才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

> アーカイブ

閉じる

資本主義と自由

ミルトン・フリードマン

日経BPクラシックス 2008

Milton Friedman
Capitalism and Freedom 1962・1982・2002
[訳]村井章子
装幀:祖父江慎・佐藤亜沙美

民営化と規制緩和と小さな政府。
市場原理主義とマネタリズム。
そこに加わるに、新自由主義思想という妖怪。
この聞きあきた一束のスローガンは、
どこから始まったものなのか。
ハイエクの空っ風の吹きすさぶなか、
万事はフリードマンに始まったというのが定説だ。
それなら、ここからソロスやヘッジファンドや
金融工学までもが派生したというのだろうか。
フリードマンを読むかぎりは、
必ずしもそうとは言えない。
では、ここには何が蟠ったのか。
「たまたま」を介在させない経済思想は、
それでも何かを訴えられるのか。
行く年来る年にはなってはいても、
このこと、まだまだ決着つきません。
せめて2010年は、もう少し別の踊り場から
新たな回路を求めて、連環、恋感、錬姦、蓮幹。

 フリードマン自身が好んで「キャピタフ」と略称している本書の第2章「自由社会における政府の役割」の章末に、次の14項目のリストが出ている。フリードマン提案の「政府に委ねるべきではない施策リスト」だ。
 これを見れば、フリードマンに率いられた新自由主義者やマネタリストがいまなお何を考えているかの明瞭な出口がわかる。

  ①農産物の買取り保証制度。
  ②輸入関税と輸出制限。
  ③産出規制(農作物の作付面積制限、原油の生産割当てなど)。
  ④全面的な家賃・物価コントロール、賃金コントロール。
  ⑤最低賃金制、価格の上限設定。
  ⑥産業規制、銀行規制。
  ⑦ラジオとテレビの規制。
  ⑧社会保障制度(とくに老齢・退職年金制度)。
  ⑨事業免許制度、職業免許制度。
  ⑩公営住宅、住宅建設奨励のための補助金制度。
  ⑪平時の徴兵制。
  ⑫国立公園。
  ⑬営利目的での郵便事業。
  ⑭公有公営の有料道路。

 見ればすぐピンとくるだろうが、これらはほとんどサッチャーとレーガンが取り組もうとした項目だ。つまりは「小さな政府」が着手すべき“事業仕分け”リストなのである。
 サッチャーとレーガンだけではない。その後の資本主義諸国圏とその追随地域でおこった民営化や規制緩和の路線は、成功度はともかく、すべてこの“指示書”にもとづいている。
 スウェーデンでは企業の株を労働組合が買い上げて国を株主民主制に変えるというレーン=メイドナー計画が提案され、小泉政権は⑬の郵政民営化と⑭の道路公団民営化にとりくんだ。そのほか、アルゼンチンのカルロス・メネム政権、チリのピノチェト政権、韓国のチェボル(財閥)、サード・イタリアー(イタリア北部)、インドのバンガロール、中国の上海や珠江デルタ地帯なども、同じ道を走った。
 こうした流れの勢いを見ていると、世の中、まるでフリードマンの言うとおりに動いていたというふうに見えるかもしれないが、実際にはフリードマン・リストの大半はまだ現実化されてはいない。
 アメリカで完全実施されたのは、⑪平時の徴兵制の撤廃だけで、フリードマンを頭目とするシカゴ学派が振り撒いたとおぼしいマネタリズムのお題目は、資本主義者のすみずみまで波及するかというほど広まったにもかかわらず、各国の政策はフリードマン・リストに挙がった項目を実施しきっていないのだ。
 けれども、いったんはさまざまな国や機関や地域において、政府規制の緩和が検討され、多くの国や政権担当者や野党たちが「小さな政府」づくりと「民営化」の夢を見たことも、これまた紛れもないことだった。今日の日本の民主党連立政権の若手大臣・副大臣たちも、日本ののっぴきならない事情を勘案しながらも同じ夢をまだ見ているはずだ。

 さて、最近ではこれらを「新自由主義」というふうにまとめて批評することが、リーマン・ショック以降はまるで手の平を返すような通り相場になってきた。
 それはまるで、ハイエク(1337夜)とフリードマンの麻薬か痺れ薬で鈍(なま)ってしまった体を、新たなカンフル剤で一挙に振り払うかのような、昨今めずらしい非難の嵐になっている。しかし、その新自由主義批判やカンフル剤は、むろん耳を傾けるべきものもあるけれど(それらはいずれ千夜千冊するが)、あまりに粗悪であったり、恣意的であったり、事情を勘定に入れていなかったりすることも少なくない。ぼくもあらかたは目を通してみたが、一部を除いてときには勘違いさえ甚だしい。
 そこで、新自由主義の問題に話を移す前に、いささか振り返りたい。何をって?
 そもそもミルトン・フリードマンって何なのか、誰なのか。シカゴ学派って何なのか、ハイエクとはどこでつながっているのか、なぜみんながみんなフリードマンの“指示書”に手もなく屈服したのかということだ。
 2009年の「千夜千冊」の掉尾がフリードマンになるとは思ってもいなかったのだが、これは「ISIS本座」年末年始の配信の都合だと思われたい。べつだんフリードマンを来年の干支(えと)のように象徴的に扱いたいということではない。もっとも以下を読んでもらえばわかるだろうが、フリードマンの学問的頑固というもの、きわめて先駆的であり、そのぶん問題を自己言及的に回帰させるところが目立つため、ちょっと虎のごとくに手に負えないところがある。

 フリードマンが“政府介入撤廃リスト”をタイプライターで打ったのは、本書を書いた1962年のことだった。47、8年前のこと、ケネディがキューバ危機に立ち往生していた時期だ。
 ということは、ソ連の社会主義的な計画経済がまだ世界に幻想をふりまいていて、アメリカが必死に「大きな政府」として世界と自国のプレステージを上げようとしていた時期だということである。
 こんな早期に本書を書き、その後もほとんどその主張を変えず、時代のほうがだんだんフリードマンに追いついて、世界の資本主義がフリードマンふうに染め替わっていったということは、驚くほかはない。それによってフリードマンが「自由の英雄」(ジョージ・ブッシュ)になったか、「国家元首を含めて過去50年間で最も影響を与えた男」(ジョージ・シュルツ)になったか、「悪魔の挽き臼をついに動かした男」(ノーム・チョムスキー)になったかはともかく、なぜフリードマンはかくも早期に「小さな政府」と新自由主義の青写真を構想できたのか。
 ぼくは少々そのことが気になっていた。カール・ポパー(1059夜)やハイエクやジョージ・ソロス(1332夜)ってどんなシソー男なのかという関心とほぼ同じ好奇心で、ミルトン・フリードマンってどんなケーザイ男なのかという関心が、ずっと蟠っていたのだ。
 けれどもポパーやハイエクやソロスと同様、ぼくはゆっくりかれらのことを眺める機会を失ってきた。かれらがあまりに毀誉褒貶のなかにおかれ、まともにその思想やプロフィールが云々されるような条件が揃っていなかったせいもある。でも、そろそろいいだろう。

 フリードマンは1912年のブルックリンの生まれだが、実はソロスと同じハンガリーの血をうけている。
 両親はオーストリア=ハンガリー帝国下のザカルパチア地方の出身で、正真正銘のアシュケナージなのである(詳しくは946夜を読んでほしい)。アシュケナージであったということは、フリードマンのどこかに“世界離散民の苦汁”があったということだろう。
 19世紀末から20世紀初頭にかけて、多くのユダヤ人がアメリカに希望を求めて移住したように、フリードマンの両親もそうした。ブダペストを捨てブルックリンめがけて、夢を追って大西洋を渡ってきた。当時のブルックリンの一部はユダヤ人地区だった。父親は仲買人をして、母親は縫製工場の女工になった。
 いまのところは唯一の伝記であるらしいラニー・エーベンシュタインの『ミルトン・フリードマン』(日経BP社、エーベンシュタインはハイエクの伝記も書いている)によると、フリードマン少年は鉄鋼王アンドリュー・カーネギーの建てた地域の図書館で本を読みあさり(20世紀のアメリカではこの手のカーネギー図書館少年がゴマンといた)、ボーイスカウトに入り、放課後はヘブライ語を学んで、来たるべきバルミツバー(ユダヤ教の成人式)に備えていたようだ。
 父親が死んだ翌年の、16歳の1928年、ニュージャージー州のラトガーズ大学に入った。ここに、3つほどの符牒が折り畳み傘が重なるように、いや、折り畳み傘が自動バネで開くようなことがおこっている。

 1つは、経済学を学んでホーマー・ジョーンズから保険論と統計論を、アーサー・バーンズに景気循環論を学んだということだ。
 経済学部の学生ならこんなことは当たり前すぎてとるにたらないが、自分を教えたバーンズがのちにアイゼンハウアー政権の大統領経済諮問委員会の委員長になったり、FRBの議長になったりしていることは、やはり暗示的である。
 2つめは、ジョン・スチュアート・ミルの『自由論』に没頭したことだろう。リバタリアニズム(自由至上主義)はこのときすでに着床している。フリードマンはのちにハイエクの「知識の自由」との出会いを重視することになるのだが、その準備はミルの『自由論』であらかたできていた。
 「文明社会で個人に対して力を行使するのが正当だといえるのはただひとつ、他人に危害が及ぶのを防ぐことを目的とする場合だけである」というミルの主張は、まさにハイエクの「強制からの自由」そのものであり、フリードマンのリバタリアニズムなのである。のちに新自由主義者は、ミルの『自由論』、ハイエクの『隷属への道』、フリードマンの本書『資本主義の自由』を、リバタリアニズムの三名著と呼ぶ。
 そして3つめは、大学2年目に世界大恐慌がおこったことだ。いま、世の中では「百年に一度の経済危機」といった意味不明の脅し文句が徘徊しているようだが、フリードマンはその青春期をまるごと大恐慌で覆われたのだ。ニューディール政策の成功と失敗をリアルタイムで見ていたことは、「市場の失敗」よりもずっと「政府の失敗」のほうが罪深いということを、青年フリードマンに焼き付けたであろう。

 これらのことは、出身がアシュケナージであったこととともに、フリードマンの若い観念がどのように独自の経済思想に向かっていったかということの、3つの折り畳み傘になっている。
 が、フリードマンのプロフィールで思想的暗示性に富んでいるのはおそらくここまでで、このあとのシカゴ大学に入ってからのフリードマンには、ひたすら学問に打ち込んでノーベル賞をとったという、よくある経済学者の頑固な気質と、戦後アメリカの経済がしだいにケインズ主義から外れていって、そのぶんフリードマンの主張がじょじょに浸透していったという幸運以上のものは、見えてはこない。経歴のなかから、何かソロス的なものを探し出すのも難しい。
 それよりも、フリードマンにおいてはシカゴ大学に入ったことが決定的だったのだ。この大学は世界一、ノーベル賞を生み出す大学だったのだ。
 それにしても大学に入ったというだけで欣喜雀躍できるなんて、頭はめっぽうよかったし、かなり野心的ではあったろうが、フリードマンはようするに長きにわたっての自説を曲げない学者だったということだ。

 フリードマンをシカゴ大学に推薦したのはホーマー・ジョーンズだった。ジョーンズはフランク・ナイトの門下生である。ナイトは理論経済学の泰斗であり、実践派というより経済哲学者といった傾向をもっていた。
 ナイトは「不確実性」を最も初期にリスク経済学として導入した先駆者でもある。『リスク・不確実性および利潤』(1921)がある。
 もう一人、ロイド・ミンツがマネーサプライ(通貨供給量)の経済学をフリードマンに叩きこみ、マネーサプライの増減が物価変動の最大の要因になると教えた(貨幣数量説)。フリードマンがケインズの『貨幣改革論』を読みこんだのも、このときの強い刷りこみによっている。フリードマンはもっぱら反ケインズ主義の旗手ともくされてきたが、実は初期のケインズに最も影響をうけた信奉者なのである。
 博士号をコロンビア大学でとったのち、1936年、フリードマンはフランク・ナイトの助手としてふたたびシカゴ大学に戻った。結婚もした。お相手はのちのち大ベストセラーとなった『選択の自由』を共同執筆することになるローズである。
 やがて真珠湾攻撃によってアメリカ全土が戦闘体制に入っていくと、学者たちの多くが戦時研究に駆り出された。フリードマンは財務省と統計調査グループ(SRG)に入り、アレン・ウォリス率いるアメリカ随一の統計集団チームがめざしていることを知る。応用数学(逐次解析)によってどのように兵器の性能を向上させるかということだ。フリードマンはなんなくこの調査と研究をこなした。
 ハンガリーで6万人のユダヤ人が虐殺され、ナチが設立したユダヤ人協会でユダヤ人弁護士たちに退去命令を送る役目を、子供のころのジョージ・ソロスが押し付けられていた時期だった。

 大戦後、33歳になっていたフリードマンは、いったん友人のジョージ・スティグラーがいたミネソタ大学でミクロ経済学に打ち込み、二人でアメリカン・リバタリアニズムの拠点となったニューヨークの「経済教育財団」で家賃統制反対の戦略研究に携わった。
 ついでシカゴ大学にふたたび戻ると、ここからはフリードマンの最も充実した時期になる。シカゴ学派のストリームも開花する。そうなるにあたっては、二つのきっかけがあった。
 ひとつは計量経済学の巣窟となる「コールズ委員会」とフリードマンとが対立し、コールズ委員会がシカゴを去っていったことだ。すでに計量経済学からは白眼視されていたフリードマンは、これで胸のつかえがおりた。
 もうひとつは、こちらのほうはけっこう有名な話になっているが、ハイエクがシカゴ大学の社会思想委員会に在籍することになって、ハイエクが設立した「モンペルラン・ソサエティ」がシカゴ化したことだ。
 モンペルラン・ソサエティ(モンペルラン協会)は、1947年の4月1日から10日間にわたってスイスのモンペルランに世界の名だたる学者36人が集まって、自由主義の結束とでもいうべき意志の契りを採択した独特の知的ソサエティで、ハイエクが呼びかけた。
 ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス、ヴァルター・オイケン、フランク・ナイト、カール・ポパー、マイケル・ポランニー(1042夜)、ジョージ・スティグラー、モーリス・アレ、ライオネル・ロビンズ、そしてフリードマンなどが参加した。いまでも世界40カ国に会員が500名以上いて、1980年からの3年間は西山千明(当時は立教大学教授)が会長を務めた。
 このときからフリードマンはハイエクに親密に接近し、二人は「自生する市場」と「知識の自由」と「小さな政府」という3つのコンセプトをほぼ完全に共有した。
 もっともハイエクはフリードマンのことを、「統計に片寄る論理実証主義的な傾向が強い」ともみなしていたようだが、ぼくが見るにこれはあまり当たっていない。ハイエクには他人のロジックを読みとる能力は薄いのだ。ハイエクは理念の思索者、フリードマンは方法の開発者なのだ。
 ともかくもこうして、ハイエクはシカゴ大学にいた1960年に『自由の条件』を書き、それを原稿の段階で読んでいたフリードマンが1962年に本書『資本主義と自由』を書いたのである。

 フリードマンがシカゴ大学で学生や院生に教えていたのは、最初のうちはミクロ経済学(価格理論)だった。ここにはのちにノーベル賞をとるハリー・マーコウィッツ、マイロン・ショールズ、ジェームズ・ヘックマンといった学生がいた。
 教え方は独特だったようだ。院生として最初に価格理論講座を受講したジェームズ・ブキャナン(1986年ノーベル賞)は、「フリードマン先生が議論や分析で見せるアタマの切れは圧倒的だった」と、1951年に院生になったゲーリー・ベッカー(1992年ノーベル賞)は「自分が学んだなかで一番強い影響を受けた」「頭脳は他を寄せつけず、まさにディベートの名手で、しかも発想がとても斬新だった」と、それぞれ述懐している。
 しかしフリードマン自身は、マクロ経済学(貨幣理論)にこそ新機軸を見いだそうとしていた。50年代と60年代がアメリカでのケインズ全盛時代だったこともある。そのケインズの貨幣論をつぶさに点検したフリードマンは、マネーサプライと物価の関係にこそ秘密があることを知り、貨幣数量説を新たに組み立てなおすことを思いつくと、「インフレはいついかなるときも貨幣的な現象だ」という方向へ二歩も三歩も踏み出していった。マネタリズムの自発であった。
 こうして発表されたのが1962年の『資本主義と自由』と1963年の『合衆国の貨幣史』なのである。この二つの著書で、フリードマンは大恐慌の分析においてケインズの限界をのりこえたと確信する。ケインズが「資本主義の欠陥が大恐慌を生んだ」と見たのに対して、フリードマンは「資本主義が繁栄できる環境と条件がそろっていないせいか、まちがった政策によって歩みそこねたせいだ」と見た。
 とくに物価安定のためには、マネーサプライを年間一定の割合でふやしていくという“k%ルール”を発案して、政府が裁量してマネーサプライを操作することのほうに問題があると結論づけた。ここから先は一瀉千里、冒頭にあげておいたような、政府が介入すべきではない政策リストに類するアイディアが次々に仕上がっていく。

 政府が経済の民主主義を掲げて、生産的な企業を政府の管理下におくことにも疑問を提出するようになった。そんなことをすれば、政府そのものが一つの大きな企業支配者のふるまいを演ずることになり、かえって多数のライバルとの関係をおかしくすると見通したのだ。フリードマンはしだいに政治と経済を両睨みするようになる。

 1967年、アメリカ経済学会の会長になったフリードマンは、会長講義「金融政策の役割」で、長期のフィリップス曲線を否定した。これはフリードマンの名声を一挙に高めた。
 フィリップス曲線は、インフレ率と失業率がトレードオフの関係にあることを説いたものである(インフレ率が上昇すれば失業率が低下し、失業率が上昇すればインフレ率が低下する)。フィリップス曲線に従えば、インフレは雇用を刺激すると考えられていた。だからケインジアンはこれを根拠に、政府介入・金融緩和・積極財政を説いた。のちのちまでフリードマンのライバルとなったポール・サミュエルソンなどは、「フィリップス曲線こそ現代経済の最も重要な概念だ」と言ってのけていた。
 これをフリードマンは否定したのだから、賛否両論、反響は大きかった。しかし反論におかまいなく、フリードマンは次々に政策提言をするようになっていく。そのなかには変動為替相場制の提案、徴兵制の廃止、政府の均衡予算の義務化、歳出抑制のための財政赤字の容認、教育へのバウチャー制度の導入といった、サミュエルソンらが目をむくような提言がちりばめられていた。
 1968年、ケネディ・ジョンソン政権が経済政策の柱としたケインズの「新しい経済学」をニクソン政権が取り入れるべきかどうかをめぐって、フリードマンとサミュエルソンは「ニューズウィーク」誌上で激論を展開した。これでフリードマンの名は決定的に天下に轟いた。「知の挑発者」「哲学する経済学者」とも、また「マネーだけを重視する大胆不敵な経済学者」とも言われた。ちょうどソロスが独自のヘッジファンドを開発したころだ。
 こうなると、もはや政権がフリードマンを放ってはおかない。アメリカとはそういう国だ。ニクソン政権に経済政策を提言する経済諮問委員会のメンバーとなり、ニクソンに変動相場制の導入を提言するメモをこっそり手渡した。世界の経済システムを一変させたメモだった。

 ついにフリードマンは政策を左右する地位を築いたのだ。
 しかし順風満帆ばかりとはいかない。その名声を曇らせ、揺るがせる事件もいくつかおこった。
 最も問題視されているのは、1973年にチリでピノチェト将軍が軍事クーデターをおこし、アジェンデが殺されたのち、サンチャゴの権力中枢に“シカゴ・ボーイズ”たちが次々に送りこまれたとき、これを背後で進言したのがフリードマンだということになった問題である(1232夜『反米大陸』参照)。
 実際にもフリードマンは1975年3月、シカゴ大学でチリ・プロジェクトを担当したアーノルド・ハーバーガーと6日間にわたってチリを訪れていた。このことを突きとめた「ニューヨーク・タイムズ」は9月の新聞で、「フリードマンがチリ軍事政権の経済政策を手引きしている」と暴露した。その翌月も「チリ軍事政権の経済政策はフリードマンの思想にもとづいている」という記事が紙面を走った。
 シカゴ大学では学生たちの反フリードマンの抗議運動がおこった。翌年、フリードマンがノーベル賞を受賞することになったときも、左派やマスメディアの一部はフリードマンの受賞に猛然と反対した。「ネーション」誌は、「フリードマンは世界中の圧政国家のコンサルタントやアドバイザーを務めている」と書きたてた。
 ところが、一方で「ウォールストリート・ジャーナル」や「フィナンシャル・タイムズ」が、フリードマンこそ世界で最も影響力をもつべき経済学者だという論調を押し出したのである。多くの企業家や金融関係はこちらの側に与(くみ)した。
 矢面に立ったチリ問題について、フリードマンはとくに声を荒らげなかったようだ。あいかわらず自身の確信だけを頑固に述べるということに徹した。ふてぶてしい態度でもあった。そしてこの瞬間から、フリードマンは「マネタリストの教祖」とも「新自由主義のグル」とももくされるようになる。
 フリードマンは躓かなかったのだ。それどころか、サッチャー政権とレーガン政権の施策の多くに採り入れられた提言によってずっと有名になっていった。

 その後のフリードマンは、教育バウチャー制度の導入、麻薬の合法化、福祉の削減、アファーマティブ・アクションの廃止といった政策を、かなり執拗に提言する。経済学というよりも、政治的自由のための提言に近い。
 これらは必ずしもロジックで組み立てられてはいない。アメリカの長期にわたる社会経済状況から導き出されたものが多く、試してみないとその効果が見えないことが少なくないし、反対するには現状維持にするか、対抗案を組むしかない。
 ということは、フリードマンを批判したいなら、これらの政策の是非を問うか、フリードマンに同調したその後のエピゴーネンの動向を問題にするか、そのどちらかなのだ。それができないのなら、そもそもハイエクやモンペルラン協会に発したリバタリアニズムを覆すか、あるいはシカゴ学派型のマネタリズムの総体をケインズにまでさかのぼって問題にするか、さらにさかのぼって市場絶対主義と決別することになる。
 しかし、今日、フリードマンを頭目とみなす新自由主義を問題にする場合は、そこまでは至らない。マネタリズムがグローバリズムと結託したこと、およびそこから金融工学に向かう異常が派生したことを一緒くたに非難するというふうになっている。
 それなら、フリードマンには罪はないのかといえば、それもない。マルクスがマルクス主義となり、ダーウィンがダーウィン主義となり、ケインズがケインズ主義となったように、フリードマンをフリードマン主義にしていこうとしたストリームから、あきらかに何かの“鬼”があらわれたのだ。

 ワシントン・コンセンサスとは、80年代半ばから90年代に、IMF(国際通貨基金)、世界銀行、ウォール街、国際的金融機関、欧米のグローバル企業などが手を組んだ非公式の協定のことをいう。
 命名は、シンクタンクIIE(国際経済研究所)のジョン・ウィリアムソンによる。IMFと世銀がワシントンにあったこと、そこにアメリカ政府の意図が噛んでいたことにもとづく。
 1989年の「中南米の経済開発についての研究会議」のコンセンサスを拡張して、組み上げた。南米諸国の通貨危機を操作して得られた処方箋を、グローバルに広げてさまざまな発展途上国や各国地域に適用しようというものだ。次の10項目が検討された。
 ①財政規律、②公共支出の優先順、③税制改革、④利子率(金融自由化)、⑤為替相場、⑥貿易政策(貿易自由化)、⑦外国直接投資(資本自由化)、⑧民営化、⑨規制緩和、⑩所有権(財産権)。
 貿易の自由化、金融の自由化、資本の自由化を迫りつつ、該当国内では規制緩和や民営化を巧みに促進させようというのだから、これはあきらかにフリードマンが本書で提案した多くの事項と対応していた。もしもこれを新自由主義のシナリオというなら、まさにワシントン・コンセンサスこそはそのシナリオにあたる。サッチャリズムもレーガノミクスも、この10項目のシナリオに着手したともいえる。
 では、これがフリードマンのシナリオなのかといえば、正確にはそうとは言えない。
 その後、ジョセフ・スティグリッツが世銀の上級副総裁になったとき、ワシントン・コンセンサスにおけるIMFの役割がこっぴどく批判されたのだが、そこではフリードマンは犯人扱いされなかった。スティグリッツの『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』(徳間書店)にもあきらかなことだ。
 しかし、ワシントン・コンセンサスがフリードマン思想に関係がないかといえば、そんなこともない。あきらかにここには捩れたかっこうでフリードマン・リストが応用されている。

 いったいフリードマンとは何者だったのか。ハイエクを扱うのが面倒なように、フリードマンを扱うのが面倒なのではない。
 本書を読んでもそういう読後感があるのだが、フリードマンはその言述においては決して勇み足をしていないのだ。ボロを出してはいない。「たまたま」にも「偶然」にも手を出さなかった。
 しかしながら、フリードマン思想をちょっとでも動かそうとしたとたん、そこに「悪魔の挽き臼」の回転が始まりかねず、その市場原理に忠実になろうとすればするほど、資本主義はグローバリズムと新自由主義をごった煮にするしかなくなって、そこからは「たまたま」の怪物も出てきてしまうのだ。「政府の失敗」と「市場の失敗」はつながってしまうのだ。
 「それってやっぱりフリードマンが元凶ではないですか」と言われないために、新自由主義者たちも、自分たちの正体を問題にするのがとんでもなく厄介になるだろうような、そんな先手を打ってきた。たとえば、新自由主義は歴史的潮流に位置づければ、先行する次の3つの潮流を継承するものになるというような論陣だ。
 (1)レッセフェールの登場とアダム・スミスの市場の思潮、(2)福祉国家の登場とフェビアン協会の思潮、(3)自由市場の復活とハイエクの「知識の自由」の思潮、これらを継ぐのが、(4)マネタリズムの重視とフリードマンの民営化の思潮。
 こういう順番とつながりを持ち出してくる。これでは批判者たちもなかなか先へ進めない。こういう論陣は、カジノ資本主義の現状批判についてのジーンとミームの関係を度しがたく厄介なものにしている。そんなことに総ぐるみで反論する徒労を想定するくらいなら、むしろフリードマンの頑固な市場自己言及主義のほうをほったらかしにして、別の視点から話を始めなおしたほうがましだというほどだ。
 けれども、事態はそうはいかなくなったままにある。
 ハイエクとフリードマンのまじったシカゴ学派が播いた種は、その自由思想の純度とはうらはらに、エンロン崩壊もリーマン・ショックもものともせず、いまなおマッドマネーと金融工学を操る市場主義者の手のなかで、“鬼ッ子”のごとくになったままなのだ。
 そうかと思えばその一方で、ハイエクやフリードマンを自由社会思想としてさらに緻密にし、二人の想像をはるかに凌ぐかのようなリバタリアニズムが多様に展示されるようにもなっている。
 これはこれは、いつまでも目を離せない状勢なのである。

 それにしても、今夜はそろそろ行く年来る年、フリードマンで年越しするだなんて、まったく予想もしていなかった。まあ、これも「たまたま」か。連環篇ではこういうえっちらこっちらも、悪くないだろう。
 それでは、本座のみなさん、今年はここまで。お正月は何のフジカラーで千夜千冊を写しましょうか。ベノワ・マンデルブロで? ニコラス・ルーマンで? いやいや、森村進や金子勝やデヴィッド・ハーヴェイで?

【参考情報】
(1)ミルトン・フリードマンの邦訳著書は次の通り。本書、『貨幣の安定をめざして』(ダイヤモンド社)、『インフレーションと失業』(マグロウヒル好学社)、『政府からの自由』(中央公論社)、『実証的経済学の方法と展開』(富士書房)、『消費の経済理論』(巌松堂出版)、『貨幣の悪戯』(三田出版会)、ローズとの共著『選択の自由』(日経ビジネス人文庫)、『奇跡の選択』(三笠書房)、ローズの著書『ミルトン・フリードマン:わが友わが夫』(東洋経済新報社)。

(2)フリードマン批判の本は経済学の専門書が重箱の隅をつついているほかは、見るべきものがない。これが市場原理主義批判や新自由主義批判となると、この数年でぞろぞろ出てきた。けれどもそこにはほとんど本格的なフリードマン批判も、ハイエク批判も見当たらない。だから今夜はその手の参考図書を紹介するのをやめておく。年が明けてから少しずつ、そのあたりの連環を紹介する。

 (3)意外なことと思うかもしれないが、フリードマンとローズの子のデイヴィッド・フリードマンは、いまやロバート・ノージック(449夜)やマレー・ロスバート以上の最小政府主義者で無政府資本主義者なのである。そのうち『自由のためのメカニズム』(勁草書房)を千夜千冊するかもしれない。

 (4)1330夜の『たまたま』から始まった連環篇の赤い糸は、不確かさや不確実性とは何かということだった。この問題はとても古くて深遠な偶然論や宿命論を背景にはしているけれど、これを現在の金融社会で逆手にとったのがヘッジファンドや金融工学の連中だった。なかにはジョージ・ソロスのような市場の怪物を相手にした怪物もいた。
 しかし、このような逆手が可能になったのは、そもそもアダム・スミスこのかた、市場には「見えざる手」がはたらいているという見方が確立してきたからだった。これがケインズにもハイエクにもフリードマンにも継承された内実の核だった。
 途中、こういう不確実性の経済操作的扱いに対しては、一方ではリストやマルクスやウェブレンやポランニーの抵抗があり、他方でシェリングやショーペンハウアーやニーチェやジンメルやハイデガーの道行があったけれど、これらは今日の経済社会思想からは遠い光景に属するものとされてしまった。
 では、これで何も議論の余地がないかというと、とんでもない。偶然も運命も、「たまたま」も不確実性も、自由もリスクも、いろんなところに荒々しい呼吸をしつづけている。たとえば脳の中で、「自己」というものの中で、社会という社会の中で、そしてシステムそのものの中で。2010年、千夜千冊はそっちのほうへ少しずつ進んでいくはずだ。ただし、その前に金融工学とリバタリアニズムの両極に到達してしまった二つの頂点を覗いておく必要がある。いましばらく、ゆっくりついてきていただきたい。
 では、心静かに除夜の鐘を聞き、深夜の初詣で若水(わかみず)をそっと口にふくんでみられたい。きっとこんな感じで元朝と新旦を迎えられることだろう。「若水や人のこゑする垣の闇」(室生犀星)。