才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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縄文人の文化力

小林達雄

新書館 1999

身長160センチに満たなかった縄文人。
顔は上下に小さく、受け口だった。
弓矢をもち、イヌを飼い、狩猟と採取と栽培に挑み、
数々の土器を作って、精霊と交換していた。
縄文文化は一様ではない。
原始的でもないし、たんにアニミスティックなのでもない。
そこには縄文人独自の「物語」があった。
そこにすでに「聖呪」があったのである。
この原日本のルーツ。はたしてどう見ればいいのか。
小林達雄ふうに見ればいいのだ。

 先だって両国のシアターXで開かれた「桃山晴衣さんを偲ぶ会」で、久々に小林達雄さんと会った。隣どうしの席だったのだが、たくさんの参会者による追悼と思い出話と、石川鷹彦らの演奏と(リューアーチャーこと石川と会ったのも30年ぶりくらいだった)、そして土取利行さんの慟哭を禁じえない「桃山晴衣の最後」の告白に聞き入っていたので、ほとんど会話を交わせなかった。
 小林さんとは長い。講談社の『アート・ジャパネスク』の前からのお付き合いで、たくさんのことを教わってきたし、さまざまな交流も重ねてきた。そのなかに土取さんや桃山さんとの賑やかなの交流が交じっていた。こんなことを思い出す。
 あるとき桃山さんが「ねえ、センセイ。縄文人の顔ってどんな顔?」と訊いたときは、小林さんは最初は「歯がカンシジョーコーゴー(鉗子状咬合)している」と言ったのだが、こんな専門語では何も伝わらないとみて、「ああ、縄文人って受け口なんだよ」と言いなおしたのである。桃山さんはわざと上下の歯を揃えて「私みたい?」と笑った。「いや、桃山さんは現代人っぽいよ。鋏状交合だからね」(上顎歯が下顎歯にかぶさる)と小林さんが言うと、桃山さんは「なんだ後白河時代の顔じゃないんだ」とがっかりしていた。
 そのころぼくは、年に一度の“M's Party”(のちに玄月會)というものを催していたのだが、小林さんや土取さんや桃山さんはそのパーティでも多くの参会者と交じり、ときには朝まで残ってスタッフらと親しく交わってくれたりもしていた。パーカッションの異能者である土取さんが「縄文土器は楽器である」と確信できたのも、そのころだったと憶う。
 縄文というと、このように、ぼくにはまず土取さんと桃山さんの生き方が思い出されるのである。二人が小柄だったことにもまつわっているのかもしれない。縄文人は男が157センチ、女は149センチほどだった。

踊るヒト形の文様があしらわれた縄文太鼓(有孔鍔付土器)

縄文楽器 鈴と琴

 小林達雄さんと最初に会ったのは、慶応の衛藤駿さんに紹介してもらってのことである。美術史家の衛藤さんは「達っちゃんの縄文観が一番いいんだよ」と、口癖のように言っていた。
 その後は高橋秀元君ともども、何度も国学院大学の達ちゃんの研究室にお邪魔した。達ちゃんと話しこんだ量なら、タカハシ君のほうがずっと多かったろう。気も合ったと思う。タカハシ君は工作舎では「昭和の縄文人」と呼ばれていたからだ(笑)ぼくはぼくで福士孝次郎の『原日本考』をさらにさかのぼりたくて、小林縄文論に聞き耳をたてていた。
 ただ縄文文化というもの、あまりにスケールが大きく、あまりに詳細で、かつあまりに多くの仮説が飛び交っていたので、われわれはすべからく達ちゃんファンでありながらも、その全体観を掴みかねていた。それが、小学館の大著『縄文土器の研究』と朝日選書の『縄文人の世界』によって、やっと小林縄文観に埋没できるようになった。そのあとは『縄文人の文化力』『縄文人追跡』などをへて、昨年の『縄文の思考』(ちくま新書)に至ると、もはや小林縄文観こそがゆるぎない定説になったことを感じたものだ。

 どちらかというと“牛型”の小林さんは、自分の研究成果や独特の仮説を我先にとくとくと喧伝するような人ではなく、大器のごとき位置におられたのだけれど、しだいにその包括力が他を圧していったように思う。
 とくに縄文研究の一方の雄である“鹿型”の佐原真との対話『世界史のなかの縄文』(新書館)では、鉈のような小林殺法が唸りをあげていて、その面目はまさに縄文隆線のごとく躍如たるものがあった。ぼくは佐原さんの縄文論にも関心をもってはいたのだが、ややその口調にペダンティックなものを感じてもいたので、この対談集では大いに溜飲を下げた記憶がある。
 たとえば土偶について、佐原真はヒトの形であると見ているのだが、小林さんは土偶はもっと抽象的で、あえてヒトの形になることを避けているんじゃないかと言うのだ(これは鋭い)。そうすると佐原さんが「顔を作ったのだっていくらもあるじゃないか」と切り返す。しかし、小林さんは「でも最初はない。中期の初頭までない。山形の西ノ浦遺跡の大きな土偶でもわざと顔をなくしている。顔が出てくるのはそのあとからだ」と反論する。
 佐原さんも引かない(二人とも意地っぱりである)。「幼児や子供はヒトをまず顔から描くように、縄文人もそうしたはずだ」と言うのだが(つまり稚拙にすぎないと言うのだが)、小林さんは「それなのに縄文人はあえて顔を避けている。だからこそここには何かの意味がある」と言い、「それって何?」と迫る佐原真に、「あれはヒトではなくて、精霊なんですよ」と言ってのけるのだ。
 これはどうみても、達ちゃんの勝ちである。佐原真は「だったら神なんだね」と意地悪く念を押すのだが、そこには不満そうに「うーん、神でもいいけれど‥」と先輩をたてつつも、さらにミミズク土偶・山形土偶・遮光器土偶・ハート形土偶の当部はたとえ顔に見えたとしても、たえず人の顔から離れようとしている造作になっていることを強調するのである。
 ぼくはこういう小林縄文論が好きなのだ。たんなるアニミズム論にも片付けないし、たんなる文化人類学にもしていない。

縄文早期の土偶

左上より山形土偶、遮光器土偶、ハート形土偶、ミミズク土偶

 約15000年前、地球は長い氷河期の眠りからさめて、しだいに温暖期に向かっていった。日本列島も12000年前には今日とほぼ近い気温環境に落ち着いた。人類は遊動的な旧石器時代から定住的な新石器時代にゆるやかに入っていくことになる。
 このとき日本列島では同時に縄文人の定住が始まっていた。縄文生活は世界史的な新石器時代と並列していたのである。“同格”なのである。したがって人類が遊動的な旧石器時代をへて最初に突入したのは、世界各地の定住的な新石器文化と、そして日本列島における定住的な縄文生活だった。
 ただし、各地の新石器文化の多くが農耕を開始していたのにくらべ、日本の縄文文化は栽培力をもってはいたが、いわゆる農耕をしなかった(縄文期から農耕があったという研究者もいるのだが、小林さんはあくまでその説には抵抗している)。そのかわり土器と漆と弓矢とイヌと丸木舟を駆使した。そこに特色がある。縄文人は弥生人のような農耕複合体をめざしてはいない。多種多様な資源をできるかぎりまんべんなく活用して、生活の安定をはかっていた。それを小林さんは「縄文姿勢方針」という。
 この生活方針を束ねていたのは「物語」である。縄文コミュニケーションのすべてを支えた物語だった。それゆえ、一般には縄文土器が装飾的で、弥生土器は機能的幾何学的などと評されることが多いのだが、小林さんに言わせると、必ずしもそうではない。
 むしろ縄文土器は物語的で、弥生土器こそ装飾的なのである。なぜなら、縄文土器は土器であることそのものが物語的であるからだ。これに対して弥生土器はまさに実用の上に装飾を表面的にくっつけている。そのため、縄文土器から文様を剥がそうとすれば、土器そのものを毀すしかなかったのである。
 縄文生活と縄文土器と縄文文様と縄文物語はひとつながりなのだ。以上が小林縄文論の当初からの出発点である。まことに明快だ。

 もちろんのこと、土器の発明は日本列島だけのことではない。東アジア、西アジア、アメリカ大陸にもこの順でおこっている。しかしながら、なかで日本列島の土器製作は最も早くから始まっていて、しかも貯蔵用ではなく、もっぱら煮炊き用として広まっていった。せいぜい8000年前にしかさかのぼれない西アジアの土器は、貯蔵用の深鉢か盛付け用の浅鉢なのである。
 初期の縄文土器が煮炊き用であったのは、ドングリや貝類などを食用にするためであった。煮炊き用だから、そのころの縄文コンロの形とあいまって丸底や尖った底でよかった。土に突っ込んでおけた。ごく初期の縄文土器に平底がないのはそのせいだが、それでもすぐに縄文人は方形平底にも挑戦した。ここには土器以前に先行していた編籠や樹皮籠の形態模写があったと思われる。

爪形文土器(左)と編籠(右)
縄文人はそれまで慣れ親しんでいた籠をモデルに土器をつくった

 これでもわかるように、縄文土器の出現というもの、実に独特なのである。日本のその後の歴史から見て独特なだけではなく、世界に先駆けて独特であり、かつ他の地域との共通性を断っている。旧石器・新石器という世界史的な流れだけでは説明がつかないことが少なくない。これはなんとしてでも「日本という方法」の起源になりうるところなのだ。
 しかし、そのような縄文研究は、さきごろになって手痛い挫折に遭遇することになった。2000年11月5日のこと、各新聞が大事件を報道した。東北旧石器文化研究所の副理事長だった藤村新一が石器を捏造していたことが発覚したのだ。当初の報道では捏造は2件だったが、その後の調査で疑惑は深まり、藤村のかかわった186カ所の遺跡に捏造の可能性があるということになってしまったのだ。
 この日本考古学史上最大の捏造事件は、中期旧石器文化にまつわるものであったけれど、当然、新石器文化にも大きくかかわってくる。ということは縄文研究の基礎に巨大なヒビが入ったということなのだ。
 第00巻に網野善彦(87夜)の『日本とは何か』をおいた講談社の「日本の歴史」全26巻は、第01巻が『縄文の生活誌』である。岡村は当然、藤村の発掘した遺跡の成果にもとづいた構成と文章を本に仕立てた。そして発売された(ぼくも買った)。しかし、そのあと事件がおこったのだ。やむなく講談社と担当執筆者の岡村道雄は“改訂版”を急遽出さざるをえなくなっている。これもこの手のシリーズでは前代未聞のことだった。
 というわけで、牛歩の小林さんの縄文構想が縄文研究者たちにやっと舞い降りつつあった2000年前後に(研究成果を画した『縄文人の世界』は1996年発行)、日本考古学界は未曾有のターニングポイントを抱えたのである。が、だからこそ、ここからは縄文研究再生の大きな基礎が問われることになる。実証主義だけではかえって怪しいのだ。ぼくはそこにこそ小林達雄の縄文世界観にもとづいた物語編集力が必要なのだと思っている。

 ふつう縄文土器は、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期といふうに区分する。貝塚は早期にあらわれ、縄文海進は10000年前くらいの早期のおわりにおこり、このころには漆の使用が始まっている(図表参照)。

縄文晩期の漆を塗った浅鉢
縄文土器はその早期から漆の使用が始まっていた

 6000年前の前期には円筒形の土器文化が登場し、前期のおわりには大規模集落が出現した(三内丸山遺跡など)。中期に入ると関東・中部に環状集落が発達していった。クリの栽培が始まるのはこの中期の5400年前あたりだ。当時はおよそ26万人くらいが列島に定住していたと算定されている(小山修三の推計)。
 こうして4000年前の後期になると、土偶などの祭祀具があらわれ、環状列石(ストーンサークル)が各地に出現する。水場でトチのアク抜きなどもおこなわれるようになった。かくて約3000年前、亀ケ岡文化が花開いて、越後の一角に火焔土器が躍りだし、そして消えていくと、縄文時代は晩期に入っていくのである。
 考古学的にはこのようになっているのだが、では、世界観としてはどうなのか。そこで小林さんはこれらの変化と遷移を縄文人の世界観から見て柔らかく区分けした。縄文人の観念の発動によって分けたのだ。草創期を「イメージの時代」に、早期を「主体性の時代」に、前期を「発展の時代」、中期・後期・晩期をまとめて「応用の時代」に。
 ごくかんたんにいうと、「イメージの時代」というのは、編籠などを模しながら土器の可能性をさぐっていた時期で、文様も先行していた編籠などからの援用が目立つ。次の「主体性の時代」の大きな特色は、いったん挑戦した方形平底を捨てたことにある。大半が不安定な円形丸底になる。これは土器の製作能力からみると退行現象のように見えるのだが、小林さんはここに先行容器からの脱却という主体性の確立があったとみなしたのだ(日本にはこういうことは歴史的にしばしばおこっている。たとえば鉄砲を捨てたり、活版印刷をしなくなったり)。
 それゆえ、撚糸文などの文様が低調なのは、装飾ではなく土器製作の自立に必要な粘土を堅くしめるためだったという説が出ているのだが、むしろここにはのちの「物語文様」につながる“未発の意味”が萌芽していたと見たほうがいい。それは押型文や貝殻沈線文でも同様なのである。小林さんは、そう、見たのだ。
 「発展の時代」では、煮炊き用だった縄文土器にいよいよ盛付け用や貯蔵用が登場し、用途が一挙に多様化していった。文様にもさまざまなモチーフが登場し、文様帯とともに区画があらわれる。こうした特色は以前から指摘されてはいたのだが、小林さんはそういう分類だけではどうしても満足できなかった。これらは相互に何かを物語るためであったろうと見たのだ。
 かくて中期以降、「応用の時代」が開花する。注口土器、壷、釣手土器などとともに甕棺や埋甕炉もあらわれ、後期には香炉形土器や異形台付土器が加わって、さらに異様な火焔土器や土偶が次々に出現したわけだ。まさに爛熟である。爛熟ではあるのだが、それはそれぞれの土地にもとづき、それぞれの集落の人々の観念と物語にもとづき、それぞれの時期にディペンドされた爛熟だったのである。

 小林さんが「物語」にこだわったのは、小林縄文論が縄文コスモロジーの構想にもとづいているからだった。
 そもそも縄文のモチーフは、「発展の時代」に文様を描く施文の方法や順序によって規格性をもちはじめ、その規格性が縄文土器の形態を固有なものにしていったのだが、小林さんはその定着した文様モチーフにはそれなりの「名」がついていただろうと想定した。つまり文様の各所に「意味」が発生しはじめたのだ。そうなると、その「意味」たちのアソシエーションがさらに文様の形態を指図していくというふうになっていく。
 ここに特別の加工と加飾が「意図」をもってきた。S字文、剣先文、トンボめがね文などは、対称性よりも非対称性やデフォルメをめざし、いわば「観念の代弁力」をもっていったのである。縄文ゲシュタルトが動きはじめたと言っていいだろう。それは縄文人が「観念」の動向に関心をもち、その動向を「文様による物語」として記憶し、再生しはじめていたことを暗示する。
 このように小林さんが縄文世界観の内に「物語」を発見したのは、もともとは後期の土器がモチーフの繰り返しに拘泥していないことに気が付いてからだった。器面を区画するにあたっても、その区画内を同一モチーフで埋めなくなっている。もっと驚くべきは、器面を一周することによって初めて構図の全貌が成立するようにもなっていることだった。

 ぼくはかつて小林さんが勝坂式土器を手にしながら、その波状文の6つの山が一つの視野では見えなくなっていて、土器をまわすことによって初めてその意図があらわれてくるように作られているんですよと説明されたとき、アッと声をあげたものだった。そのとき小林さんは、「きっとここには物語だけではなく、それを歌ったり語ったりするためのメロディもひそんでいたんでしょうね」と言っていた。
 その後、小林さんはこのような物語土器には、各地にそれぞれの「流儀」があること、その流儀のちがいこそが「クニ」の単位であったのではないかということも展望していった。

勝坂式土器様式(上)と亀ヶ岡式土器様式(下)
土器製作集団の流儀(モード)が「クニ」をつくっていく

 岡本太郎(215夜)が縄文力に感嘆し、そこに日本の原エネルギーの炎上を見抜いたことは、いまでは縄文学者にとっても語り草になっている。奔放な想像力にめぐまれた岡本太郎ならではの直観的洞察だった。
 しかし、その後の日本人の多くはその縄文的原エネルギーを“漠然とした塊の力”のように受け取っていて、そこに何が発端し、何が終焉していったかということはほったらかしにしてきた。あえていえば直観ばかりが強調されすぎた。
 たとえば火焔土器である。この異様な土器を日本人の大半が自慢をするのだが、この土器は縄文時代全体に及んでいるのではないし、日本列島の全域に発現したものでもない。全期を通して縄文土器の文様様式には、いまでは約70ほどの異同が確認されているのだが、なかで火焔土器はほぼひとつの「クニ」だけがある時期に生み出し、そして消えていったものだったのである。
 このクニは小林さんが生まれ育った越後新潟を中心に、西南は越中富山を、東北には出羽山形を控えた範囲にまだかるクニである。信濃川沿いにみるとその領域は信濃の脊梁山脈までであるが、阿賀野川沿いには意外にも会津盆地までもが入っていた。このクニにのみ、火焔土器と三十稻場式土器が苛烈に燃え立ったのだった。
 すでに中期、信濃川や阿賀野川の河岸段丘には中央広場をとりまくようにして竪穴住居を擁するいくつものムラがあった。このとき、一つの文様様式が壁にぶちあたっていた。諸磯式土器が十三菩提式をもって文様の細密化に行きづまり、なんらかの打開に向かう必要に迫られていたのだ。既存の観念力の衰退であろうか。それとも戦争で敗北したのだろうか(小林さんは縄文時代には戦争もあったことを仮説している)。
 そこで越後縄文人は、さまざまな隣接のクニの様式を参考に、また遠方から運ばれてきた土器なども参考に、新たな土器創造に乗り出した。わかりやすくいうのなら大木式・阿玉台式・勝坂式などを“編集”して、新たなクニの物語とシンボルを形成することになった。おそらくはリーダーの交替もあったのだろう。

縄文土器中期の代表様式

 こうして中期から後期にかけて、あの強烈な火焔土器の原形が出現するのだが、そこではまず、新保式や新崎式が重用していた縄目文様を器面から追い出してしまうということをやっている。縄目に代わって隆線を偏重した。それとともに「突起」を燃え上がらせた。突起は4つに定まった。会津の火焔土器には3つの突起の土器があるのだが、それとも異なっていた。かつ、「鶏冠型」と「王冠型」の2種類を併用させた。

火炎土器の二型式
「鶏冠型」(左)と「王冠型」(右)

 小林さんは、この2種類の突起は決して装飾過剰から生まれたものではないと見た。これらは越後縄文人の観念の独自性を物語るための、比類のない「記号」なのである。むろんそれがどんな物語記号や観念記号であるかは解明されていないのだが、ともかくもそのように見ないかぎりはこのクニの特別な事情は解けないと見たのだ。
 しかしとはいえ、縄文のクニの独自性は土器のみでは決まらない。住居や言語や技法とも結びついている。とくにこの「火焔土器のクニ」では翡翠(ヒスイ)との関係が大きかったはずだった。

 縄文人の生活は「炉」と切り離せない。ところが、この「炉」がクセモノなのだ。なぜならこの炉は意外なことに、暖房用でも調理用でもなかったからだ。調理は戸外でしていたのである。
 遺跡をこまかく調べると、暖房用でも調理用でもないのに炉の火は、しかしたえず燃やし続けられた痕跡がある。そうだとすると、ここには実用だけではない「意味」があったことになる。何かの「観念」か「力」かが去来していたのであろう。そうとしか考えられない。ということは、すでにこれらの炉をもつ「イエ」そのものがなんらかの観念の住処であり、また祭祀の場でもあったはずである。
 実際にも中期の中部山岳地帯の縄文住居の奥壁には、石で囲った特別な区画が設けられ、中央に長い石を立てている例もある。それも採石したばかりの山どりの石である。埋甕も入口近くの床面に埋められていた。ときには底を抜いたりもしてある。かつて金関丈夫(795夜)は胞衣壷か乳幼児の甕棺だったのではないかと推理した。木下忠もそういう推理をたてている。
 ぼくが最も驚いたのは、こうした住居にはほとんど何も置いていなかったということだ。土器の小破片が稀に見つかる程度で、縄文人はあれほどの土器類をイエの中には持ち込んでいないらしいのだ。ウツなのである。ウツロであって、かつウツツなのである。ただし煮炊き用の土器にかぎっては、ときに床面にジカ置きしていたようだ。
 多孔縁土器が2個1組で床面から発見された例もある(長野野々尻遺跡・岐阜糠塚遺跡)。素焼きの縄文土器は破損しやすいのに、完形品でそういうものが床面で保存されていたのは、よほど丁重な扱いを受けていたのであろう。
 こうなると、「イエ」は「聖なる空間」で、そこに持ち込まれた少数の土器は聖器だったということになってくる。小林さんは、それらを「第二の道具」と総称した。

竪穴住居内の祭壇状の立石

敷石住居跡

 実は「火焔土器のクニ」では翡翠が採れた。日本における翡翠の原産地は新潟県糸魚川の山中に局限される。翡翠はそれまで身体装飾品につかわれていた滑石などと異なって、歯が立たないほど堅い。入手も困難だし、加工も難しい。それにもかかわらず糸魚川の翡翠は「火焔土器のクニ」のシンボルとして特産され、そして全国に流通した。火焔土器が流通しなかったにもかかわらず。

古代の翡翠

 いったい、なぜこのようなことがおこっているのだろうか。まことに興味深いことばかりだ。
 しかし、残念ながらそれらの謎はほとんど解けてはいない。小林縄文観にして、推理がつかないところは、まだまだヤマのように残っている。縄文学はこれからが本格的な本番なのだ。
 ぼくが思うには、このような謎を解くには、もはやマルセル・モースやレヴィ・ストロース(317夜)の推論をあてはめているのではまにあわないだろうということだ。日本人が原日本の解明のために、独自な理論を仮説するべきなのである。そしてそのうえで、新たな歌を物語るべきなのだ。
 小林達雄の縄文論はそのための「花伝書」であり、「梁塵秘抄」なのである。大きな出発点がここにあることはまちがいない。ただ、この「能」を、この「歌」を、誰かがもっともっと実感すべきなのである。たとえば土取利行さんのように、たとえば桃山晴衣さんのように。そういえば晴衣さん、昔、そんな話をしたことがありましたねえ。いささか懐かしい日々のことではあるけれど――。