才事記

ゴッドファーザー伝説

ビル・ボナーノ

集英社 2002

Bill Bonanno
Bound by Honor―A Mafioso's Story 1999
[訳]戸田裕之

 ニノ・ロータの甘美で哀愁をおびた音楽が近づくように鳴って、仲間に囲まれて立ち話をしていた白髪まじりのマーロン・ブランドがゆっくりとこちらを振り向く。ドン・ヴィトー・コルレオーネである。
 血で血を洗うマフィアのコルレオーネ一家を描いたフランシス・フォード・コッポラの『ゴッドファーザー』をいったい何度見たことか。それも大作3本だ。テレビで放映されていると、ついつい見てしまっていた。筋にはまってもいるし、映像をあらためて追ってもいるし、役者ぶりも見る。パートI
のドン・コルレオーネはマーロン・ブランドで、三男マイケルがアル・パチーノ、トム・ヘイゲン役がロバート・デュバル、ケイ・アダムスがダイアン・キートンだ。それがパートII
では若き時代のドンがロバート・デ・ニーロに代わる。これだけで参る。とくにぼくはマイケルのアル・パチーノにはぞっこんだったのだ。

 この、映画『ゴッドファーザー』には原作がある。マリオ・プーゾの同名の小説だ。ベストセラーになった。
 プーゾはニューヨークの極貧のイタリア系移民の二世で、すでにシシリアンに対する強烈な懐旧の情をもって育っていた。ぼくにも何人かの知り合いがいるが、ニューヨークのイタリア系移民には独特の焦燥感と一人よがりと寂しさと、そしてすばしっこい勇気と同胞愛がある。プーゾもきっとそういうイタリアンの一人だったのだろう。
 そのプーゾが『ゴッドファーザー』を描くにあたってモデルにしたのが、ジョゼフ・ボナーノの一家だった。ジョゼフ・ボナーノがドン・コルレオーネことヴィトー・コルレオーネで、つまりゴッドファーザーである。ここまではゴッドファーザーのファンなら誰でも知っている。
 では、アル・パチーノが演じたマイケルは誰かというと、どうもそういう息子がいるらしいという噂はもちきりだったが、はっきりしなかった。それがついに姿をあらわした。それも『ゴッドファーザー伝説』の著者として、全世界のゴッドファーザー・ファンに対して“真相”をあきらかにするため、颯爽とあらわれたのである。本書の著者ビル・ボナーノは、あのアル・パチーノのマイケルなのだ。ゴッドファーザーは実父なのである。
 これはどうしても読まずにはいられない。

 読んでみてマフィアに関して驚いたことはいくらもあったが、なかでも実在のゴッドファーザー=ジョゼフ・ボナーノがまだ生きて矍鑠としているということと(本書が書かれた時点で94歳になっていた)、そのゴッドファーザー・ジョゼフがジョン・F・ケネディとこれほど昵懇だったということは、予想外だった。
 しかも息子のビルは、ケネディ暗殺の真犯人を知っているふうなのだ。オズワルドは捨て駒だったと言って、実行犯が別にいたことを匂わしている。もっとも、このことについては次著であきらかにするとおもわせぶりなことを書いているので、本当かどうかはわからない。
 もうひとつ、予想外なことがあった。老いたジョゼフ・ボナーノの写真を見ると、本物のゴッドファーザーはマーロン・ブランドよりもっと優雅で、ずっと深みを湛えていたということだ。

 さて、66歳になったマイケルのほうの著者ビル・ボナーノは、最初にこう書いている。「私が住む世界の人々は自伝を書かないのが普通である」。
 この掟を破ったのは、これ以上、ドン・コルレオーネの伝説と実像との混濁を進ませたくなかったからだという。たしかに小説や映画とはずいぶん違ったところがあった。けれども、誰が撃ったか、誰が誰を復讐したかということを別にすれば、本書の隅々には、ほぼ映画『ゴッドファーザー』の抗争と殺戮が、親愛と哀愁が、血のように流れていたといってよい。これがあの一家の事実の流れなのだということに映画をかぶせて読んでいることが、他のマフィア関連の類書を読むよりずっとおもしろくさせたともいえる。加えて著者が、「私は懴悔をするつもりでこれを書いたのではない」と決然と宣言していることも、本書を際立たせた原因になっていた。
 著者が何度かにわたって、あることを読者にはっきりさせたことも効いていた。それは、マフィアやラ・コーザ・ノストラなどのシチリア特有の一族やクラン(党派)を一般人が理解するには、一人一人の「マフィオーソ」とはどういうものであるかを理解するしかないと断言していることである。

 マフィオーソの理解には、一人のマフィオーソの性格と個性の把握が必要であるらしい。
 マフィオーソは名詞と形容詞の両方でつかわれる。ある個人が組織された党派のメンバーであれば、その個人がマフィオーソと定義される資質をもっていないかもしれなくとも、マフィオーソたりうるという。また、クランの一員でなくともマフィオーソでありうるし、むろん性別も関係ない。正統な誇りをもっているのなら、絶世の美人もまたマフィオーソなのである。
 もっというならマフィオーソは人間である必要もない。ある態度をもつ馬や狼やライオンもマフィオーソになりうるという。これはマフィアを知らないわれわれからすると、意外な見方である。しかし、この意外な見方が何を如実にあらわしているかということは、次の例でもっとはっきりする。
 著者の大叔父にジュゼッペがいる。ボナーノ一族に属しているという意味でも、その性質においてもマフィオーソだった。その大叔父を慕う青年も一族の正式なメンバーになりたがっていた。青年は大叔父のそばにいて、何でもやった。この、喜んで奉仕するという性質は、クランのなかでは重要なものではあるが、マフィオーソの決定的な特徴ではない。
 ある日、大叔父はその信奉者の青年にシャツを脱ぎ、鞭を打つと言った。青年は柔順に従い、大叔父は青年を皮膚が剥けるほど打った。青年はなぜこんなことをされるのか理解できるわけではなかったが、理由はともかくも鞭打ちを受けることが必要だということは感じていたはずである。
 大叔父は鞭打ちをおえると、自分もシャツを脱いで鞭を打つように青年に言った。青年はふたたび言うとおりにした。大叔父の指示を理解したわけではなく、二人のあいだに存在する関係ゆえにそうすることが正しいと信じたからである。
 この大叔父と青年のあいだによって明らかにされた性質こそがマフィオーソなのである。これをあまり厳密に定義しようとすると、本質を見失うことになると著者は言う。なぜなら、この性質は魂のなかにあり、まちがいなく定義しがたいものなのだ。

 このマフィオーソのくだりを読んで、ぼくは呆気にとられるとともに、忽然とした。なんだかマフィアが羨ましくさえ思ったものである。
 もっとも、マフィオーソがこのような魂の性質をもったことについては、かなりのシシリアンとしての歴史があった。ここでは紹介しないが、著者はそのことも詳しく書いている。なにしろ13世紀にフランスがシチリアを占領して以来の、そこで「シチリアの晩鐘」と言われた暴動をおこして以来の、長きにわたる抑圧と排除の歴史なのである。
 このときシシリアンが反乱し、その反乱のスローガンが「フランスに死を、とイタリアは叫ぶ」というものだった。イタリア語では“Morte Alla Francia, Itala Anela”という。そこで、その頭文字をとったのが“MAFIA”になっていった。こんな経緯を含めて、著者のいうマフィオーソの魂は形成されていったのだ。
 しかし、なぜそんなマフィオーソの魂が純粋に維持され、“ゴッドファーザー伝説”として今日まで続行できたかというと、ここはきっと著者も同意するだろうけれど、かつてシシリアンが抑圧と排除を受けたという歴史そのものが、そのままその後のシシリアンによる抑圧と排除の歴史に逆倒していったという奇怪な継承がおこったからだったにちがいない。「目には目を」という哲学に、すべての組織の歯車が集中したということなのである。
 マフィアは、マフィアが生まれた生涯の傷をマフィアの成長のためにつかったわけなのである。

 ともかくも、この本は貴重な報告だった。
 べつだんわれわれには、マフィアの実情を詳しく知る謂れなんてないのだが(いや、実はあるのだが)、そのことを知れば知るほどになんとも説明のしようがない共感が誘われる。
 マフィアに共感するなんて、まったく説明のつかないことであるけれど、それがコルレオーネ一族ことボナーノ一族の戦後の日々から感じる実感なのである。晴れた日に雷が鳴り走るというのか、雨の日に花火をあげる男たちもいるというのか、そんな実感だ。
 この実感は結局は、映画『ゴッドファーザー』から受けた観客の多くの印象と通じるのであろう。