才事記

ねじの回転

ヘンリー・ジェイムズ

新潮文庫 1969

Henry James
The Turn of The Screw 1895
[訳]蕗沢忠枝

 アメリカ人の「思考の現代史」というものがあるとすれば、その出発点を、一組のジェイムズ、すなわち兄のウィリアム・ジェイムズと弟のヘンリー・ジェイムズから説きおこすのは誘惑を禁じえない指し手のひとつだが、そんなことは誰かがとっくにやっていることだろうから、ここでは弟だけにふれておく。
 ヘンリー・ジェイムズはフロイトより十三年早くアメリカに生まれている。それにもかかわらずフロイトの心理学を先取りしていた。人間の苦悩や恐怖や不安といった訳のわからぬものを、当時の研究者や文学者が「意識」とか「内面」とか「心理」といった言葉で説明できなかったとき、ヘンリーはその内面の動きだけを描き出す方法を発見していた。
 そういう方法がありうることは、当時はわずかに民族心理学のヴントが文化の意識の流れとしては気がついていたかもしれないものの(それは柳田國男が『遠野物語』でひとつの村の意識の伝承を語れるという方法を発見したことに似ているが)、まさか個人の意識をひとつながりに取り出せる方法があるとは、誰も思いついてはいなかった。
 このため『ねじの回転』や長編『鳩の翼』(講談社文芸文庫)や、それに先立って書かれた『小説の技法』(国書刊行会「作品集」8)は、ジョイスの『ユリシーズ』(集英社文庫)、プルーストの『失われた時を求めて』(岩波文庫)をはじめ、カフカ、ヴァージニア・ウルフ、フォークナーらの先駆的作品として君臨し、それによっていわゆる「意識の流れ」(stream of consciousness)の文学系譜が発端したということになる……のだが、さて、こういう文学史的な解説ほどつまらないものはない。
 諸君もきっとそうだろうが、ぼくもそういう現代文学史を若い頃から十本も二十本も読まされてきて、ほとほとうんざりとしてきたものだ。そんな説明を何度も聞かされるよりは、たとえば一九九七年に公開された映画《鳩の翼》で、作家のヘンリーが文章にしなかった動向を大胆に視覚化してしまったイギリスの監督イアン・ソフトリーの手腕をこそ褒めるべきだ。学ぶべきだ。ヘンリー・ジェイムズの「意識の流れ」の解説は、あの映画一本でみごとに裏取りされていた。
 
 もともと『ねじの回転』はいくつもの仕掛けのうえに成り立っている。舞台はイギリスのゴシック・ロマンの伝統を踏襲した郊外の屋敷である。エミリー・ブロンテの『嵐が丘』(岩波文庫)と同じといってよい。語り手は天使よりもかわいい幼い子供たち(兄と妹)の学習生活の面倒をみることになった貧しい女性の家庭教師で、物語の全体は二十歳くらいの「わたし」の一人語りになっている。
 この「わたし」は子供たちの伯父と面談をして家庭教師を引き受けるのだが、伯父に淡い恋心を抱いたらしい。幼い兄妹(マイルズとフローラ)は両親が亡くなったので伯父が引きとっていた。
 これが主な伏線である。伏線ではあるけれど、そこがヘンリー・ジェイムズの手なのだが、この淡い恋心はときに伏線のようにも見えてくるというだけであって、筋書き上にはほとんどあらわれない。語り手の意識の背景に(それが意識の流れというものだが)、そういう奥の気持ちがひょっとしたら動いているかもしれないというだけなのだ。
 
 事件はおこらないとも、おこったともいえる。おこったとすれば、その屋敷に幽霊が出たらしい。それも二人、出た。しかしほんとうに出たのかどうかは、最後までわからない。幽霊の一人は家庭教師がかつて雇われていた館の従者、もう一人は子供たちの前任の家庭教師である。後者のほうは、どうも「わたし」の分身にも見える。
 この忌まわしい幽霊たちは子供の魂を奪おうとしているとおぼしい。なにやら邪悪なのである。ヘンリー・ジェイムズも「最も邪悪な精神を描くために幽霊を出すことにした」と書いているように、この幽霊の恐怖は全篇に不気味な影を落としている。けれども、なぜこんな幽霊が出るのかは「わたし」にはまったく見当がつかない。ただ彼女はなんとか邪悪な幽霊たちから子供たちを守りきろうと決意する。そのため幽霊が出る背景の事情を、屋敷にながく勤めている女中頭のグロース夫人からさまざま聞き出し、作戦を練る。
 ところが、ここから何かが怪しくなるのだが、「わたし」が幽霊から子供たちを守ろうとすればするほど、子供たちは幽霊に怯えることになる。「わたし」は信用をなくしていく。なぜなら、幽霊を見るのは「わたし」だけであるからだ……。
 こうなってくると、いったい幽霊はほんとうに出ているのかどうかさえはっきりしなくなる。幽霊が出る原因もありそうだ。読者はやむなくグロース夫人の“証言”によってそちらのほうに引っ張られていく。そして、ただものすごい恐怖感だけが作品に広がっていく。
 そのため「わたし」はしだいに追いつめられて、たった一人で幽霊との対決をせざるをえない。もっと怖いのはそのように追いつめられてみると、「わたし」には子供たちが幽霊とぐるになっているようにも見えてくることだった。それだけではなくもっと恐ろしいことに、自分自身が幽霊を恐れるあまりに、その恐れている当のものと同類になっていくことを感じはじめたことだった。なぜ、こんなふうになってしまったのか。ひょっとしたら、幽霊は「わたし」の妄想であって、むしろ「わたし」こそが幽霊なのかもしれない。
 かくてふと気がつくと、ネジは「わたし」の何かに食いこむばかりであって、もはや意識はのっぴきならないものになっていた。ということは、この物語を読むわれわれ全員がネジとともに何かに向かって食いこまれてばかりになっていくということなのである……。
 
 ジェイムズ兄弟の父親は神秘主義に傾倒していた。スウェデンボルグの研究者であって、哲人だった。当時はイギリスを筆頭に、心霊主義運動ともいうべき交霊術が大流行していた。ジャネット・オッペンハイムの『英国心霊主義の抬頭』(工作舎)を読まれたい。父親はまたラルフ・エマソンやヘンリー・ソローとも昵懇だった。
 兄のウィリアム・ジェイムズはハーバード大学の哲学教授で、いわゆる「プラグマティズム」の創案者である。兄は父親の世界観を実証しようとした。とくにアブダクション理論のチャールズ・パースと昵懇だった。このような父と兄のもと、ヘンリー・ジェイムズはこれらの“研究”に意識的な傍観者たらざるをえなかった。
 ぼくは、ヘンリー・ジェイムズが「ヨーロッパをさまようアメリカ人」という、いわゆる“パリのアメリカ人”というその後の文学や映画の大きな主題になったしくみをつくったことに関心をもっている。実際にも、ヘンリーはパリやロンドンにいた一八七五年前後に、フローベール、モーパッサン、ゾラ、ドーデ、ツルゲーネフ、ゴンクール兄弟らのサロンに親しく交わっていた。そこでヘンリーはアメリカ人を鏡の裏側から見るという方法を発見した。
 この方法で書かれた小説やエッセイを普通のイギリス人やアメリカ人の目が読むとなると、そこが名作『デイジー・ミラー』(岩波文庫)の独壇場ともなるのだが、われわれが想像する“欧―米”ではない異なる世界観が見えてくる。これこそは、当時の読者が「あれっ、これは意識の中を覗いているのか」と驚くことになったヘンリー・ジェイムズの魔術そのものであった。
 が、まあ、今夜はそういうことはやかましく言わないでおくことにする。加えて余談になるが、はたしてヘンリー・ジェイムズの影響なのかどうかは知らないが、つげ義春の「ねじ式」というのも、そのネジのことだったのかどうかということも、ここでは暗合の外においておくことにする。
 ともかくも『ねじの回転』はジョイスともプルーストとも関係がない傑作であって、もし何かの先駆者と言いたいのなら、むしろ正体不明の恐怖を文明の奥に見据えたジョゼフ・コンラッドの先行者だったのである。