徐朝龍
長江文明の発見
角川書店 1998
ISBN:4047032905

 巴という一族がいた。
 殷王朝が全盛を誇っていたころだから紀元前12世紀前後のことで、長江中流にいて殷に平気で歯向かっていた。その後も春秋戦国期まで大役をはたした。
 この巴族のことはあまり知られていない。漢水流域にいて龍蛇をトーテムとした伏羲族と、三峡にいて白虎をトーテムとした廩君族とを統合して生じた部族らしく、かなりの呪術的部族集団としての力を誇っていた。『山海経』にも出てくる。
 やがて巴は「鼈霊」という治水技術に強い謎の集団とドッキングして、開明王朝というものをつくった。最近の中国歴史学ではこれ以降を「巴蜀文化」とよんでいる。

 この巴蜀文化は「巴蜀文字」という独自の文字をもっていた。文字というより絵文字あるいは図標文字ふうの“図語”ともいうべきもので、印章や武器や楽器に記した。単独符号が100種ほど、複合記述が200種ほど確認されている。
 黄河の中原地方で生まれ育った甲骨文字や金文や漢字とはまったくちがうものである。そのちがいを拡大解釈すれば、長江中流域には漢字文化圏とはちがった文字文化圏があったということになる。
 ぼくはこの巴蜀文字の話題が出はじめたころから、ずっと関心をもっているのだが、よくわからず放ってあった。そこへ徐中舒という中国の学者が「巴蜀文字は幻の夏文字の名残りなのではないか」という驚くべき意見を出したというニュースが伝わってきた。
 これは聞きずてならない。が、どうもそれ以上の詳細はわからなかった。そんなときに読んだのが本書であった。眼が洗われ、鱗が落ちた。

 著者の徐朝龍さんは四川連合大学出身で、まさに巴蜀文化の中心に学んだ歴史考古学者である。
 親日家でもあって、来日して京都大学で文学博士号をとったあとは国際日本文化センターで助教授をしていた(ここには夏剛や張競をはじめ、いつも痛快なアジア系の研究者が来ている)。で、そのころ「長江文明学術調査団」が結成され、4年にわたる研究をへてその成果が発表された。それを書き直したのが本書である。

 このところ長江文明についてはずっと議論が沸騰していた。
 どういう議論かといえば、中国文明の起源は黄河文明だといわれてきたのだが、その黄河をはるかに凌ぐアジア最長の長江に古代文明が発祥しなかったはずがない。きっとあるはずだという仮説と、いやそんなことは幻想にすぎない、資料もあまりに断片的だ、過大評価しすぎているという論争である。
 すでに屈家嶺遺跡、彭頭山遺跡、河姆渡遺跡などの発掘で、長江にいくつもの文化の痕跡があることはわかっていた。ただ、それが文明というほどの大きなものだったかどうかが疑問視されていた。しかし1990年代に入ってからの発掘成果は、長江に稲作文化が萌芽していただろうということを決定的に告示した。

 これらの文明の萌芽はいまではまとめて「良渚文化」とよばれている。そこでは稲作社会だけではなく、おそらく高度な玉器産業が栄えていた。その玉器産業をみると、「天円地方」という形をとっている。都市国家のようなものもあったと見られる。
 ただ、良渚文化は紀元前2000年ころに突然に崩壊している。いろいろ理由が憶測されるところだが、おそらくが大洪水に見舞われた。同時期、良渚文化と密接な関係をもっていた山東の龍山文化も壊滅的な打撃をうけた。これは黄河文明の主宰者や担い手にとってはチャンスである。良渚文化と龍山文化の連合体は、ここで黄河文明の支配力に屈し、取りこまれていった。どうもそういう大きな出来事がおこっていたようなのだ。
 この大洪水後の抗争を暗示する話がいくつかのこっている。ひとつは、黄河流域の部族連合を代表する黄帝が、山東半島の東夷部族の首長たちおよび南方部族の蚩尤(しゆう)たちと、琢鹿(たくろく)というところで戦って、これに勝利して帝王になったという話である。
 もうひとつは、長江流域の建国の父であり、洪水神でもあった禹が天下をまとめるために会盟をおこなったのだが、その場所は黄河流域ではなくて長江下流の会稽ではなかったかということを暗示する物語の数々である。
 実は、このような可能性については白川静さんがはやくから独自の構想で予想していた。ぼくも白川仮説を信じて、勝手に長江洪水神話の全体像を夢想していたのでもあった。

 ともかくも、中国の文明の黎明を告げる問題の核心が長江流域にあるらしいことは確実なのである。
 しかし、長江をめぐるいくつもの文化の栄枯盛衰が、大きく「長江文明」とよばれるには、甲骨文字とは別の"長江文字"とでもいうべき文字の実在が、エジプトの象形文字、メソポタミアの楔形文字のごとくに確認されなければならない。それがいっこうに出てこないのだ。
 と、いうわけで、ここに突如としてクローズアップされてきたのが「巴蜀文字」だということになる。
 むろんまだ文字としては"解読"されていないのだが、徐さんの仮説によると、次のようなことではないかということになる。まだおおざっぱなものだ。

 およそ5300年前に長江下流に登場した良渚文化は稲作都市文明を形成していた。
 その後1000年ほどの繁栄ののち、大洪水に見舞われてこの文化は崩壊したが、その一部は北上して黄河中流域に入った。ここに融合誕生したのが夏王朝である。夏王朝は当初から政治的な混乱をかかえ、ついには支配下にあった東夷后翠(こうげい)部族に倒された。そこで残党は北西に逃れ、さらに転じて四川盆地に入って土着文化と習合した。これが「三星堆文化」である。
 このプロセスのあいだで、当初の良渚文化に芽生えた"図語"のような図標文字はさまざまな習合をへて北方の黄河中流域にもちこまれ、いったんは夏王朝の文字となり、そこで甲骨文字とぶつかった。ここでぼくの名付ける"文字戦争"がおこる。良渚文字は強い文字に敗退して変化をとげ、これが巴一族や蜀一族によって工夫され、いわゆる「巴蜀文字」になっていったのではないか。
 徐さんはそういう流れを想定したのである。

 はっきりしないことは多い。けれども長江流域に古代文字文化の隆盛ないしは前文字文化の繁栄があっただろうことは、ありうることではないかとおもわれる。
 もっとも本書は、そのような「巴蜀文字」に関する推理だけではなく、長江に関するさまざまな遺跡例を紹介し、そこから読みとれる最大限の仮説が列挙されている。石家河文化に芽生えた巨大城壁都市のこと、屈家嶺文化の黒陶文化のこと、洞庭湖をめぐる古代都市国家群、三星堆文化にひそむ高度な土器文化などを扱って、興奮させられる。
 われわれは黄河文明に加担しすぎていた。
 中国文明はそれだけでは語れない。
 だいたい中国は北と南は別の国なのだ。古来、南稲北粟、南糸北皮、南巣北穴、南船北馬、南道北儒、南頓北漸などといわれてきたのは、そのことである。服装ですら、北が右衽(右前)であるのに対して、南は左衽(左前)なのである。
 日本の社会文化を語るのにも長江がもっと見えてくる必要がある。長江、かつて揚子江とよばれたその大河の波涛は日本列島の歴史を包んでいる。

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