父の先見
ヴィスコンティ集成
フィルムアート社 1981
装幀:菊地信義・岸顕樹郎・神保博美
すぐれた映画監督は誰だって格別だが、ルキノ・ヴィスコンティはなかでも格別で、特異だった。
北イタリアを代表する富裕な歴史的名家に生まれ、ヨーロッパの爛熟した貴族感覚に包まれて育った。大邸宅と避暑地と美術工芸と目も綾な衣裳に囲まれて暮らし、ミラノを拠点にその細部を堪能した。ところがそういう身でありながら、上流階級の没落と腐敗のほうに関心をもち、かつ近代祖国の成立の仕方に深い疑問を抱いて、「権威の歪曲」と「革命の焦燥」をスクリーンに描こうとした。それに徹した。こういう監督はめずらしい。
一家が揃って教養がある。財力もある。家族も親族たちも長らく社交界の花形だ。母がピアノを弾けば、父がバリトンで歌い、子供たちは古典を擬いたお芝居をやってみせた。邸宅もいくつかあって、コモ湖の別荘では代々が遊んだ。
家族の背景が図抜けていたばかりではない。当人自身が他を圧倒するようなリベラルアーツを身につけたダンディズムの持ち主だった。どんな撮影スナップの記録写真を見ても、ヴィスコンティのほうが、バート・ランカスターやダーク・ボガードやマルチェロ・マストロヤンニらの出演俳優より上背があって恰幅があり(顔もよく)、ずっと上品で粋なのである。
そういう「氏」と「育ち」にいたヴィスコンティが、しだいに演劇に手を染め、舞台装置に凝りはじめ、あるときココ・シャネル(440夜)に紹介されたジャン・ルノワールに出会って監督助手となり、映画づくりに嵌っていった。
一変したのだろうか。金持ちの道楽が始まったのか。趣味が高じたのか。どうもそうじゃない。一貫して深い思索力を湛えていたし、早くからの「チネマ」同人で文章も好きだった。寡黙で大胆で、ひたすらシェイクスピア(600夜)とチェーホフとヴェルディを愛した。
こうした総勢を本気で映画に賭けたのである。しかしその表現の大半は、なんとデカダンの追求と死に臨む男たちの没落の美というものばかりだったのだ。
この華麗な背景にして、この意表の片寄りだ。脆いったら、ありゃしない。けれどもその脆うさは堂々たる天下一品だったのである。こんな監督はめったにいない。
大監督にしては、ヴィスコンティは寡作だった。それもあって、ぼくはほぼ公開順に見ることができた(「観た」とは書きたくない。「見た」でいく)。そこで、ふつうにフィルモグラフィを紹介する代わりに、今夜はぼくの初見時のおぼつかない感想を先にざっと言っておく(括弧内の年号は制作発表時のもの、日本公開は作品によって少しずつ遅れた)。
最初に二つのことを白状しておくが、リアルタイムで見ていた当時、ヴィスコンティの凄さはほとんどわかっていなかった。蒙昧だった。それに、50年代の初期作品『夏の嵐』(1954)や『白夜』(1957)は見ていないし、デビュー作品『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(1942)はなぜかずっと日本で公開されず、亡くなったのちに記念上映されたので(1976年3月17日に没した)、70年代を通してヴィスコンティに関する知識もまったくないままだったのである。『揺れる大地』(1948)や『ベリッシマ』(1951)も見ていない。
もうひとつの白状。ヴイスコンティは映画だけではなくかなりの数の舞台演出をしつづけていた。オペラも演劇もあるが、芝居ではチェーホフ、シェイクスピア、アヌイ、サルトル(860夜)、テネシー・ウイリアムズ(278夜)、ストリンドベリを、オペラではヴェルディのほとんどの作品と、プッチーニやリヒャルト・シュトラウスを演出した。なぜかワーグナーにはとりくんでいないのだが、それが『ルートヴィヒ 神々の黄昏』の焦りになったかもしれない。マリア・カラスの声と美貌と体力を発見したのはヴィスコンティだった。
が、ぼくはこれらの舞台を何ひとつ見ていない。これではヴィスコンティを語るには失格だろう。いつか誰かに舞台演出の話を聞いてみたい。まあ、それでも映画でぞっこんになったのだから、勘弁願いたい。
というわけで、最初に見た映画はアラン・ドロンとレナート・サルヴァトーリの『若者のすべて』(1960)だった。高校3年のときだ。ロードショーなんて行けなかったから、二番館か三番館だったろう。九段高校から一番近かった飯田橋の佳作座だったように憶う。
青春映画っぽい日本公開タイトルが気にいらなかったが(ぼくは「若者」とか「若人」という言葉が大嫌いなのだ)、清新なのになんだか全体に重く、それは五人兄弟の三男を演じたアラン・ドロンのニヒルな演技力のせいかと思っていたけれど(ぼくはこの美男子にデビュー以来めろめろだった)、それだけではないこと、たとえば移民問題の描写などがあとで見えてきた(もっと重い問題をかぶせていた)。ともかく中途半端にわかりにくいのだ。わかりにくい映画は好きだったけれど(当時はヌーヴェル・バーグにいかれていたので)、狙いがわからなかった。
次の『山猫』(1963)は少し遅れて見た。カンヌ映画祭のパルムドールをとったようだが、全学連の学生運動の渦中にいた早稲田の学生としてはバート・ランカスターがイマイチで、クラウディア・カルディナーレばかり見ていた。
それよりなによりこの映画の舞台になったガリヴァルディらのイタリア独立戦争の背景をまったく知らなかったので、この革命運動にひそむ苛酷なバイオレンスを描出する意図がいまひとつ理解できなかった(映画を見ると、こういうことがしょっちゅうおこる)。ヴィスコンティが政治や革命に発露する「残酷な欠陥」ともいうべきものを描き切る執着をもっていたことは、これまたずっとのちに知った。
次はカミュ不朽の名作の完全映画化というふれこみの『異邦人』(1968)だ。原作(509夜)を読んでいたのでその気で見ていたら、どうも話が違っていく。その理由がわからず、消化不良でおわった。
映画が原作と違っているのはよくあることだけれど、マストロヤンニのムルソーに、原作がもつ「実存の不気味さ」がない。これでは入りづらかった。のちに知ったが、ヴィスコンティは脚本を読んだカミュ夫人から反対され、書き直すことになったようだった。マストロヤンニでなければよかったのだ(アラン・ドロンでいくべきだった)。これものちにインタヴュー記事を読んで知ったのだが、ヴィスコンティはむしろ「裁判の理不尽」を描きたかったようだ。
と、ここまでは衝撃も大過もなくきたのだが、そこでガーンなのである。大作『地獄に堕ちた勇者ども』(1969)が突如としてあらわれたのだ。暗闇のスクリーンの中で製鉄王エッセンベックの一族が華麗驕奢な日々を演じながら、異様な断末魔の叫びをあげて崩壊していった。息を呑んだ。愕然とした。参った。これには参った。
映画館ではとりあえずはヘルムート・バーガーやシャーロット・ランプリングをその衣裳と化粧ごと、まじまじと見入ったのだけれど、それはみかけのことで、実は完膚なきまで打ちのめされた。なんだこれは、こんな極端な映画があるのか。ただただそう感じ、この監督の凄まじい美意識と途方もないスペクタクルに食当たりをして、どうしょうかと思ったほどだった。
ドイツ帝国を象徴する家族の腐乱とナチスの狂気と淫鬱なバイセクシャルなエロス。加うるに母子相姦。
これ以上の組み合わせはない。戦前ドイツを代表するクルップ一族をモデルに、過剰な宴と議論が描かれ、そこに永続を希求する巨大企業の終焉、ナチス親衛隊によるビヤホール一斉銃撃による殺戮、何度もくりかえされる倒錯した愛欲が執拗に挟まれて、それが息せききって驀進する。
こちらがまったく間にあっていないのがわかった。自分が「極東でほざいている猿」だということも、よくわかった。
ともかくあまりにも打ちのめされたので、これはとりあえず保留しておいて、いつか見直してリベンジするしかないと覚悟した。格別の映画にはしばしばこういうことがおこる(もちろん読書にもおこる)。ともかくも、わがヴィスコンティは『地獄に堕ちた勇者ども』からで、以降、この覚悟を何度も何度も折り返していくことになる。
次が『ベニスに死す』(1971)である。これは参ったというより、今度はたまらなかった。手足だけでなく、魂が痺れた。もう勘弁してほしい。この美しいデカダンを前にしては、ただただスクリーンに体を擦(こす)り付けるしかないじゃないか。そんな体験だった。
ビヨルン・アンドレセンが扮した絶世の美少年タジオの澄み切った目、貴夫人シルヴァーナ・マンガーノの静かに揺れるエレガンス、休暇の避暑地に揺蕩する閑寂と上流階級のために用意されたホテルや意匠の寡黙な華美。こういうものを、あんなふうに入念に持ち出してもらっては、困るのだ。全編が「視認症」なのである。老壮者の「視認する病い」がこんなにも美しい映像になるなんて、驚きだった(のちの『ロリータ』などはそこが描けていなかった)。
とくにラストはあまりにも鮮烈が深すぎた。白の夏服上下を着るダーク・ボガードのアッシェンバッハは、床屋に行って髪を黒く染め、眉を整え、あまつさえ白粉と頬紅を加えてアイシャドーさえ入れる。老醜を隠すためだが、口紅をさして襟元に紅い薔薇をさしたときは、この世の終わりかと思った。最後の最後の最後、アッシェンバッハは人影のない砂浜のデッキチェアに坐ったまま、一人、タジオを想って崩れていく。とたん、いっさいの精神の美さえ滅ぶのだ。
溜息ばかり。気をとりなおして新宿の映画館を出て、紀伊国屋でトーマス・マンを手に入れて読んでみると、原作の主人公は作家という設定だった。映画ではアッシェンバッハは作曲家で指揮者になっている。それで全篇にマーラーの第3番や第5番が鳴っていたのか。
ゲイ感覚の描き方も極上だった。いっさいの性的描写がなく、いっさいの弛緩がない。ヴィスコンティのホモ・セクシャリティは「本物」だったのである。なんという監督なのか。「本物」とはこのことかと大いに得心した。
ちなみにそのころのヴィスコンティは次回作には『魔の山』(316夜)を撮りたがっていたらしい。よく、わかる。もっと撮りたがっているのは『失われた時を求めて』(935夜)だというニュースも入ってきていた。もっとよくわかる。これらの計画は納得させてくれたのだけれど、どちらも陽の目を見なかった。なぜ、撮れなかったのだろうか。
こうしてヴィスコンティへの憧憬がいやというほど高まっていたとき(70年代に入るとぼくはフェリーニやベルイマンやアントニオーニに夢中だったのが、まったく別の耽美的異種格闘技のようなものに引き込まれていたわけだ)、次はいよいよ『ルートヴィヒ 神々の黄昏』(1972)だという予告が入ってきた。
そうか、ついにバイエルンの月王ルートヴィヒ2世とワーグナー(1600夜)か。ヴィスコンティなら夢幻の浪漫すら破るだろうと胸ときめいたのだが、なぜか日本での上映は1980年まで待たされた。ヘルムート・バーガーが若きバイエルン王ルートヴィヒ2世をどう演じたのか、ヴィスコンティはワーグナーをどういうふうに見せるのか、ノイシュヴァンシュタイン城は本気で撮ったのか、あれこれ大いに期待していたが、見るのはずっとあとまわしになった。
それで、『家族の肖像』(1974)が一足先の78年日本公開となって、少しがっかりしたのだと憶う。“Comversation Piece”が原題で、これは18世紀ヨーロッパに流行した「家族の団欒を描いた絵画」のことなのだが、やっぱりバート・ランカスターではうまくなかった(小説とちがって、映画には俳優がいるのがいいようで、困るのだ)。もっともこの作品ものちのち見直して、考えさせられた。
かくしてリアルタイムで見た最後が、遺作となった『イノセント』(1975)である。1979年公開で、ぼくは「遊」のⅢ期に耽っていた時期だ。ハリウッドは『スター・ウォーズ』『スーパーマン』『サタデーナイト・フィーバー』などで賑わっていたが、いずれもオヨビでなかった。タルコフスキー(527夜)の『ストーカー』が気になっていた。
『イノセント』はダヌンツィオの原作をいじったもので、ラストで主人公を自殺させていた。きっとヴィスコンティがファシズムに加担したという理由でイタリアでも不当評価されてきたダヌンツィオを、なんとか復権させたいという意図があったのだと思う。この気持ち、よく伝わってきた。
以上、20代から30代にかけて、ざっとこんなふうにヴィスコンティを上映のたびに見てきたわけである。
何度も言うようだが、残念ながら、その深みや凄みが途方もなく「かけがえのないもの」だったことを実感できたのは、ずっとのちになってからだ。本も二度以上読まないと狙いも味もわからないが、すぐれた映画はそれ以上のもので、ともかく見直すしかない。
あまり資料はなかったのだが、ヴィスコンティ自身の言葉や映画作りの裏側も知るようにもなった。今夜とりあげた本書がそのひとつで、フィルムアート社が得意の情報源と執筆陣によって構成している“Book Cinémathèque”のシリーズ第3弾だ。没後まもなく編集された。フィルモグラフィも充実している。
ほかには、没後40年を記念して青木真弥や寺岡裕治が構成した『ルキノ・ヴィスコンティの肖像』(キネマ旬報社)、思想書として仕立てたかったような若菜薫の2冊本『ヴイスコンティ』(鳥影社)などを参考にした。
いろいろ見聞が広がってまず驚いたのは、冒頭にもふれたが、たいそう富裕な家柄に生まれ育っていたということだ。ヴィスコンティ家はルネサンス期からの名家で、18世紀には侯爵になってミラノ近辺のヴィモドローネの侯爵領を所有した。父方の祖父は紡績工場を経営する上院議員で、母方の祖父は音楽家で作曲家ヴェルディの親友だ。父のジョゼッペは悠々自適、ミラノのチェルヴァ街の先祖伝来の館に住み、ミラノ社交界一の美女といわれたカルラを娶った。
4男3女が生まれ、ルキノは三男である。小学校には行かずに家庭教師から学び、そこでイタリア史、外国文化、ドイツ語にめざめた(これは羨ましい)。家庭では母が音楽を教え、チェロを習得した(これは羨ましくはない)。イギリス人の教師からは体育を仕込まれ(これはちょっと羨ましい)、ミラノの市立中学校では「モラル」を叩き込まれた。日曜日の午後は家族でスカラ座4号ボックスで観劇を欠かさない。スカラ座は叔父の経営だったのである。
ドイツ人の家庭教師がいたことはかなりの影響を与えたとおぼしい。『地獄に堕ちた勇者ども』『ベニスに死す』『ルートヴィヒ』は「ゲルマニア三部作」とも称されるのだが、ヴィスコンティのドイツ好みはこのあたりから根差していたようだ。シャーマニズムならぬジャーマニズムというものだ。
20歳、兵役についた。ヨーロッパに不信と失望をもたらした第一次世界大戦だ。あまり多くを語っていないようだが、この戦争と次の戦争における祖国イタリアの動向とドイツの狂気は大きかったはずである。
1928年、父親がミラノ芸術演劇座を立ち上げた。ヴィスコンティは舞台装置に関心を示してこれを手伝い、一方で兵役時代に心を奪った馬に入れ込んで、数頭をそろえて厩舎をつくったり乗馬学校をおこすと、自身もサンモリッツ乗馬大会に出場したりした。上流社会での評判も高まっていく。
上流社会でのふるまいはともかく、「芝居」と「馬」に興じるなんて、たんなる放蕩息子ではない。とくにパリに遊ぶと、このイタリアの美しい硬骨漢の人気は広まって、劇作家アンリ・ベルンスタイン、詩人ジャン・コクトー(912夜)、舞踏家セルジュ・リファール、作曲家クルト・ヴァイル(1007夜)、そしてココ・シャネルらと親しくなっていく。
ヴィスコンティがパリで一番痺れたのは映画だった。暗闇の銀幕で見るスタンバーグの『嘆きの天使』、シュトロハイムの『結婚行進曲』、レゴーシンの『孤帆は白む』に痺れた。
ミラノに戻るとさっそく16ミリの機材を揃えて映画づくりを始めた。映画づくりは乗馬や舞台装置づくりとは訳がちがっている。それにイタリアにはまだ本格的な映画産業が確立していなかった。再びパリに出て、シャネルからジャン・ルノワールを紹介してもらい、助手となって訓練を受けた。
当時のルノワールが『ピクニック』『どん底』『大いなる幻影』にとりくんでいたことは、ヴィスコンティをすっかり変えた。フランスの映画人たちがこぞってフランス共産党員で人民戦線の活動家であったことにも心情的に嵌まったようだ。ローマに転居すると、ここでチネチッタ(ローマ南東の撮影所が密集した映画村)を足場に映画にのめりこんでいく。以降、死ぬまでローマから転居していない(あの「氏」と「育ち」を捨てたのだ)。
もっとも映画作家ヴィスコンティはそうなっていくのだが、さっきも述べたように、その間、演劇やオペラの演出も連打しつづけていた。その演出力の傍らからゼッフィレッリ(186夜)らも出てきたのだった。ゼッフィレッリはマリア・カラスをものにした。
さて、その後のぼくの感想を少しのこしておくことにするが、まず『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(Ossessione)が1942年に制作されていたことが驚きだった。ロベルト・ロッセリーニの『無防備都市』が1945年、ヴィットリア・デ・シーカの『自転車泥棒』がその3年後で、翌年がジョゼッペ・デ・サンティスの『苦い米』なのだ。
この3作はいずれもぼくが大好きな映画で、てっきりイタリア映画が誇る「ネオレアリズモ」の開幕を告げるものだと思っていたのだが、『郵便配達』はそれよりずっと早かった。イタリアン・ネオレアリズモはヴィスコンティによって用意されていたということになる。
ヴィスコンティがネオレアリズモを先駆できたのは、ジャン・ルノワールの周囲がほとんどパルチザン志向であったこと、ファシズムに対抗するには新たな現実を叩き付けなければならなかったこと、当時のヴィスコンティが演劇の舞台づくりでリアリズムに徹していたこと(なにしろチェーホフなのだ)、なんといっても祖国が好きで、その「失敗の歴史」に深入りしたかったことなどにもとづいている。日本でいえば、若き日の新藤兼人(84夜)や千田是也のようだったのだろう。
原作はジェイムズ・ケインの同名の小説だが、すっかりイタリア化されて、作品にはファシズム末期のデカダンの帳(とばり)が降りていた。それに較べるのはなんだけれど、一方、ずっとのちにジャック・ニコルソンとジェシカ・ラングによるハリウッド製『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(1981)ができたが、これはすべてがアメリカン・コーヒーになっていた。ニコルソンのオーバーライドな感応演技の魅力だけの映画なのだ。
だいぶんたってから見た『夏の嵐』(Senso)は、ファーストシーンがジョゼッペ・ヴェルディのオペラ『イル・トロヴァトーレ』の舞台をカメラが凝視するところで始まっていた。中世騎士道のロマンスだが、この圧倒的なファーストシーンは、やっぱりうまい。
物語は1866年前後のヴェネティアの人間模様を、イタリア統一以前の独立戦争の日々を切り取ってつくりあげた。原作はカミッロ・ボイトの『官能』で、ざっと読んでみると薄っぺらい作品なのに、ヴィスコンティはこれに厚みと装飾句を付けた。
貴族のロベルト・ウソーニ侯爵が仲間と謀って、オペラ観劇の劇場の人込みに独立運動のピラを撒き、劇場を出たところでフランツ・マーラー中尉に逮捕されるという発端である。このフランツがけっこうな色男で、軍服がやたらによく似合う。ロベルトの従妹の伯爵夫人リヴィアはロベルトの独立運動を助けようとしてフランツに近づくものの、たちまちその官能に巻き込まれ、二人は妖しくなっていく。しかし、軍服を脱いだフランツは裸の自分に「力」がないことを、愕然と知る。こうして傲慢と独立とが、恋情と失意とが入り交じって、まるで物語は夏の嵐のように吹きすさぶ。そういう映画だ。
きっとヴィスコンティはこの映画で「軍服」や「式服」のもつ「力」に抉(えぐ)られたのである。その後も『山猫』『地獄に堕ちた勇者ども』『ルートヴィヒ』に描かれる軍服や式服は、『地獄に』の最後でヘルムート・バーガーがナチの軍服を完璧に装着してみせるところでピークを迎え、『ルートヴィヒ』の狂王の式服で頽廃に向かっていったのだろう。
初見時の感想にも述べたが、『若者のすべて』(Rocco ei Suoi Fratelli)はアラン・ドロンにどのようにヴィスコンティが惚れたのかという映画でもあったはずだが、あらためて見直すと、ボクサーにまつわる3人の兄弟を覆っている一家の移民的宿命がその身振りやセリフや目付きにまざまざと描かれていて、これをヴィスコンティが「とうてい人類学的手法では撮れなかった」と言っている意味がやっと染みてきた。
重圧の実感やそこから逃れようとする逸脱感は学問では描けない。そうなのである。ぼくにもそういう逡巡との闘いが千夜千冊をしていたっておこる。文章を書いているときも、社会学や人類学では綴れないことがのべつある。映画ならなおさらであろう。
だからヴィスコンティは独自の映像文法を練り上げたのだ。ぼくとしてはそれを「編集文法」(イメージ・エディティング)とも言いたいのだが、如何せん、編集にはあれほどの資力が注ぎこまれない。
これものちに見た『山猫』(Il Gattopardo)のラストシーンは、えんえんと続く舞踏会である。ヨーロッパで封切られたときは3時間25分の上映だった。それをアメリカの配給会社が舞踏会が長すぎるというので40分カットした。
日本の映画業者もアメリカ追随派だから、ぼくが見た舞踏会は「ふつう」になっていた。まったくばかばかしい。「ふつう」ではいかんのだ。ヴィスコンティはこのシーンのためにシチリアのパレルモにあるガンジ宮殿を借り切って、8月だったので各所に冷房装置を仕込み、映画用ライトで溶けださない蝋燭を使用した。舞踏会の客にはガンジ宮殿の主人一族がそっくり出演し、全員にマズルカ、ワルツの特訓を受けさせたというのに、だ。
本物を惜しみなく追求するヴィスコンティをハリウッドは無視したのである。それならばというのではないだろうが、全面戦争に出た。それが「権力と頽廃」を主題にした蘭位(世阿弥が設定した表現最高位の言葉)を賭けた『地獄に堕ちた勇者ども』だった。“La Caduta degli Dei”(The Damned)が原題だ。
またまた繰り返すことになるが、とにもかくにも物凄いとはこのことだった。正真正銘の「崩落」が、絢爛に、官能的に、爛れるように描かれている。
公開後のインタヴューでこんなことを言っている、「私は悲劇を語りたいのだ」「崩壊をどう描くのか、いつも腐心する」「好転しない瞬間に向かって何がおこっていくのか、そこを凝視しつづけてみた」。まさにそうなんだろうと思う。そういう意図と覚悟を極めたのだ。
ナチス側のドラマなど、これっぽっちも入れてはいない。陰惨な粛正一夜を殲滅的描写にしておいて、栄華の頂点にいた産業一族の退落を、ヘルムート・グリーンとヘルムート・バーガーの制服ナチス化で汚してみせたのである。三島由紀夫は自害する年の「映画芸術」4月号でこの映画の感想を求められ、「暗い抒情をアルコールを含んだ脱脂綿に滲みさせた」と書いていたが、脱脂綿というよりも、全篇を液体劇薬を滲ませた美しい獣の毛皮でくるんだようなのだ。
一言でいえば、『地獄に堕ちた勇者ども』は「負」を描き切った。そのこと自体はめずらしいことではない。これまで多くの映画が「負」に加担してきたし、映画はもともとバイオレンスであれ犯罪ものであれ恋愛の破綻であれ、「負の領域」が得意なのである。とくに戦争映画では。しかし、この映画のような「絢爛たる総負」は、デ・シーカにもベルイマンにもパゾリーニにも、できないことだった。
しつこいようだが、またまた言いたい。『ベニスに死す』(Mrte a ven Venezia)はどこから見ても最高だった。あらためて付け加えるべきことなんて、ない。トーマス・マンの原作よりずっといい。きっと『ファウスト博士』の魂を混入させたのではないかと思う。
冒頭、ヴェネツィアの港に「エスメラルダ」という客船が入ってきて、カメラが近づくとそこにアッシェンバッハがコートにくるまり、膝に読みかけの本を広げたままデッキチェアに蹲っているのだが、これはラストシーンと呼応する。原作には「エスメラルダ」の船号もない。
淀川長治(52夜)も絶賛したホテル・デ・パンの描写は、たしかに絶品である。非の打ち所がないとは、このことだ。このホテルの映像を「静謐の極致」にもっていっておいたから、音響的に上流階級の閑散に振ってあったから、アッシェンバッハはタジオのまなざしがちょっと揺れるだけで、ぐらりと「存在」までが揺れたのである。それが映像になったのだ。この精神の複式簿記こそヴィスコンティなのだ。
問題は『ルートヴィヒ 神々の黄昏』(Ludwig)である。あまりにぼくがヘルムート・バーガーの若き狂った月王とワーグナーとの「退路のない精神形態学」に期待しすぎたせいか、これは物足りなかったと言わざるをえない。二人の男の描写以外は、城館も部屋の装飾も絵画の見せ方も、さすがにすばらしいのだが、しかし、やはりこれは男の「失墜寸前の耽美」なのである。あまりにヘルムート・バーガーに惚れすぎたからだろうか。そこを描きそこねたようだ。
余談だけれど、ヘルムート・バーガーはヴィスコンテイ没後にこう言っていたそうだ、「ぼくはヴィスコンティの未亡人なんです」と。
あらためて見た『家族の肖像』(Grupp0 di Famiglia in un Intetno)は、見れば見るほど沁みてきた。なるほど、これが大人のヴィスコンティの「カンバセーション・ピース」なんだということが、まるで諭されているように感じた。
アメリカンなバート・ランカスターの教授役はあいかわらず好きではないが、それをエゴイズムに持っていったのが、うまかった。それより「絵」(タブロー)を映画化していることに脱帽した。4度目くらいに見たときは、画面の中の「絵」にばかり目を凝らしてしまった。
フィルモグラフィによると、ベランダからローマの家並みを眺めるシーンには、どうしてもバロック風の漆喰が必要だったらしく、ヴィスコンティはこれをマリオ・ガルブリアが仕上げるまで落ち着かなかったという。ぼくも多少はそういうところがあるけれど、こういう「何かの部分が仕上がらないと、全体が役立たずになる」という感覚には、いつも学ばせられるものがある。丁寧とか準備万端とか考証なのではない。根本偶然が必然に至ってほしいのだ。
ダヌンンツィオに原作を借りた遺作の『イノセント』(L'innocente)は、いわば「無益とは何か」を追いかけたもので、ヴィスコンティの終焉を語るにはいかにもふさわしい作品だと思う。それとともに、いまのいまになって、ぼくの思想になりつつある〈「ほんと」と「つもり」の区別はつかない〉という思想を、八点鐘のように響かせる。
キャスティングはできればアラン・ドロンとシャーロット・ランプリングで行きたかったようだが、うまくスケジュールが合わなかったようだ。残念だ。
あらためてひるがえってみると、ヴィスコンティは一貫してあるゆる意味での「時間の欠落」を描いてきた。だからこそ、あれほどに空間を細部にいたるまで埋め尽くせたのだったろう。ヴィスコンティはこう言っている。「私はなによりもまずスペクタクル、つまり目に見える事実の表現をしたかったのである」。そう、スペクタクルそのものだった。“そこ”におこるめざましさ、その亀裂を描きたかったのだ。
『イノセント』撮影中のヴィスコンティと、ジャンカルロ・ジャンニーニ、ラウラ・アントネッリ。半身不随になっていたヴィスコンティは車椅子に乗りながら演出しつづけた。