才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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戸井田道三の本
こころ・かたち・みぶり・まなざし

全4冊

戸井田道三

筑摩書房 1993

編集:今福龍太
装幀:安野光雅

こんな話を書いている。1964年の東京オリンピックをテレビで見ていて、どうしても言いたいことが出てきた。金銀銅のメダルをはこぶ女性たちが振袖を着ていたことだ。スタジアムのアンツーカーの上を振袖を着た女性たちがよちよち歩いている姿は誰の演出か知らないが、これほど不似合いで、いやらしい感じはめっ・・・

 こんな話を書いている。1964年の東京オリンピックをテレビで見ていて、どうしても言いたいことが出てきた。金銀銅のメダルをはこぶ女性たちが振袖を着ていたことだ。
 スタジアムのアンツーカーの上を振袖を着た女性たちがよちよち歩いている姿は誰の演出か知らないが、これほど不似合いで、いやらしい感じはめったにあるものではないと思った。不釣合いなのではなく、滑稽なのだ。大まちがいなのだ。
 こう綴ってきて、戸井田は次のように締めくくる。「私は襟をただすに対して、尻をまくることをぶつけたい」。

 1958年上梓の『きものの思想』(毎日新聞社)である。日本エッセイストクラブ賞をとった。
 この本での戸井田は、着物そのものの素材や仕立てや歴史をほとんど語っていない。ひたすら日本人がどのように着物を着てきたかということを自分の経験をまじえて語る。それがおかしくなってきたことを綴った。
 電話交換手や会社の受付嬢たちが正月になると訪問着で装っていることにも、PTAの茶話会の母親たちにも野次をとばした。とくに成人式はかなり醜悪だ。全員が襟元にふわふわのショールを巻き付かせる。振袖がダメなのではない。着物で歩けず、着物で振る舞うということができていない。こんな日本なんて見たくないというのだ。
 ぼくも同様だ。女子アナやタレントたちが正月番組で赤い毛氈の段々で、訪問着や振袖で並んでいるのを見るのは、なんともうんざりさせられる。
 ずっと以前から、日本人のきもの感覚はかなりずたずたになっていた。『きものの思想』はそんな風潮に「襟をただせ」と言ってもむだだから、尻をまくってみせたのだ。戸井田は日本人に文句をつけたかったのだ。同じことは、バーナード・ルドフスキー(486夜)の『キモノ・マインド』にも述べられている。ルドフスキーは大の日本贔屓ではあるけれど、着物を愉しめなくなった日本人には手厳しかった。
 この十年ほど、ぼくの着物を見立て、しばしば着付けもしてもらってきた江木良彦さんも、まったく同じ気持ちでこの数十年をおくってきたという。紅白歌合戦をはじめ、テレビのタレントの着付けをするたび、現状日本への怒りがこみあげて仕方がなかったと、何度も言っていた。江木さんは太地喜和子、岩下志麻、吉永小百合、宮沢りえに照準をあてている。

江木良彦氏(右)
数々の映画やCMなどに着物コーディネーターとして50年以上携わる。これまで松岡が登場するイベントや番組などでは、幾度となく江木氏に着付けを依頼してきた。[写真:自らの作品群を眺める江木氏

 戸井田道三が書くものは、ちょっと合気道や酔拳じみていて、風を孕む草木のように柔らかく、そのくせ相手をへこませる決め技をもっている。けれども、決して気負いを見せない。そこがこの人の特徴だった。
 主題に近寄る言いっぷりや話のもっていきぐあいや、相手(話題)次第でどうにもなるところが上等なのだ。最初に読んだのは『能――神と乞食の芸術』(せりか書房)だったと憶うのだが、たちまち攫われた。
 乞食のことを「おもらい」と言うけれど、なぜ乞食は「もらえる」のか。もともと「もらう」は「もる」から出た言葉で、神々を前にした饗宴の場では大いに盛られる者が必要だったので、それを神と人のあいだを動く乞食(ほかひびと)がもられる役を引き受けたのである、つまり「おもらい」をした。
 芸能というのはそうやって発生した。『翁』はシテがすっぴんで平伏するところまでは舞台と客は同じ場だけれど、シテがおもむろに尉の面(おもて)を付けたとたんに、舞台にいるほうが神になる。これは猿楽が乞食(ほかひびと)の芸能であったことを暗示する。こんな語り口なのである。

 オノコロ列島深層紀行という不思議な副題がついている『あとの祭り』(河出書房新社)という本の冒頭には、カナダの女子学生と恐山に向かう道中が綴られていて、そこで日本語の「いく」はどうもgoでもcomeでもないという問答になる。
 そのうち「ゆかし」というのは「行きたかったところ」なのか、あるいは「来たかったところ」のことだろうが、日本人はそういうことをあからさまに言いたくないところがあって、だから『伊勢物語』に伊勢と謳いながらも伊勢のことを少しも書かなくしたのではないか、本来の「ゆかしさ」「なつかしさ」とはそういうものではないかというような、まことに自在な左見右見を見せる。
 こんな調子の文章を、いったい戸井田とはどういう見者(ヴォワイアン)なのかと思いつつ、ずうっと読ませてもらってきた。
 その後、戸井田の書いたものの大半が今福龍太(1085夜)によってまとめられて、「戸井田道三の本」全4冊という結構になった。鮮やかな編集構成で、1「こころ」、2「かたち」、3「みぶり」、4「まなざし」と名付けられた。今福ならではの濃厚な解説もつく。『きものの思想』は2「かたち」に、『あとの祭り』は4「まなざし」に入っている。

『戸井田道三の本 こころ・かたち・みぶり・まなざし』
全四冊(筑摩書房) 撮影:小森康仁

本著の編集を手掛けた今福龍太氏
批評家・文化人類学者。松岡が監修するイベント「縁座」(ネットワン主催)に講師として登壇していただいた。

 戸井田は昭和63年に78歳で亡くなった。子供のころから肺結核で、人生の半ばを喀血と病床をなだめすかしてきたようなところがあった。それでも各地の芸能を見るのはがまんができず、どんな辺鄙なところにも出掛けた。大事な演者の能狂言は欠かさず見た。
 そうやって生きてきた戸井田が73歳のときに『老後の初心』という文章を、岩波の「文学」に書いた。73歳というのは、いまちょうどのぼくの年齢だ。最近読みなおして、いろいろ感じさせられた。3「みぶり」に収録されている。

 『観阿弥と世阿弥』を14年前に書いたけれど、あれは61歳のときの考察だった。そのときあたかも常識的な前提のように『花伝書』は観阿弥の考え方を、『花鏡』は世阿弥(118夜)の考え方をあらわしていると書いたものの、どうもあれはまちがっていた。世阿弥は観阿弥を背負ったのだから、それらはやはり世阿弥のものなのだ。
 跡継ぎの元雅に死なれて「一座、破滅しぬ」と嘆息した世阿弥が、佐渡に流された72歳のときに、『金島書』で金春禅竹を手紙指導していたことを思うと、自分がいまどの程度のことを書けるのかと訝ってしまう。
 世阿弥がそうなれたのは、『隅田川』に子方を出さないほうがいいだろうと元雅に言ったら、元雅はそれは私にはできませんと答えたので、「して見てよきにつくべし、せずは善悪定めがたし」(申楽談義)と応じられたような、そういう日々をずうっとおくってきたからだ。
 それは「年の功」というもので、自分には73歳のいま、この「年の功」が生きているとは思えない。世阿弥の年格好にくらべて、そんなふうに書いているのである。
 そしてこう付け加える。最近はデジタル時計が出回っていて時刻を数字で示してるけれど、それでは時刻はわかっても時間は見えてはこない。初心を忘れないためには、いつも時間がくりかえし見えていなければならない。
 自分はいま、世阿弥が『花鏡』で「老後の初心を忘るべからず」「命には終わりあり。能には果てあるべからず」と言ったことを、あらためてつくづく思い知らされている。自分はデジタル表示とはまったく無縁な人生だったのだろう、と。

 73歳の戸井田が自分には「年の功」が生きているとは思えないというのは、謙遜ではないようだ。
 能役者のように芸を積んでいないからではなく、積まなくとも戸井田ならば戸井田らしい「当分の知恵」のようなものがあるはずだが、本人としては内心忸怩たるものがあり、とくに大事なことを忘れるようになって、これでは世阿弥の忠告には程遠いので、つまりは「年の功」がないと感じるのだろうと言うのだ。
 何を感じるのか。それは、1「こころ」に収録されている『忘れの構造』(もとは筑摩書房)を読むと少しはわかる。1984年の刊行で、戸井田は1988年に亡くなったから最晩年の本だが、まことに奇妙な味がのこる話ばかりを書き綴ったロング・エッセイだ。いまはちくま文庫にも入っている。

 あるときバス停で待っていたら傍らを通り抜けていく女性がいた。互いにふっと顔を見合わせたのだが、どこかで逢った貌(かお)に思えた。出来事はほんの一瞬だったが、のちにその女性が誰だったかが気になった。そう思うと口紅の色が印象的によみがえってくる。
 いったいこういう気分になるのは何なのだろうと思い、戸井田はそこから「忘れる」とか「忘れている」という状態には、きっとそれなりの「忘れの構造」というものがあるのだろうと思う。
 いったいわれわれは何かを思い出そうとするとき、よく袋の中をさぐるようにとか、抽斗(ひきだし)の中をひっくりかえして探すとかと言うが、戸井田は自分の体験をいろいろ覗いてみて、そこにはヒキダシ型とマリモ型の二つがあると感じる。

 ヒキダシ型というのは、何かの見聞をとりあえずヒキダシの中に放りこんでおくというもので、そのヒキダシもいくつもあるので、いざ思い出そうとするとどのヒキダシも未整理なので、結局はなかなか記憶の再生と結びつかないというやつだ。
 なぜ、そうなるのか。「そのこと」をヒキダシに入れたときの刷り込みがほとんどおこっていないためで、「そのこと」が何であるかというよりヒキダシに入れたということで済ましてしまっていたことが原因だったから、忘れてしまうのである。人によっては抽斗ではなくて、棚だったり箱だったりクローゼットの中のハンガーだったりするが、まあいったんそこに投じてしまうと、なかなか所在を主張してくれない。
 ただし、こういうことは誰にでもおこることだろうから、「忘れの構造」としてはたいへんありきたりだ。

 一方のマリモ型というのは、「つながり」を忘れたくないのでマリモのようなものに託しておくというもので、マリモでなくとも糸巻きや毛糸のかたまりでもいい。メガネや鍵を忘れたのではなく、何かと何かの「つながり」を忘れないようにと思って、その毛糸の束に入れておくというやつだ。
 戸井田が挙げている例では、自分は「サルタノヒコと蜜柑」とか「鹿と海」ということを未解決な関係問題として大事にしたいのだが、当面はさっぱり見当がつかないからとりあえずマリモのようなものにくっつけて、そのまま頭の中の湖水だか水槽だかに入れておくのだという。
 なるほど、そう言われてみるとはっとする。たしかにぼくにもマリモ型かどうかはわからないが、気になる関係構造の断片を中途半端な折り紙や組み立て途中の木工細工の部品として、ごちゃごちゃの大工道具箱のようなところへ入れてきた。のちには、メモ・ダイヤグラムっぽいドローイングにしておく癖ともなって、そういう紙っぺらが何百枚とたまっている。
 これはよくいえば未然のマンダラのようなものだけれど、たまってくると、たしかにぐちゃぐちャのマリモなのである。

松岡正剛ドローイング「千夜千冊控帳」より

 マリモ型はいかにも「忘れの構造」の様相を呈しているような気がする。きっとここにもいくつものマリモやヒドラやオコゼのように形がいるはずである。
 そう推測してみると、バス停の女性は、ヒキダシ型に片付けられたのではなく、マリモ型になっていたにちがいない。そのマリモにはバス停の女性だけでなく、若い頃からの気になる女性たちがあれこれ入っているのだろう。口紅の色もヒキダシのどこかを探しても出てくるものではなく、マリモの中で他の女性たちの口元や唇とともに一緒くたになっていたということなのだ。

 そんな話をいろいろ書いていて、戸井田は「忘れの構造」にはそれなりの記憶の文化のアーキタイプかプロトタイプか、もしくはステレオタイプが投影しているのだろうという関心をもつわけである。
 なかなかおもしろい見方だった。とくにマリモ型はおもしろい。きっとわれわれの記憶の湖水には、さまざまな複合マリモや連結マリモがぷかぷか浮沈を繰り返しているのだろう。ただ、そのことと戸井田が「年の功」がないと感じていることとはうまく対応していなかった。「大事なことを忘れる」のは年齢や体験のせいではないはずであるからだ。

 1「こころ」には『日本人の神さま』という、日本の少年少女にぜひとも読んでもらいたい文章も収録されている。1980年に筑摩から「ちくま少年図書館」の一冊として刊行されたもので、のちに文庫に入った。
 これは日本の各地の生活の日々に出入りする神々の話を、日本人の「記憶の水脈」として辿ったり、浮上させたりしているエッセイふうの神さまの案内である。神話に出てくるような神々ではなくて、井戸神や石の神やイロリの神やオシラさまが主人公になる。とくに土まわりの神、つまり産土(うぶすな)の神や、水まわりの神、つまりカッパや竜神や水神さまの話が、とてもよく書けている。
 こういうものを書くと戸井田がうまいのは、日本人そのものがもっている「忘れの構造」と芸能の関係を戸井田がよくよく知っているからだ。

 ふつう、知識というものは明示的な構造のかたちをとっていて、学者や研究者はそのかたちを持ち出して教えたがるものである。戸井田はそうではなく、暗示的な構造にもとづいてどんな話もする。エクスプリシットな知ではなく、インプリシットな知の持ち出しに徹したのだ。
 そのようになっている知を、戸井田に従って出会っていると、知識は辞書的には入ってこずに、ところとごろに灯火(ともしび)がともるように感じられてくる。そのかわり、それをいざ取り出そうとすると、なかなか文脈をそろえて取り出せない。いわばマリモがいくつもかたちをあらわしてくるというふうなのだ。
 こういうものは学術的ではないし、実証的でもないので、なかなか評価されないのだが、ぼくはこのような方法で「知」というものが授受されることこそが大事だと思ってきた。どこかでピンとくればいいのだ。あっ、あの口紅の色というふうに残ればいいのだ。
 この暗示的な学習はできるだけ子供の頃からなじんでおくべきだ。現代人は大学に入ってから必ずダメになるので、とくに大学に入る前に大いになじんでおいてほしい。そのために受験制度がなくなるなら、むろんあんなものは、とくにセンター入試などは全廃したほうがいい。それくらい大事な学習感覚なのだが、戸井田はそれがうまいのだ。

 というようなわけで、今夜は戸井田道三の不思議な魅力を伝えたくて綴ってみた。どこかで戸井田の本を手にとってみることをお薦めする。
 擱筆する前に、言わずもがなの余計な話を一言加えたい。「年の功」のことだ。

 ぼくもぼくなりに歳を重ねるうちに感じてきたことがある。ただし、自分に「年の功」が出ているなどと思えたことはない。それよりも意外だったのは、歳をとるというのは突然にやってくるということだった。
 どうも最近腰が痛くなっている、老眼がひどくなってきた、世事にかまけるのが億劫だ云々というふうに、いろんなことがぽつりぽつりおこって、しだいに歳をとる実感が増していくというのではなく、急に老け込んだ気になるのだ。
 たとえば或る日に顔の皺が気になっていたとしても、そう見えたときにああ歳だなと思うのではなく、それからずいぶんたってふいにその皺が気になり、そのときは他のこともひっくるめて一挙に歳をとる。そんなふうなのである。
 突然に歳をとるまでに、人にはよるだろうが、3年とか5年とかが過ぎている。皺はそのあいだずっと似たような皺なのだが、いざ歳とったと合点したときは、その皺も歳をとる。

 能では年老いた老人の面(おもて)のことを「尉」(じょう)という。『高砂』や『蟻通』に出てくる小尉(こじょう)、『頼政』『遊行柳』の三光尉、『綾鼓』『天鼓』『木賊』(とくさ)などの阿古父尉(あこふじょう)など、いろいろがある。いずれも皺だらけで、眼もくぼんでいる。
 皺尉(しわじょう)という能面もいくつかあって、これは一説には玉手箱をあけた八千歳の表情をあらわしているという。
 しかし、これらの尉たちは、いずれも深い。ときに神の化身であったり、何もかもを知り尽くしていたり、植物の精だったりもする。そのルーツは「翁」(おきな)としての「年の功」の象徴でもあったのである。 
 ぼくはかつて観世寿夫(1306夜)さんに翁面を見せてもらって、驚いた。白式尉も黒式尉も深々と笑っている。まことの永遠なのである。父尉は微妙な笑みをたたえていた。まったく何も言えなくなったことを憶えている。

 わかりやすくするために老眼や皺や能面の話をしたけれど、実はこれが記憶をめぐる「文化」や「文明」の問題に大きくかかわっている。歳をとると、そのへんのことが自分を包んでいると思うようになるからだ。

 きっと戸井田もしだいに歳を感じながらそのことを実感したのだろうと察するが、ぼくが思うに、文化や文明に関する文章というものも歳をとる。古くなって歳をとるのでなく、かつて気になった文化の皺や文明の視力が、実は重大な意味をもっていたことに気がつくのだ。
 もしそうだとすると、「年の功」にはそういう感じ方ができるということも含まれるのではないかと思える。それは「始原の淵」から数えた文化と文明の「年の功」なのである。

⊕ 戸井田道三の本1〜4⊕

 ∈ 著者:戸井田 道三
 ∈ 発行所:筑摩書房
 ∈ 発行者:関根栄郷
 ∈ 本文印刷:三松堂印刷
 ∈ 製本:積信堂製本
 ∈ 装丁:安野光雅 
 ⊂ 1993年4〜10月 第一刷発行

⊕ 『こころ (戸井田道三の本1)』⊕

 ∈ 一期一会
 ∈ 生きることに◯✕はない
 ∈ 忘れの構造
 ∈ 食べることの思想
 ∈ 日本人の神さま

⊕ 『かたち(戸井田道三の本2)』⊕

 ∈ きものの思想―えりやたもとがものをいう
 ∈ 染と織 文化の基底にあるもの
 ∈ 摺染のみだれ
 ∈ 自宅も現場 妹の力
 ∈ 能芸論
 ∈ 観阿弥と世阿弥

⊕ 『みぶり (戸井田道三の本3)』 ⊕

 ∈ 老後の初心
 ∈ 演技―生活のなかの表現行為
 ∈ 能―神と乞食の芸術
 ∈ 狂言―落魄した神々の変貌

⊕ 『まなざし (戸井田道三の本4)』 ⊕

 ∈ 木綿の夜具地
 ∈ 青衣の女人
 ∈ 日本人と色
 ∈ 自手仕事の現場―日本染織紀行
 ∈ まんじゅうこわい
 ∈ あとの祭り―オノコロ列島深層紀行

⊕ 著者略歴 ⊕

戸井田道三(といだ・みちぞう)
1909年東京生まれ。早稲田大学国文科卒業後、中央公論社編集部に勤務したが、その後、病をえて長い療養生活に入る。民俗学、人類学を援用した能や狂言の考察で知られる。1954年より毎日新聞の能評を担当、のち映画評もおこなった。1988年3月24日没。