父の先見
東日本大震災
仙台学vol.11
有限会社荒蝦夷 2011
編集:土方正志
一冊の薄っぺらな雑誌を手にした。
「仙台学」特別号だった。
東北に縁のある書き手たちが
大震災後の心境と見解を寄せていて、
この1カ月の3・11ものでは、
他には見られぬエッセイで埋まっていた。
モノクロ写真もいい。体温がある。
発行社の名を有限会社「荒蝦夷」という。
ぼくの勝手な東北感傷が吹っ飛んだ。
陸奥の歴史発掘の合いの手として、
この一冊の声を千夜千冊しておきたい。
連休中にやっと東北の被災地に行ってきた。三県の地図と新聞の切り抜きコピーの束と、吉村昭の文春文庫本『三陸海岸大津波』、平凡社ライブラリーに入った北山茂夫の『大伴家持』、川西英通の中公新書『東北』『続・東北』の4冊を持って、一人で行った。
家持を持っていったのは、この歌人が陸奥の按察使(あぜち)鎮守将軍として、また持節(じせつ)征東将軍として多賀城あたりに3年半を過ごして、なんとも名状しがたい残念をかこち、そこで68歳で死んでいたからだ。68歳はぼくの今年の年齢なのである。
堅い長靴を履いて、ポケットの多い上っぱりを着て、言葉にならない気持ちを鞄に入れて、異貌の土地を歩くのは初めてだった。
慰問でなく、救済ボランティアでもなく、仕事でもない。なんらのアポイントもなく、ただただ自分の胸に蟠る宿題の端緒に着手するためだけの、勝手な出立だった。できれば車を駆ることもでき、ぼくのことをよく知っていて、艱難突破のエネルギーもある和泉佳奈子を連れて行きたかったが、彼女は南三陸町のお寺での実のおばあちゃんの葬儀に行っていて、日程がふさがっていた。
結局、こそこそと準備して、3・11以降の「陸奥(みちのく)の現在史」を浴びる感傷を慌ただしく確かめるだけの目的で、出掛けた。なんとなく後ろめたかったけれど、ともかくも行く以上はできるかぎり北から入りたかったので、へたくそな計画をたて、東北新幹線の新花巻から釜石線で釜石に入った。
途中の遠野には渋谷恭子がずっと老人介護を尽くしていることもよくよく承知していたが、あえて連絡しなかった。ぼうっと早池峰(はやちね)の峯を眺めた。20年ほど前に訪れた大祭が懐かしい。「はやちね」はアイヌ語のパヤチニカだったか。
釜石駅に降り立って、突然、ドキンとしてきた。得体のしれない胸騒ぎがやってきた。町に向かい港に出てみると、光景がぐにゃりと動顛して、悪意の跡がそこかしこでまだごそごそ動いている。胸に津波が押し寄せてきたのだろうか、動悸が強くなってきた。
この海を少し北に向かえば多くの人命を呑み干した大槌町であり、そのそばに井上ひさし(975夜)さんが“別国”を描いた吉里吉里がある。そのもっと先が、憶えば45年ほど前に小岩井牧場の帰りに思いついて、山田線を賢治の列車に見立てて立ち寄った海鳥が鳴く宮古の漁港である。
その3年後だったか、平泉や衣川をうろうろして、水沢から黒石寺に寄ってみたことがあった。その蘇民祭の裸参りを毎年指導していたのは、ぼくに何度も熱烈な手紙を書いてきて、そして昭和天皇が亡くなった翌日に割腹自害をしたS氏だった。そういうこと、しばしば過(よぎ)ったけれど、今回はそういう一刻にはまったく向えない。
釜石から45号線の浜街道を下っていけば、かの大船渡と陸前高田の惨状が歴然としてくるのだろうが、三陸鉄道の車窓からは南嶺や小石浜が近望できた程度だった。それでも盛駅で乗り換え時間が少しできたので、大船渡の近くを見た。どこもかしこも、ぺしゃんこである。
瓦礫という言葉では、とうてい何も言いあらわせない。瓦礫は映像や写真で見るのとはちがって、異臭の物体群なのだ。解体の現場なのだ。地球のくすぶりの逆上なのだ。
大船渡線が小坂から陸前高田を過ぎると、「こんなふうに無作法に来るべきではなかった」という気がしてきて、困った。光景に主語を呼びこめない。主語だけではない。そこに動いていたはずのすべての動詞が受け身に突き刺さってくる。
このあたりから、見知らぬ方々の協力を得ることになった。とても一人では太刀打ち不可能なのだ。
気仙沼は、その、いくつかの大事な主語がまさに根こそぎ失われ、大半の秩序が凌辱されていた。病院も壊れた。気仙沼の地区唯一の本吉病院というところに行ってみたが、ここは1階に2メートル近く泥水が浸水して、レントゲンや検査機器の大半が流れていった。院長は震災9日目に机の上に辞表を置いて姿を消した。泥水を除去したのは病院再建を願う住民たちだったらしい。
足も地につかず、喉もからからになりながら塩釜に着くと、ここは港湾が上下に撹拌され、その隙間から早くも日常が新芽のように噴き出ていた。漁港というのは気丈夫なものなのだ。気になって陸奥一之宮でもある鹽竈(しおがま)神社を訪れてみた。大輪のピンクの花をつける塩釜桜に「春」を求める地元の家族が何組かいるだけだった。この神社には、シオツチがタケミナカタとフツヌシを案内して海路から上陸した伝説がのこっていて、おそらく2000年の津波の記憶が刻まれているはずだ。
最後によろよろの体で回った夕暮れの福島いわき市は、なんというのか、恐ろしいほど無言で、こちらがちょっとでも気が緩めば、たちまち海鳴りに沈んだ者たちの怒号が聞こえてきそうだった。休日のせいもあってだろうが、海岸からそれほど遠くない学校が不気味なほど静まりかえっていた。
どの地でも短歌と俳句を詠むことだけを心がけてみたけれど、まだ推敲する気にさえなっていない。いずれ詳しいことを書く日もくるだろうものの、いまはこの程度なのである。
それより今夜は、塩釜で入手して帰りの車中で読み耽った「仙台学」11号の、「東日本大震災」とだけ銘打たれた4月26日特別号の数々の文章のうちから、いくつかを紹介しておきたい。この雑誌を刊行している版元は「荒蝦夷」(あらえみし)という。それだけで十分だ。立派だ。“中央に屈服しなかった者たち”の意味である。
冒頭は赤坂憲雄(1412夜)が書いている。4月初旬に国道6号・陸前浜街道を北上して塩屋崎灯台をめざした途中の瓦礫と光景と初老夫婦のことを語り、これは「置き去り」だと感想している。そうか、なるほど、「置き去り」か。
その1週間後、赤坂のもとに南相馬市の避難所ではたらいている友人が携帯メールを寄せてきた。国の「復興」はあまり感じのいいものじゃない。「復(ま)た同じ過ちを繰り返すのではなく、“再生”しなければならないのです」とあったという。
やはり「復興なんて、誰が言ったんだ」と怒っているのは、ルポライターの山川徹だった。山形の上山生まれで、大学を仙台で送った。東京に拠点をおいて仕事をしていたが、3月13日の夜、被災地に向かった。南三陸志津川、石巻、気仙沼、女川、陸前高田、大船渡‥‥。惨状いちじるしい被災地をすべてまわっている。「慟哭する人」にも初めて会った。そして、感じた。「復興」なんて、自分たちの不安を和らげるだけのための言葉じゃないか。
『ゴールデンスランバー』で山本周五郎賞をとった作家の伊坂幸太郎は、仙台に暮らしている。3・11の瞬間も仙台駅東口のビル1階の喫茶店でノートパソコンに小説を書いていた。あまりにも不気味な揺れだった。携帯がつながらず、急いで家に戻ると家のダメージもなく、家族も無事だったが、子供が余震があるたびに「何だ、またはじめからやりなおしかよ!」と言うのが響き、自分があれから泣き虫になっていったということを、綴っている。「役に立たない人間ほどよく泣く」という諺があってもいいとさえ思ったらしい。
石巻生まれのノンフィクションライターで、海外サーカスの招聘をしている大島幹雄は、「石巻若宮丸漂流民の会」の事務局長でもある。自分のためばかりに生きてきたが、自分のことより東北の「生活の再建」に何かを捧げたいと結んでいた。
朝日新聞記者としてさまざまな被災地を取材してきた木瀬公二は、その後に遠野に移り住み、いまちょうど朝日の岩手版に「100年目の遠野物語」を連載している。ぼくも新花巻駅で買ってみた。
3・11のあの瞬間は秋田の96歳のジャーナリストむのたけじと会って、帰りの横手インターにさしかかるところだったという。釜石の北にある大槌町が「津波に襲われたというのに焼け焦げた町」になっていること、「他の被災地が釘だらけの柱や箪笥や背広が散乱している」のに、大槌が「錆びた金属の色しかない単色の世界」だったことなど、さすがに記者で鍛えた目が鋭い。そうか、錆びさせられたのか。日本人が「ほどほどの暮らし」をすることを勧めていた。
新田次郎賞の『漂白の牙』の熊谷達也は仙台の登米の生まれで、大人になってから上田中の気仙沼中学校で教員をして、それから作家になった。大震災の日から3週間後、仙台から東北道・346号線・45号線で北上して気仙沼を訪れた。息を押し殺してハンドルを握っていたという。すべてが「ミキサーにかけられたカオス」だと感じたという。その気仙沼が、かつての土地の匂いの代わりに、磯と異臭のまじりあった町になっていた。
気仙沼中学も半分が破壊されていた。無力感に打ちのめされた。木瀬は、こんなときに「想定外」ばかりを言い募る連中にこれ以上傷つけられるのはまっぴらだと、怒りを叩きつける。
盛岡の作家で、「街もりおか」の編集長でもある斎藤純が、3月11日の夜空のことを書いている。「電気が復旧している地域がないかとベランダに出て確かめようとしたとき、ふと見上げた夜空をびっしりと星が埋め尽くし、輝いていた。盛岡であんな星空は見たことがない。あれは天へ昇っていく魂だったのだろう」と。
朝日のアメリカ総局長や論説委員をしたのち石巻支局長だった高成田享も筋金入りのジャーナリストである。そのトップジャーナリストが、今回ばかりは「近代とか文明とかいったものは何だったのか」と問わざるをえず、現代のプロメテウスの火が原発になり、現代のパンドラの箱から飛び出しているのが原子炉から放射される見えない物質になってしまったことを嘆いていた。ところで、この人、例の復興構想会議のメンバーでもある。
多くの作品で読者を唸らせてきた高橋克彦は、今日の東北文学を代表する作家の一人だが、大震災で「自分の仕事に対する疑念が大きく膨らんでしまった」そうだ。みんなが「ガソリンが足りない、電池が手に入らない、米がない」と言っているのに、誰も書店や図書館や映画館が休業していることを嘆かないからである。高橋は書店や図書館に並ぶ本を書いて生活をしているのに、そういうものはこの災害の現実の前ではなんら主張力がないようなものだったことを突き付けられたと感じたようだ。
けれども高橋はそのような言いようのない失望の渦中のような気分のなか、宮沢賢治(900夜)の詩歌のほとんどを精読しているうちに、『農民芸術論概要』に感動したらしい。それからは、賢治が芸術は働く者たちのためにあると高らかに宣言していたことを縁(よすが)にしているという。
三浦明博は高橋克彦と同じく江戸川乱歩賞でデビューした。宮城県栗原の生まれで、いまも仙台にいる。最近作の『黄金幻魚』は三陸が舞台になっているらしい。
3・11以来、伊坂幸太郎と似て「涙もろくなっている」と告白し、震災当日の夜半に山梨の富士吉田から15時間かけて、われわれの安否を案じてやってきた甥が、腹ぺこなのであり合わせを用意してやると、それをかきこみ、今度は「県北の祖父母の家に行ってくる」と言ってすぐに出て行ったのを見て、「この若者の無謀ともいうべき迅速な行動力に、何か眩しいものでも見せられたような心地がした」と書いている。このエッセイは「人は信ずるに値する」と結ばれていた。
星亮一の『敗者の維新史』『奥羽越列藩同盟』『大鳥圭介』は、ぼくも愛読した。仙台に生まれ育ち、いまは福島にいるようだ。その星は4度にわたって津波被災地の取材をした。その体験をさすがに要訣をとらえて綴り、そのうえで東電と日本政府の責任を問う。「誰がどう言おうが、私は福島県を離れるつもりはない。この惨事を自分の目で見続けるためである」と断言しているのは、長らく戊辰戦争の悲惨と愚挙を書きつづけている著者にふさわしい。覚悟のある結語というべきか。
特別号の掉尾は吉田司で、山形市出身。この作家この著者はぼくと同年代で、しかも早稲田文学部。在学中から小川紳介のプロダクションに参加して、『三里塚の夏』の演助(演出助手)をしたが、その感傷的な映像演出に耐えられず、1970年からは水俣に入って、若衆宿をつくりあげた。その体験が『下下戦記』(文春文庫)だった。その後の『宮沢賢治殺人事件』も『カラスと髑髏』も『王道楽土の戦争』も読んだが、なかでも『夜の食国(おすくに)』(白水社)はいずれ千夜千冊しようと思っていた。
その吉田がここで書いているのは「ハローハロー、こちら非国民」という、とんでもないもので、収録エッセイのなかで一番長く、一番過激な見方になっている。その過激な見方は、主に原発事故後のグローバルな事態の進捗に向けられている。
吉田は、アメリカ第七艦隊ロナルド・レーガンが岩手沖に停泊したとき、これはアメリカの“トモダチ作戦”などではなくて、実は“半占領”が始まるということだと喝破するのだ。
諸君、よくよく目を凝らしなさい。復旧支援は日米同盟の共同管理下に入っていくだけでなく、3・11の事態が資本主義ネットワーク国家による「組み合わせ自由の多国籍軍」の中に取り込まれていったというのだ。ヒラリー・クリントンが被災地を巡るというニュースを聞いたときは、これは「アメリカの“東北巡幸”を意味することになる」と直観したとも言う。
うーん、なるほど。ここまで言えるのは、吉田司しかいないだろうなと思いながら、ぼくは帰りの列車のなかでとろとろに眠りそうになっていた。