アンリ・ポアンカレ
科学と方法
叢文閣 1925 岩波書店 1926
ISBN:4003390229
Henri Poincare
Science et Methode 1908
[訳]吉田洋一

 大正15年(1926)にこの本が翻訳されたとき、日本に最初の科学哲学ブームがおこっていた。とくに田辺元は西田哲学を継承しながらも、必死に量子力学に挑戦し、ハイゼンベルクの「不確定性」などの難解な概念にとりくもうとしていた。
 その模索にはどこか理想的すぎるところとあやしいところがあった。科学の哲学的断片にすがりすぎていた。この印象は、のちのニューエイジ・サイエンスにも見られたものとやや同質のもので、なぜそうなったかというと、かれらにはハイゼンベルクはいたがガウスがいなかったし、アインシュタインはいたがミンコフスキーがいなかったのだ。そしてなにより、ポアンカレがいなかったのである。

ポアンカレはぼくの科学全般のラティオを示す出発点だった。最初に『科学と方法』を読み、ついで『科学と仮説』を読んだ。当時は後者のほうが刺激的だったのだが、その後、読みかえす機会があって、やはり『科学と方法』はヨーロッパの科学と哲学のデカルト的正当性を踏まえていながら、たんにその延長にとどまらない科学的思考をのばすにはどうすればよいのかという根本問題にふれていて、ずっと基本的な気がしてきた。とくに第二篇「数学的推理」はぼくを何度もそこへ立ち戻って考えさせてくれた基本的思索の出発点になっている。
 そのころ(25歳くらいのころのことだが)、ぼくは19世紀末から20世紀初頭の科学にどっぷり浸かりたくて、やたらにその周辺にはまっていた。
 最初はフリードリッヒ・ガウスであった。曲率論に酔い、非ユークリッド幾何学に溺れた。その勢いでフェリックス・クラインの「エルランゲン・プログラム」で多様体の幾何学に分け入り、そこからトポロジーをちょこちょこ齧るようになった。それがドゥ・ブロイの『物質と光』をボロボロの古本(岩波新書の赤本)で読んでから急にその前史が知りたくなって(第349夜)、物理学のほうへ転戦していった。まずはエルンスト・マッハの力学を(第157夜)、ついでローレンツ短縮とミンコフスキー時空連続体を、それから前期量子論のたぐいを、そしてアインシュタイン著作集に入っていった(第570夜)
 途中、アルフレッド・ホワイトヘッドの『科学と近代世界』や『自然という概念』を読んだのがよかったらしく(第995夜)、この探検では、つねにどきどきするような収穫のよろこびが伝わってきた。そして、いよいよポアンカレだったのである。これでやっと数学の快感が見えた。なんだ、ポアンカレにはすべてが予見されいたのかという驚きである。ぼくはすぐに「数学的自由」という造語をつくったほどだ。そのあとは勇んでヒルベルトとコーンフォッセンの『直観幾何学』に突入していったのかとおもう(第133夜)

 第一次大戦下の渦中、 イギリスの将軍がバートランド・ラッセルにこんなことを聞いた。「いま、フランスで一番偉大な人物は誰なのか」。ラッセルは言下に「ポアンカレです」と答えたという。将軍がフランス共和国大統領のレイモン・ポアンカレのことかと思って、「ほう、あの男がね」という反応をしたところ、ラッセルは「いや、数学者のアンリ・ポアンカレが偉大なんです」とまたまた言い放ったという挿話がある。アンリはレイモンの従兄だった。
 数学者が一国を代表する最も偉大な人物であるとされるというのは、きわめてめずらしい。アルキメデスかガウス以来のことではないかと思う。それを皮肉屋をもって鳴るラッセルが持ち出したというのも、めずらしい。ポアンカレはどこが偉大だったのか。いまならラッセルに代わって、いろいろ"解説"できる。
 ポアンカレは純粋数学であれ応用数学であれ、ほとんどの数学領域を独自にカバーできた最後の数学者だった(数学の新局面を告げた論文が500を超えている)。今日では、いわゆる数学四部門(数論・代数学・幾何学・解析学)のうちの二つをカバーできる数学者なんて、まったくいない。まして数学四部門に高度な研究を質的に残せるということなど、夢のまた夢になってしまっている。それをポアンカレはやってのけた。
 最初にポアンカレを有名にしたのは楕円関数の一般化だった。ふつう、このことには数学史ではたいてい「絢爛たる成果」というふうなおおげさな形容詞がつく。1890年、26歳のときである。微分方程式論からの"変化"だった。が、絢爛な成果はそのあともずっと続く。位置幾何学や位相幾何学の創始者であって、複素変数関数論の立役者であった。もっと有名なのは、四体問題やフェルマーの定理などの難問を提出したことだ。複雑系の科学やカオス理論の予見者でもあった。
科学史が口癖のように惜しむのは、もしポアンカレがもう30年おそく生まれるか、もう20年長生きしていたらアインシュタインの相対性理論の大半を手掛けていただろうことである。しかし、そんなことを言っても詮ないことである。だいたいラッセルが説明するまでもないと断じた評価を"解説"するのが野暮なのだ。ポアンカレを洒落て解説したいなら、大学で数学に抜きん出る前に鉱山学校にいて鉱山技師をめざしていたということや、土星の輪に惹かれてその安定性を夜な夜な考えたということではあるまいか。

 さて、ぼくが『科学と方法』で感服したところを思い出しておきたい。
 ポアンカレは自分でフックス関数と名付けたものをいじくっていた。この関数に類似なものはないことを証明しようとしていた。ところがいくらやっても証明の糸口がない。だいたいの予見はあるのに証明に進めない。ミルクを入れないコーヒーばかり飲む15日ほどがたって、ある夜、超幾何級数から誘導されるフックス関数の一部類の存在を証明すればいいのだと気がついた。そこでデータフックス級数というものを"創造"してみた。
 けれどもそれをどう動かすかというところで、多忙に紛れはじめた。アタマの中からも数学的課題が消えていた。それなのに旅先で乗合馬車に乗ろうとしてステップに足をかけた瞬間に、フックス関数を定義するために用いた変換は非ユークリッド幾何学の変換とまったく同じであるという、なんら推理のプロセスに保証もない考えが浮かんだのだ。馬車の中に入ると乗り合い客と別の会話がはずんで、そのことを考えてみる余裕はなかった。
 しばらくたって、これらのことを振り返る機会がやってきた。ポアンカレは猛然とすべての難関を攻略するための作業にとりかかる。あやしい問題を次々に片付け、あと一つの難関を攻め落としすればすべてが解決というところにさしかかったとき、今度はまったく予期せぬ座礁にのりあげた。それとともに、ポアンカレは兵役に従事せざるをえなくなり、ここでふたたびアタマの中からこの問題は去ってしまった。
 それがある日、ある大通りを横断しているときにすべてが蘇り、最後の困難を突破する解法がひらめいたのだ。
 ポアンカレは書いている、「突如として啓示を受けることはある。しかしそれは無意識下で思索的研究がずっと継続していたことを示していることなので」。ポアンカレはこのことを「数学的発見における精神活動の関与」と呼んだ。ぼくがポアンカレに参りはじめたのは、ここからだったのだ。

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