才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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緋文字

ナサニエル・ホーソーン

新潮文庫 1957

Nathaniel Hawthorne
The Scarlet Letter 1850
編集:沼田六平太
装幀:前川直

黒地ニ赤キAノ文字。
不義・密通の者であることを刻印する緋文字。
若き人妻ヘスター・プリンの胸に
深く縫い取られた赤い文字は、
アメリカン・ピューリタニズムがもたらした
癒しがたいほどの深い傷を象徴していた。
ヘスターが密通したのは意外な人物だったが、
ホーソーンはこの二人の関係の奥にひそむ
信仰と恐怖にまつわる暗部の歴史を描き出す。
黒地ニ赤キAノ文字。
これをいまアメリカ自身に問う者が少ない。

 時は十七世紀の半ば、舞台はイギリス植民地のひとつの田舎町ボストン。アメリカにやってきた初期移住者たちは一方ではニューエルサレム建設の夢を見て、他方では信仰の裏で暴虐の斧がふるう恐怖に戦いていた。周囲にはいくつもの部族の原住民(ネイティブ・アメリカン)が馬と矢をもって暮らしていた。
 話は、ニューイングランドの開放的な気風と厳格なピューリタニズムに包まれていたボストンの夏の朝、監獄の前の芝生に住民たちが集まってこれからおころうとする見せしめを待っているところから始まる。監獄からは、若そうではあるが人妻らしい女が看守に引かれて連れ出されてきた。
 見るからにいとおしそうに幼な子を抱いてはいるが、その胸には真紅の「A」という文字が縫い付けられていた。この物語のヒロインのヘスター・プリンだ。たいへん美しい。彼女は夫より一足先にニューイングランドに越してきて、海岸近くに新居を借り新生活のための日々をおくっていた。
 その美貌と活動力はすぐに住民たちの羨望と嫉妬を生むのだが、彼女はそうした視線にいっさいこだわることなく、教会に通い、近隣の者たちとの交わりに励み、何の落ち度もない日々をすごしていた。彼女には、権威にすがりがちなピューリタンの連中とは異なる“独自の信仰力”が宿っているようだった。
 しばらくして夫が船の難破で水死したという知らせが届いた。或る男と甘い恋におちそうなところを必死にこらえて貞操を守ってきたヘスターは、ここで心が変じて、その男と激しく交わった。ヘスターは妊娠し、腹を膨らませ、男の制止にもかかわらず不義の子を産んだ。

 噂はたちまち知れわたり、そのためマサチューセッツ湾植民地の法律では死刑になるところだったのだが、夫が死んでいるともくされたため、裁判官や牧師たちの配慮によって三時間ほど曝し台に立てばいいということになった。そのかわり、これからずっと上着の胸の真ン中に「A」の緋文字を付けて暮らさなければならない。
 群衆はヘスター・プリンが密通の相手の名をあかすことを待っていた。老牧師ジョン・ウィルソンが告白をすすめるが、ヘスターは「どうしても言いません」と口を噤んだままである。若い牧師アーサー・ディムズデールも複雑な表情で告白を促すけれど、ヘスターはさらに頑なに沈黙しつづける。そのとき幼な子が泣き出した。
 それを群衆のなかで静かに見つめていた中老の男がいた。ちょうどこの日、ボストンに到着したばかりのロジャー・チリングワースである。この名は偽名だった。直前まで原住民の集落に捕囚されていたせいか、どこか呪術的な力のようなものを漲らせている。ヘスターの夫だった。
 水死の知らせは誤報だったのである。夫は生きていた。ヘスターは胸が張り裂けるほどに驚いた。夫のチリングワースは事の一部始終を察すると、すぐにでも密通の相手を暴いてみせると決意する。しかし二人とも周囲には、かつて二人が夫婦であったことを漏らさない。
 ヘスターは監獄に戻され、やがて釈放された。幼な子はパールという名だった。育てば無邪気に母の胸の緋文字で遊ぶ子であった。けれども、いったい誰がヘスターと交情したのか、住民たちはその疑惑が解けないことに苛立ってもいた。そうしたなか、チリングワースはじりじりとヘスターを締め上げていく。それでも密通の相手はわからない。そこに意外な一人の男がうっすらと浮上してくるのだが、謎解きは後半の痛ましい展開にまかされる……。

『The Scarlet Letter』洋書のブックデザイン

 ぼくが最初に『緋文字』を新潮文庫で読んだときは、以上のように物語は始まっていた。読み始めたとたん緋文字Aが目に焼き付き、最後の「暗い色の紋地に、赤い文字A」の一行にいたるまで、なんとも落ち着かない気分のまま、不義密通の物語がアメリカン・ピューリタニズムの異常な高ぶりと覆いきれない亀裂を見せながら、ニューイングランドのプリミティブな町と森とを走っていった。
 いまやよく知られていようけれど、緋文字のAとは「密通・姦通・不義」をあらわす“Adultery”のイニシャルAのことである。しかし、話がすすむにつれてヘスター・プリンの日々の献身的なふるまいから、このAは「可能な力」をあらわす“Able”や「天使」をあらわす“Angel”のAに変じ、それにもかかわらず最後の最後になってふたたび“Adultery”のイニシャルに戻っていくかのように映る。
 まさに緋文字になにもかもが振り回されていて、どこかが反転しているままのような、とても奇妙な味の小説だった。これはひょっとして“America”のAではないか。そうとも感じられた。
 物語の後半、読者はやっとヘスター・プリンの密通の相手が、ほかならぬ牧師アーサー・ディムズデールらしいことを知っていくのだが、ホーソーンはそのことを饒舌には語らない。この小説の狙いをたんに不義の相手の名をさぐるサスペンスにする気がなかったからである。作品をもっと巨きなアメリカ人の宿題にしておきたかっただろうし、自身の先祖がかかわる課題から逃げたくなかったからだ。

 意外なことに、新潮文庫の『緋文字』を読んだだけではわからないことがある。この小説にはもともと序章「税関」がついていて、この作品を成り立たせているメタフィクショナルな事情が綴られていた。近松の《曽根崎心中》の道行の序が省かれたようなものだ。
 もともとの序章には、ホーソーンの先祖がかかわったらしい忌まわしい事件のこと、ホーソーン自身が三十代はボストンの税関に、四二歳から数年間はセイラムの税関に勤めていたこと、そのセイラムの税関のめっぽう古びた建物のこと、二階の大広間が蜘蛛の巣だらけになっていてそこにたくさんの書類が散乱していたこと、その中に緋文字に関する書類を発見したことなどが、たっぷり述べられていたのである。
 この序章は、岩波文庫の八木敏雄訳『完訳 緋文字』にはちゃんと“完訳”されている(岩波文庫佐藤清訳では省略されている)。この序章から、ホーソーンの先祖にはアメリカ史上有名なおぞましい集団的ヒステリー事件「セイラムの魔女狩り」にかかわった者がいたらしいことが知れる。ホーソーンはこのことをこそ引きずりだし、それによって何かがあかされていくことを求めるかのように、『緋文字』を書いたのだった。

 「セイラムの魔女狩り」は一六九二年の事件である。アメリカ大陸が「発見」されてからは二百年たっていたが、まだイギリスからは自立していない。そんななか一五六人が魔女の容疑者となり、そのうち三十人が有罪に、四四人が自白して十九人が無惨に処刑された。いまではアメリカン・ピュータリニズムの最初期最大の汚点として知られるが、当時もその後もいったいなぜこんなことがおこったのか、長らく伏せられていた。
 ホーソーンは税関の二階で、この事件にまつわる「緋文字の文書」を偶然発見し、そこに自分の先祖にあたる尋問官がかかわっていて、積極的に魔女裁判を促進していたことを知った。この先祖が四代前のジョン・ホーソーンなのである。
 一六九二年、ジョンは九人の判事とともに、三月にはセイラムの三人の魔女の裁判を進め、五月には九人の女性を魔女と見なし、十月までには約一〇〇人の女たちを拘留することに手を貸していた。ホーソーンは戦慄する。セイラムに生まれ、その祖も大半がセイラムの栄光とともにあったと思ってきたからだ。
 なぜこんなことになったのか。時代をさかのぼり、一六三〇年代や四〇年代の初期ピューリタンの信仰の原点を調べあげていった。そこに見いだしたのが、四〇年代のボストンを舞台にした『緋文字』のヘスター・プリンや牧師アーサー・ディムズデールのモデルとなった人物だったのである。

セイラムの魔女裁判の様子を描いたペン画。

 アメリカン・ピューリタンの最初期の歴史は、日本人にはあまり知られていない。ホーソーンが調べるまではアメリカ人にも見えていなかった。いや、いまなおWASP(White, Anglo-Saxon, Protestant)の強がりのもと、目くらましにあっているアメリカ人が多いはずである。フランクリンやジェファーソン以降の、アメリカ人が大好きな「勤勉と富のピューリタニズム」ばかりが喧伝されすぎてきたからだ。しかし初期ピューリタニズムには、そもそも栄光と残酷とが、神権と抑圧とが、ユートピアニズムとテロリズムとが表裏一体になっていた。
 そんなふうになった根っこは、すでに「巡礼の父祖」ピルグリム・ファーザーズがオランダ・ライデン滞在をへて、一六二〇年にアメリカ東海岸のプリマスの地に渡り、メイフラワー盟約を交わしたときから始まっていた。そこには早くも五つの信条が採択されていて、それがアメリカン・ピューリタニズムの基礎となり、呪縛となり、魔女狩りを生んでいた。こういうものだ。

  ①Total Depravity(人間は堕落した存在で、原罪から免れえない)
  ②Unconditional Election(神の選択による救済しかありえない)
  ③Limited Atonement(限られた者にしか贖罪は与えられない)
  ④Irresistible Grace(もたらされた恩寵に抵抗してはならない)
  ⑤Perseverance of the Saints(救済と回心を得た者だけが生き抜く)

 これらは今日なお、WASPの子供たちが学校や教会でおぼえさせられる有名な英語イディオムだが、この五つの信条はマサチューセッツ湾植民地の初代総督ジョン・ウィンスロップが強く確認して継承したもので、十七世紀ボストンを骨の髄まで支配していたイデオロギーでもある。いまもアメリカ国家の「マニフェスト・デスティニー」(Manifest Destiny=明日なる運命)の奥に巣くっている。
 なぜこんなデスティニーがアメリカを覆っていったのか。きっと起源があるにちがいない。それは、ウィンスロップ総督のボストン在任中の一六三六年、後世に「反律法主義論争」(Antinomian Controversy)として知られるピューリタン・イデオロギーによる異分子放逐運動が始まっていたのだが、この出来事こそがあらゆる前兆になったのではないかというのが、ホーソーンの推測だった。

 出来事の発端は、この年、アン・ハッチンソンという女性が「救済のための信仰」をあまりに重視したため、これを牧師ジョン・コットンが糾弾し、彼女をマサチューセッツからロードアイランドに放逐したことにあった。神学的にはピューリタニズム内部の信仰至上主義と救済重視主義が対立したとも見られるが、ホーソーンはそれだけではないと見た。
 ここには、その後のアメリカ人全員が抱えこむことになった普遍的な問題があるにちがいない。それがアン・ハッチンソンとジョン・コットンの“近しい対立”にあらわれた。ホーソーンは、そう掴まえた。
 こうして、アン・ハッチンソンをモデルにヘスター・プリンをヒロインに仕立て、ジョン・コットンをモデルに牧師アーサー・ディムズデールをキャラクタライズして、『緋文字』を書き上げたのだった。そこに人妻ヘスターと牧師アーサーの“不義の関係”を加えたのは、ホーソーンの想像力によるとっておきのナラティヴィティだ。そこから象徴的な緋文字Aを出現させるための仕掛けだった。ホーソーンは、ヘスターに宿る「救済のための信仰」を描きたかったのである。実際にも作中では、ヘスターのことをこう書いている。
 「もし小さなパールが霊の世界からの贈り物でなかったとするなら、事情はかなり変わっていたかもしれない。ヘスターはアン・ハッチンソンと手をたずさえて、或る宗派の始祖として歴史に残っていたかもしれない。彼女には、ある面で預言者めいたところがあったので、ピューリタン社会の基礎をくつがえそうとしたかどで、当時の厳格な法廷によって死刑を宣告されていたかもしれなかったのである」。
 緋文字とは、痛ましくも深くアメリカ社会の原点に突き刺さっていた大文字だったのである。

 ところで、付け加えておかなければならないことがある。それは、ホーソーンのもうひとつの傑作『七破風の屋敷』(泰文堂)もまたセイラムの古い家系の秘密を扱っていたということだ。
 この物語は、ピンチョン家の初代の先祖がその土地の最初の持ち主であった者たちを処刑台におくったため、この七破風の家の一族が長らくその呪縛から逃れられなかったという宿命(デスティニー)を追っている。ホーソーンが残した作品とは、アメリカ人の奥底に眠るゼノフォビア(他者恐怖)を綴ったものであったのだ。ぼくは「黒地ニ赤キAノ文字」の一句を思い浮かべるたびに、このことに思いを馳せるのだが、友人のアメリカ人とこのことについて交わすたび、よほどの柔らかい知性の持ち主でさえ眉をくもらせ、話にあまり乗ってこないことも知った。
 ついでながらさらに付け加えておくと、一九九五年にデミ・ムーアがヘスター・プリンに扮した《スカーレット・レター》という映画が公開された。ローランド・ジョフィが監督で、ゲイリー・オールドマンが牧師アーサー・ディムズデールを演じた。
 デミ・ムーアが好きなぼくとしてはよくできた映画と言いたいところだが、物語はほとんどホーソーンの主題をずらして、二人の愛の葛藤を強調し、そこにフェミニズムの思想を加えていた。ヘスターとアーサーが連れ立って町を出ていってエンディングになるところなど、納得できなかった。
 原作はそんなふうにはなってはいない。アーサーは二人が互いに犯した罪に苦しみ、憐れみの神を称えて死んでしまうのだし、元の夫のチリングワースはヘスターを詰り、密通者の牧師アーサーを追いこむものの、衰弱しながらパールに財産を遺したのである。ヘスターはといえば、救済の日々をおくり、悲しみを抱いたままパールを残してやはり死んでいく。エンディングもまったく異なっている。ヘスターはアーサーのかたわらに葬られ、そのヘスターとアーサーの墓に「黒地ニ赤キAノ文字」が刻まれているというところで終結なのだ。

 ナサニエル・ホーソーン(一八〇四~一八六四)とその時代について、ちょっとだけ案内しておくことにする。
 わかりやすくプロフィールをいえば、ホーソーンはポオより五つ年上、エマソンの一つ年下で、ソローの十三歳年上、メルヴィルとホイットマンの十五歳年上になる。これで一目瞭然となるように、かれらはいずれも一八五〇年代のアメリカ文学にアメリカン・ルネサンスともいうべき文芸的黄金期をもたらした。
 そのことはこの時期の傑作を年代順に並べればすぐわかる。エマソンの『代表的人間像』(日本教文社「選集」6)とホーソーンの『緋文字』が一八五〇年の刊行で、翌年にホーソーン『七破風の屋敷』とハーマン・メルヴィル『白鯨』(新潮文庫)が発表されると、そのあと続けざまにメルヴィル『ピエール』(国書刊行会)、ヘンリー・ソロー『ウォールデン(森の生活)』(ちくま学芸文庫)、ホイットマン『草の葉』(岩波文庫)というふうに連打された。
 ホーソーンはマサチューセッツのセイラムの古い家柄に生まれた。そのままなら静かで順調な生涯をおくれるはずだったが、四歳のときに船長稼業の父親がギアナで黄熱病に罹って死んだため、ナサニエルは母親の里で暮らしはじめ、ここで先祖代々のピューリタニズムの重い空気を感知していった。
 作家になろうと思ったのはメイン州のボードン・カレッジにいるころだったようだが、卒業後にセイラムに戻って執筆に専念しようとしても、うまくいかない。たいていの評伝には「十数年は孤独な日々をおくった」と書いてある。それでも一八三〇年頃から書いた短編が新聞や雑誌に載るようになり、カレッジ時代の友人でのちに詩人として名を馳せたヘンリー・ロングフェローの好意ある書評も手伝って、しだいにニューイングランドの歴史や信仰と罪を扱う物語を書くようになっていった。一八三七年の短編集『トワイス・トールド・テイルズ』はポオも褒めた。
 こうして一八四六年にセイラムの税関に勤めているうち、自身の家系の秘密や「セイラムの魔女狩り」の資料にあたるようになり、ここから一気に『緋文字』や『七破風の屋敷』を書き、かなりの評判をとったのである。

 ホーソーンは「ノヴェル」と「ロマンス」を峻別しようとしたことでも知られる。ノヴェルは記述にリアリズムを必要とし、ロマンスには想像力や象徴力が動く必要があるというものだが、ホーソーンは後者に拠りながら、両者を交ぜた。この信念は十九世紀半ばのアメリカン・ルネサンスの俊英たちにも影響をもたらした。
 それがホーソーンの「緋」に対するに、メルヴィルの『白鯨』やエミリー・ディキンソンの「白熱の魂」の「白」である。またポオの『黄金虫』(岩波文庫ほか)の「金」やソローの『ウォールデン(森の生活)』の「緑」である。
 まあ、こうしたアメリカ文学の周辺の話題については、ぼくがもう少しアメリカの文学作品を千夜千冊してから、またぞろ刺し身のツマにしてみたい。今夜はあくまでホーソーンの緋文字にこだわりたかった。
 なお、ぼくより先回りしてあれこれ言いたくなっているのなら、ぜひその前に巽孝之くんの『アメリカ文学史』(慶応義塾大学出版会)や『アメリカ文学史のキーワード』(講談社現代新書)を読まれることを薦める。今夜の『緋文字』の紹介にあたってもいろいろ参考にした。

『緋文字』(ひもんじ)
著者:ナサニエル・ホーソーン
編集:沼田六平太
装幀:前川直
1957年10月15日 発行
発行者:佐藤隆信
発行所:新潮社

【目次情報】

獄舎の入口
広場
認め知る
対面
針仕事をするへスター
パール
植民地総督の広間
子供の小妖精と牧師
医者
医者とその患者
胸のうち
牧師の寝ずの行
へスターの別の考え
へスターと医者
へスターとパール
森の散歩
牧師とその教会員
満ちあふれる日光
小川のほとりに立つ子供
迷っている牧師
ニューイングランドの祝日
行列
緋文字を明示する
結び
あとがき 

【著者情報】

ナサニエル・ホーソーン(Nathaniel Hawthorne)

19世紀アメリカ・ロマン派の文豪。1804年7月4日、マサチューセッツ州のセイラム生まれ。1828年に処女作『ファンショー』を自費出版、以後、短編集『トワイス・トールド・テイルズ』、つづく短編集『旧牧師館の苔』で人気を博す。1850年の名作小説『緋文字』で大作家としての地歩を確立。晩年は、コンコードで文学活動を続けたが、1864年5月19日にニューハンプシャー州のプリマスで客死した。

Seigow – Marking