才事記

古代憧憬と機械信仰

ホルスト・ブレーデカンプ

法政大学出版局 1996

Horst Bredekamp
Antikensehnsucht und Maschinenglauben 1993
[訳]藤代幸一・津山拓也

 ロンドンのナショナル・ギャラリーでパルミジャニーノの『あるコレクターの肖像』を見て、釘付けになった。
 そこに描かれている寓意がまったく読み取れないばかりか、山岳と植物を左右の背景にして帽子を被った鋭い目付きのコレクターの手元に、はてさて何が描かれているのか、ほとんど確証できなかったからである。
 それにもかかわらず、この作品がヨーロッパの中世と近世を象徴するコレクターの本質を告知しているものであろうことだけは見当がついた。

 本書には「コレクションの宇宙」という副題がついている。これは日本側の副題で、ドイツ語の原版では「クンストカマーの歴史」というふうになっている。
 クンストカマーとは文字通りの意味は「芸術(クンスト)の部屋(カマー)」であるが、どちらかというと「珍品陳列室」というニュアンスが強い。ブレーデカンプの定義では、1540年から1740年までの200年間に見られたバロック的な蒐集趣味をさす。その蒐集に踊った者たちの歴史、それが「クンストカマーの歴史」である。
 この歴史は異常であり、華麗であり、執念深い。なんといってもこの世でいちばん珍しく貴重なものを蒐集しつくそうという連中の熱情が結晶化している。
 たとえば、教皇ピウス5世の植物園監督官だったミケーレ・メルカーティの「メタロテーカ」の収蔵品、チロル公フェルディナンドによる建築的技芸を集めたキャビネット、ルドルフ2世がプラハで11年をかけた綺想の帝国、ニコラ・グロリエ・ド・セルヴィエールの機械コレクション、フェルディナンド・コスピのクンストカマーの壮観「ムセオ」、メディチ家の断絶を復興したかに見えるフェルディナンド1世の技芸と建築を一緒くたにしてしまった「トリブーナ」、ローマのイエズス会大学に隣接して構築されたアタナシウス・キルヒャーによる17世紀最大のクンストカマー・パビリオンとなった「キルヒェリアーヌム」‥。
 これらはどれもこれもが小宇宙であって神話であり、科学であって魔術であり、技芸であって狂気であり、そして説明であって謎であるような、そういう集大成のモデルであった。

 コレクションだけがクンストカマーなのではない。「クンストカマーとしての世界像」を一枚の版画や一個の模型や一体の機械人形や一冊の書物によって象徴化した作業にも、クンストカマーの精神が脈々と生きている。
 それが、ヴェンツェル・ヤムニッツァーの「世界を描いた皿」であり、ロベール・ナントイユのマザラン卿の肖像画であり、ピエール・ジャック・ドローズの人形であり、そしてケプラーの宇宙模型やジョン・ウィルキンズの『数学の魔術』なのである。
 そういうことが本書でやっと了解できたとき、ぼくのパルミジャニーノの『コレクターの肖像』の謎も解けた。パルミジャニーノは技芸の博物学の発端を描いたのだった。コレクターの手元にあるものは「収集の端緒」というものだったのだ。

 クンストカマーの驚異は、シャルル・ペローの古代人と近代人の比較をへて、ある意味ではヴィンケルマンの登場によって、夢のような日々に終止符を打つ。
 本書は、ヨーロッパが誇る数々のクンストカマーを案内してくれているという、目が眩む構成もいいのだが、実はそのクンストカマーが解体し、蔑視される理由を歴史的に凝視している点に、ブレーデカンプの主張の隠れた値打ちがある。なぜなら、このことはぼくが知るかぎり、まだ誰も充分な研究をしていないからだ。
 こうしてブレーデカンプは最終章になってミシェル・フーコーの“愚かな分析”を批判する。
 ブレーデカンプはこう書いた、「フーコーの分析の基になっている近代初期の収集体系と分類体系は、無情のトポスへのネオバロック的な操作を支えることはできない」。そして、こう加えた。「フーコーの分析の弱点は、視覚体験を言語が歴史的人類学的に埋め込まれた媒体として見るのではなく、たんに言語的な理解の前段階として捉えた点にある」と。
 このこと、よくよく考えなければならないことである。とくに現代美術がこのことをどう受け止めるか、だ。