田中俊明
古代の日本と加耶
山川出版社 2009
編集:日本史リブレット 装幀:菊地信義
突然の衆議院解散で、政権の行方が混沌とするなか、
拉致問題にも竹島問題にも
日本は手が出せないままにある。
日韓関係に暗雲が垂れ込めたのか。
いや、これは長きにわたる問題の延長戦だ。
かつて古代朝鮮と日本は複合的につながっていた。
当時から日朝の暗雲は一喜一憂に動いていた。
その重なり合いのひとつに「加耶」があった。
「金官国」「任那」ともよばれた。
そこには首露王の天孫降臨神話があった。
倭国が大いに交流した。しかし、高句麗が攻め、
新羅が洛東江下流に進出し、やがて滅亡した。
長いなが~い竹島的日韓問題なのである。

 竹島は日本では「竹島」、韓国では「独島」(dokdo)、アメリカでは「リアンクール島」とよばる。リアンクールは1849年にフランスの捕鯨船がこの島を“発見”したときに付けられた名だ。
 いまGNSサーチ(アメリカ地名委員会のサイト)でこれら3つの名を検索すると、いずれも所属国が「大韓民国」と出てくる。2008年の時点ではGNSはここを「どこの国にも属さない領域」と明示していた。
 ところが、その後の韓国大使とブッシュ時代のライス国務長官との話し合いにより、GNSはここを大韓民国領に訂正した。以来、日本は手を出せないでいる。

 古来、日韓のあいだには何らかの領有問題をめぐる綱引きがあった。明治近代では朝鮮半島を舞台に日露戦争と日韓併合がおこり、その前は江華島事件や征韓論があった。明治38年、政府は竹島を穏地郡五箇村大字久見字竹島として島根県に編入した。
 徳川時代を通じては朝鮮通信使節がひっきりなしだった。そんななか林子平が『三国接壌地図』(1785)に竹島(鬱陵島)と松島(独島)を地図に正確に描き入れて、これらを二つとも朝鮮国の色である黄色で塗ったりもした。外敵をネズミ叩きで追い返すという海防論しか打ち出せなかった子平には、手の負えない問題だったのだろう。
 その前の日韓関係は秀吉が朝鮮半島を蹂躙したことに象徴される。これについては『秀吉の野望と誤算』(1038夜)に詳しく書いたが、秀吉は大陸制覇をもくろんでいたわけで、韓半島ははなっから日本のものだと思っていたふしがある。もっとさかのほけると、三浦(さんぽ)の倭乱、倭寇と高麗の関係、渤海の動向が続いていたし、なんといってもモンゴルと高麗の連合軍が2度にわたって襲ってきて、きわどくも神風で退却したという”蒙古襲来”が大きな事件だった。
 さらにその前は? もちろんのこと、白村江の戦い(663)での唐・新羅連合軍による日本の敗戦が決定的だった。これによって「日本」は初めて自覚的に自立せざるをえなかったのだ。
 ことほどさように、日本はつねに日朝のあいだのシーレーンによって動いてきたのである。それなのに日本はことごとくシーレーン問題で懲りてきた。戦略を欠いてきた。
 北方四島、竹島、尖閣諸島、いずれもそうだ。どうしてそんな体たらくになっているのか。問題はけっこう複雑である。詳細は最近の著作なら、話題の孫崎亨『日本の国境問題』(ちくま新書)や保阪正康『歴史でたどる領土問題の真実』(朝日新書)などを読まれるといい。

林子平「三国接壌之図」より
黄色に塗られた部分を韓国領、
青色に塗られた部分を日本領として明示した。

 では、そもそも日本と朝鮮半島はどのように絡みあっていたのかというと、ルーツまでさかのぼろうとすると、そこがそもそもたいへんにあやしかったことに突きあたる。考古学史料が出揃っていないからだ。
 そこでいきおいテキストに頼ることになるのだが、その解釈をめぐっても見解が割れたままにきた。
 たとえば、『古事記』にはニニギたちが天孫降臨する場面に、「此地は韓国(からくに)に向ひ笠沙の御前(みさき)にま来通りて、朝日直刺(たださ)す国、夕日の日照る国なり」と書いているけれど、その「からくに」とはいったいどこの何をさしているのかとか、『日本書紀』は神功皇后(じんぐうこうごう)の三韓征伐を記して「皇后は人をして熊襲を平らげしめ、さらに武内宿禰と計り海を渡りて新羅に至りたひひしに、新羅王大いに恐れてたちまち降参せり」とあるのはいったいどんな意図の記述なのかとか、疑わしい記述をめぐってのさまざな議論が噴出してきたのだった。
 それでもとりあえず考古学史料と日韓中のテキスト比較を総合してみると、おおざっぱな「古代日朝交流の波」は5段階くらいに分かれるということになる。そこにはむろん中国の事情も絡む。

 第1段階はおそらく紀元前3世紀前後のことで、朝鮮半島から稲作や金属器をともなって、なにがしかの一群あるいはシーズや文物が渡来してきた時期である。半島は衛氏朝鮮をふくむ古朝鮮時代だった。
 そうなったのは奥に控える中国のせいである。紀元前221年が秦の始皇帝による統一だから、そのあとの事態は漢の武帝以降のことで、楽浪郡などを設置して半島経営を試みていた。この時期、日本は半島経由ではなくむしろ遼東からの燕人の影響をうけていたのではないかという見方もある。このへんの事情は岡田英弘の『日本史の誕生』(1011夜)や『倭国』(中公新書)が説得力のある仮説を提供してくれている。
 第2段階は「分かれて百余国」が「倭国」に統合されていく時期で、卑弥呼が魏に使者をおくった事績を含んでの3世紀近辺までのことだろう。中国の韓半島支配がいくぶん弱まって、半島の東南部には馬韓(マハン)・弁韓(ピョナン)・辰韓(チナン)が出現した。
 第3段階の日本は「謎の4世紀」である。仁徳天皇の血脈をうけた“河内王朝”が胎動しているのだが、半島には新たに百済・新羅が勃興し、日本列島にいちばん近い南部には「加羅」あるいは「加耶」とよばれてる諸国が活力をもった時期になっていく。北方では高句麗の勢力がやたらに強くなっていた。
 第4段階では中国が南北朝時代に突入する。倭国は「倭の五王」時代を含んで中国との朝貢関係を切り替えて、新たな半島との政治経済関係をマネージメントしようとしている。それというのも新羅がしだいに強大になって、高句麗の広開土王が百済を討つというような変化が次々におこっていたからだ。こうした百済の危機に、倭国=大和朝廷がしだいに巻き込まれるというのが、5世紀から6世紀のことだ。
 そこで日本側は加耶や百済との複雑な関係を相互的に処理しようとするのだが、なかなかうまくいかない。このとき、いわゆる「任那の日本府」の経営も試みられた。考古学的には須恵器(すえき)が倭に入っている時期になる。
 第5段階はいよいよ7世紀だ。背後に隋・唐という大帝国が登場し、百済が滅亡してしまう。高句麗も滅んで、新羅が朝鮮半島統一をなしとげる。そこに神功皇后の新羅への挑戦などの神話的なエピソードがたくみにくみこまれるわけだが、これは史実としては認められていない。
 しかし日本は、斉明天皇期の663年に白村江の海戦で唐・新羅の連合軍に敗れ去った。こうして668年、天智天皇が即位した。自立した「日本史」はここから始まったわけだ。

 ざっといえば、以上のような5段階になる。
 これらから何を読みとればいいのか。つなげていえば、中国の支配力が強かった朝鮮半島において、諸国がこの勢力の減退を機会にしだいに自立し、やがて高句麗・新羅・百済が三国鼎立していった時期に、わが倭国はどのように百済型の勢力と交流をしたのかということだ。
 日韓外交史はここに始まり、そしていくつもの謎をのこして、韓半島は新羅から高麗へ、日本は白村江の敗戦後に天智・天武時代を迎えて、記紀の編纂や律令制の確立に向かっていったのだ。
 このとき最も密接な日朝関係を最初に築いていたのが、まさに倭国と加耶の諸国だったわけである。もしも竹島問題のルーツのルーツをさかのぼるとすれば、ここにこそあったのである。本書はその倭国と加耶の関係の謎を解く。
 著者は京大で朝鮮古代史を修めた後、古代日朝関係史を追い、『大加耶連盟の興亡と「任那」』(吉川弘文館 1992)などを世に問うた。今夜のテーマにふさわしい。

 さて、日本人も韓国人も実は古代日朝関係にははなはだ弱い。見て見ぬふりをしたいからというよりも、学者センセーがいくつもの仮説と推理のなかにいるのをうすうす感じながらも、本気でとりくんでこなかった。とくに中国の関与という視座を欠いてきた。
 そもそも古代朝鮮半島がダイナミックに動き出したのは、紀元前109年に前漢の武帝が水陸両軍を発して朝鮮半島に侵入し、衛氏朝鮮を攻略し、楽浪・臨屯・真番・玄莵の4郡をおいてからなのである。中国が手を出さなければ、韓半島は動かなかったといっていい。
 楽浪郡は衛氏朝鮮の本拠地であった平壌あたりに位置し、その後は4郡を統合する勢いになり、ついでは公孫氏が新たに帯方郡をおいて、韓民族との交渉にあたるようになっていた。
 中国の支配力がおよぶ一方で、半島の北には扶余と高句麗(コグリョ)がしだいに力を伸ばしていった。これは北方遊牧民族の動向である。千夜千冊ではすでに『アーリア人』(1421夜)、『スキタイと匈奴』(1424夜)、『東アジアの世界帝国』(1435夜)などで書いておいたように、中国の歴史は北方民族の果敢なヒットエンドランと無縁ではいられない。ツングースや扶余や高句麗はこの流れの突出だ。
 他方、南には「韓」がいて、この韓の発展系こそが後漢時代の3世紀には馬韓・辰韓・弁韓となったのである。弁韓・辰韓はともに12国ずつに分かれ、慶尚南道を中心に広がっていた。弁韓にはのちの「金官国」の前身ともいうべき狗邪(くや)国があり、辰韓にはのちの新羅の前身にあたる斯盧(しろ・スロ)国があった。
 その弁辰が4世紀には「加耶」とよばれる諸国になって、馬韓の辰王がゆるい統合でまとめていたわけである。当然、倭国とは目と鼻の先だ。
 やがて黄巾の乱(184)でさしもの後漢の大帝国が凋落すると、ここに三国志で有名な魏・呉・蜀が鼎立して、魏の司馬懿(仲達)が公孫氏を倒して帯方郡を受け継ぎ、東方社会に対する勢力の拡張を企図した。
 が、魏には武力で周辺を制圧する力はなかったようだ。やむなく帯方郡の役人たちは異民族との協調につとめた。このことが日本にとっても大きかった。邪馬台国の卑弥呼が魏に難升米(なしめ)らを派遣したのは、こうした背景を読んでのことである。狗奴国と対立していた卑弥呼は公孫氏滅亡の知らせを聞くと、魏が帯方郡を併合した翌年の239年に使者を送り、「親魏倭王」の称号をすかさずもらったのだ。

3世紀頃の東アジア
『東アジアの動乱と倭国』(吉川弘文館)より

 3世紀末、中国は西晋によっていったん統一された。そこで卑弥呼の後継者の台与は西晋に使者をおくった。
 けれども西晋は内紛続きのお国柄である。当時ちょうど「分かれて百余国」から初期統合の道を歩みを歩みつつあった倭国は、ここが肝心なところだが、このままでは中国からはたいした利益は得られないと判断したのであったろう。案の定、316年に匈奴の侵入で西晋が滅ぶと、このあと中国は隋の統一までの長きにわたる南北朝の混乱並立期に入っていった。
 この中国勢力の減退の事情こそが、韓半島に諸国の興隆をもたらし、その勢いで倭国と朝鮮との密接な交流をもたらしたのだ。
 その諸国興隆を順にいえば、高句麗が313年前後に楽浪郡と帯方郡を攻略して、待望の半島進出をはたした。南部では馬韓の一部地域であった「伯済」が地域を統合してソウルの漢城を拠点に独立国家となり、国号を「百済」(ペクチュ)と定めた。続いて辰韓の一部の勢力であった斯盧が地域統一をしだいに進め、国号を「新羅」(シルラ)とした。
 こういう順だ。しかし半島東南端の加耶諸国だけはそのまま勢力を保っていた。そして、その中心あたりに「大加耶」「小加耶」あるいは「金官国」(クムグァン)があったのである。

 いまのところ、加耶の実在を示す最も古い史料は高句麗の広開土王碑である。その記事の中に「任那加羅」という言葉が出てくる。年号では400年ちょうどになる。この任那加羅が金官国の別名だった。
 金官国が存続中の時代は、この国々こそが倭国と深い関係にあったとおぼしい。つまり日本は加耶の国々となんらかの濃い交流関係や重合関係をもっていたはずなのである。ただ『日本書紀』はこの地域をなぜか「任那」とよんで、「みまな」「イムナ」と発音した。まさに倭国が西日本を統合して、朝鮮半島南部との重なり合いを模索していた時期になる。
 けれども、「任那≒加羅≒金官国」が栄えていたのも、ここが下限だったのである。加耶の国々はついにひとつにまとまることなく、新興の百済および新羅によって分割されたのだ。

百済・新羅の加耶侵攻図
数字は侵攻年代。スクリーントーンは大加耶連盟の防禦ライン。
●はその築城地。■は関連地名。
本書より

 いったい加耶や任那とはどういうところなのか。金官国はどこなのか。日本(倭国)とはどんな関係があったのか。
 この問題については、ずいぶん前からさまざまな学問上の議論があって、かなり意見が錯綜してきた。とくに「任那日本府」なるものがあったのかどうかをめぐっては、意見が対立してきた。
 ぼくのばあいでいうと、学校で教えられたことはともかくも、20年ほど前に、井上秀雄の『任那日本府と倭』(東出版)や坂元義種の『古代東アジアの日本と朝鮮』(吉川弘文館)を読んだときですら、どうも歴史的事情がこんがらがって困ったものだ。韓国の歴史研究が当初はそうとう出遅れていたせいもある。ところが、その後急速に進捗し、「任那日本府」をほぼ完全に否定するようになった。
 その後、鈴木英夫の『古代の倭国と朝鮮諸国』(青木書店)から本書の著者の『大加耶連盟の興亡と「任那」』(吉川弘文館)へと研究が進んだあたりで、なんとかかんとか全貌に筋が見えてきた。なかでも上垣外憲一の『倭人と韓人』(講談社学術文庫)がおもしろかった。しかし、慶北大学の朴天秀が韓半島の考古学を駆使して綴った『加耶と倭』(講談社)を読んで、またぐらついた。

 結局、いまだに古代日韓交流の“真相”ははっきりしていない。決定的な歴史事情は確定していない。しかしそれでも加耶と倭国はつながって連携関係にあったと思われる。このことはまちがいない。軍事的あるいは交易的な同盟関係でもあったろう。
 だから決定的なことはわかっていなくとも、何度も言うように、ここに竹島問題のルーツのルーツが始まっているのである。諸君は、このことを知らなければならなかったのだ。
 そこで今夜は、いまは滋賀大にいる田中俊明がわかりやすく書いたリブレットの本書をもって、日韓両国の“あいだ”を象徴する「任那問題」を眺望しておくことにしたわけだ。詳しくは『大加耶連盟の興亡と「任那」』を読まれたい。音楽派にはとくにおススメだ。加耶琴の音が聞こえてくる。
 ちなみに鳥越憲三郎の『古代朝鮮と倭族』(中公新書)など、ぼくにはいまなお気になる視点がいくつかあるのだが、今夜はふれないでおく。そのうち“倭国”だけではなく、東アジアに広がる“倭族”についても考えたいと思っているからだ。

左:『楽学軌範』の伽耶琴図(巻7・伽耶琴条)
右:加耶琴の復元
『大加耶連盟の興亡と「任那」』(吉川弘文館)より

 ここで念のため、加耶とか加羅とよばれてきた地域の呼称を整理しておく。朝鮮古代史の基本史料は『三国史記』と『三国遺事』である。
 その『三国史記』では加耶・伽耶・加良・伽落・駕洛などと、『三国遺事』では主に加耶と、ほかに駕洛と記される。『日本書紀』では加羅が多く、『続日本起』では賀羅とも綴る。中国の『梁書』はもっぱら伽羅で、『隋書』では迦羅である。日本読みではこれらはすべてカヤか、カラになる。朝鮮語読みでは“karak”に近い。
 このように厳密な呼称ははっきりしないものの、あきらかにこうした呼称をもつ「加耶の国々」が4世紀と5世紀に栄え、倭国との濃厚で複合的な関係をもっていたのだった。

 さて、『三国遺事』のなかに「駕洛国記」がある。駕洛(からく)国は金官国のことをいう。建国から滅亡までがおおざっぱに記されている。
 冒頭、この地に9人の「干」(酋長)がいて100戸76000人の民を統べていたという説明がある。そこへ紫の縄が垂れてきて、紅い布に包まれた金色の盒子(ごうす)を降臨させた。中に黄金の卵が6つあり、そこから童子が生まれると、その最初に成長した首露が王となり即位した。これが駕洛または伽耶という国の誕生であるという話だ。
 いわゆる卵生創成神話だが、この話は何かに似ている。そうなのだ、天孫降臨っぽい物語になっている。日本のニニギにあたるのが駕洛の首露王である。このことからニニギノミコトの天孫降臨説話は、実は朝鮮半島からの転位であったという推理がさざまな研究者によって広げられていった。いまのところニニギが誰であるかはまったく同定できてはいないのだが、そういうことがおこっていたことは十分にありうることだろう。
 計算してみると、駕洛=加耶の誕生は歴史的には西暦42年のことにあたる。日本列島のことでいえば、志賀島に後漢の光武帝の金印が届いたころだ。日朝に何がおこっていてもおかしくない時期である。

首露王像と陵墓

 加耶はどこにあったのか。
 天孫降臨型の建国神話をもつ「駕洛=金官=加耶」の拠点は、実際には洛東江の西側の金海(キメ)にあった。ここは半島の東南端で、いまの釜山付近にあたる。海港集落だから、当然、海上交易に長けていた。
 この地は倭国からすると、日本列島に最も近い“外国”にあたる。だから倭国は「駕洛=金官=加耶」と親しく接触した。すぐさま交易が行き交った。それだけでなく、この地域からは鉄がとれた。鉄産部族がいた。今日でも餘来里(ヨレリ)、美崇山(ミスンサン)、冶瀘面(ヤロモ)などの製鉄遺跡が認められる。
 かくて倭国は、交易と鉄を求めて加耶諸国と交流しはじめた。交流にあたって、倭国が先行したのか、加耶が先立ったのかはわからない。ちなみに、ぼくが学生時代に耽読した福士幸次郎の『原日本考』は日朝の古代鉄産部族の共通性を探るものだった。

 次に、交流史の発端を覗きたい。倭国と加耶の交流の記録については、日本側の最も古い記述が『日本書紀』の崇神紀65年にある。そこでは任那国が蘇那カ叱知(ソナカシチ)という者を派遣してきたことを述べている。
 まず任那国は筑紫国から2000余里のところにあると記している。そこは北に海を隔てた鶏林(しらき)の西南だというのだから、おそらく金官国をさしている。これが倭国と加耶が接した最初の記述だ。日本の外交史は、任那こと駕洛=金官=加耶との交流から始まったのである。4世紀前半のことだった。
 続いて垂仁紀2年で、ソナカシチが任那に帰国したところ彼が持っていた貢ぎ物を、新羅の者が勝手に奪ったという記事になる。なんとも奇妙な記事だが、新羅が加耶に敵対しつつあること、したがって倭国も新羅とは調整がきかなくなっていくだろうことが予想される。また、この記事の註には「意富加羅(おおから)国の王子」こと都怒我阿羅斯等(ツヌガノアラシト)という人物が出てきて、意富加羅国が大加耶のこと、すなわち金官国らしいことを告げている。
 このあと『日本書記』は、かの「神功皇后の新羅征伐」の話になっていく。この話ははなはだ極端なものになっているのだが、それゆえ歴史学からは無視されているのだけれど、検討せざるをえないものがある。

 まず、おそらくは事実だったろうことから紹介すると、神功皇后紀によれば、364年、百済の使者3人が卓淳国(大邱市)に到着して、卓淳(タクスン)王に倭国に通ずる道筋を教えてほしいと乞うた。
 王は自分は何も知らないが、倭国の使者が来たら知らせるようにしようと答えた。366年、倭国から斯摩宿禰(しのすくね)が使者として来てこの話を聞き、従者を百済に派遣した。百済王は大いによろこんで367年に使者を倭国に遣わした。このとき新羅の使者もやってきた。新羅の貢物は立派で、百済の貢物は貧弱だった。あまりにその差が極端だったので、訝ってその理由を聞くと、百済の使者は道に迷って新羅に至り、そこで監禁されること3カ月にわたり、その間に新羅人は貢物をすり替えて自分のものとして倭国にやってきたのだという。
 そこで倭国の王は千熊長彦(ちくまながひこ)を新羅に遣わして、新羅の罪を攻め、さらに369年に荒田別(あらたわけ)・鹿我別(かがわけ)を将軍とした軍を百済の久氐(くてい)らの使者とともに卓淳国におくりこんだ。けれども兵力が少なかったため新羅を襲えない。そこで、百済に援軍を求めた。百済は木羅斤資(もらくこんし)らを出陣させ、みんなで卓淳に集結して新羅を蹴散らすと、さらには洛東江流域の、南加羅・安羅・多羅・卓淳・加羅など7国を平定したというのだ。
 いわゆる「加羅七国平定記事」である。このうちの南加羅が金官国にあたっていると思われる。
 記事はまだ続く。さらに倭軍あるいは百済軍は西のほうに回って全羅南道の康津(こうしん)を征服して百済の領有とした。そこへ百済王の肖古と王子の貴須(きしゅ)が合流したので、全羅南道の4邑も百済軍に降伏した。千熊長彦と百済王は百済の辟支山と古沙山で盟ったのち、都(広州)に至って、そこで別れた。
 こんなふうになっている。その後、370年から連続3年にわたって百済の使いが倭国に朝貢して七枝刀一口、七子鏡一面などを献上した。この七枝刀が当時の日朝関係の動かぬ史実を提供するものだと、歴史学者たちは考えてきた。

加耶諸国図
本書より

石上神宮伝来の七枝刀。
4世紀後半の東アジアの国際関係を探る上で貴重。
金象嵌された61文字の銘文は読みづらく判読が難しく、
さまざまな解釈がある。

 たしかに七枝刀はいまでも奈良天理の石上(いそのかみ)神宮にある。刃から6本の枝がにょきにょき突き出た異様なもので、ぼくは「アート・ジャパネスク」取材のときに実物をたっぷり見たが、なんだか古代海峡の水しぶきを浴びたようにぞっとしたおぼえがある。
 表に東晋太和4年の日付が刀の面に刻まれ、裏には27文字がはっきり読める。東晋太和4年は369年だから、以上の出来事が実際におこったことだろうことを示す。27文字は「先世以来、未有此力、百済王世子、奇生聖晋、故為倭王旨造、伝示後世」で、百済王の世子(貴須)が晋の聖王の世に生まれあわせたことをよろこばしく思い、とくに倭王のためにこの刀を造らせ、後の世までの記念したという意味である。
 つまり369年には、百済と倭国が同盟関係にあったことを告げているのである。このとき新羅を蹴散らしたという記事なのだ。
 ところが、これらの話にさまざまな尾鰭がついたのだ。主に二つがくっついた。ひとつは時代が前にさかのぼるのだが、崇神天皇は韓半島から騎馬に乗ってやってきた征服王であるという話だ。もうひとつは、神功皇后の新羅征伐(三韓征伐)の神話である。これらがしだいに重なった。

 崇神天皇仮説のほうは江上波夫が騎馬民族渡来説として唱えたもので、一世を風靡した。第10代の崇神はハツクニシラススメラミコトの名をもち、ミマキイリヒコ(御間城入彦)の和名をもっているのは、“ミマの城のイリヒコ”が倭国に入って“ハツクニをシラス天皇”になったというものだ。ミマとは任那のことではないかという仮説も乱れとんだ。
 その崇神の一族が騎馬民族だったということは、のちに縄文学者の佐原真らの馬をめぐる徹底的な反証によって退けられたのだが、任那あたりから崇神らしき大王の一派がやってきたという仮説は、いまなお否定されきってはいない。
 神功皇后の新羅征伐のほうは、おそらく7世紀につくられた伝説がかぶせられたのであろうので、今日の歴史学ではほとんど認められていない。とはいえ、神功皇后紀の物語がすべて作り話かというと、そこに何かの残響を聴き取ることもできる。ここをどう解釈するかが加耶問題のいささか面倒な喉元に刺さっている骨なのだ。

神功皇后三韓征伐図(半島上陸の場面)
「大日本史略圖會」より

 ぼくの子供時代は「神功皇后の新羅征伐」の話はごくごく当たり前だった。第14代の仲哀天皇の時代に熊襲がまた叛いたので、天皇は皇后のオキナガタラシヒメ(息長足姫)とともに熊襲を制圧するべき出陣したが、平定を前に病没した。
 オキナガタラシヒメが神功皇后である。息長足姫という名からはアマ族系の海洋的な響きが匂う。それはともかく皇后はたいへん勇ましかったので、忠臣の武内宿禰(たけのうちのすくね)と計って、熊襲を背後から援助していた新羅を討つことにした。そこで、自身で軍船を率いた武装した皇后が彼の地に迫ると、新羅王は恐れおののいて降伏し、その後は日本の属国となることを誓ったという話だ。
 小学校4年の頃だったと思うが、初めて大阪の住吉神社に家族で行ったとき、父が「ここが神功皇后さんのお社で、新羅征伐をしたことを称えているんや」と誇らしげに言っていたことを思い出す。
 むろん、こんなことは史実としてはほとんどでたらめなのだが、先に紹介した都怒我阿羅斯等(ツヌガノアラシト)や千熊長彦(ちくまながひこ)の記述が勝手に拡張されたものと見れば、まったく根拠のないこととはいえない。
 そのほか、気になる話はいくつもある。今夜はふれないが、記紀神話にはアメノヒボコ(天日槍彦)が新羅からやってきたという伝承があるし、出雲神話に新羅との国引きの説話が語られている。その一端を千田稔さんが祖述したのが『王権の海』(88夜)だ。
 このように新羅との関係についてはいろいろ怪しげな話も入り交じってはいるのだが、まとめていえば、4世紀後半に百済と加耶の南部諸国と倭国とがなんらかの軍事的同盟関係を確立していただろうことだけは確かなことだろう。百済が南下する高句麗と対抗する事情に入ったことが、こうした南部諸国の糾合をもたらしたわけである。

 ところで、倭国は金官国や卓淳国と交渉していただけではなかった。卓淳の西に位置する安羅(アルラ)国とも交渉をもっていた。それを示す記録が「広開土王碑」である。
 碑文には、永楽9年(399)に新羅が高句麗に救援を求めたこと、その理由が自国に倭人が満ち溢れていることが述べられ、その要請をうけて高句麗の広開土王が5万の軍勢を新羅の王都に派遣したところ、倭賊が退いた。そこでさらに急追すると、倭賊は任那加羅の従抜城に至り、そこに「安羅の戌兵」がかかわって城は帰服したというのである。
 任那加羅は金官国だろうと本書の著者はいう。従抜城も金海付近にあったのだろうとも推理している。その従抜城を明け渡すとき「安羅の戌兵」がかかわったというのだ。
 安羅は弁辰12国のひとつだった安邪(アニャ)国が前身で、のちに阿羅加耶ともよばれた小国で、3世紀には狗邪国と並ぶ力をもっていた。倭国はその安羅の兵力とも関係して、新羅に脅威を与えていたわけである。神功皇后の新羅征伐がまことしやかに誇張されたこと、ゆえなしとしない。

広開土王碑

 ようするに4世紀の後半に百済と加耶と倭国は複合的につながっていた。この複合関係は6世紀初めまで続く。つまり100年か150年間ほど、釜山・対馬・北九州は船団が行き交う一衣帯水の地帯水域だったのだ。ということは5世紀の「倭の五王」時代は、これらの同盟関係のうえで進行していたということになる。
 広開土王の死のあと、どうやら高句麗と倭国はのあいだに和解が成立したようだ。そこで413年、高句麗王の長寿王の使者と倭王の讚(履中天皇)の使者が連れ立って東晋の朝廷を訪問した。劉裕という将軍が実験を握っていた。劉裕はその後の420年に宋朝を開き、高句麗王に「使持節・都督営州諸軍事・征東大将軍・高句麗王・楽浪公」の地位を、百済王に「使持節・都督百済諸軍事・鎮東将軍・百済王」の地位を与えた。
 これでは倭王には何も与えられていないということである。そこで讚のあとの珍(反正天皇)は宋に使者を送り、「使持節・都督倭・百済新羅任那秦韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王」という称号がほしいと頼んだ。中華に対する日本の従属的な立場がよくあらわれている。けれども宋が珍に許可したのは「安東将軍・倭国王」だけだった。
 珍の長ったらしい称号要求には南朝鮮の大半の国名が並んでいる。この時期の倭王が反高句麗同盟の盟主たらんとしていることをうかがわせる。これはこれで、古代日本としてはけっこうな外交感覚だ。いまなら安保理事国としての権利を要請しているといったあたりだろうか。
 ともかくもこうして次の倭王の済(允恭天皇)のときに、ついに「使持節・都督倭・新羅・任那加羅・秦韓慕韓六国諸軍事・安東将軍・倭国王」の称号を得ることになった。ここには「任那加羅」の名が入っていた。このことについて本書の著者は、それ以前に加羅との関係に失敗していたので、ここでその失地回復を狙ったのであろうと推理している。
 次の興(安康天皇)も武(雄略天皇)もこれを継承したところをみると、この路線はうまくはこんだようだ。ワカタケル大王こと雄略については、書きたいことがいろいろあるので、いずれ千夜千冊しよう。

 さて、6世紀になると、南朝鮮の事情が大きく変化する。百済と新羅が加耶諸国を取り込みはじめるからである。まずは百済が動いた。『日本書紀』継体紀には次のような記事がある。
 継体6年(512)、百済が任那国の上夛利(おこしたり)・下夛利・裟陀(さだ)・牟婁(むろ)の4県を要求してきたので、倭はこれを百済に賜与した。これがいわゆる「任那四県割譲」記事である。
 ついで百済は、穂積臣押山(ほづみのおみおしやま)を従わせて五経博士の段楊爾を遣わせ、伴跛(はへ)の国がわが地を略奪したので本属するように要請したいと言ってきた。倭はこれを受けて斯羅・安羅および伴跛からやってきていた人物を召集してその旨を伝えたが、伴跛がこれに抵抗したので撃破し、その地を百済に賜った。
 このとき伴跛は戦闘力を整えて築城し、新羅にも迫って子女や村邑を蹂躙した。この暴虐に対して、倭は物部連らに500の船団をもって向かわせることにしたのだが、抵抗が強いので帯沙江(たさえ)に停泊せざるをえなかった。さらに伴跛が攻撃してきたので、物部連らは退却した。百済はさらに加羅の多沙津を戻してほしいといってきた。倭はこれを認めた。以上が継体9年(515)の記事になっている。
 この記事の語るところを倭国の譲歩と見るかどうかが、これまで歴史家たちの意見の分かれるところだった。だが、著者はこれらはすべて百済の進出を天皇家の視点で書きあらわしたものだとみなしている。百済が進出をはたしたのであって、それ以外ではなかったというのである。

四県比定諸説位置図
本書より

日本書紀による任那日本府の成立と変遷(任那境域の縮小過程)
『アジア歴史地図』(平凡社)より

 百済が倭国を押し返していった直後、今度は新羅がついに洛東江を渡って金官国と加耶諸国を攻めた。
 侵略された諸国は倭に救援を要請したので、527年、倭は近江毛野臣(おうみのけぬのおみ)を派遣した。近江毛野臣は筑紫の折から勃発した北九州の磐井の乱に足止めされ、ようやく2年後の529年、2回目の派遣に当たり、安羅に向かった。
 新羅の侵攻に対してろくな手が打てない。継体紀24年の記述によれば、毛野臣は久斯牟羅(くしむら)に舎宅を立てて2年ほど滞留したが、功績は上げえなかった。かくて金官国は新羅に投降し、531年に滅亡してしまったのである。
 これは百済にとっても、また安羅にとっても倭国にとってもかなりの大打撃だったろう。538年、百済はそれまでの熊津を捨てて泗比(しひ・サピ)に遷都し、なんとかもちこたえようとした。さらに欽明2年(541)と欽明5年には、聖明王が任那の旱岐(首長)たちを集めて、任那を”復建”する対策を問うたという記事があるように、いわゆる“任那復興会議”も開かれたのだ。このとき初めて「任那日本府」という言葉が登場するのである。
 しかしこの日本府は出張ガバナンスではなかった。出店ではなかった。おそらくは「倭宰」だった。倭宰とは何か。倭国のミコトモチの使臣のことだろうというのが、著者の見解だ。
 いずれにしてもこの会議で、百済は的臣(いくはのおみ)・吉備臣(きびのおみ)・河内直(かわちのあたい)・阿賢移那斯(あけのえなし)・佐魯麻都(さろのまつ)という4人を放逐することが決議された。かれらが新羅と通じていたという理由だった。もっとも、かれらは安羅の要請で新羅との交渉に当たっていたのだとも見られる。つまり、ここでは百済は安羅と新羅の関係を断たせることが狙いだったのである。
 このとばっちりを受けたのが加耶諸国だった。加耶は親百済派と親新羅派に分かれざるをえなくなり、554年には百済と新羅との先頭に巻きこまれ、さらに561年の新羅の大攻撃によってついに潰えてしまうのである。ここに倭と加耶との関係もなくなった。

 このあと、倭国は任那復興を独自に画策するようになる。欽明天皇が死に臨んで「朕、病い重し。後の事を以て汝に属(つ)く。汝、新羅を打ちて任那を封(よさ)し建つべし」と遺言したからだ。汝とは、次の天皇の敏達天皇である。
 敏達は日羅という百済系の役人を招聘して、この対策を練った。日羅は大伴金村に師事し、その軍事力に頼んで事を進めようとしたが、百済がこれを阻んだ。そんなこともあり、敏達時代には任那の復興はならなかった。
 こうして欽明の遺言である任那問題は先送りされ、用命天皇、推古天皇にまで持ち越されたのである。また、その渦中では金官国系の秦氏の一団と安羅系の東漢氏(やまとのあや)の一団が渡来して定着し、倭国内での新興勢力となっていた。
 たいへん複雑だ。しかし、そのあたりの話は、今夜の主題を大きく上回る。いずれ東アジアの中の倭と日本の動向を紹介するときに、これまた千夜千冊してみたい。おそらくは森公章の『東アジアの動乱と倭国』(吉川弘文館)をとりあげることになるだろう。

 以上がざっとした「加耶」と「倭」をめぐる流れである。
 書きたいことはいろいろあったけれど、ともかくは要約的な流れを追うことだけにした。
 最初に書いておいたように、これらは日韓史すなわち日朝史の最初の出来事だったのである。竹島問題のルーツのルーツなのだ。それはまた、日本国の最初の「戦争の歴史の発端」なのでもある。白村江で唐と新羅の連合軍に敗退したことが「日本」の自立になったのであるけれど、それ以前にこんなにもややこしい交易と内乱と進出と同盟が続いたのだ。
 その複雑な日朝の動向に、倭国のリーダーたちはそれなりに果敢にかかわったと言っていいだろう。何が成功で何が失敗だったかではない。これらの出来事のいずれにも目をふさがなかった倭国の当事者たちのこと、むしろ今日こそ思い起こされるべきかもしれない。
 どんな時代においても、外交とは「平時の戦争」だと言うべきなのである。

日本列島の金官加耶産文物(3〜4世紀)
左から大阪府柴金山古墳、奈良県新沢千塚500号墳、
岡山県金蔵山古墳、香川県猫塚古墳
『加耶と倭』(講談社)より

金官加耶地域における日本列島産文物(4世紀)
金海市大成洞13号墳
『加耶と倭』(講談社)より

大伽耶地域における日本列島産文物(5世紀後半)
高霊郡池山洞32号墳
『加耶と倭』(講談社)より

日本列島の大伽耶産文物(5世紀後半)
上:熊本県江田船山古墳
下:京都府穀塚古墳
『加耶と倭』(講談社)より

『古代の日本と加耶』
著者:田中俊明
発行者:野澤伸平
発行所:株式会社 山川出版社
2009年 1月15日 1版1刷 印刷
印刷所:明和印刷株式会社
製本所:株式会社 手塚製本所
装幀:菊池信義

【目次情報】
加耶とは
①金官国の成り立ち
②加耶との通交開始
③倭の五王時代の倭と加耶
④6世紀の加耶と倭国

【著者情報】
田中俊明(たなか・としあき)
歴史学者。1952年生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程認定修了。専攻、朝鮮古代史・古代日朝関係史。現在、滋賀県立大学人間文化学部教授。

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