ルドルフ・ウィトカウアー
アレゴリーとシンボル
平凡社 1991
ISBN:4582238173
Rudolf Wittkower
Allegory and the Migration of Symbols 1977
[訳]大野芳材・西野嘉章

 ヴァールブルグ・コレクションの一冊である。このシリーズをよくも平凡社は発刊に踏み切った。
 ヴァールブルグ・コレクションとはアビ・ヴァールブルグの構想のもとに集まったヴァールブルグ研究所の数十年にわたる成果をさすのだが、ともかく目をみはる凄列だ。ぼくが永年にわたってヴィジュアル・コミュニケーションの問題として浮き上がらせたかったことの大半が、この研究所でえんえんと取り組まれ、いずれもとびきりの成果となってきた。いずれ何かの書物を通してこの研究所については説明したい。
 本書はその偉大なヴァールブルグ成果のひとつにすぎないが、ぼくとしてはシンボル(象徴)よりもアレゴリー(寓意)の解明のための踏み台となった。

もともとウィトカウアーには夫人とともに著した『土星のもとに生まれて――数奇な芸術家たち』(岩崎美術社)という大著があった。
 いったいこんな凄い本を誰がちゃんと読んでいるのだろうかとおもう大著で、ぼくはこれを1969年に入手して(入手するまでも何度も書店でちらちら目配せしていたのだが)、そこに登場するルネサンス前後の孤独で沈思黙考が好きで、社会から見離されることを厭わない土星的宿命を負った数々の芸術家に出合わされて、ほとんど失神しそうになったものだった。
 ブルネレスキも「憂鬱」とは何かということも、マルシリオ・フィチーノがプラトン・アカデミーで何を企てたかということも、パルミジャニーノが錬金術にとりつかれた理由も、ティツィアーノの打算も、みんなこの分厚い一冊が教えてくれた。飢餓と名声、嫉妬と浪費がこのころすでに結びついていたことも、ウィトカウアーが教えてくれた。

 それから20年あまりたって、ぼくにもそれなりの美術史の読み方というものができ、『アレゴリーとシンボル』もけっこう分厚い一冊ではあるのだが、失神どころか、手薄いところが気になるほどに速射しながら読めるようになっていた。
 第1章から第6章までが、どちらかといえばシンボルの問題である。蛇を食らう鷲、複合的な組み合わせによって形成された東方的な怪物、オランダ版画にひそむ怪鳥ロックの世界的分布、こうしたシンボルが東西の交流によってどのように変移してきたかを追っている。バルトルシャイテスの"飛んだ解釈"に比べれば、うんと地味ではあるけれど、これはこれで参考になる。
 しかし興味をそそられたのは第6章の「好機・時・美徳」に始まるアレゴリーについての研究である。

 だいたい平和といえば鳩、民衆蜂起といえば握りこぶし、学業といえば2本のペンの交差、クリスマスといえばイルミネーションという選定が、ぼくにはずっと気になっていた。
 明るい食卓と幸福な家族、戦士の休息と翼を休めた天使、たいしてうまくない日本料理屋と琴の音、受験指導とフクロウ博士、日本のプロレスなのにチャンピオンベルトにはライオンか鷲。こういうものはつまらなくて仕方がなかった。それにもかかわらず、花札の松に鶴、花見に幔幕、月見にススキ、あるいは夕波と千鳥、牡丹と蝶と獅子、日輪と三本足のカラスは、悪くない。
 同じくアレゴリーの系譜であろうのに、なぜに一方がくだらなく見えて、他方が好きに映るのか。
 おそらくアレゴリーには民族と歴史の記憶の襞が刻まれている。それがろくすっぽ変遷を経ないでアレゴリー化したものが、きっとおもしろくないのであろう。それでは大室幹雄ではないが「アレゴリーの墜落」なのだ。
 アレゴリーは単純に見えて、実は襞々をもっている。その襞々から何かが民族の胸に向かって飛んでくる。その飛行ぐあいにつまらぬ墜落がないのがアレゴリーの愉快というものなのである。寓意の悠然というものなのだ。

 西洋では、当初にキケロがいたわけである。アレゴリーとレトリックの天才だった。
 そのキケロがたとえば「時間」(カイロス=クロノス=テンプス)と「好機」(エウカイリア=オカシオ)を分別してみせた。これで寓意の翼が二方向にスプリットした。
 では、この「時間」と「好機」とを芸術家たちはどのようにヴィジュアルな寓意に描いたのか。まず、運命の女神たちを割りふる必要がある。ボッカチオの『神々の系譜』では「好機」が女神フォルトゥナと結び付けられている。リューベンスはもう少し物語的に考えた。「時間」と「好機」の親子関係を割り出して、好機を“時の子”と見立てた。けれども子供がひとつではものたりない。リューベンスは「時間」の子に「真理」という娘をあてがったのだ。これで突如として機会の寓意は物語性を帯びてきた。
 リューベンスを見て、ダヴィッド・マルシャンは別の物語を考えた。時が好機を連れ去ってしまうという発想で、せっかくの好機が活用されなかったという性質を描こうとした。象牙作品『失われた好機』はそこを彫っている。
 けれどもベルニーニはさすがにもっと深かった。有名な『プロセルピナの掠奪』は「好機」ではなく「真理」が連れ去られたとみなしたのだ。たしかにこのほうがアレゴリーの翼に連続感がある。好機がいなくなってしまうのはあたりまえすぎるのだ。その好機に真理がまにあわなかったというほうが、ずっと物語がもたらすイメージ残響の度合が深い。

まさにバロックである。バロックとは、このベルニーニに象徴されているように、二つのシンボルが物語に関与して、そこにあってもいいはずのもうひとつのアレゴリーが見えないという芸術なのである。

 ともかくもアレゴリーはもっと回復されなければならない。アレゴリーが身辺にない文化は貧弱である。アレゴリーは見立てをふやし、自身のイマジネーションにいくつもの隙間をつくる。
 しかしながら、このようなアレゴリーが西洋社会のなかでばかり研究され、東洋や日本のイマジネーションの歴史にあまり適用されてこなかったのが、なんとも残念である。いますぐ山東京伝の才能がほしいとはいわないが、せめて草森紳一ほどの知の遊びが日本のそこかしこで小さな翼をもって飛び立っていただきたい。
それからもうひとつ。東洋や日本のアレゴリーはコンピュータ・ソフトウェアの中にこそ相性がいい。いまぼくは「ZENetic
Computer」というものをATR・MIT・EELをまたいで開発しつつあるのだが、それが東が西を引き寄せた最初のインタラクティブ・アートテクノロジーになるのではないかと思っている。ねぇ、そうだよね。土佐尚子さん。

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