父の先見
フェリーニ・オン・フェリーニ
キネマ旬報社 1997
Costanzo Costantini
Conversations avec Federico Fellini 1995
[訳]中条省平・中条志穂
懐かしい。なんといってもフェリーニの作品はことごとく見てきたのだ。13歳か14歳のときに見た『道』でぐしょぐしょに泣いたのがよかったのか、その後のどんなフェリーニにもそれなりに感動してきた。それも並大抵ではなく。
次の『カビリアの夜』も大泣きに泣いた。しかし、これらはフェリーニを意識してのことではない。決定的だったのはマルチェロ・マストロヤンニとアニタ・エクバーグとアヌーク・エーメの『甘い生活』を高校2年の冬に見たことである。これでフェリーニという比類ない天才を知った、60年安保で水浸しになった年で、西田佐知子の『アカシアの雨がやむとき』とアニタ・エクバーグとアヌーク・エーメが混じって困った。
70年安保のときは『サテリコン』である。もはやぼくにとってのフェリーニは神様だった。このときからダニロ・ドナティの美術と衣裳にも注目するようになった。そして1974年の『アマルコルド』。これは少年少女名作全集の決定打であった。美術衣裳はやはりダニロ・ドナティだった。
何も信じないフェリーニが唯一信じているのは、ロベルト・ロッセリーニと少年期を過ごしたリニアである。ロッセリーニには『無防備都市』の脚本で協力し、その魂を学んだ。
ついでジュリエッタ・マシーナとチェザーレ・ザヴァッティーニとアルベルト・モラヴィアとイタロ・カルヴィーノと、そして映画都市チネチッタの第5スタジオが、フェリーニの原郷である。本書を読むとそういうことがすぐわかる。けれども、いちばんの原郷は太った女なのかもしれない。フェリーニは少年のころに太った女中にペニスを吸われたのであった。
しかし、そのようなことがわかったからといって、フェリーニがなぜあのような想像を絶する異能フィルムを次々につくりえたかということは、解けない。本書の編著者であるコスタンティーニは、フェリーニとは長いつきあいのあるジャーナリストで、1960年の『甘い生活』以降、さすがに長期にわたるインタヴューをこつこつとためて、本書で一挙に爆発させた。その質問は、友人でなければ聞けないような当たり前の問いに満ちていて、それがかえって批評家では暴けないフェリーニを浮き彫りにさせた。
しかしそれでもフェリーニは謎なのだ。
ともかくも本書はフェリーニ狂いの者を半分は満足させてくれるにちがいない。半分というのは、フェリーニについては、やはり映画を見るにかぎるからである。
おそらく読者を喜ばせるのは、本書にかなりの枚数が収められているフェリーニのスケッチやカトゥーンであろう。これを見れば、フェリーニがどういう少年性の持ち主であったか、おそらくはピンとくるはずである。
もうひとつ、本書には日本に来たときの天皇と皇后に関する印象が語られている。この印象記はぼくがこれまで読んできたどんな皇室論よりもすばらしい。機会があれば立ち読みするといい。
そんなフェリーニを、こんな連中が、こんなふうに言っていた。どうぞ、参考に。
「フェリーニは自分の映画のためにおこなったことを私たちのためにもおこなうことのできる人だった。つまり自分の映画を不滅の存在にすることで、私たちの存在を永遠不滅のものにしてくれたのだ」(ミロス・フォアマン)。
「彼の映画は喜劇的精神に貫かれ、途方もない才能で作り上げられている」(ウッディ・アレン)。「フェデリコはバルザックのごとく内なる炎をもった人である」(バルテュス)。
「フェリーニは映画における真の野獣である」(ルキノ・ヴィスコンティ)。「この世界はハイデガーを忘れ、カフカを歪め、現代芸術最後の巨人であるフェリーニを軽んじている」(ミラン・クンデラ)。「私たちはみんなフェリーニのようになりたいと夢みていたが、フェリーニは唯一無二の人であり、誰も彼のようにはなれなかった」(ルイ・マル)。
「フェリーニはヒエロニムス・ボッシュの絵画なのである」(ウンベルト・エーコ)、「フェリーニの出現とともに距離の映画は接近の映画へと逆転した」(イタロ・カルヴィーノ)。「ぼくはフェリーニが好きだ。それは彼が映画を作っていると同時に、自分だけの独自の世界を創造しているからだ」(スパイク・リー)。
「フェリーニの映画の何本かは十回も見た」(イングマル・ベルイマン)。「フェリーニの映画は子供の打ち明け話のように幻想的で、そのスタイルは映画の登場人物のまわりに巨大なカオスを作りあげる」(ジム・ジャームッシュ)。
このフェリーニ賛辞、いかがでしたか。