を並べるのは、そうそう容易なことじゃない。ここからはまさに知識との格闘が、知識との交際が始まっていく。
 格別力も必要だ。ぼくとともに長らく本と遊んできてくれたブックウェア・プロフェッショナルな高橋秀元・木村久美子・太田香保たちの強力なディレクションが力を発揮した。明大の田母神顯二郎教授も学生を引き連れてやってきてくれた。けれども一応のアドレスをつけておいても、本の数と本の厚みと棚の長さや高さはなかなかぴったりは収まらない。何度も何度も修正することになる。とはいえ、ここでへこたれていては本棚編集はムリなのだ。

本の配架作業。うずたかく積み上げられた段ボールから、
本をとりだし同時に文脈化していく。

“本棚劇場”の舞台上にのぼって作業するセイゴオとEELスタッフ。
ステージまわりに緊張感がみなぎる。

ゴートクジISISの最深部、
セイゴオ部屋を組み立てるスタッフ。(3F)

 人類が培ってきた「名称なき歴史」や「知識の共有の時空」は、いまではあらかた学問や学科になっているのだろうと思われている。しかし、それは学問を買いかぶりすぎているし、あまりに分類知に惑わされすぎている見方なのである。
 学問にも学科にもなっていない知識はそうとうあるはずで、早い話が人々がふるまっている素振りだって、そこらじゅうの廃棄物やゴミだって知識なのである。仮に、すべての知識はそれなりに言葉(用語)になっているとみなすとしても、むろん多くの知識と言葉は交差しあってはいるけれど、言葉ばかりを拾いすぎるのは、あまりにも無定型すぎるのだ。それでは「意味の型」がない。「意味の束」が生まれない。
 ただし、この「本」は主題や主張をもっているものばかりをさすとはかぎらない。いずれ千夜千冊するつもりのハンス・ブルーメンベルクの『世界の読解可能性』(法政大学出版局)では、本は「世界という書物」であるとみなされて、どんな本にもあらゆるメタファーがおよぶかぎりのものが含まれていると理解されている。
 これでいい。ブルーメンベルクは、書物によって「書物になっていない世界」すら書物のように読める、と言ったわけだ。ぼくもまさしくそのように「本」と「世界」の関係のなかで、知識を眺望してきたわけだった。

ひととおりの配架作業が完了した“本棚劇場”。

知を見晴らす絶景。

入り口のにじり戸。奥は“本の茶室”とつながっている。

志願して訪れた助っ人メンバーと夜の歓談。

 さて、このへんで本書に戻って、もう少し踏みこんでみよう。
 本書にはいくつもの示唆に富む指摘がひそんでいるのだが、そのひとつに、ヴィクトール・シクロフスキーが「オストラネーニエ」(ostranenie)と名付けた作用についての言及がある。「オストラネーニエ」は、あまりぴったりではないが、おおむね「異化」と訳されてきた。これを異才ブレヒトが演劇手法に適用し、「異化効果」(V-Effekt)として世に広めた。英語では“alienation”、フランス語は“distanciation”、中国語はなかなかふるっていて“間離化”などと言われる。トマス・ミュンツァーやヘーゲルやチュービンゲン哲学の解読者だったエルンスト・ブロッホには主著『異化』(現代思潮社)があり、ぼくは学生時代に耽読したものだ。
 「オストラネーニエ」「異化」という手法は、知識や情報、現象や対象を際立たせるという意図をもっている。フランシス・ベーコンはこれを種族・洞窟・市場・劇場に作用させるべきだと言い、モンテーニュは国々の法律・国民気質・政治システムに用いるべきだと書いた。ヴィーコにいたっては、すべての民族と国民に必要なのは「オストラネーニエ」「異化」であるはずだというふうに見た。
 たいへん痛烈な技法だ。しかしこれは、察しのいい諸君にはきっと見当がついただろうけれど、編集工学が重視してきた「編集」にすこぶる近い。それも「地」と「図」を相互に動かしていく編集に近い。オストラネーニエは、いったん並べた分母の知の流れに、新たな図を加えながら編集的相互作用を際立たせるということなのだ。

 本棚に本を並べるにも、このオストラネーニエ編集、すなわち「異化編集」が有効なのである。「間離編集」だ。
 ただしその前にしておくことがある。まずは、大量の本たちをシマに分けることである。この作業はゼッタイに必要だ。このシマがなければ「意味の模様」の根幹がつくれない。このときは模様を植物にするのかペイズリーにするのか、動物を並べるのか、それを最初に決めなければならない。こうしてルネサンス文化、イギリス十九世紀、自由民権運動、パンク小説、ポルノグラフィ、劇画関係、三島由紀夫、ジャズ、日本の遊芸といったシマができる。シマがふえてくれば、これを大きく本棚に割り振っていく。ここまではサクサクとやる。
 ところが本棚には単立性と分量の限界がある。たとえば昭和文学をずらりと並べたい棚を、横光利一や斎藤茂吉から川端康成や太宰治に向かって順に並べようと思っても、なかなかうまくはいかない。棚から本がはみ出すし、どう並べてみても文芸感覚が納得できるものにはなりえない。
 そういうときは、どうするか。横光・川端・稲垣足穂・龍胆寺雄・林不忘らを時代順にまじめに並べるより、タルホは別のクラスターとして自立させ、林不忘はほかの大衆文化のほうに〝間離〟させたほうがいい。斎藤茂吉や大手拓次や中原中也は一緒にして詩歌の棚をつくったほうがいい。これは地模様から特別な柄を抜き出し、別のところに自立させる異化編集なのである。そうすると、ここに新たな異化連鎖がおこりうる。仮にタルホのクラスターを入れた本棚に余裕があるのなら、そこへ久生十蘭や夢野久作全集を添わせてしまうのだ。
 こういうことは賞味期限のある食品や季節が決まってくる服飾では、なかなかできないことだ。コンテンツ・パッケージの「本」ならでは、賞味期限のない「本」ならではの異化であり、そこからの派生的編集なのである。そして、この異化や間離や派生から、新たな分母をつくる棚が生まれてくるわけなのだ。

seigow – marking [149303]
P10 – 11

 もうひとつ、大事なことがある。本棚たちが何を「意図」しているのか、その大きなメッセージを感じさせるようにすることだ。
 カール・マルクスは知識は経済的な下部構造が押し上げたイデオロギーの体系だとみなし、そのイデオロギーを下部構造にもとづいた唯物弁証法によって読み解くという方法をつくりだした。このマルクス的方法によって本棚をつくるとすれば、下のほうに大きな下部構造にあたる経済や資本の棚をつくり、そこから社会現象の棚が積み上がり、やがて言語や意識に関する棚が上乗せされていくというふうになる。
 マックス・ウェーバーはそれとはやや逆に、さまざまな社会的文脈の寄り集まった流れがどのように経済的な帰結をもたらすかという方法を採った。このウェーバーの方法に倣うなら、大きくヨコに広がる数段の棚にまず社会の文脈をあらわす流れをどーんとつくる必要がある。そこに各国別、産業別、宗教別の棚を付随させていく。そんなふうになるだろう。
 しかしマックス・シェーラーやカール・マンハイムは、マルクスやウェーバーとは異なって、そうした原因と結果の順逆からあえて離れることを意図した。ヴァルター・ベンヤミンはもっと屋台ふうの参集力に注目した。「パサージュ」だ。そこに浮上するのは「スタイル」なのである。かれらはスタイルやテイストによって知を組み替えようとした。これはまったく新しい構成の意図になっている。
 が、残念ながら、このようにスタイルやテイストを意図した本棚構成はまだ見たことがない。ずっと以前、京大の人文研の吉田光邦所長に、人文研の棚を「スタイル」にする可能性を提案したことがあったけれど、「うん、うん、それはすばらしいけれど、さあ誰がやれるのか、京大にはそういう人材がまだ育っていないなあ」と笑われた。
 ことほどさように、本棚から「意図」を発揮させるにあたってもいろいろ方法があるのだが、しかし、このように構成方法をめぐってみることにこそ何かの挑戦が待っているはずなのだ。ぼくが松丸本舗の「本殿」でやってみせたのは、これだった。「遠くからとどく声」「男と女の資本主義」などを思い出していただきたい。

緑色のネステナーで特別に組まれたEELオフィス。
基盤は可動式のユニットで構成されており、
取りつけ式のカラーボックスや黒板などのオプションが
多様なスタイルを演出する。

空間に設置するオブジェを提案する服部舞さん。
さまざまなアーティストとのコラボも動き出しつつある。

 ちなみに「本棚編集」の王道は、なんといっても次の〝編集八段錦〟を試みてみることにある。編集を進めていく八段階のステップを示したものだ。詳しくは『知の編集術』(講談社現代新書)一九九ページを参照していただきたい。

  ①区別をする(まずは情報単位を発生させる)
  ②相互に指し示す(次に情報や知識を比較できるようにする)
  ③方向をおこす(情報と知識に自他の系列をつけていく)
  ④構えをとる(以上の成果から解釈過程を派生させる)
  ⑤見当をつける(いったん並んだ文脈を妥当性にもっていく)
  ⑥適応させる(編集的な対称性を思いきって際立たせる)
  ⑦含意を導入する(新しいメタフォリカルアプローチを加える)
  ⑧語り手を突出させる(声が聞こえてくるような意図を強調する)

 仕事場の本棚に本を入れるということは、そこで仕事をしているスタッフやゲストの人物像のアクティビティとともに、本の出入りを動的なインターフェースにできるかどうかということである。動的なインターフェースとは、棚が動くとか自動配架ができるといったことではない。棚に並んだ本たちを、利用者が動的にブラウジングできるかどうかということだ。
 このことは、ふりかえると図書館をどう設計して、どのように本を並べるかという歴史とともに始まっている。アレクサンドリア図書館は神の配置とともに本を配列したのである。けれども知識が次々に増殖していくと、新たに「読み」と「学び」の関係を本の配列がこわすようになっていった。一七六三年にローザンヌとジュネーブの図書館に勤務していたエドワード・ギボンは、早くもこういうことを見抜いていた。「図書館にとってはその内部の地理学と社会学が連動しなければならないのではあるまいか」というふうに。
 まさにそうなのだ。本棚はそのポジショニングとともに、その本棚にアドレスされる本と人とが動的な〝社会地理”になっていなければならないはずなのだ。

深夜の“本棚劇場”で物思いに耽るセイゴオ。

 というわけで、いまもってぼくにはゴートクジの本棚をああもしたい、こうもしたいという方法が前後左右に跋扈するわけだった。
 いま、これを書いているのはクリスマスも間近い師走だ。それなのに本楼や各部屋にいまだうず高く積まれている書物群を前に、ぼくは容易に「知識の社会史」を捌ききれずに、井伏鱒二の名作小説のごとく、ただぽつねんとしているのである。
 最後に一言。「ノート」とか「ダイジェスト」という言葉は十六世紀半ばに英語になった。この言葉はもともとは本のテキストにアンダーラインを引くことや書き込みをすることや印をつけることに始まっていた。そうだとすれば、そのアンダーラインやノートのようなもので構成された本棚があってもいいということなのである。そしてそうだとすれば、それを担うのはもはやぼくではなく、ゴートクジの知識社会学に出入りする内外の読み手たちでもあるべきなのである。

ゴートクジISIS屋上にて。三浦さんとセイゴオ。

『知識の社会史:知と情報はいかにして商品化したか
著者:ピーター・バーク
訳者:井山弘幸・城戸 淳
発行者:塩浦 暲
発行所:株式会社 新曜社
2004年 8月18日 初版第1刷発行
装幀:虎尾 隆
写真:林 恵子
印刷:星野精版印刷
製本:イマヰ製本

【目次情報】
謝辞
第一章 知識の社会学と歴史 ―序
第二章 知識を生業とする ―ヨーロッパの〈知識人〉
第三章 知識を確立する ―古い機関と新しい機関
第四章 知識を位置づける ―中心と周縁
第五章 知識を分類する ―カリキュラム・図書館・百科事典
第六章 知識を管理する ―教会と国家
第七章 知識を売る ―市場と出版
第八章 知識を獲得する ―読者の役割
第九章 知識を信ずることをと疑うこと ―終章
訳者あとがき

参考文献
事項索引
人名索引


【著者情報】
ピーター・バーク(Peter Burke 1937年―)
ケンブリッジ大学名誉教授。1937年生まれ。ケンブリッジ大学名誉教授、イマニュエルカレッジの名誉校友(フェロー)。オックスフォード大学卒業後、同大学聖アントニーカレッジで研究、博士論文執筆中にサセックス大学に招聘される。同大学で16年間の教員勤務の後、ケンブリッジ大学に移り、文化史講座教授を長く担任。New Cultural History を提唱し、「文化史」概念を刷新。ヨーロッパ史家、文化史家として世界的に著名な歴史家。著書(邦訳)に、『イタリア・ルネサンスの文化と社会』、『ルイ14世―作られた太陽王』、『知識の社会史―知と情報はいかにして商品化したか』など多数。