父の先見
瓢鮎図
平凡社「絵は語る 5」 1995
気がついたら、いつのまにか「絵を語る」というシリーズが出ていた。手にしてみると、デキがいい。日本の美術解説ものというのは、総じてつまらないというのが相場なのだが、これは例外的にいける。美術料理の味も手口も盛付けもたのしめる。
シリーズでとりあげられているのは、14枚の絵で、これを一人ずつが解読する。『山水屏風』『仏涅槃図』『阿弥陀聖衆来迎図』『源頼朝像』ときて、さらに如拙『瓢鮎図』、雪舟『天橋立図』、雪村『呂洞賓図』(これをとりあげたのはユニークだ)、狩野秀頼『高尾観楓図屏風』、宗達『松島図屏風』(これも有名だが、宗達でこれを選んだのがおもしろい)、蕪村『夜色楼台図版』、酒井抱一『夏秋草図版屏風』、北斎『凱風快晴』となって、さらに『彦根屏風』『湯女図』が入る。執筆者も、そういうのは失礼だが、気鋭の研究者たちばかりである。それがよかった。
で、ここでは島尾新の『瓢鮎図・ひょうたんなまずのイコノロジー』を代表することにした。実際にもこの一冊はそうとうに読ませるものになっている。
如拙の『瓢鮎図』は昔から禅の公案を描いた道釈画だといわれてきた。ぼくもそう習った。ところが著者はこれに疑問をぶつける。そんな公案はない。
では、この絵は何か。すでにアウエハントの有名な『鯰絵』という大著にもその疑問は指摘されていた。が、それはそのままになっていて、まったく推理は始まっていなかった。ナマズを瓢箪でつかまえようとしている男も謎である。これが布袋や蜆和尚ならまだしも、そういう隠逸の和尚には見えない。それに毛を逆立てて獅子鼻をもつというのは鬼の典型なのであるが、鬼のような恰好をしていない。やたらに粗末な恰好である。
著者はこれらの疑問を出発点にして、「ひょうたんなまず」という画題の奥に控える問題の謎解きにとりくんでいく。まあ、一種の美術ミステリーである。しかも著者も書いていることだが、このミステリーは解けないところもある。それなのに周辺を探索している解読への挑戦が興味津々なのである。こういう視点の動きこそがこれまでの美術史に欠けていたものだった。
この絵を描いたときの経緯は、だいたいわかっている。「新様」を描かせたのである。描かせたのは足利義持、描いたのは如拙、画軸の上の余白にはたくさんの讃があって、ここには当時を代表する31人の五山僧が詩を寄せている。これは平安時代からの屏風歌の伝統が水墨山水に流れこんできたものである。
「新様」がどういう意味をもっているかは、それだけで日本の水墨画論の端緒をあかすテーマになるし、そこを語らせたら島尾新はもともと天下逸品なのだが、ここでは省く。ようするに義持はニュースタイル、ニューモード、ニューファッションのおもしろい絵を求めたのだ。
では、どうして「新様」のためにナマズとヒョータンと変なオトコが選ばれたのか。ここで著者は想像の翼をできるかぎり柔らかく広げていった。
たとえば民俗学や伝承にも目をいたし、この小屏がおかれていた建物の部屋にも注目し、五山僧たちの動向にも目を配る。実は、長いあいだ美術史家たちが民俗学的な成果や神話的な伝承を分析につかうなどということはなかったのである(ヨーロッパではあたりまえなのに)。それがやっと中世の歴史家たちが絵巻の解読に著しい成果をあげるようになってから“解禁”された。本書の著者も、さまざまな成果を駆使して、ナマズの民俗学、ヒョータンの神話、鬼の文芸史をとりあげる。
それで何がわかったかというと、一枚の絵に畳みこまれた時間と空間に昏々と眠りこけていたミーム(文化の遺伝子)が目を覚まし、立ち上がってきたのである。
かつては、そういうことを美術鑑賞とはよばなかった。そんなことを美術教育では教えなかった。しかしぼくは、それこそが美術のよころびに立ち会うことだとおもうのである。本書は、またこのシリーズ「絵は語る」は、そういうところの冒険をめざしてくれている。そろそろ日本の美術史にも夜明けが近いようである。