才事記

ペニスの文化史

マルク・ボナール&ミシェル・シューマン

作品社 2001

Mark Bonnard & Michel Schouman
Histoires du Pénis
[訳]藤田真利子

 精神医学者と泌尿器科の性医学者の共著だ。だから内容は学問性に富んでいて、いかがわしいはずはない、などということはない。なんといっても主題がペニスだ。ふつうはパンツの右か左か下かに収まっているけれど、この子は「休息しているか、蘇生するか」というように極端にバイナリーな行動をとる。男はそのペニスを毎日何回となく小用のために指でつまんでいる。女性には考えられないことだろう。女性がヴァギナを一日何回か自分の手で触れているなど、よほどの理由がないとおこらない(?)。
 そんな代物を、議論と考察の主題に書物のページに持ち出して、外見から内見まで舐めるように点検し、しかもそこに託した古代以来の男性心理の怪しげな気分の本体を探ろうというのだから、まじめに書けば書くほどぶいぶいおかしいものになる。

 冒頭、ペニスの解剖学が紹介される。その最初にこう書いてある、「ペニスをソーセージのように輪切りに切ってみると、上の方に包皮に包まれた陰茎海綿体とよばれる二つの管が、猟銃の銃口のように並んでいるのが見える」。なるほど、出だしとしてまことに解剖学ふうではあるが、なぜに「ソーセージのように」であって、なぜに「銃口のように」なのかというあたりが、すでに研究者にしてひくひくとしたペニスナイドだろうとしか思えない。
 本書の著者たちの博覧強記は一読に値する。何から何まで書いてある。ペニスを崇拝するイシスの物語から神学者が夢精を禁止しなかった理由まで、勃起障害の精神医学からジミ・ヘンドリックスのペニスの型を取った模造品を愛蔵している女性フリークたちの話まで、これはきっと“知茎”の百科全書だろうと思いたくなるほどのペニスの、ペニスのための、ペニスナイドな博物誌なのである。
 むろん初めて知ったことも数かぎりない。とくに割礼(circumcision)についてはいろいろ考えこまされた。ユダヤ教においてもイスラームにおいても、割礼することは唯一神との契約のスタートのしるしだったのだけれど、また、イシスがファルス(ペニス)を崇拝しているのは承知していたけれど、勃起したペニスをもった像に死者を蘇らせる呪力がひそんでいたとは思いもしなかった。
 
 古代、ペニスはけっして不埒な一物ではなかった。ギリシア人はファルスと、ローマ人はムチヌスと、インド人はリンガと、日本人は陽物とか男根とよんでこれをこよなく崇拝もしくは愛玩したものだ。ただし最初の男根崇拝は人間ではなく、牡牛や山羊の動物のペニスが信仰対象になっていた。
 不思議なことに、この動物のペニスをつけた石像がやがて上部に人間の頭をつけ、ヘルメスやバッカスやアドニスとよばれているうちに、人間のペニスについての美意識というのか、価値観というのか、羞恥心というのか、そういうものが生じてきた。それまではペニスの大小など問題にもなっていなかった。それが変化してきた。いや、大きいほうが勝ったのではない。たとえば古代ギリシアでは小さなペニスと引き締まった尻こそが一対で称賛された。
 反対に、大きなペニスと柔らかな尻という一対がソドミーや悦楽の象徴になった。アリストファネスが『雲』のなかで、「私の言うとおりに理性の正しさを信じれば(中略)、尻は盛り上がり、陰茎は小さくなるだろう」と書いているのは、いかにもありそうなことで、また、とうていありそうもないことなのである。ペニスには、たえず「大きいかどうか」「長持ちするかどうか」「いつダメになるか」という深刻な苦悩と不安がつきまとってきた。本書は女性が翻訳しているのだが(とてもうまい)、彼女も男たちがこれほど「大きさ」や「持続力」に涙ぐましい関心を寄せ、スッポンからバイアグラにいたるまで、その能力差の克服に努力を重ねてきたことに半ば驚き、半ば呆れている。
 
 ミシェル・フーコー(545夜)は「人はセックスによって知識を得る」と結論づけた。このことが女性にあてはまるかどうかはわからないが(あてはまりそうはないが)、少なくとも少年たちがセックスについてなんとか知ろうとして、それが体験できない前に自分の道具をもってすべての知を類推の根拠としているということは、たしかに女性にももっと知られてよいかもしれない。この「未知のセックス」の想像期に、大きさや立つかどうかといった不安が思春期の少年を幽閉してしまうのだ。
 少年期の不安がもたらすペニス執着主義は、男性自身の文化史をいたずらなまでに色濃く飾ってきた。この不安を最初から除去してしまおうというのが、割礼や成人式のイニシエーションだった。本書がさまざまな民族や部族の例をあげて立証している。キリスト教社会の一部で、ペニスに傷をつけることによってキリストの聖痕に近づけるというイニシエーションがあったとまでは知らなかったけれど……。
 
 本書の記述だけでははっきりしないのだが、ペニスの見方には洋の東西での相違があるように思われる。どちらかといえば、西はペニスとヴァギナを別々にし、東はそれを合わせる合体信仰に加担してきたようなのだ。聖天さま(大聖歓喜天)は陰陽合接したままの姿がイコンで、道祖神は陽根と陰部が一緒になるためのイコンなのである。
 インドや中国では『カーマ・スートラ』や道教経典をはじめとした“性典”がそうであるように、さかんに陽気な性交を称揚した。またペニスをペニスがもつ生理に従わせるのではなく、あえて意志によって制御することも工夫してきた。「接して漏らさず」とはこのことで、すでにタオイズムの導引術に詳しいことだった。
 しかしながら、勃起というものはペニスに対する刺激とともに、ニューロトランスミッター(神経伝達物質)が脳にばらまかれることにも深い関係をもつものなので、勃起したままで漏らさないなどという芸当を神聖視することには無理がある。マルキ・ド・サド(1136夜)はだからこそ神知よりも人知を重視して「知と性」とを結びつけた。西のペニス学は総じてそういう立場にある。継続することよりも何度も射精することを重視する。
 東はおそらく持続派なのである。かつてベルクソン(1212夜)が「純粋持続の相」をめぐる考察を発表したときも、それが東洋哲学にこそ近しい議論であると言われたものだった。しかし、これは中国の閏房哲学にこそあてはまるものの、日本人にもあてはまるのかどうかはわからない。本書はウタマロが巨大ペニスの呼称になった理由などには触れているけれど、日本のペニス文化史についてはほとんど言及していないので、本書のなかだけで東西を比較するのはむずかしい。金関丈夫(795夜)、中山太郎、池田弥三郎、高橋鐵、赤松啓介(1135夜)をはじめ、名だたる日本の性風俗研究者が細部の議論に加わる必要がある。
 本書の翻訳者の藤田真利子は推理小説にも詳しい斯界の名翻訳家で、この本の評判のせいか、キャサリン・ブラックリッジの『ヴァギナ』(河出書房新社)、アルテール&シェルシェーヴ『体位の文化史』(作品社)、ゲイリー・P・リュープ『男色の日本史』(作品社)なども訳している。