山本健吉
いのちとかたち
新潮社 1983
ISBN:410323203X

 この本は幸田露伴の『連環記』のようにしたかったと著者自身が言っている。慶滋保胤が二十五三昧会を催していたころの物語で、次から次へと挿話と場面が連環するという結構である。
 この『連環記』がやたらに好きだという作家や文学者は、多い。ぼくが知っているだけでも、江戸川乱歩、石川淳、花田清輝、山本健吉、篠田一士、司馬遼太郎が絶賛しつくしている。それは、そうだろう。あれは極上だ。
 それなのにいまや誰も『連環記』を読まなくなった。いやいや露伴全集を覗く者など、いまどきめったにいない。

 そんなことはともかくとして、本書との出会いにはちょっとした経緯(いきさつ)がある。
 まず山本健吉についてだが、ぼくは長らく"歳時記の専門家"としてしか見ていなかった。それがあるとき、父の書棚に並んでいた『芭蕉』上中下3冊を高校の終わりころに拾い読んだ。新潮社が刊行していた"一時間文庫"という洒落たシリーズだった。ただし読んではみたものの、この本は著者のせいでおもしろいのか、もともとの芭蕉のなせるわざなのか、そこがとうていわからなかった年齢での読書だったので、それからずいぶんのことに山本健吉は放ってあったのだ。
 それが、20代半ばをすぎたころだとおもうのだが、そのころ光り具合がよかった「季刊芸術」という雑誌に『三つの古語についての考察』の連載が載っていた。

 三つの古語というのは「もののあはれ」「色好み」「やまと魂」のことだった。当時のぼくには、この組み合わせはちょっとしんどかったけれど、ええいままよと毎号読んで、それなりに柳田・折口との距離やら「たましひ」を呑んだ日本人論の起こし方などを観察できた。
 ところが、この連載は尻切れトンボだったのである。そこでなんとなく収まりが悪いままになって、それからもときどきは健吉ものには出会ってはいたものの、そのまま消化不良が続いていたのだった。それがやっと本書で、あの連載の「続き」に決着がついたという順序なのである。

 さて、本書『いのちとかたち』は山本健吉が満を持して「日本とは何か」という思索の奥へ降りてみた試みになっている。サブタイトルにも「日本美の源を探る」がつかわれた。
 それを「もののあはれ」「いろごのみ」「やまとだましひ」の3つの古語に拠点をおきながら考えている。いろいろヒントをもらったが、総じてはこんな感想をもった。

 よく和魂洋才という。明治には大流行した言葉で、いままた復活しつつある。
 しばしばこの言葉で日本のありかたも安易に説明されてきた。しかし、言うまでもないことだが、かつては「和魂漢才」ということばだけがあった。
 ここで「魂」と「才」とが何を意味しているのかということに興味をもつ者は少ない。「魂」は魂魄のひとつで、われわれに宿っているものだが、われわれが何かの極限に近づかなければ、それが魂や魄となっては出てこない。そういうものだ。たとえばわれわれが死ねば、これはまさしく極限なのだから体から魂魄は飛び立つ。古代人はそう理解した。が、これでは魂のつかいどころがない。そこで早々に魂をつかうために魂振りなどをした。
 一方の「才」のほうはもともとは人に宿っているものではなかった。才とは木や石や草に宿っているものをいう。かつてはサエとかザエといった。その才を引き出すことが「能」である。だから洋才というばあいは、ほんとうは西洋の素材から日本人が引き出すべきものをさす。絵の具やカメラから何かを引き出せば洋才だ。漢才なら漢字や漢詩や中国の衣服や瓦から何かを引き出すことをいう。
 それがしだいに、人にも宿る「魂」と「才」とを一緒くたに語るようになった。

 そこでわが国では、たとえば藤原隆信の『源頼朝像』や『平重盛像』で似絵の名手が何を描いたかというと、「魂」を描いたというふうに言われる。
 しかし日本の画人たちは魂を剥き出しに描くのではなかった。何かをする。何かが何であるかはあとでぼくなりに暗示するが、その何かをしてできあがった肖像を「影」とよんだ。いまでも撮影・影響・御影などという言葉があるように、画人は「影」を映し出し、写し出そうとしたのだった。かつてはこの映し出てきたものを「影向」(ようごう)ともいって、そこに気韻が生動すると見た。
 この手法こそが和魂漢才のルーツのひとつにある。このことがわからないと、日本の絵画に陰影がないことがわからない。
 そもそも「影」の起源は「たましひ」の動向にあるのだから、陰影など必要がないというのが山本健吉の本書の前提なのである。だからその「かげ」から、たとえば「かがよひ」「かげろふ」「かがみ」などが出てきた。「かぐやひめ」といえば、そういう影向をおこした姫の象徴なのである。

 こうして本書は、「からざえ」に対するに「やまとだましひ」が対置できるのだと考えた。
 すでに「やまとごころ」「心だましひ」「世間だましひ」などという言葉は平安中期につかわれていた。「やまとだましひ」は『源氏物語』少女の巻(1570夜)に早い。初出かもしれない。そこにはたとえば、「なほ才をもととしてこそ、やまとだましひの世にもちゐらるる方も強うはべらめ」とある。
 津田左右吉はさすがにこうした平安期に発していた和魂漢才の意味を取り違えなかった。漢字漢文漢詩にもとづく漢才に対して、どのように和魂としての「やまとだましひ」を対応させるかを、『文学に現はれたる我が国民思想の研究』の第1巻で説いた。では、この見方が取り違えられて国体思想と結びつき、和魂漢才が和魂洋才にスライドしていった原因をつくったのはどのへんかというと、山本健吉はきっと大国隆正あたりだったろうという。大国は平田篤胤の門下生である。

 ぼくは本書で、こうした「やまとだましひ」の教育を女性が引き受けようとした歴史があったことを知って、得心した。
 それは「やまとごころ」という言葉の初出が赤染衛門の歌にあって、そういう歌を詠む女性たちが「やまとだましひ」は自分たちが子供に教育できるものだと自信をもっていたことだった。
 夫の大江匡衡が「はかなくも思ひけるかなちもなくて博士の家の乳母せむとは」と詠んだのに対し、妻の赤染衛門が「さもあらばあれやまと心しかしこくば細乳につけてあらすばかりぞ」と応えた歌である。匡衡は「ち」を「知」と「乳」にかけたのだが、赤染衛門はそこを学才などなくたって「やまとだましひ」は子に伝えられるものですと切り返したわけだった。
 だいたい日本の教育の本道は感染教育であり、感染学習である。だからこそ、門人がいて門弟ができた。だからこそ師弟が生まれ、入門という儀式があった。赤染衛門は、そういう感染教育なら女性こそが得意ですと言ったわけである。

 そこで本書は、このような感染可能な「やまとだましひ」をさぐりながら、その背景に「イツ」という観念が動いていたのではないかと推理が進む。
 イツとは「稜威」と綴る言葉で、この言葉がわかる日本人は専門家をのぞけばほとんどいないのではないかとおもう。あえて民族学用語をあてはめればマナにあたるかもしれないが、マナとはだいぶんちがう。
 稜威は折口信夫なら外来魂ともいうことになる。古代文学史では天皇霊に稜威をつかうこともある。折口か柳田かは忘れたが、琉球語では稜威は「すでる」にあたると読んだことがある。山本健吉自身は「よみがえる能力を身にとりこむこと」とか「別種の生を得ること」とか「生きる力の根源になる威霊を身につけること」というふうに稜威を説明しているが、ちょっとピンとこない。
 いずれにせよ本書は、こうした稜威をめぐる重要な一節を挟んでおきながら、そこに深まらないで、ふわりと枕詞や歌枕の話に移行するためにあれこれの引用をしはじめるのだが、ぼくにはそれもまた次の理由でおもしろかった。
 それは、枕詞や歌枕が歌という様式をつかって稜威に入るためのものではなかったかと思えたからである。本書はそこまで踏みこんで言わずに、枕詞や歌枕を「生命の指標」と言うにとどめているのだが、ぼくは日本語と和歌の本来の関係にひそむ「言葉としての稜威」という力からみて、そういうこともあっていいと考えた。本書からの収穫である。
 どうみても「たらちねの」「ひさかたの」「たまきはる」といった言葉の呪力は歌のためにつかう言葉の蘇生というよりも、それらの言葉に託された意味の再生を願った「冒頭の稜威」にほかならないからである。
 触れるなかれ、なお近寄れ。これが日本である。これはまた、ぼくの信条である。
 また、これが稜威の意味である。
 限りなく近くに寄って、そこに限りの余程を残していくこと、これが和歌から能芸におよび、造仏から作庭におよぶ日本の技芸というものである。
 そこには稜威が仕込まれている。その稜威からなんらかの生活の再生が連打されるのだ。たとえば刀の研師(とぎし)たちはその刀が再生しうることを知っている。その再生への確信を、日本刀ばかりではなくて、どこまで日本文化のさまざまな現象に広げられるのか。屏風絵や俳句や内露地の飛石に認めることができるのか。本書はそのようなことを、最後は世阿弥の能にまで広げて語ろうとしたのであるが、志は途中で終わっている。何が稜威であるかを指摘そこなった。

 本書にも引かれている例でいえば、アンドレ・マルローは根津の『那智瀧図』と本物の那智の滝を竹本忠雄に誘われて見たときに、さすがにこのことに気がついたのだが、うっかり「ルサクレ」(神秘)、「ルトレ」(後退)というフランス語でこの稜威の感動を説明しようとした。
 さあ、問題はここからなのである。
 マルローがまちがっているというのではない、「とうとさ」「あとずさり」はたしかに日本のどこかの大切になっている。稜威とはまさにそのことである。しかし、それを誰がどのように説明しきれるか。どこに稜威があると指摘できるのか。天皇霊に稜威があるなどというのは、まことに中心に因りすぎた稜威である。もっとたくさんのところに稜威は遊んでいる。本書もそのことを、そうとは指摘しないで能や茶や花に言及し、芭蕉の旅にも探ろうとはしたが、さきほども書いたように、志は拡散していった。
 ぼくは、どうか。
 一昨年は四国で「日本再発見塾・おもかげの国」の5回を、昨年は「時塾」の7回を、いまは上方伝法塾「いろは日本」というものを先日で第8回まで終えたのだが、実はこれらの日々のなかでは、きっと徹底して稜威をこそ暗示しえたとおもっている。
 聞いてくれた人たちが何を感じたかは、よくは知らない。熱心に聞いてくれてはいたが、きっとその場かぎりの感動も多かったにちがいない。しかし、それで稜威は動きはじめたはずなのだ。いつか、それがどのようになっていったのか、ぼくのほうから尋ねてみたいことである。

コメントは受け付けていません。