才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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徳川イデオロギー

ヘルマン・オームス

ぺりかん社 1990

Herman Ooms
Tokugawa Ideology 1985
[訳]黒住真・清水正之・豊澤一・頼住光子

 すでに諸国の守護たちの力は荘園制と土地経営力の消滅とともに衰退しきっていた。これを一言でいえば、日本には中心政府が不在のままだったということになる。
 群雄割拠と一向一揆と土一揆はずっと平行していた。それが戦国時代の特徴である。この平行状態に終止符を打ったのは象徴的には「刀狩り」であろう。こうしたなか、新たな「権力の概念化」が要請されていた。今川や武田の武士団には「家訓」はあったが、その拡張にはまだ手がつけられていない。信長は最初にこれに着手した
 信長の全国制覇のために打った手は、各領国の武士団と家臣団の制圧、一向宗と一向一揆との対決、イエスズ会士との交流によるキリスト教の統御、堺などの都市支配、延暦寺勢力の一掃、安土城の建設など、きわめて広範囲にわたるもので、その対策も大胆で迅速ではあったが、その国家理念は「天下」「公儀」「天道」といった抽象的なイデオロギーの断片で語られたにすぎなかった。
 自身こそが神仏も第六禅天魔も超える者だと思いすぎた信長についで、秀吉は信長の政策を踏襲しつつ、なんとか東アジア社会における国家のかたちを強化しようと試みた。また一方では豊国神社の起工にあらわれているように、かなり神道を流用して太閤神話を完成させようとした(信長も「總見寺」の建立で自身の神仏化を図ろうとしたが、死ぬのが早すぎた)。しかしそれも秀吉自身の無謀きわまりない大陸制覇の夢とともに潰えた

 こうした信長・秀吉の未成熟な「権力の概念化」を見ていた家康がとりくんだことは、日本で最初の国家イデオロギーを確立することへの挑戦とならざるをえない。
 オームスの本書はそこに注目する。家康の時代に用意できた汎神論的なイデオロギーと家光や家綱の時代に用意できた儒学的なイデオロギーがどのように組み立てられたのか、そこを外からの目で強引に粗述してみようということである。
 本書をめぐっては、その後、オームスと大桑斉によってシンポジウムが大谷大学で1週間にわたって開催され、さまざまな議論をよぶことになった。その記録と再編の一部始終は『シンポジウム「徳川イデオロギー」』という本にもなっている。しかしここでは、そうした後日の議論を勘定に入れないまま、本書に拾える重点をぼくなりに尾鰭をつけて案内したい。

 三人の先行者をあげておかなくてはならない。藤原惺窩と林羅山と天海である。三人の関係と徳川イデオロギーの関係はやや複雑だ。
 藤原惺窩は冷泉家の子(藤原為純の子で藤原定家11世の孫)の血を受けながらも神道家の吉田家の養子となり、播磨の景雲寺に入ったのちに相国寺の首座ともなったという、かなり風変わりな経歴をもっている。首座のときは朝鮮戦役のための名護屋の陣営で御伽衆をつとめ、その直後に小早川秀秋にも仕えた。家康と出会ったのはこのときである。
 惺窩が名護屋にいたことは朝鮮文化や朝鮮使節との邂逅をもたらし、とくに赤松広通がアジア趣味の持ち主だったことが影響して、惺窩の目は大陸に向いた。そこで朱子学に目覚めた。しかし、すでにここまでの惺窩には神道も仏教も入っていたわけだから、その思想はしばらくすると儒学的仏教的神道とも神仏的儒学ともいえるものになっていった。林羅山・松永尺五・那波活所・堀杏庵らの門人を育てて後世の人材を育てた。
 人材は育てたが、こうした惺窩の思想が徳川イデオロギーの基盤になったとは考えにくい。なかんずく惺窩の朱子学解釈が徳川イデオロギーになったとはさらにいいにくい。惺窩はむしろ、のちの徳川社会にとっては有効な使い道となったわけではあるが、「聖人の道」についての考え方を拓いたといったほうがいい。オームスはそのへんのことを指摘してはいないが、のちに徳川の世が歪んでいったとき、「聖人の道」が失われていると見えたからこそ、江戸後期に陽明学水戸学が燎原の火のごとく広がったわけだった。

 林羅山も最初は仏門(建仁寺)にいた。ただ惺窩とちがって仏教に反発して独力で朱子学にとりくみ、22歳のときに惺窩の門に入った。翌年、二条城で家康に謁見して博識を披露して、2年後には秀忠に講書した。
 以降、家康・秀忠・家光・家綱の将軍4代に仕え、『寛永諸家系図伝』『本朝通鑑』などの伝記・歴史の編纂、「武家諸法度」や「諸士法度」などの撰定、朝鮮通信使の応接、外交文書の起草などに関与した。このように羅山は幕政に深くかかわったのだが、このことと幕府が羅山の朱子学を御用イデオロギーとしたということとは、直接にはつながらない。羅山は僧侶の資格で任用されていたのだし、そのくせ排仏論を展開していたわけである。また惺窩が陸王学(陽明学)にまで視野を広げていたのにくらべると、羅山は朱子の理気哲学に没入していて、理屈ばかりを広げたがった。
 むしろ羅山は徳川時代の最初のエンサイクロペディストだったのである。『神道伝授』や『本朝神社考』では朱子の鬼神論にもとづいて神仏習合思想を批判し、『多識編』では中国本草学を紹介し、『孫子諺解』『三略諺解』『六韜諺解』では兵学を読解し、『怪談全書』では中国の怪奇小説の案内を買って出た。このように、羅山はあまりに広範囲に学術宗教を喧伝したので、のちに中江藤樹や山崎闇斎らに批判されたほどなのだ。
 だから羅山も、徳川イデオロギーのシナリオを書いたとはいいがたい。羅山が上野忍岡の私邸に塾を開き、その門人が多く輩出したこと、それがのちに昌平坂学問所の基礎になったこと、その私邸の一角に徳川義直の支援で孔子を祀る略式の釈奠(せきてん)をおこなったこと、こうしたことが羅山の御用イデオロギーの準備に当たったというのが、過不足ないところであろう。
 しかし羅山の嗣子となった林鵞峯になると、羅山との共著の『本朝通鑑』、その前の『日本王代一覧』などで、「日本」の正統性が奈辺にあったことを問うて、幕府のオーソドキシーとレジティマシーがどうなればいいか、その突端を開いていた。ここには徳川イデオロギーが少しだけだが、萌芽した。

 惺窩や羅山にくらべると天海は、あきらかに家康の神格化のために特殊なイデオロギーを注入し、駆使した。
 南光坊天海が駿府で家康に仕えたのは73歳のときである。そのため天海の影響は象徴的か暗示的なものだと見られがちなのだが、それから30年近く、100歳前後の長命を誇ったことを含め、もし誰かが最初の幕閣イデオローグだったとするなら、天海こそが唯一その立場にあったはずなのだ。オームスもそう見ている。
 天海の生涯は妖怪変化というほどに、怪しくも妖しく、変化にも紆余曲折にも富んでいる。だいたい出身がはっきりしない。蘆名氏の支族三浦氏の出身といわれ、会津を本貫としているようだが、前半生の詳細はまったくわからない。少年期に台密を修め、14歳から諸国の霊山名山を遍歴し、会津の蘆名盛重に招かれてしばらく滞在し、さらに常陸の不動院や関東の諸寺に止住しながら50歳近くに比叡山に入ったという、はなはだ漠然とした経歴が浮かび上がるだけなのだ。その比叡山に入ったところが東塔の南光坊だったので、ともかくは南光坊天海なのである。
 家康に出会ってからは、川越の喜多院の住職や下野の日光山(輪王寺)の主宰を任された。こんな得体の知れない怪僧であるにもかかわらず(いやきっとそうだからこそ)、家康は天海がもたらす「山王一実神道」の理念と論理が気にいった。

 そもそも最澄が比叡山を開創したころは、京都の鬼門には「ヒの信仰」(日枝=比叡の信仰)とともに、地主神の二宮権現と大三輪明神を勧請した大宮権現の、山王二聖信仰というものがあった。
 それが円珍の時代に山王三聖信仰となり、明達が平将門の乱のときこれを日吉山王に祈って調伏したことで有名になった。『梁塵秘抄』ではすでに山王の神々の本地仏が謳われている。中世、この山王信仰が神道説として『耀天記』に採り入れられ、天台教学との結びつきを強くした。さらに南北朝期に慈遍が『天地神祇審鎮要記』を著して、そこへ伊勢神道や両部神道を入れこんだ。
 この山王神道説をもとに、天海が「山王一実神道」を創唱してみせた。天海は、家康を山王の真実(一実)をあらわす東方の権現とみなして東照大権現とし、その大権現はそもそも天照大神を本地とするという論理をつくりあげた。かつて吉田神道が本地仏と垂迹神の関係を逆転させて反本地垂迹説を唱えて成功したように、天海は天照大神に治国利民の法を授けたのが山王権現であり、その山王権現を東において受け取って、それを全国に照射しているのが大権現としての東照家康であるというふうに、畏敬の“筋”を組み立てたのだ。
 これはいかにアクロバティックであろうとも、家康がどうしてもほしかった神格化のイデオロギーだった。これこそは信長も秀吉もうまくいかなかった神格の理論付けなのである。しかし家康は死ぬ。
 けれども、このアクロバティックな組み立ては、徳川イデオロギーの起源として、以降200年以上続くことになった。家光が家光の墓所を決めるにあたって、天海の案に従って日光を選び、そこに東照宮を建立して大権現を祀り、さらには日光二荒山に眠っていた補陀落観音浄土のゲニウス・ロキと習合させてしまったからである。東照権現は古来の土地と結びついたのだ。

 こうして天海は、皇室仏教としての天台比叡のイデオロギーを徳川家のイデオロギーに転換してみせたのである。山王一実神道が背景に天台を抱えていたこと、すでに中世にそこに伊勢神道が交じっていたこと、家康が京都ではなく東方に日本の拠点をおこうとしていたこと、これらを天海は見抜いて仕立てたイデオロギーだった。
 このため京都の鬼門に位置する天台比叡を江戸の鬼門にあたる上野に移し、そこに"東の叡山"としての東叡山寛永寺を建立したことも天海のプランになっていた。いま、われわれが見る上野の不忍池は、比叡から見る琵琶湖に当たっている人工池なのだ。
 オームスは、これによって京都は江戸に、朝廷は幕府に、伊勢は日光に置き換わったのだと見ている。むろん事態は容易にそのようになっていったわけではないのだが、天海が注入した権現思想は、かつて信長が望んだ「権力の概念化」の実現そのものとなっていった。

 本書は、徳川イデオロギーが幕府の命令によって形成されたというふうには書いてはいない。徳川イデオロギーは、惺窩の「聖人の道」や羅山の儒学や天海の山王一実神道をブレンドさせながら、家康から家綱におよんだ江戸初期に、のちの200年あるいは300年にわたって各所で唸りをあげるイデオロギー戦線のための、最初の根をはやしたのだ言っている。
 この根はいろいろなところに張りめぐらされた。惺窩の門下からも、羅山の門下からも、また天海の門下の戸隠に拠点をおいた乗因からも、根がはえた。むろん中江藤樹からも熊沢蕃山からも貝原益軒からも根がはえた。そこでオームスがとりあげるのは山崎闇斎である。

 もともと幕府がほしかったのは朱子学がもつ「上下定分の理」というものである。そこに語られる「名分」こそ、徳川社会の原理と合致した。羅山はそれを説くには博学すぎた。鵞峯はなかでは「上下定分の理」を説いてくれそうだったが、まだ甘かった。こうしたときに登場してきたのが山崎闇斎だったのだ。
 闇斎については第796夜にもふれておいたので、ここでは目くじらたてた議論の対象にしないことにするが、そのときは闇斎の弟子の佐藤直方と浅見絅斎のほうを重視したので、今夜はそこそこの案内をしておくにとどめる。ただし、オームスは闇斎こそは徳川イデオロギーの最も重要なところを用意したと言っている
 ちなみに、オームスはもう一人、鈴木正三をあげている。正三は家康の家臣の鈴木重次の長男に生まれた禅僧で、仮名草子の作家としてスタートを切るのだが大坂夏の陣のあとに旗本となって神田駿河台に住み、そのころまったく冴えなかった仏教思想をなんとか浮上させようとした。その禅風は「仁王勇猛の禅法」と、その念仏は「果たし眼の念仏」とよばれ、ぼくはかなり好きな禅僧なのだが、オームスが言うような意味で徳川イデオロギー形成に寄与したというふうにはおもえないので、割愛する。
 江戸初期は、沢庵和尚もその一人だが、こういう傑僧はそこかしこにいたはずなのである。けれどもそれをもって仏教イデオロギーの起爆とするには当たらない。かれらはいずれもソリストだった。仏教を国につなげようとは思っていない。

 山崎闇斎は京都の針灸医の子として生まれた。賢くはあったけれどもかなりの乱暴者だったので、両親がほとほと手を焼いたようだ。そこで7歳で比叡山に入れられ、15歳で妙心寺に移った。ところがなかなか仏教になじまない。羅山もそうであった。江戸時代初期とはこのように、やっぱり仏教がまことに冴えなかった時期なのである。
 その後、闇斎の人生を変える出来事がおこる。闇斎の風変わりなところに目をつけた土佐の一公子が、戯れに土佐の吸江寺に引き取ったのだ。闇斎はそこで小倉三省や野中兼山に出会って衝撃をうける。武士でありながら、儒学を修めていた。とくに兼山が朝鮮朱子学に傾倒して集書していことに感動した。闇斎は居ても立ってもいられずに、土佐南学派の谷時中を紹介してもらって、飛びこんだ。ついに全身で朱子学に服したのである。正保4年には『闢異』を書いて排仏尊儒をマニフェストする。
 その闇斎がたんなる儒者としてではなく、徳川イデオロギーの儒者としてどこが注目されるのかというと、寛文5年から保科正之に招かれてその師をつとめたことにある。

 保科正之は徳川秀忠の三男で、家光の異母弟にあたる。寛永期に信濃の高遠藩を、ついで山形藩を、さらに会津藩の藩主となって幕藩体制成立期の名君と称された。
 家光の死後は遺言によって4代家綱の将軍補佐となり、その後の10年にわたる幕政をほぼ中心的に仕切った。その保科正之を闇斎が指導した。いわば家康以来の朱子学路線はここにおいて、やっと初めて現場の幕政と結び付いたのだ。
 ついでながら、徳川幕藩体制はさまざまな要素が組み合わさって確立したものであるが、そこに3人名君と藩政モデルが出現したことが見逃せない。すなわち水戸の徳川光圀、岡山の池田光政、会津の保科正之だ。こではふれないが、池田光政の「花畠教場」からは、かの熊沢蕃山が出た。

 保科と闇斎の関係には、さらに特筆すべきことがある。家臣の服部安休が二人を吉田神道の奥義継承者であった吉川惟足に引き合わせたことだ。二人は急速に『日本紀』を、日本神話を、吉田神道を、さらには日本の秘密そのものを学ぶ関係になる。
 ここで闇斎が飛躍する。朱子学と神道をドッキングさせたのだ。実はそれ以前から、闇斎は伊勢に詣でたおりに名状しがたいインスピレーションを何度かうけていた。寛文9年には度会延佳や大宮司精長から中臣祓もうけていた。しかしそれはインスピレーションであって、まだ論理でも思想でもなかった。また朱子学とも無縁のものだった。吉川惟足の説明は徹底していた。それを聞いているうちに、闇斎はひらめいた。伊勢神道の奥にひそむものを朱子学の論法によって踏み分けられるのではないか。
 こうして登場してきたのが「垂加神道」である。もともと闇斎の朱子学には「敬」と「道」が生きていた。その朱子学のコンセプトと神道の奥義にひそむものが接近した。闇斎は自分にひらめく考えを「神垂祈祷・冥加正直」の「垂加」を採って、「垂加神道」と名付けた。それは闇斎の霊社号ともなる。吉川惟足が、卜部派の神道には「神籬磐境の伝」(ひもろぎうなさかのでん)を得たものに生きながら霊社号が降りるという秘伝があると言ったためである。ちなみに保科正之もこのころ「土津」(はにつ)という霊社号を授けられている。
 闇斎はたんに神秘主義に走ったわけではない。『神道五部書』に狙いを定めて、これを解読していった。そこに「土金の伝」を見いだして、それを「敬」や「忠」に読み替え、それをもって北畠親房の『神皇正統記』に当たって、日本の「道」がどのように系譜されてきたかを調べた。また『大和小学』では、それらの論法で日本神話を解読してみた。そういうことのすべてが垂加神道なのである。
 しかし、これが中国の朱子学とはとんでもなく離れたものになっていることはあきらかである。ただ日本の神々の畏敬に惚れていっただけではないかとも見える。しかし、そうでもなかったのだ。
 闇斎は朱子学を日本が咀嚼するとは、中国の事例でなくて日本の事例によらなければならないと確信していたのである。

 垂加神道をこれ以上詳しく説明することは遠慮しておくが(オームスはかなり分け入っている)、こうした保科正之と山崎闇斎が神道にまで入りこんで、徳川イデオロギーとして何を準備したかについては、ちょっと確認しておかなくてはならない。
 思想としては、ここに神儒一体のイデオロギーが出現した。中身がどうであれ、これはまちがいない。次に、中国の朱子学を日本の朱子学にするための、かなり異様な方法が提案された。方法は異様であるが、ここには藤原惺窩の「聖人の道」は日本の為政者の「聖人の道」でなければならず、それは日本の神々の垂迹と合致していなければならないという方針が貫いた。
 それとともに、そこには上から下までの「名分」が通っていなければならないものだった。その名分が通っていく"通り"は、「垂加」するものなのである。この考え方もあまりにも神秘的でありすぎるけれど、そもそも「仁」も「徳」も儒学はそのようなスピリットにもとづいて組み立てられたものなのである。むしろ闇斎はそのスピリットの論理を日本にリロケーションするために儒学と神道を抱き合わせたのだった。
 こうした特別なイデオロギーは、当然ながら徳川社会の理論をつくろうとする者に影響を与えるか、ないしは反発を招くはずである。案の定、闇斎のイデオロギーには批判も出た。しかし、このことはたいそう象徴的な出来事であるのだが、寛文6年にこういうことがおきたのだ。保科正之が闇斎を理解しない山鹿素行を幕府内の反対を押し切って、江戸から追放してしまったのである。保科が『武家諸法度』の改訂を完成した3年後のことだった。
 名君の誉れ高い保科としては、かなり思い切った処置である。しかし、このことこそ徳川イデオロギーがいよいよ実践されていった証しだったのではないかと、オームスは見た。まさに元禄の世になって、幕府は山鹿素行の思想に従った赤穂浪士を断罪したわけである。

 一言、加えておきたい。闇斎による垂加神道の捻出は、その後にも大きな影響を与えた。ひとつは朱子学(儒学)から古学や国学が派生する方法のヒントを与えたことである。もうひとつは、江戸の科学が中国の本草学や西洋の科学を移入したときどうすればいいかというヒントを与えた。たとえば本草学は中国の産物(鉱物・動物・植物)の詳細な説明でできているのだが、それをまるごと輸入しても、日本の産物にはどこかあわないことが出る。それをどうするかというような問題だ。
 これは天文学でも同じことで、日本の空はバビロニアや中国とは異なっている。湿気の多い日本では星は見えにくく、占星術も成り立たない。また、暦法も変わってこざるをえない。ここに闇斎の方法を学ぶヒントがあった。実際にも日本最初の天文学者ともいうべき渋川春海は闇斎の方法に気づいて、日本独自の「貞享暦」を考案した。
 ついでに、もう一言。垂加神道が逆の作用をおよぼして、新たなイデオロギーを生んだという例も少なくない。その代表的なものが「復古神道」である。
 復古神道というのは、仏家神道(両部神道など)・社家神道(吉田神道など)・儒家神道(垂加神道など)のような外来思想の影響を交じらせた神道ではないもの、古来の純粋な信仰にもとづいた神道(そういうものがあっとしてだが)をさすときにつかわれる用語で、狭義には平田篤胤やその後の大国隆正の神道思想をさすのだが、広くは契沖・真淵・宣長らの神道思想をさすときもある。
 島崎藤村が『夜明け前』で「或るおおもと」を問うたときは、この古来の「おおもと」を問うたわけなのだ。

附記¶本文にも書いたようにヘルマン・オームスの分析は、いまなお議論の渦中にある。あまりにも安易に、また楽観的に徳川の社会思想を見ているのではないかという批判も少なくない。その議論がどういうものであるかは『シンポジウム「徳川イデオロギー」』(ぺりかん社)を読まれるとよい。
 徳川時代の儒学思想の理解は、いずれにしてもかなり難度が高い問題である。たとえば今夜はオームスに従って山崎闇斎をとりあげたけれど、その闇斎から見れば林羅山や山鹿素行が問題になるのだが、これは逆の観点からも見られるわけであって、どうもいちがいに俯瞰できる視点が欠けたままなのである。俯瞰のためには、いまなお源了圓の『徳川思想小史』(中公新書)から子安宣邦の『江戸思想史講義』(岩波書店)までを、田原嗣郎の『徳川思想史研究』(未来社)から澤井啓一の『〈記号〉としての儒学』(光芒社)までを、一気に駆け抜けるしかないだろう。
 なお、天海の山王一実神道についてもあまり研究はないのだが、いまのところは曾根原理の『徳川家康神格化への道』(吉川弘文館)が詳しい。闇斎については原典に当たるのか、「日本の名著」(中央公論社)の現代語訳に当たるといいだろう。サブテキストとしては岡田武彦の『山崎闇斎』(明徳出版社)が詳しい。ついでに"おみやげ"を一冊。秋田裕毅の『神になった織田信長』(小学館)という一冊がある。日本人には『ダ・ヴィンチ・コード』(角川書店)よりこちらのほうがおもしろいはずだ。