ハマラヴァ・サダーティッサ
ブッダの生涯
立風書房 1984
Hammalava Saddhatissa
The Life of Bouddha 1976
[訳]桂紹隆・桂宥子
編集:松田悠八 装幀:芦澤泰偉・針谷美枝子
どんな本でもいいので、ブッダその人の一部始終の大枠に一度は溺れるべきである。ぼくが確信するに、21世紀は仏教こそが新たな価値観や世界観をもつはずなのだ。ただし、日本の坊さんたちの実情はこの半世紀ほど、かなりヤバイものになっている。これではまずい。そういうことをモンダイにするにも、まずは男シッダールタを実感しておきたい。

 子供のころ、お釈迦さんのことは「おシャカさん」とか「おシャカさま」と言っていた。それも4月8日の花祭りか夏休み終わりの地蔵盆のときくらいで、シャカシャカした名前なのでおかしかった。父親は何度も「そんなこと言うたら、お釈迦さんのバチがあたるで」と窘(たしな)めた。
 花祭りがおシャカさんの誕生日であることは母が教えてくれたが、小ちゃなおシャカさんの像に甘茶をかける意味を、伝えてくれなかった。これは甘水・香湯(ソーム・アマリタ)のことだった。お寺では灌仏会(かんぶつえ)、降誕祭、仏生会(ぶっしょうえ)、花会式(はなえしき)などという。

花祭りの誕生仏
正式名称は「灌仏会」。釈迦の誕生を祝う仏教行事。日本では原則として毎年4月8日に行われる。

 わが家は浄土真宗「お東」で、阿弥陀さんの像は仏壇に掛かっていたが、お釈迦さんはない。だから仏教を始めた人だということくらいはわかっていたつもりだが、キャラクターとしての実感がない。花祭りではおシャカさんは小ちゃくてかわいい子供(誕生仏)なのだ。
 遠足で清涼寺に行ったとき、初めて大きな釈迦如来像を見たのだと憶う。なぜおシャカさんがシャカニョライなのか、どうしてシャカとニョライが一緒のネーミングになっているかはわからなかった。如来については、いまもってその本義がつかめない。「如来蔵」という考え方が難しい。

 どうも日本の子にとって仏教は遠すぎる。そう、しすぎた。お釈迦さんが「ブッダ」とか「釈尊」と言われたり書かれたりしていることはだいぶんあとで知るのだが、これではなんとも落ち着かない。呼び捨てかよと思ったし、突然の呼び捨てブッダはなんだか「ありがたみ」がない。
 とりあえず、オトナになるとはいろいろ呼び捨てができることなのだろうと思うことにした。エスさまやイエス様ではなくイエスやキリスト、吉田首相ではなく吉田・鳩山・池田、お父さんではなくオヤジ、藤原先生ではなくフジワラなのだ。けれども、おシャカさんが呼び捨てブッダになるのは、何かが縁遠くなってしまうのである。

 白状するが、高校時代になって、仏教が英語で「ブッディズム」(Buddhism)であるのは「ブッダの教え」だからと納得したが、実は誰が(もしくは何が)「ブッダ」(Buddha)なのかはほとんど理解していなかった。
 そのブッダが漢字になると「仏陀」で、こちらは重みがあっていいようにも感じたけれど、ただの音借だった。そもそもの「釈迦」という呼び名も、生まれ故郷の古代北インド地域の「シャーキャ」一族の呼び名で、これこそが本名か正式名かと思っていた「釈迦牟尼」(しゃかむに)も実はシャーキャムニの漢字あてはめで、「シャーキャの賢者」とか「シャーキャの聖者」いう意味だった。なんだか拍子抜けだった。ヴィンチ村のレオナルドさんなのである。

 お釈迦さんの本名はブッダではなかった。ブッダは「覚醒者」「覚者」という一般名詞であって、古代インドでは、お釈迦さん以前から何人ものブッダがいた。それどころか、仏教が確立してからもブッダは複数のままなのだ。過去仏もいるし、未来仏もいる。過去七仏という数え方もあるし、釈尊は25人目のブッダだという説もある。
 しかし、北インドに生まれたブッダは、れっきとした歴史的実在者なのである。紀元前6世紀、ピタゴラスやヘラクレイトスや老子(1278夜)や孔子とほぼ同時に、活躍していた。悩んでもいた。こういうことは、できれば早めに日本の子供たちに聞かせておいてほしい。
 それならお釈迦さんの本名は何かというと、シッダールタ(悉達多)なのである。これまた高校時代にヘッセ(479夜)の『シッダールタ』を読むまで知らなかった。それもシッダールタは「名」のほうで、「姓」はガウタマである。ガウタマ(瞿曇)は古代インドの族姓のひとつで、「とびきりの牛」を意味するらしい。青年シッダールタは菩提樹のもとに悟りを得てガウタマ・シッダールタからガウタマ・ブッダになったのだった。この転位がちょっとややこしい。
 ぼくは増谷文雄さんのものか、中村元(1021夜)さんのものか何かで「ゴータマ・ブッダ」とか「ブッダ・ゴータマ」と書いてあるのを見て「姓はゴータマ、名はブッダ」などとも思っていたはずだ。「遊」の対話などにもそう言ったような気がする。過ぎたことである。いまさらのことで、それはそれでいい。ちなみにガウタマはサンスクリット語読み、ゴータマはパーリ語読みである。

 ともかくも、あれこれそうとうに混乱していたのだが、その後、仏教を齧ることになって少しずつ辻褄があってきた。しかし、それからのぼくの関心は仏教思想や仏教思想者のほうに向かっていったので、あまり釈尊個人に焦点をあてる学習や思索をしてこなかった。
 それが何がきっかけだったか、おそらくは或る眠れぬ夜に中村元・前田專學の『ブッダの生涯』(岩波「仏典をよむ」1→岩波現代文庫)を気軽に読んでいたときだと思うのだが、ふいに愕然とした。びりびりと感電した。なんだ、仏教思想は仏教学を借りずとも、ブッダその人の生涯にすべてがあらわれているじゃないかと感じた。何に感電したかというと、一言でいえばゴータマ・シッダールタの生きざまに惚れたのだ。思想ではない。勇敢だが優美な、その男っぷりに惚れた。それから、心を改めていろいろな「仏伝」や案内書を読んだ。
 とくに中村元さんに奨められて『スッタ・ニパータ』(岩波文庫・講談社学術文庫)を読みすすめていくうちに、心がゆさぶられたことがいまは懐かしい。これはかなり古い経典で「ブッダの言葉」を集めたものだ。いずれ千夜千冊したいとは思うけれど、いつのことになるのやら。

豪徳寺の井寸房に湾曲しながら並んだ『中村元選集』
全32巻別冊8巻の集大成。中村元には、20年かけて書き続けた
『仏教語大辞典』の原稿を、某出版社に紛失されたというエピソードがある。
中村は「怒ったってしょうがないからね」といい、
8年かけて45000項目を書き直した。

 というわけで、今夜はひとまずガウタマ・シッダールタがどのようにゴータマ・ブッダになったのか、その基本の基本の生涯を拾っておきたいと思う。とりあえずハマラヴァ・サダーティッサの『ブッダの生涯』(立風書房)を選んでおいた。著者のサダーティッサはスリランカ出身のイギリス仏教界の中心を担ってきた仏教学者で、主にパーリ語の経典研究をリードしてきた。
 ちなみに仏伝についての本はそうとうにあるが、とくにルナンの『イエス伝』のような定番はない。日本では古くは中村元『ゴータマ・ブッダ』(春秋社)、水野弘元『釈尊の生涯』(春秋社)、増谷文雄『仏陀』(角川書店)、早島鏡正『ゴータマ・ブッダ』(講談社)など、最近ならジャン・ボワスリエ『ブッダの生涯』(創元社)、ヴエロニック・クロンベ『ブッダ』(大東出版社)、並川孝儀『ゴータマ・ブッダ考』(大蔵出版)、前田專學『ブッダ』(春秋社)、吹田隆道『ブッダとは誰か』(春秋社)などだろうか。
 ともかくもどんな本でもいいので、ブッダその人の一部始終の大枠に一度は溺れるべきである。
 今夜はそのことにはふれないが、ぼくが確信するに、21世紀は仏教こそが新たな価値観や世界観をもつはずなのだ。ただし、日本の坊さんたちの実情はこの半世紀ほど、かなりヤバイものになっている。これではまずい。そういうことをモンダイにするにも、まずは男シッダールタを実感しておきたい。
 なお、今夜の図版はボワスリエの『ブッダの生涯』(創元社・知の再発見双書)を借りた。この本も手元におきたい一冊だ。

ジャン・ボワスリエ『ブッダの生涯』
創元社,1995年
監修:木村清孝/訳:富樫瓔子

 紀元前6世紀、今日の北インドとネパールの国境近いヒマラヤの麓の一角にシャーキャ族(サキャ族・釈迦族)という王族が治める小国があった。都はカピラヴァストゥ。カピラ城である。南にはコーサラ国が、もっと南にはマガタ国が、東にコーリヤ国がある。カピラヴァストゥはコーサラ国の属国だった。
 王はスッドーダナ(浄飯王)といった。王妃はコーリヤ国から嫁いできたマーヤー(マハーマーヤー=摩耶夫人=まやぶにん)である。
 紀元前560年あたりのこと、マーヤー王妃がめでたく懐妊した。当時は実家でお産をする習慣だったので、王妃は兵士を従えてコーリヤ国に向かったのだが、途中のルンビーニ園で休息をしているときに陣痛が始まり、近くの枝につかまりながら男の子を出産した。脇からの出産だったとも伝えられている。
 これが4月8日の降誕(こうたん)だ。花祭りの「花」はルンビーニ園が花園であったことも象徴する(いま現地はかなり“再生”されている)。
 一行がカピラヴァストゥに戻ると、王子誕生のニュースは広まっていて歓呼のうちに迎えられた。スッドーダナ王は王子にシッダールタと名付けた。「望みが叶えられた者」という意味だ。マーヤー夫人は7日後に没して第33天の忉利天(とうりてん)に転生した。
 マーヤーが出産後7日目で亡くなったとか、ルンビーニ園の枝につかまって脇から産んだとかという伝承には、懐妊時のマーヤー夫人が右の脇腹から白い象が胎内に入った夢を見たというバージョンもある。この出産がなんらかの異常出産だったかもしれないことを暗示するのだろうが、文献からはこれ以上のことはわからない。

ブッダの時代のインド
『ブッダの生涯』p44

ブッダの誕生(チベット絵画,18世紀)
『ブッダの生涯』p46-47

 王子誕生で宮殿に駆けつけた祝福者たちのなかに、カーラ・デーヴァラ(=アシタ仙人)がいた。知慧と天眼通で知られる。シッダールタ王子を見たアシタ仙人は大きく微笑み、ついで目を潤ませた。
 驚いた王が「何か不吉なことが息子におこるのか」と聞くと、「いえ、私が微笑んだのは将来にブッダとなる御方にお目にかかれたからで、涙がこぼれたのは私が生きながらえてこの御方の教えを聞けそうもないからです。王様、ご子息はこの世で最も偉大な方になられます」と言う。当時流行の「未来を全身から読みとる占相術」による予言だったろう。古代インドは占術だらけなのである。ちなみにアシタ仙人の弟子がカッチャーナ(迦旃延)で、のちに釈迦十大弟子の一人になる。
 アシタ仙人の天眼通に驚いた王は、9人の学識深いバラモンを集めて、さらに予言をさせた。7人のバラモンは二つの可能性を提示した。もし王子が俗世にとどまるなら偉大な王になるだろう、俗世を捨てて悟りを求めるならブッダになるだろうというものだ。
 8人目のコンダンニャはもっと鮮明な未来像を提示した。「王子の未来はひとつです。4つの特別な徴証を目にされて俗世を捨て(=出家して)、悟りを求める旅に出られると、ついには悟りをひらいてブッダになるでしょう」。
 さきほども書いたように、ブッダとは「完全に悟りをひらいた者」という一般名詞である。シッダールタだけのことをさすわけではないし、すぐにブッダになったわけではない。

アシタ仙人
シッダールタが将来人徳の限りを尽くした仏になると予言した。
『ブッダの生涯』p48

 母を亡くしたシッダールタを育てたのは、王妃の妹のマハー・パジャパティだった。母親代わりをしたのだが、古代インドの貴族社会は一夫多妻だったので、パジャパティも王の妻である。
 シッダールタはそうとう健やかに育った。仏伝はありきたりな形容で、容姿は端麗、頑健で優しく、礼儀が正しいと伝える。容姿端麗かどうかはべつとして、のちの図像を見るかぎり手足は長かったようだ。
 闊達で快活、かつ慈悲があった。従弟のデーヴァダッタ(提婆達多)とはよく遊んだ。野遊びをしているときのエピソードだが、近くを白鳥が飛びたったのでデーヴァダッタが弓でこれを射た。白鳥が落ちたところに先に駆けつけたシッダールタは、まだ白鳥が生きていたので矢を抜き、出血を止めた。デーヴァダッタは自分の獲物のなのだから白鳥をよこせと言うが、シッダールタは「白鳥が死んでいたら君のものかもしれないが、傷ついてるだけなのだから、私が命を救いたい」と言った。言い争いが続いたのだが、この争いは賢者たちの判定でシッダールタの言い分が通った。王子は闊達で思慮深かったのだ。
 このデーヴァダッタはのちにシッダールタがブッダとなって僧団を確立したときに、悶着をおこすコンペティターになる。僧団の方針に反対して、最初にグループを割ったのはデーヴァダッタだった。

弓術の至芸
ゴパー姫の求婚者としてシッダールタは、他候補者と弓で対決し、勝利した。
『ブッダの生涯』p50

 王子(太子ともいう)は、学校に入ると貴族の子弟と交わるようになった。どの学友より才能があり、格闘技や弓術にも堪能だし、友人たちにも親切だった(と、仏伝は書く)。
 7歳のとき、王はシッダールタを鋤入れ祭に連れていった。お付きの者たちはホトウの木(ブドウ科の木)の下に特別に長椅子を用意して、王子を休ませた。王子は周囲のお祭り騒ぎをよそにゆっくりと呼吸をしてみると、とても気分がいい。しばらくして瞑想状態になり、多少のトランス(忘我境)に入った。最初の不思議な体験だ。お付きの者が戻ってみると、王子が法悦の心地にいることがわかった。そのあいだホトウの木の影が動かなかったという。時間が停止していたという比喩である。
 王はこうしたちょっと風変わりな息子の成長に目を細めるとともに、コンダンニャが予言した4つの特別の徴証のことが気になってきた。
 この予言者はシッダールタがブッダになる日を待つために姿を消していたので(国外でその日のことを待っていたので)、そこで王は別の者たちに予想させたところ、その4つの徴証とは「4人の者との出会いを暗示しています、それはきっと老人・病人・死人・苦行者のことではないか」というものだった。
 王はそれなら、王子がそのような徴証を見ないようにしなければならないと考えた。監視人を配備し、若い従者をつけて老人や病人や苦行者を遠ざけるようにする一方、至れり尽くせりの贅沢と快楽が近づくようにした。夏・雨季・冬に応じた宮殿も用意した。その効果があったのか、シッダールタはますます逞しく成長して、結婚をしてもいい年齢に達した。

 16歳になった。そろそろ嫁を娶らせて、一人前にしなければならない。王はさっそく国中の適齢期の娘を王宮に集め、シッダールタに花嫁を選ばせると、従妹のヤソーダラー(耶輸陀羅)を選んだ。13歳である(同じ歳だったという説もある)。二人は数々の儀式と祝典のうちに結婚した。
 ところがなかなか子供が生まれない。この理由は仏伝にはほとんど説明されていないのだが、ぼくはシッダールタが20代に子供に恵まれなかったことが、その知的精神形成に大きな熟成をあたえたのではないかと思っている。そのぶん関心の大半が「自分と世界の関係」に向えたのではなかったか。
 29歳の誕生日を迎えるころ(それまでの10年間ほどの王子の事蹟の伝承がない。理由はわからないが、一説には遊興や快楽に耽っていたともいう)、ヤソーダラーがやっと出産間近かになった。スッドーダナ王は万事が望み通りになっていることによろんでいた。遊園を用意したから、そこで英気を養うようにと言った。
 しかしこれ以降、シッダールタはしだいに物思いに耽るようになっていったのだ。

 ある日、王子は馭者であって従者でもあるチャンナを呼んで、父が用意した遊園に出掛けることにした。せっかくなので遠乗りにした。王子は、チャンナが仕立てたシンドゥ産の名馬による4頭だての馬車の手綱をとって東の門を出た。
 しばらく行くと、疲れきった様子の老人が路傍に佇んでいる。シッダールタは馬を止め、「あれは何だ? 人のようだが髪は真っ白、目は爛れ、歯は抜け落ち頬は痩せこけて、肌はガサガサして皺だらけだ。どういう者なのか」と訊いた。チャンナは「ご主人さま、あれは老人です。きっと80年以上も生きてきて、体が衰えつつあるのです。驚くことではありません。みんな歳をとるのです」と答えた。
 王子はとても驚いた。心の動揺が激しく、遠乗りなど続けられない。馬の向きを変えると宮殿に戻った、王は「とうとうお前は、私のこれまでの努力をムダにしてしまったな」と嘆いた。あわてて特別の催しや楽団演奏を仕向けたが、王子は何かを考えこんでいる。
 のみならずまた外出をして、今度は西の門を出ていったところ、しばらくして道端でふらふらになっている病人に出会った。立ち上がれず、地面に転がり苦しそうに呻いている。王子は尋ねた、「これはめずらしいことなのか、誰にでもおこることなのか」。チャンナは「病気にならない人はおりません。でも食事に注意し、体を清潔にしてよく運動すれば健康でいられるでしょう。心配はいりません」と答えた。王子はこんな人を見て「心配がいらない」とは思えない。
 南の門を出た三度目の遠出では葬儀の行列に出会った。会葬者たちは胸を叩き、声を張り上げて泣いていた。傍らの遺体は彫像のようにじっとしていた。王子の疑問にチャナンは「死ぬ」ということ、生命あるものには必ず死の宿命があることを説明したが、王子はずっと考えこんでいた。

 北門をくぐって出た四度目の遠出では、さらに見慣れない光景に出会った、剃髪した男がオレンジ色の衣を纏い、鉢を手にして素足のまま立っている、その表情は穏やかで思慮深そうで、まなざしは俯きかげんだった。
 王子は馬をとめて「あれは誰だ? 人間なのか、神なのか。まるでこの世の悲しみや喜びと関係がないかのように落ち着いているようではないか」と問うた。チャンナは「あれは苦行者です。老齢や病気や死を人間が苦しむありさまを見て、人生の謎を解明しようと俗世を捨てた人です」と答えた。王子は「どこで暮らしているのか」と聞く。チャンナは「苦行者には洞窟や森の中の仮住まいのほかに家はありません。食べ物は請い求めるだけで、質素な修行生活をしてるのです。瞑想によって俗世の苦悩から解放される道をさがすのです」と申し上げた。
 シッダールタは感動したようで宮殿には戻らず、しばらく馬車を走らせたのち、やっと父王が用意した遊園に向かった。そこでは楽団、踊り子、詩人、学者らが待ちかまえていたが、王子は考え事をしている。「私はあの苦行者のようにならなければならない。出家しなければならないだろう」という内面の声と向き合っていたためだった。
 そこへ宮殿からの使者が駆けつけて「たったいまヤソーダラー妃が男の子を出産されました」と告げた。王子は静かに「また私を縛りつけるものができた」と呟いた。

 恐れていたバラモンたちの予言がすべて的中してしまったのである。父王はわが子の翻身を願って饗宴を開くのだが、王子はその途中で眠ってしまった。楽士や踊り子たちは眠っている王子のために演奏していることに気が付き、自分たちもその場に休むことにした。
 ぐっすり寝込んでしまった王子が目をさますと、さきほどまで自分を楽しませようとしていた者たちが全員、しどけない恰好で眠りこけていて、椅子や敷物にだらしなく身を投げている。鼾や歯軋りが聞こえて、さきほどまでの饗宴の美しさは一変していた。王子はこれが「俗世」というものかと思った。
 王子は眠っている者たちを起こさないようにそっと抜け出し、チャンナを呼んで愛馬カンタカに鞍をおくように命じた。
 以上が「四門出遊」(しもんしゅつゆう)のあらましだ。東西南北の四つの門から四度にわたって外出し、そのつど老・病・死・苦に出会ったと解釈され、こう呼ばれてきた。四門出遊のあげく、“here”から“there”への脱出、つまり「出家」が決断されたのである。
 当時、バラモン教の伝統的価値観や制度を認めたくない者たちには、沙門(しゃもん)として自身が選んだ修行僧になることが流行しつつあった。かれらは解脱(げだつ)を求めて苦行を好み、生まれ育った家を出奔した。出家である。この行動は正統バラモンから見れば外道(げどう)であった。実際にもブッダの時代、「六師外道」と呼ばれる6人の沙門のリーダーが相並んでいた。そこにはジャイナ教のマハーヴィラなどがいた。王子はこの出家に憧れたのである。

四門出遊
老人、病人、死人、修行者との出会いによって、ブッダは出家を志す。
『ブッダの生涯』p5

 城を捨て、出家をする気になっていたものの、シッダールタはまだわが子の顔を見ていない。そこでヤソーダラーとわが子が眠る寝室にこっそり行った。ヤソーダラーは赤ん坊の顔を手で庇うようにして添い寝をしている。
 わが子の顔を見るために妻の手を動かせば、ヤソーダラーは目を覚まして旅立ちをとめるだろうし、何もしないようにすれば、わが子の顔すらわからぬまま出発することになる。さあ、どうするか。逡巡したシッダールタは、しかし決断した。人生最初の、大きな決断だ。妻やわが子には、自分が求めるものを見つけたあかつきに帰ってきて会えばいい。
 かくしてシッダールタは真夜中にカピラヴァストゥを決然として発ったのである。ジョセフ・キャンベルの英雄伝説にいう「セパレーション」(旅立ち)だ。
 王子はチャンナとともには夜通し馬を走らせてアノーマー川に辿り着く。そこはサキャ国とマガダ国の国境だ。ここからは「外つ国」だ。シッダールタは馬から降りて上等な絹の服を脱ぎ、きらびやかな宝石をはずし、長い髪を切り落として、チャンナにこれらを持ってカピラヴァストゥに帰るように言い渡した。チャンナは号泣しながらも、カンタカを引いて戻ろうとしたが、カンタカが動こうとしなかった。シッダールタも馬に語りかけるが、なかなか行こうとしない。その目からは涙がこぼれたとも伝える。カンタカはその後、悲しみのあまり死んだという。

妻と子に別れを告げたのち[左上]、馬で王宮を去るシッダールタ[右下]
『ブッダの生涯』p55

 ここからガウタマ・シッダールタの放浪と苦行が始まる。キャンベルのいう「イニシエーション」だが、それはぼくが想像していたブッダの生涯より、ずっと柔軟だ。たった一人の修行や苦行ではないし、あまり寂しそうでもない。たしかに自身を責めたてるような苛酷なところもあるのだが、仏伝も必ずしも壮絶なものとしては伝えていない。また、多くの英雄たちのように大胆な冒険も闘いもしていない。
 それなのに、あれほどの深い覚醒を得た。英雄の冒険修行ではなく、思索と哲学のための冒険修行なのである。
 なぜそうなりえたかということは仏教の本質にかかわることなので、ブッダの生涯の全容を議論するしかないが、それについてはゲーテ(970夜)の『ウィルヘルム・マイスターの遍歴』が代表するようなビルドゥングス・ロマン(教養遍歴)と何が違うか、古代中国の諸子百家のいずれの知的提案とも何が違っているのか、さまざまに検討する必要がある。
 ぼくはそこには、シッダールタが生まれついてもっていた資質や知性、さらには身のこなし、気品、言葉づかいなどが大きくはたらいたように思っている。だいたい目の前で会うだけでも何かを感じさせていたのだろうし、お忍びで外にいたところで目立っていたはずだ。何もかもが激しくなく、誇張がなく、優しかったのだ。優美なラディカリズムだったのだ。

 一人になったガウタマはまずはマガタ国の首都ラージャグリハ(王舎城)のあたりを歩いた。貧しい身なりをしていたが、何かが目立つ。案の定、噂はビンビサーラ王(頻婆娑羅)にとどき、王のほうも隣国のスッドーダナ王の息子にちがいないと見て家来たちに探させ、城内に呼んで語りかけた。思いとどまって国に帰りなさい、マガタ国で暮らすなら土地も家も用意しようというのだが、ガウタマは丁重に断った。
 一方、カピラの王子が悟りの旅に出たようだという知らせは、その日を指折り数えて「外つ国」で待っていたバラモンのコンダンニャにも届いていた。コンダンニャはさっそく4人の仲間(バッティヤ、ヴァッパ、マハーナーマ、アッサジ)ととともに、ガウタマに合流して従った。6人の旅となった。
 6人がするべきことは、まず師を見いだすことである。この時代、修行とは師の誰かに就いて試みることであって、勝手にやれるとは誰も思っていない。紀元前6世紀や5世紀、北インドにはそういうノウハウや修行法や道を説く者がそうとうにいた。
 ガウタマは禅定によって解脱(げだつ)を得たいと思っていた。そういうことをするのにふさわしい瞑想的な体質や気質にも富んでいた。茫然としたり、うとうとしたり、物思いにふけることが好きだったのだ。こうして、マガタ国では瞑想の達人をさがした。

ブッダの弟子となる5人の僧
『ブッダの生涯』p9

ヨーガ行者たち(インドの細密画)
宗教の圏外で、ヨーガ行者たちは数々の瞑想技法を総合し、精神力を鍛錬する。
『ブッダの生涯』p24-25

 6人は最初にアーラーラ・カーラーマを訪れた。アーラーラ仙人は瞑想技能の名人で、究極の目標として言葉に依らない「無所有処定」という境地に達することをめざしていた。一行は入門し、しばらくするとガウタマがその無所有の境地を会得した。
 アーラーラは「君は卒業だ、私が教えることはもうない。ここにとどまって弟子たちの教育にあたってほしい」と言ったが、ガウタマは「老・病・死の苦しみから脱する方法を知りたい」とせがんだ。アーラーラは「私が知り得ないことは教えられない」とあきらめさせた。
 一行は次の師を訪ねた。ウッダカ・ラーマプッタである。ウッダカは知覚に依らない「非想非非想処定」という境地に達する方法の名人だった。またしてもガウタマは早々にこの境地に入ったようだったが、それは知りたいこととはちがっていた。ウッダカはガウタマに指導者としてとどまってほしいと言ったが、これも断った。

 二人の仙人が提示した「無所有処」定(むしょうしょ・じょう)や「非想非非想処」定(ひそうひひそうしょ・じょう)は、のちの初期仏教にいう「四無色定」(しきむしき・じょう)の三番目と四番目のプログラムに採り入れられている。いずれも「認知や認識の対象には確固たるものはない」という実感を得る瞑想法である。
 のちのち仏教では「戒・定・慧」の三学を重視する。戒(かい)・定(じょう)・慧(え)である。「戒」は戒律のことで自身を律するために自身に課し、「定」では心を鍛練して雑念や妄想でふらつくことがないようにし、これらを総じて「慧」としての智慧に至ることをめざす。
 このうちの「定」はいわゆる瞑想による禅定(ぜんじょう)のことで、インダス文明期やヒンドゥイズムから始まっていたヨーガに発祥し、のちに座禅や三昧(さんまい:サマーディ)におよんだ。暑さや動けない雨季を特色とする風土に応じて発達したものだったと想う。

 どうやら納得がいく師はいなさそうである。そこでガウタマの一行はネーランジャラ川(尼蓮禅河)の近くのウルヴェーラという村にさしかかって、ここで自分たちなりの修行をすることにした。そこは静かな村で川や水に恵まれ、近くで托鉢すれば食物をもらうこともできた。一行はそれぞれ庵を組み、自分たちなりのプログラムを試みた。
 まず節食である。一日一食から始め、じょじょに二日に一食、三日に一食とへらした。ついで食物の托鉢もやめて、木の実・草の根などの自然食にしていった。半年がたち、一年二年がたった。ガウタマの逞しい体が痩せ、皮膚が皺だらけになり、目は深い井戸の底に落ちた窪みのようになった。
 三年四年がたち、暑い炎天でも極寒の夜間でも瞑想が試みられ、そこから息を止める修行に入ると、腹が破裂しそうになった。それでもガウタマは精神力を試した。新月と満月のときは怪しげなものが徘徊する墓場などに坐して恐怖と向き合い、いまだ活発な肉体を卑しむためには、死者や亡者が着ていたボロ切れなどをまとい、自身がどんな極限に向かっているかを見据えた。
 しかし、すべては効果がなかったのである。ガウタマにはそうとしか感じられなかった。とうてい真理の感得には至らない。六年目、ガウタマはついに精根尽きて倒れた。
 なぜ6年もかかったのかと見るか、いや6年をかけて旧来のステージを打擲するにいたったのだと見るか、ここが分かれ目だけれど、これを学問や思想の修養とみれば、たとえば大学・大学院・初期研究と6年かかってその限界を見たとしたら、ガウタマの「見切り」の判断はかなり早いほうだと思う。

 ぐったりしたガウタマは羊飼いに見つけられ、寝床とミルクをあてがわれ、介抱された。これが仏伝にいう「出山釈迦」(しゅっさんしゃか)である。鬚髪がのびほうだい、骨と皮ばかりの痩せ細った姿は、仏教美術では「出山釈迦像」としてあばら骨が見えるように描かれ、彫塑されてきた。
 山林苦行は了(おわ)ったのだ。少し回復して仲間たちのところへ戻ってきたガウタマに、5人はショックをうけた。当然だろう。かれらはまだ苦行を続けていたのに、ガウタマは勝手に修行をやめている。
 やむをえなかった。5人の仲間は去っていった。ガウタマは一人残された。しかし、何か時が熟してきたようにも感じた。ガウタマはしばらく回復につとめた。パーフェクト・リハビリテーションである。おかげで、その体はしだいに黄金色を発するようになっていった。のちに「仏(ほとけ)の三十二相」と総称される特徴が体の各部にあらわれはじめたのである。

 そのころ、近所にスジャーターという娘がいた。身ごもっていて、もし男の子が産まれたらバニヤンの木に特別なごちそうをこしらえて捧げようと思っていた。バニヤンは気根が幹に成長して逞しくなる樹木なので、古代インドでは神聖視されていた。
 男の子が産まれたので、スジャーターは大事な作業にとりかかった。100頭の牛から乳を搾り、これを50頭の牛に飲ませ、その乳を25頭の牛に飲ませ、8頭の乳になるまでキーラ・カンマ(乳仕事)という濃縮作業をした。ついでこの乳で米を炊いて金の器になみなみと入れる。このキーラ・パーヤーサ(乳粥)をバニヤンの木に捧げるのである。
 最後の準備のため召使いをバニヤンの木のところへ行かせたところ、召使いはそこに黄金色に輝く者がじっと坐っているので、驚いた。ガウタマがそこにいる。急いでスジャーターのところに戻って、「神がみずから供物をうけるために坐っておられます」と報告をした。スジャーターが駆けつけてみると、まさに輝く男がそこにいる。スジャーターはさすがに神とは思わなかったが、畏敬の念に打たれ、乳粥を捧げた。
 「尊者よ、あなたが誰であれ、神であれ人であれ、どうかこの乳粥をお受け取りください。そしてどうか、あなたのめざす目的を達成されますように」。こう言ってスジャーターは引き下がっていった。
 ガウタマは供物を受け取ると、近くのネーランジャラー川へ行き、岸辺に金の器をおいて沐浴のために川に入り、それから岸辺に戻って膝の上に器をとって、仏性(ぶっしょう)を求める者としては最後の食事をとりはじめた。食事がおわると、器を川に浮かべてこう言った。「もし今日、私が悟りをひらくなら、この金の器が川上に向かって流れますように」。

断食をするガウタマ(ブロンズ像)
バラモン教の師のもとを離れ、専心、「力のヨーガ」を組み合わせた断食をおこなう。

菩薩に一椀の粥を捧げるスジャーター
『ブッダの生涯』p68-69

金の器を川に浮かべるガウタマ
『ブッダの生涯』p60-61

 夕方、ガウタマはしばらく歩いて菩提樹のもとに赴いた。菩提樹はアシュヴァッタあるいはピッパラというイチジクの樹の一種のことだ(植物学的にはシナノキ科の一種のインド菩提樹)。途中、ソッティアという草刈りの民に、バラモンたちが敷物によく使う吉祥草を分けてもらい、これを菩提樹の根元に敷き、東の方を向いてゆっくりと瞑想に入った。
 瞑想は7日にわたって続いた(初禅から第四禅へ)。そのなかで成道を邪魔すべくマーラ(悪魔)に姿を変えた欲望や誘惑が次々にあらわれたが、ガウタマはこれを降魔(ごうま)した。ついで俗世のさまざまなものが立ち現れ、消えていくのを見た。心が浄化されてくると、煩悩たちがやってきて、これが断たれていくさまを見た。「宿命知」「死生知」「漏尽知」の三明(さんみょう)が過ぎていったのだ。
 こうしてウェサク(ヴァイシャーカ:4月~5月)の月の満月の日、月が沈み眩しい朝日が昇るなか、ガウタマはいっさいの迷妄から解き放たれていた。全き歓喜と充実がやってきた。ついにガウタマ・シッダールタは「ブッダ」として覚醒したのである。のちに、「このとき私の輪廻がおわった。私にとって俗世は価値のないものになった」と述べている。
 場所はその後はブッダガヤーと呼ばれる地域の菩提樹のもと、時はおそらく紀元前515年のあたり、ガウタマ・シッダールタ、35歳のときだった。

菩提樹の傍らに立つブッダ
『ブッダの生涯』p56

瞑想するブッダ
左はガル・ヴィハーラの岩壁(スリランカ,12世紀)右は菩提樹のもとで吉祥座を組むブッダ
『ブッダの生涯』p64-65

 ブッダが菩提樹のもとに悟りに達したすぐあと、タプッサとバッルカという二人の商人が通りかかった。二人は麦粉と蜂蜜でつくった食物を供養した。食後、ブッダは自分の体験を話した。二人は弟子になりたいと申し出た。最初の仏教徒は商人だったのである。
 この菩提樹での悟りについては、さまざまな仏伝が語られてきた。最も有名なのは「梵天勧請」(ぼんてん・かんじょう)のエピソードだ。ガウタマは自分が悟った内容は甚深微妙なので、とうてい他人には理解されないだろうと感じて、このまま涅槃に入ろう(死んでしまおう)と考えていたのだが、それを知ったブラフマー(梵天)をはじめとする神々が、なんとか思いとどまらせて「ブッダとしての説法」を始めるように勧請(説諭)したというものだ。
 むろんブッダ神格化のための後付けの話だが、仏伝というもの、「ジャータカ」(前生譚)をはじめとして、この手のエピソードがものすごくくっついている。それなら、それらのエピソードを切り離していけばブッダの実像が得られるかといえば、そうではない。「つもり」と「ほんと」が、ブッダ伝承においてはきわめて区別がつきにくくなっているからだ。

「トラプシャとバリカの供物」(タイ壁画)
ブッダは2人の隊商の捧げる食物をうけ、それを期に普通の生活に戻り、布教という次なる決断の準備をした。
『ブッダの生涯』p75

 さて、ここから先はブッダとしての布教が始まっていく。まさしく「仏=教」だ。では、誰に伝えるか。おそらく最も早く理解してくれそうなのはアーラーラ・カーラーマかと思われたが、すでに亡くなっていた。ついでウッダカ・ラーマプッタを思ったが、やはり亡くなっていた。それならやはりかつてのコンダンニャらの5人の仲間にこそ説くべきだった。
 5人はガンジス河の一角ベナレス近くのイシパタナの、鹿野苑というところにいるらしい。ここは、その後はサールナートと呼ばれている。
 ブッダは長い旅にもかかわらずサールナートをめざし、再会をとげた。5人は驚き、あのときの失望と軽蔑をあらわにした。「名前だけの苦行者だ、禁欲生活に耐えられなかった奴だ、安楽な生活に走ったのだ」と揶揄した。しかし少し話しているうちに、ブッダには名状しがたい威厳と光輝が備わっていることに気が付く。ついつい一人が恭しくブッダの鉢と衣をとり、一人は座席を整え、一人は足を洗う水を用意した。
 こうしてブッダの鹿野苑での「初転法輪」(しょてんほうりん)がなされたのである。最初の説法だ。ただちにコンダンニャが理解した。どこまで詳しいものだっかははっきりしないけれど、「中道」と「四諦」(四聖諦)が説かれたという。
 四諦は苦諦・集諦・滅諦・道諦のことで、世界を四苦八苦の苦に満ちていると知ること(苦諦)、その苦の原因は欲望や存在否定にあってそれらが集まっていると知ること(集諦)、したがって欲望の止滅をめざすべきこと(滅諦)、以上のために八正道をマスターすべきこと(道諦)をいう。このようなことを比喩などを用いて説いたとおぼしい。
 八正道は正見(あるがまに見る)、正思(清らかな心をもつ)、正語(正思を言葉によっても通す)、正業(さまざまな戒めをもつ)、正命(教えに反する仕事をしない)、正精進(布施・持戒・精進・忍辱によって「心の完成=波羅蜜」をまっとうする)、正念(知的認識を深める)、正定(諸法無我・諸行無常を悟るための瞑想を実践する)をさす。

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ラオス・プーシーの丘につくられたブッダと5人の弟子の金像

 コンダンニャら5人(五比丘)は、最初のサンガ(僧団)のメンバーになった。五比丘それぞれはそれなりの修行をしてきた探求者であるから、なるほど強力なネゴシエーターになりうるだろうが、偶然にブッダの話を聞いた者も次々にサンガに加わることになった。ブッダの存在と話法にはよほどの魅力が発現されていたのだろう。
 鹿野苑にいたブッダのもとを通りかかったヤサ(耶舎)は同業者組合長の息子で、何不自由ない日々をおくっていたが、人生の可能性をまだほとんど知らないぼんぼんだった。しかしブッダの話を聞くとすぐに帰依を申し出た。息子の失踪に驚いた父親が夕方、ブッダのところに文句をつけにきた。ところが父親のほうもすぐに感銘して、ブッダと五比丘を自宅に招いた。そこにはヤサの母親と妻と54人の友人がいた。請われてブッダが話をすると、全員がサンガに奉仕する優婆塞(ウパーサカ=信士)や優婆夷(ウパーシカー=信女)になりたいと申し出た。サンガは一挙に60人にふえたのだ。
 噂が少しずつ広まっていくと、それまで別の集団を組んでいたリーダーが、傘下の者たちを引き連れて帰依しはじめた。結髪外道とか事火外道と呼ばれて数百人ずつの弟子をもっていたカッサパ3兄弟が加わったときは、まるごと千人がふえた。
 さらに決定的なのは、かつてはシッダールタの翻意を促したマガタ国のビンビサーラ王がラージャガハに入ったブッダを迎え、みずから在俗の弟子になることを申し出て、竹林精舎を寄進したときだ。竹林精舎は仏教史上、最初の精舎(ヴィハーラ)となった。のちの仏教寺院の原型にあたる。

ブッダと弟子たち
教団に加入した僧たちは指導をうけ、教えの深遠さを理解し、今度は自分たちが広める。
『ブッダの生涯』p82-83

祇園精舎でブッダに教えを乞う弟子たち
『ブッダの生涯』口絵p3

 ブッダはインド独得の雨季には好んで「安居」(あんご)をひらいた。集まった者たちと瞑想をし、説法をする。7回目の安居のとき、二人の重要な弟子が参加した。サーリプッタ(シャーリプトラ=舎利弗)とモッガッラーナ(マウドガリヤーナ=目連)である。
 二人は幼い頃から仲がよく、成長すると二人ともが芝居好きになった。ある日「山祭り」という芝居を見ているうちに人生の意味を問うようになり、出家を考えはじめた。最初、ラージャガハ近くのサンジャ(六師外道の一人)の門を叩いてそこそこのリーダーになったのだが、満足できない。なかなか出家すべき相手が見つからないうちに、街頭で托鉢している者に出会った。見るからに、これまでの苦行者のようではない。
 しばらく後を追い、城門を出たところで声をかけた。「あなたはとても清々しいようにお見受けするのですが、師は誰ですか」。声をかけられたのは最初の5人の仲間の一人アッサジ(馬勝)だった。アッサジは控えめにブッダのことを話した。たちまち心が洗われた。二人は望み通りに帰依した。
 のちに舎利弗は知恵第一、目連は神通第一と並び称される。釈迦十大弟子の2トップになった。

 寄進をする者もふえてきた。布施(ふせ)の流行である。当然のことながら、富豪が多い。竹林精舎に60戸の家を建てた商人はブッダを招く宴も用意した。妹が商人に嫁いでいたスダッタ(須達多/須達長者=アナータピンディカ)は、たまたまその宴の前日にラージャガハに来ていて、この騒動に驚いた。理由を聞いて好奇心をもったスダッタはすぐさまブッダに会って、たちまち心を奪われた。ぜひとも雨季にまた来てほしいと申し出ると、さっそくそのための宿舎をさがしはじめた。
 有力な候補があった。ジェータ(祇陀)王子が所有する遊園だ。ただし王子はいろいろ難題を言ってくる。それらを解決すると、スダッタはすぐさまこの土地の一角に楼門や住居などの施設を建てた。これがのちに仏教の一大センターになるジェータヴァナ僧院、すなわち祇園精舎になっていく。

ジェータヴァーナ(祇園精舎)の寄進
寄進者の家来たちがジェータヴァーナを手に入れるためにおびただしい金貨を運んでいる場面。『ブッダの生涯』p90-91

現在の祇園精舎(Jetavana-vihāra)
インドのコーサラ国首都シュラーヴァスティー

 サンガのメンバーは多種雑多である。高名な師の弟子がブッダのサンガに移ってくることもあった。有名なのは釈迦十大弟子で、持律第一と称されることになるウパーリ(優婆離)だ。ジャイナ教の始祖マハーヴィラの高弟だった。
 その地で布教を任せられた者もいた。プンナはスナーパランタ島の交易商人だが、仕事で祇園精舎の近くに来ていた。大勢の者たちが精舎に向かっている。ふらふらついていくと、ブッダが説法をしていた。それを聞いたとたんに自分のすべてを義弟に譲って出家をする気になっていた。ブッダはプンナの覚悟をさまざまに問い、島に戻って布教につとめることを申し渡した。
 カーストの下位に属する者たちも、賤民(アウトカースト)の者たちも多くいた。いわゆる不可触民(アンタッチャブル)である。ブッダの思想にはバラモン教から「輪廻」や「業」の概念を借りているところがけっこうあるのだが、カーストの概念ばかりはまったく認めなかった。このためブッダの教えは反体制的であるとみられ、旧勢力からの批判が絶えない。

 のちに従者としてブッダに最大の忠実をはたすアーナンダ(阿難陀)が町を托鉢していたところ、あるとき井戸から水を汲んでいる少女がいたので、水を飲ませてほしいと頼んだ。
 その少女プラクリティは「私は卑しい者で水をさしあげるわけにはいきません」と断るのだが、アーナンダは「私はあなたの家族やカーストを知りたいのではありません。どうぞ水を分けてください」と言った。プラクリティは嬉しくなって水を汲み、そのままアーナンダが好きになった。
 これを聞いた母親はプラクリティに惚れ薬を持たせ、アーナンダに結婚を迫った。アーナンダも心惹かれるのだが、思いとどまっている。逆にプラクリティのほうが真剣になってきた。そこでブッダが介入して、彼女の期待に入りこみつつ諦めさせた。プラクリティは尼僧(比丘尼)としてサンガに加わった。
 ブッダが不可触民の少女を正式な尼僧にしたというニュースは、バラモンや代表的な市民たちを驚かせ、心配させた。パセーナディ王からの抗議もあった。それでもブッダは譲らず、トリシャンクやスニータといった不可触民たちに応援や説諭の手をさしのべた。
 20世紀になって、不可触民出身のアンベードカルがヒンドゥ教を捨てて仏教徒となり、議員ともなって不可触民を救済する新仏教徒として活動をしたことはよく知られているが、それはブッダのこの時期の行動に発動していたものでもあった。アンベードガルについてはいつか千夜千冊してみたい。

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ビームラーオ・アンベードカル
1891年生、インドの政治家。カースト制度による身分差別の因習を打破するため、死の2か月前に約50万人の人々と共に仏教に集団改宗し、インドにおける仏教復興運動を始めたことで知られる。

 ブッダの布教がさらに決定的になったのは、父王のスッドーダナがカピラヴァストゥに招待して教えを説くように設定したことによる。本音は威風と真実を宿したわが子に再会したかったからだろうが、これが果実をもたらした。いろいろすったもんだがあったのち、ここに王のみならず弟のナンダ王子(難陀)、妻のヤソーダラー、父王の王妃、わが子ラーフラ(羅喉羅)らがこぞって帰依したのだ。
 なかでも従弟のアーナンダの参加はこのあとのブッダを真底から扶けた。アーナンダはとても献身的だった。つねにブッダに仕え、部屋の世話をやき、鉢や衣を洗い、体をもみほぐした。女性の出家を支え続けたことでもユニークだった。ただあまりに献身的であったため、瞑想の時間が十分にとれず、ブッダの存命中には悟りに達しなかったという。ブッダの死後に悟りをひらき、仏典のための第一結集を準備した。

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ミャンマーに建てられたアーナンダ寺院
ミャンマー族最初の統一国家を築いたバガン朝の第3代の王チャンスィッターによって、11世紀末~12世紀初頭に建設された。世界三大仏教遺跡の一つに数えられている。

 もう一人の従弟のデーヴァダッタには手を焼いた。サンガには加わったのだが、集団の指導をまかせろと迫り、ブッダがこれを断ると、ビンビサーラ王の王子アジャータサットゥと手を組んで、王子は父王を、デーヴァダッタはブッダを殺す計画をたてた。ブッダ殺害計画は3度にわたって試みられたが失敗した。刺客を選んでもすぐにブッダの側につくからだ。
 そこでデーヴァダッタは改革5項目をブッダに突き付けた。出家と清貧と菜食主義についてのルールを厳格にするように要求したのである。
 これはある意味ではかなり純粋きわまりないもののようだったが、ブッダは戒律至上主義には疑問をもっていた。だからこその「中道」なのである。改革案を退け、懲戒処分を断行した。デーヴァダッタは500人の弟子とともに自分のサンガを創設した。けれども舎利弗らの説得によって、500人のうちの大多数が復帰した。
 のちにデーヴァダッタは病気を患い、ブッダにふたたび帰依することを宣言した。ブッダはサンガに迎え、「やがてデーヴァダッタは悟りを得るだろう」と弟子たちに語った。

デーヴァダッタが雇った殺し屋がブッダを襲撃している様子[右上,下]
ブッダの人格的な影響力を前に、殺し屋たちのもくろみはやぶれる。『ブッダの生涯』p101

 ブッダの布教は順風満帆とはかぎらない。数々のハニートラップもあった。祇園精舎に滞在中にはチンチャーという若くて美しい女性がブッダとねんごろに夜を過ごしたと言いふらし、子を孕んだことさえ宣言したのだが、結局は籠絡できなかった。ついでスンダリーという若い女性がこれみよがしに愛人のようにふるまったが、結局は周囲から唾棄された。
 こうして紆余曲折をへながらも、ブッダの弟子はだいたい千人前後が主要にコア・コンピタンスを発揮していたのだと思われる。45年間の布教の成果がこの程度であるのは、決して大きくはない。
 しかも際立つ奇蹟がおこったわけではなく、英雄や豪傑が出入りしたのでもない。その活動の中心も周辺もきわめて静慮(じょうりょ)に充ちたもので、全貌ははなはだ思索的であり哲学的なのである。それにもかかわらずブッダがおこしたことは古代世界史で群を抜いてユニークだった。かつてブッダの生涯の一部始終をだいたい知ったころ、ぼくはその教えが涅槃寂静(ねはん・じゃくじょう)まで及んでいることに感銘した。

ブッダの入滅
『ブッダの生涯』p12-13

ガル・ヴィハーラ(スリランカ)の立像と坐像
『ブッダの生涯』p110-111

 ブッダがペールヴァという村を訪れたとき、かなり体調をくずしていた。それでも苦痛に耐えながら、自分が侍者たちに言うべきことを話し、サンガ(僧団)にしっかりとした別れを告げるまでは倒れられないと覚悟した。
 アーナンダには次のように告げた。「サンガはもう私を必要としないだろう。まだ説いていない師拳(握りこぶしにかくしておいたもの)など、何もない。私は年老いて80歳を過ぎた。これからはみんなが自身を島として、法(おしえ)をよりどころとしなさい」。
 また、自身や法を「灯」としなさいとも言った(自灯明・法灯明)。こうして雨季の安居がおわると僧団は出発し、チュンダが経営するマンゴーの茂みに着いた。チュンダは教えを乞い、食事をふるまった。その食事のせいか、ブッダの病気が悪化した(キノコ料理だったとも伝承される)。
 それでも旅を続けたブッダは、クシナーラ(クシナガル)の地に辿り着き、ここで休んだ。ヒランニャヴァティー川の岸辺に沙羅双樹(サーラの樹)が繁っていた。アーナンダが2本の沙羅双樹のあいだに床をしつらえると、ブッダは身を横たえた。
 右の腋を下に、北を枕に、西を向いた。いくつかの話をアーナンダにして、そして、最後に一言、こう言った。「一切のものはすべて滅びる。精進努力しなさい」。
 これがブッダの入滅である。ニルヴァーナ(涅槃)の到来、すなわち涅槃寂静だった。遺骸は丹念に荼毘に付された。焼かれたブッダの体からは84000の遺骨が分かれていったという。それは紀元前3世紀のマウリア朝のアショーカ王(阿育王)のときのこと、3度目の仏典結集がおこったときのことである。

仏舎利をめぐる争い
ブッダの葬儀後、遺骨の分配をめぐって争いがおきた。結果、互いにわけあうことで惨事は免れた。
『ブッダの生涯』p115-116

ブッダの巨像に花を捧げる仏教徒

⊕ ブッダの生涯 ⊕

∈ 著者:H・サダーティッサ
∈ 訳者:桂紹隆 桂宥子
∈ 装画:平山郁夫
∈ 発行者:下野博
∈ 発行所:株式会社立風書房
∈ 印刷所:信毎書籍印刷株式会社

∈∈ 発行:1984年7月10日

⊕ 目次情報 ⊕

∈∈ まえがき

∈  1 黄金の王子誕生
∈  2 人生の真相
∈  3 真理の発見
∈  4 はじめての説法
∈  5 僧団の拡大
∈  6 慈悲と良識
∈  7 涅槃

∈∈ あとがき

⊕ 著者略歴 ⊕
H・サダーティッサ
英国仏教界の中心人物として活躍している上座仏教の大長老。出身はスリランカで、仏教僧として修行した後、ベナレス、ロンドン、エディンバラ各大学に学ぶ。PhD取得後は、トロント大学、ロンドン大学他で仏教哲学を講義。現在、英国マハーボーディ協会と大英サンガ・カウンシルの会長、パーリ聖典協会副会長。本書以外に、The Buddhist Ethies The Buddha’s Way 等、多数の著書・論文がある。

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