才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

> アーカイブ

閉じる

鎮魂行法論

津城寛文

春秋社 1990

禊と祓。鎮魂と帰神。
これはたんなるオカルトじゃない。

 依霊。水滌厳法。術魂。御手代。真澄息吹。
 よりひ、みそぎいづのり、ばけたま、みてしろ、ますみのいぶき、と読む。いかにも霊妙そうで、なんとも奇っ怪な響きをもつ。めったに聞かない言葉であろうが、ある界隈ではさかんに使われている。
 こういう言葉に出会うには、神社神道のちょっとした脇道を覗く必要がある。たとえば、今日の神社神道、および神道系の多くの集団が採用している祓(はらい)や禊(みそぎ)の行は、おそらくは明治末期から昭和初期にかけて活躍した川面凡児の鎮魂行法説というものに淵源があるはずなのだが、その淵源から先を見ていくと、こうした言葉が頻繁に飛び交っていたことがわかる。
 神社神道の祓や禊なんて、その淵源はもっと古来からのものだろうと思うだろうが、むろんそのルーツは古いのだが、今日の祓の儀や禊の儀の行法となると、いまのべた川面凡児あたりの近代行法に淵源が求められるのである。すなわち、そんなところに淵源があるというのは、脇道がこれを進むうちに本道に合流しているということなのだ。神道の禊行など、てっきり古来から同じ行為が続いていたものと思うだろうが、必ずしもそうではなかったのである。

 では、そんなことを仕出かした川面凡児とは何者か。「かわつら・ぼんじ」と読む。おそらくこの名前を知る者も少ないだろう。しかしその川面凡児の霊魂観や祭神観は、あとでも説明するが、一方で大祓戸神と天御中主太神の二神による神理を組み立て、他方で「祓・禊・振玉・雄健・雄詰・伊吹」といった6段階の鎮魂のプロセスをあきらかにして、近代日本の「禊」や「祓」のしくみをほぼ“合理的”につくりあげたのである。
 ともかくも、そういう人物がいた。そう思われたい。けれども、いまはすっかり忘れられている。忘れられているだけでなく、われわれの日々をとりまく神社での日々とも切断されている。いや、忘れられ切断されているのは川面だけではない。本田親徳(ちかあつ)の霊学や長沢雄楯(かつたて)の帰神法の先行性、出口王仁三郎らの大本教がもたらしたものの意味、友清歓真(よしさね)の神道天行居のことや浅野和三郎による「神霊界」の編集力、田中治吾平の業績なども、まったく忘れられている。
 それどころか、大本教事件やオウム真理教事件、あるいは数々の霊感商法や脱税事件などのたび、意図的に却掠されてきた。

 今夜はそのあたりを少しく案内してみようと思う。“そのあたり”は「千夜千冊」では初めてだ。もっとも、早とちりをしてもらっては困る。日本の近代オカルティズムを案内しようというのではない。神道的な鎮魂行法というものが近現代の日本にさまざまな根をおろしていることを案内したい。隠された近代日本史ともいうべきであろう。
 選んだ本書は、こうした近代後期日本の神霊研究とその実践の動向を宗教学の視点から本格的にとりあげたきわめて例外的な一冊で、ぼくが前著『折口信夫の鎮魂論』で注目した著者の津城寛文によってまとまった。めずらしい一冊だ。
 本書はタイトルの『鎮魂行法論』があらわしているように、斯界ですら正確なトレースができなくなっている神道関連の鎮魂行法をめぐる理論や人物や所作行為を、比較的丹念にトレースしてみせたもので、近代日本の鎮魂行法や行法家を知るには、一般の書店で入手できるものとしては、いまはこの一冊しかないといってよい。ぼくなりに案内はしてみるが、詳しくは本書にあたられるのがいいだろう。
 津城寛文はその後に『日本の深層文化序説』を著して、日本人にひそむ深層を歴史文化的深層・社会心理的深層・生活感情的深層の3つにさぐり、たいそう説得力のある「日本深層文化論」ともいうべき新たな領域に先鞭をつけた。この著書についても紹介したいのだが、今夜は遠慮しておく。

 そもそも行法は村や結社などの共同体から生まれるものではない。古代も中世も近世も、個人が営む宗教的ないしは信仰的な行為で、かつてはその当事者はたいてい「行者」と呼ばれた。その行者を嚆矢に、その周囲に行法的な共同体が生じた。
 行法はまた理論活動だけのものではなく、必ず身体性を伴っている。ある種の身体の状態に独得の理想をもち、その身体が達した感覚と霊性の発揮や感得とを近似的にとらえる。したがって行法には行者たちの事情によってさまざまな宗派の色彩が投影されるのであるけれど、時代によってもたえず独自の変化をとげてきた。
 本書は神道的な鎮魂行法しか扱っていないので、歴史もその範囲のスケッチにとどめるが、もともと原始神道期ともくされる上代には、鎮魂行法は山岳信仰や葬送儀礼や病者の治癒蘇生などに結びついていた。それにともなって神意を糺すための占卜や託宣がおこなわれていた。とくに上代日本は無文字社会であったので(上代文字があったという仮説については、511夜『偽史冒険世界』294夜『謎の神代文字』、いずれも第5巻を参照)、中国のようにそれらの行法が体系化されることも組織化されることもなかった。
 古代、中国や朝鮮半島から多様な行法的文物が入ってきた。本書では道教的身体呪法を重視しているが、むろん仏教にも儒教にも呪法も行法もあった。もっとも仏教や儒教が古代日本の律令制度や鎮護国家仏教システムにいちはやく組み入れられていったのに対して、道教的あるいは雑密的な呪法行法はひたすら民間に広がり、各種の行者を輩出した。
 その後、神仏習合がいちじるしく進むと、行法も神仏習合的になり、とくに密教の行法が神道的なるものと交じっていく(777夜『王法と仏法』第4巻、910夜『神仏習合』第5巻)。しかしその一方で、宮中の神道的儀礼は天神地祇や氏神信仰を遵守して、仏教のもつ個人性を排除していたようで、神祇官が管掌した宮中鎮魂の儀礼にはそのころから今日におよぶ制度神道的な色彩が強かったと推測される。たとえば、今日なお皇室には神宝を振動させる宮中鎮魂の行法があるのだが、これは物部氏が所伝してきた石上(いそのかみ)神宮の長寿行法と密接な継承性をもっていて、十種神宝(鏡2、剣1、玉4、比礼3)と唱言が連動するものになっている。
 その宮中鎮魂法も、実は300年ほど断絶があり、徳川後期に復活するのである(1091夜『幕末の天皇』・第5巻)。そのあいだはどうなっていたかというと、空海が上奏して認められた内裏の傍らの真言院によって鎮魂行法が肩代わりされていた。行法にもさまざまな断絶や代替や世代交代があったのである。
 他方、中世後期以降、吉田神道・度会神道・両部神道・法華神道・垂加神道・伯家神道・橘家神道・復古神道・雲伝神道などが勃興し、確立し、派生するようになると、実に多様な鎮魂行法が巷に流出していくことになった。鎖国250年から「日の本」の内なるもの、奥なるものが噴き出てきたのだ。
 こうして時代は近代に突入し、神仏分離と廃仏毀釈のもと、新たな神社神道の奔流のもとに独得の行法家を出現させることになる。

石上神宮

 本書は近代の鎮魂行法家を、二つの流れに大別している。ひとつは本田・大本系、もうひとつはそれ以外である。
 本田・大本系は近代鎮魂行法の嚆矢を告げた本田親徳と、その系譜に加わっていった大本教系の流れのことで、長沢雄楯、出口王仁三郎、浅野和三郎、友清歓真(よしさね)、谷口雅春、若林耕七、荒深道斉(あらふかみちなり)、宇佐美景堂、岡田茂吉、岡田光玉(こうたま)、佐藤卿彦(あきひこ)、黒田みのる、五井昌久らがつらなる。
もうひとつは先に紹介した川面凡児に始まり、それぞれ別々に活動したのだが、田中治吾平、宮地水位、宮地厳夫、山蔭基央(もとひさ)らが輩出した。これらのなかから主な行法家をとりあげておく。

 本田親徳は文政5年生まれの薩摩の神道家で、17歳のときに皇史を読んで感動し、東上して会沢正志斎や平田篤胤の門に学び、西郷隆盛を介して副島種臣とも交流した。35歳前後に神祇伯白川家の最後の塾頭だった高浜清七郎とも交歓があったようで、そのとき白川神道を吸収した。白川神道は公家の神道というべきもので、ここからは幕末維新のさまざまな“黙殺されてきた歴史動向”が暗示的に引き出せる。
 本田はそうした幕末の最後の慶応3年の前後に「帰神法」を確立したらしく、その事跡の細部はわからないのだが、明治になって静岡県知事の奈良原繁(薩摩出身)の力添えで静岡県志太郡岡部の神(みわ)神社を最初の拠点にすると、ついでは秩父に、川越に道場をひらいた。その行法は初期は「神懸三六法」というもので、のちに「本田霊学」と呼ばれるようになった。ぼくは以前から鈴木重道編纂の『本田親徳全集』全一巻や佐藤卿彦の『顕神本田霊学法典』という本をもっていて、「産土百首」や「古事記神理解」や「天数卜原図」といった、そうとうに奇妙な歌や図や解義を折りにふれてちらちら眺めていたものだ。
 長沢雄楯は安政5年の清水生まれ、漢学を学ぶかたわら御穂(三保)神社などにかかわり、月見里(やまなし)家の屋敷で稲荷講社などを仕切っていた。やがて明治17年の27歳のときに本田親徳に出会って詰問をことごとく論破され、ついで鎮魂帰神術を教えられると、各地の神主の指導に当たるようになっていった。昭和5年には県下の神職としてただ一人、昭和天皇に拝謁した。この長沢の弟子筋に出口王仁三郎、中野与之助、友清歓真らが出た。

 出口王仁三郎こと上田喜三郎については、いずれあらためてとりあげたいので今夜は詳細を省くことにするが、いわずとしれた出口ナオのお筆先から生まれた大本教をほとんど独力で一挙に拡張した大立者である。書くこと、為すこと、作ること、いずれも奔放で破天荒だった(書もおもしろい)。
 明治4年に亀岡穴太に生まれ、明治21年に本田親徳に出会い、明治31年に丹波綾部の出口ナオと出会っている。長沢同様に稲荷講社の活動が原点にある。奇書ともいうべき大著『霊界物語』には、長沢雄楯が審神者(さにわ)となって自分を招いたという記述がある。つまり王仁三郎は長沢の鎮魂行法によって神懸かりに入ったというのだ。大本系では、憑依していく者を神主といい、憑依をふくむすべての活動を傍らで統御する者を審神者という。そのうえで主として「帰神」「神懸」「神憑」の3つを説き、行法化した。
 その王仁三郎の大本教に浅野和三郎が登場してくる。いっとき「大本の浅野か、浅野の大本か」と言われたほどだが、活躍は大正6年からの数年間に集中する。「神霊界」を編集して(のちに「心霊界」)、王仁三郎の絶大な信頼を得た。が、大本教が弾圧され、ついにその神殿が爆破されるにおよんで(この顛末を書いたのが高橋和巳の『邪宗門』)、浅野は単独の心霊研究に乗り出していく。今日の日本心霊科学協会はその土台のうえに築かれた。

 友清歓真は明治21年に山口に生まれ、11歳で神隠しにあったのがきっかけで、政治性と神秘性の両方に惹かれていた。大正6年に英彦山で雷鳴に打たれたのがさらなる転機となって、修験・密教などをへたのち、浅野和三郎が審神者となって大本教に入信した。
 が、まもなく大本教に疑問をもち、本田霊学に回帰した。やがて九鬼盛隆とともに格神会をおこし、これが前身となって「神道天行居」を結社した。それが大正10年である。「浄身鎮魂」(みきよめたましずめ)を唱導した。昭和に入ると山口県熊毛の石城山に日本(やまと)神社をおこした。この神社名から想像がつくように、友清歓真はひとかたならぬ国粋主義にも傾いていて、日米決戦の必然を解いて各地の山上で霊的国防神事を挙行している。
 谷口雅春はよく知られていよう。「生長の家」の創始者である。ただその前は早稲田大学、退学、紡績工場勤務、退職といったことをくりかえして、当時の神霊雑誌「彗星」で大本教を知って入信、大正7年には綾部に移住してかなりどっぷりと大本の日々を送っていた。
第一次大本事件ののちはしばらく浅野和三郎の心霊研究を手伝ったりしていたのだが、やがてクリスチャン・サイエンスやニューソートの動向にも惹かれるようになり、唯心論にのめりこんだのち、昭和5年に「生長の家」を立教した。その鎮魂行法は「神想観」と名付けられている。付け加えると、ぼくの母は穏便な「生長の家」のシンパサイザーだった。母はぼくにも『甘露の法雨』という短い経典のようなものを読むようにしきりに勧めていた。
 岐阜の中洞村に生まれた荒深道斉は、長沢の高弟の若林耕七が審神者になって神懸かりして、さらに浅野によって大本の神髄にふれていった。昭和3年に「純正真道(まことまさみち)研究会」をおこした。今夜の冒頭にあげた「依霊」「水滌厳法」「真澄息吹」といった用語はすべて荒深道斉による造語である。依霊は憑依霊を離していくこと、水滌厳法や真澄息吹は清水とのかかわりや呼吸法のことをいう。いずれも現実の人間が「本霊」(もとひ)や「直霊」(なほひ)になれる方法を示唆しようとしたものだと思えばいい。
 宇佐美景堂は、もともとは神宮皇学館の出身で伊勢神宮に奉職していた神社神道の"正統派"であったのだが、大正4年に大本教に入信してからかなり変化した。大本も早々に退会して、名古屋の水野万年の言霊学を学んだり、警視庁巡査になったり、日本大学の宗教学科に年長入学したり、竜田神社や丹生神社に務めるというような神社神道的な経歴をもっている。

 これで本田・大本系のだいたいの流れが見えてきたとおもうが、当時の大本体験がいかに決定的な転機をもたらしていたかは、よくわかるであろう。いずれも貧乏・病気・不遇・不運の時期をおくっていた者ばかりである。都会出身者は一人もいない。
 岡田茂吉もその一人で、かつ最後の大本系の行法家であった。岡田はいまは世界救世教の開祖として知られるが、やはり病気・事業破綻・妻子との死別などを連続的に体験したうえで大本に入った。大正9年の入信、昭和9年の退会である。
 岡田が大本から学んだものは「立て替え・立て直し」の思想と薬物批判の思想だった。薬物批判とは、そのころの多くの神道系の新宗教が重視していたことで、医学や薬物によっては病気は治らないという思想をいう。ろくな医療をうけられなかった大正昭和期の日本の地方の実態から派生した治癒思想でもあったが、それが近代日本人の霊力への関心を高めたのである。岡田はとくに王仁三郎が考案した「御手代」(みてしろ)に影響をうけ、和歌を書いた扇を鎮魂の行器にした。王仁三郎は杓子に和歌を書いて拇印を捺し、それをもって信者の霊的治病具とした。こうした岡田の活動はのちにまとめて「浄霊」とよばれる。
 岡田光玉(こうたま)はその岡田の世界救世教から分派して、世界真光(まひかり)文明教団を創始した。その「真光の業」や「手かざし」は世界救世教の浄霊の庶子である。苗字は同じ岡田だが、まったく血縁関係がない。
 このほか本田霊学の正統をうけついだ佐藤卿彦(月見里稲荷講社の出身)、「ス光光波世界神団」や「光輪」の黒田みのる(スはスサノオ)、日立製作所の工場から世界救世教・生長の家・千鳥会をへて「白光真宏会」をおこした五井昌久らがいる。

 本田・大本系に対して、独立系ともいうべき流れの当初にいるのが、先に紹介した川面凡児である。大分の宇佐神宮の近くに生まれた。そこに馬城山という霊山があって、川面はそこに入山して霊験を得た。
 明治18年に青雲の立志をもって上京、苦学しているうちに小石川伝通院の松浦泰成に見込まれて、麻布の阿弥陀院に住まいを供されるとそこから仏教研究にのめりこみ、しばらくは蓮池蓮華宝印のシンボリズムに打ちこんだ。その後、明治25年に淑徳女学校の教壇に立ち、自由党の党報の編集、長野新聞の主筆などを務めた。そのころ長野新聞に対抗していた信濃毎日新聞の主筆が山路愛山だった。
 川面はそのあとも紀州熊野実業新聞の主筆をはじめ、各地の論説にかかわり、寄稿も多くなるのだが、日清・日露の両戦争をくぐりぬけるうちにしだいに国家を憂うようになり、ついに明治39年春に東京谷中の三崎町において「大日本世界教稜威会」を設立した。「稜威」はイツと読むのではなく、「みいず」と読ませている(稜威については483夜の山本健吉『いのちとかたち』564夜の丸山真男の『忠誠と反逆』などを参照。いずれも求龍堂「全集」第5巻所収)。
 川面の稜威会は最初のうちは講演会形式だった。そこに御岳教の管長の神宮嵩寿、国学者の井上頼国、さまざまな僧侶たちが聴講しにきていた。蓮沼門三の修養団はそんな川面に講演を依頼した。明治42年冬、川面は最初の「禊」の行を寒中に敢行する。神奈川の片瀬の浜である。奈雪鉄信が参加した。ついで長野の山中で夏の禊を、その後は各地で禊の会がひらかれていった。修養団はその後も川面が開発し、のちに国民体操にも採用された「とりふね運動」にも関心を示して、その特徴をとりいれていった。

 稜威会の影響はしだいに広がっていった。大正3年には奥沢福太郎の尽力で、海軍将校秋山真之(司馬遼太郎『坂の上の雲』の主人公)、法学者鵜沢聡明、海軍大臣八代六郎、検事総長平沼騏一郎らが川面に接触するようになり、「古典考究会」なるものも海軍クラブの水交社に発足した。来賓に八代六郎・杉浦重剛が、祝辞に頭山満・筧克彦らがつらねた。
この「古典考究会」はのちに『古典講義録』として29冊のシリーズとなり、井上哲次郎をして「将来もし神道一切経とでも名付くべきものを編纂されることあれば、川面氏の著作は最も重要なる地位と大なる分量を占むるであらう」と書かせた。
 禊の重視も広がった。とりわけ九州福岡では川面への傾倒がいちじるしく、福岡県の神職の多くが川面の禊を必須にするようになり、大正5年には福岡市長が川面を招いて講演会を開催し、翌年には筥崎に稜威会福岡支部が発会するまでにいたっていた。福岡出身の幡掛正木、鷲津耕次郎、行弘糺らがその後の神社神道界に川面の行法を広めていったことは、よく知られている。
 とくに神宮奉斎会の会長で、大正期には「神道界の最高長老」と噂されていた今泉定助が川面の禊の会に参加するにおよぶと、神道界の多くが川面式の禊行を援用するようになった。その行法は冒頭にもちょっと書いておいたが、「祓・禊・振玉(ふるたま)・雄健(おたけび)・雄詰(おころび)・伊吹」の6階梯になっている。
 しかしこうした川面の活動は、軍部の台頭とともにその利用するところと重なっていったのでもある。今泉のはたらきによって大政翼賛会が国民的行事に禊行を採用したためだった。あげく、川面凡児も超国家主義イデオロギーの中心人物の一人とみなされた。
 川面は昭和5年には死んでいる。したがって日本のミリタリズムの暴虐とは重ならない。しかし昭和14年の十周忌は九段の軍人会館で挙行され、斎主に高山昇(前官弊大社稲荷神社宮司)、副斎主に富岡宣永(東京深川八幡宮宮司)、祭文奏上に水野錬太郎(全国神職会長)が立ち、総理大臣平沼騏一郎、文部大臣荒木貞夫が列席した。その翌年が大政翼賛会の発足だった。政治家たちの常套句に「みそぎ」が使われるようになったのは、このときからなのだ。

 このほか独立系として、高知の宮地神仙道の一文になる宮地水位や宮地厳夫(ニギハヤヒの鎮魂行法を説いた)、岐阜出身の東洋大学インド哲学科の神道学者で、『神道哲学』『鎮魂伝習録』の著書もある田中治吾平(じごへい)、さらにはかなり特異な山蔭基央などがいる。
 ここでは最後に山蔭基央だけとりあげるが、山蔭家は歴代皇室に仕えた古神道家だということになっていて(オオナムチとスクナヒコナの二神が伝えた神道)、いわゆる山蔭神道(吉田神道の分派)に属する。76代の中山忠伊が光格天皇の庶子の皇子、77代の中山忠英が明治維新で王政復古を唱えた大日本皇道会の組織者、その三男の78代中山忠徳が皇典考究所(現在の国学院大学)をへて御岳教に入り、ついで御岳本教をおこし、これを昭和4年に改称して「人類愛信太祖教」(のちの愛信会)とした。
 山蔭基央はこの愛信会の主幹となった人物で、のちに中山忠徳の養子になったため(昭和21年)、山蔭神道を継いだ。いまは天社山山蔭神道愛信会を主宰する。

 ざっとこんな流れである。どの行法がすぐれているかなどということは、ぼくにはさっぱりわからないが、こうした数々の動向が近代から現代史の流れのなかにくみこまれていて、多くの民衆的な日本人を動かしていったことは、やはり額面どおりに認識すべきだろう。たんに近代オカルト主義とか霊感趣味としては片付けられないものがある。
 なかで、鎮魂行法の行為的思想としてとくに注目するべきだと感じるのは、やはり川面凡児であろうか。
 川面の直観にはつねに二つの霊的動向がとらえられている。ひとつは世間の周辺に出入りする霊的エネルギーで、もうひとつは大神が降ろしている稜威の霊的エネルギーである。そのあいだに人がいて、御幣をかざして禊や祓をするメディアになっている。そう見れば察しがつくように、これは現在の大半の神社神道がおこなっている儀式的行為の図式とまったく変わらない。が、川面はそこに「微分子」という細部の流入性と脱出性をになう担体を想定して、実際の鎮魂や脱魂がどのようにおこるかを詳しく説明した。
 そのあたりのことは本書にも正確にトレースされているので、知りたければそれを読んでもらったほうがいいが、その川面の行法が、一方では今日の神社のそこかしこにストイックに入りこみ、他方では大政翼賛会とともに戦中の日本に波及したということを、あらためて考えるべきなのである。
功罪半ばだというのではない。日本人はいまでもことあるごとに神社でお祓いをうけているのだが、そうした禊や祓をどのようにうけとめているのか、ここらでちゃんと考えたほうがいい。そう、言っているのである。
 鎮魂行法は宗教学的にはシャーマニズムの系譜に入る。そこには憑霊型のものと脱魂型のものがある。そんなことはシャーマニズムの歴史このかたずっと続いていることだ。しかし、そのシャーマニズムが今日の日本の神社のそこかしこでも“近代的”に継続されているというふうには、ふつうは思わない。けれども、そうした見方をいっさいしないようにしたとたん、むしろ日本は奇怪なオカルティズムに犯されることになるのである。いささか、じっくり考えなおすべきことだろう。

川面凡児の流れを汲む禊の儀式

附記¶おそらくほとんど入手できないだろうけれど、いくつかの“原典”を示しておく。『本田親徳全集』『顕神本田霊学法典』(山雅房)、『大本七十年史』(宗教法人大本)、池田昭編集『大本史料集成』(三一書房)、『友清歓真全集』(神道天行居)、『生長の家五十年史』(日本教文社)、荒深道斉『古神道秘訣』(八幡書店)、田中治吾平『鎮魂法の実修』(霞ヶ関書房)、山蔭基央『日本の黎明』『神道入門』(白馬出版)、『川面凡児全集』(川面凡児先生十周年記念会)などだ。参考書として岸本英夫『岸本英夫集』(渓声社)、佐々木宏幹『シャーマニズムの人類学』(弘文堂)、I・M・ルイス『エクスタシーの人類学』(法政大学出版局)、金井南竜『神々の黙示録』(徳間書店)、鎌田東二『神界のフィールドワーク』(創林社)、斎藤稔正『変性意識状態(ASC)に関する研究』(松籟社)などをあげておく。
 津城寛文の著書についても、一言、加えておきたい。著者は東大農学部林学科と東大大学院宗教学宗教史学の出身で、現在は城西国際大学教授と国学院大学日本文化研究所の研究員を兼ねている。で、その著書だが、本書、『折口信夫の鎮魂論』(春秋社)、『日本の深層文化序説』(玉川大学出版部)ともに、いずれもおもしろい。よく書けてもいる。とくに『日本の深層文化序説』はこの著者の新たな出発点を物語っていて、既存の日本人論を決定的に組み替えるアフォーダンスとスコープを提供した。扱っている範囲が広すぎて、全体にはすぐれた概観を提供しているにとどまっているのだが、それでも日本人の心性にひそむ文化的深層を「地」と「図」に峻別して眺望している視点がよく、類書と比較するというより、ここから新たな日本文化論や「日本という方法」への深化がおこるだろうという予感をもたせてくれた。
 実はこの本の6章「文化史の深層」と8章「原風景への郷愁」には、ぼくの『花鳥風月の科学』が登場していて、ちょっと感慨深かった。1995年の著書なので、まだぼくが『フラジャイル』や『日本流』や『日本数寄』などを発表していない時期で、よくぞ『花鳥風月の科学』一冊でその考え方の骨格をとらえたものだと、当時、感じた。その後の書きおろし著書が待たれる炯眼の研究者なのである。