才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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古代の日本と加耶

田中俊明

山川出版社 2009

編集:日本史リブレット
装幀:菊地信義

 竹島は日本では「竹島」、韓国では「独島」(dokdo)、欧米では「リアンクール島」とよばる。リアンクールは一八四九年にフランスの捕鯨船がこの島を“発見”したときに付けられた名だ。
 いまGNISサーチ(アメリカ地名委員会のサイト)でこれら三つの名を検索すると、いずれも所属国が「大韓民国」と出てくる。二〇〇八年の時点ではGNISはここを「どこの国にも属さない領域」と明示していた。ところが、その後の韓国大使とブッシュ時代のライス国務長官との話し合いにより、GNISはここを大韓民国領に訂正した。以来、日本は手を出せないでいる。
 古来、日韓のあいだには何らかの領有問題をめぐる綱引きがたえずあった。明治近代では朝鮮半島を舞台に日露戦争と日韓併合がおこり、その前は江華島事件や征韓論があった。明治三八年、政府は竹島を穏地郡五箇村大字久見字竹島として島根県に編入した。

 徳川時代を通じては朝鮮通信使節がひっきりなしだった。そんななか林子平が『三国接壌之図』(一七八五)の地図に竹島(鬱陵島)と松島(独島)を正確に描き入れて、これらを二つとも朝鮮国の色である黄色で塗ったりもした。外敵をネズミ叩きで追い返すという海防論しか打ち出せなかった子平には、手に負えない問題だったのだろう。
 その前の日韓関係は秀吉が朝鮮半島を蹂躙したことに象徴される。これについては『秀吉の野望と誤算』(一〇三八夜)に詳しく書いたが、秀吉は大陸制覇をもくろんでいたわけで、韓半島をはなっから日本のものにしようと思っていたふしがある。もっとさかのぼると、三浦の倭乱、倭寇と高麗の関係、渤海の動向が続いていたし、なんといってもモンゴルと高麗の連合軍が二度にわたって襲ってきて、きわどくも神風で退却したという“蒙古襲来”が大きな事件だった。
 さらにその前は? もちろんのこと、白村江の戦い(六六三)での唐・新羅連合軍による日本の敗戦が決定的だった。これによって「日本」は初めて自覚的に自立せざるをえなくなったのだった。
 ことほどさように、日本はつねに日朝のあいだのシーレーンによって動いてきたのである。それなのに日本はことごとくシーレーン問題で懲りてきた。戦略を欠いてきた。北方四島、竹島、尖閣諸島、いずれもそうだ。どうしてそんな体たらくになっているのかと思うけれど、いまとなっては問題はけっこう複雑である。詳細は最近の著作なら、話題の孫崎享『日本の国境問題』(ちくま新書)や保阪正康『歴史でたどる領土問題の真実』(朝日新書)などを読まれるといい。

林子平「三国接壌之図」より
黄色に塗られた部分を韓国領、
青色に塗られた部分を日本領として明示した。

 さて、そもそも日本と朝鮮半島はどのように絡みあっていたのかというと、ルーツまでさかのぼろうとすると、そこがそもそもたいへんにあやしかった。考古学史料が出揃っていないからだ。そこでいきおいテキストに頼ることになるのだが、その解釈をめぐっても見解が割れたままにきた。
 たとえば、『古事記』にはニニギたちが天孫降臨する場面に、「此地は韓国に向ひ笠沙の御前にま来通りて、朝日直刺す国、夕日の日照る国なり」と書いているけれど、その「からくに」とはいったいどこの何をさしているのかとか、『日本書紀』には仲哀天皇の急死後、子どもを身ごもっていた神功皇后が住吉大神の神託を受けて新羅に攻め込んだところ、戦闘になる前に新羅が降伏したとあるのはいったいどんな意図の記述なのかとか、疑わしい記述をめぐってのさまざまな議論が噴出してきたのだった。
 それでもとりあえず考古学史料と日韓中のテキスト比較を総合してみると、おおざっぱな「古代日朝交流の波」は五段階くらいに分かれるということになる。そこにはむろん中国の事情も絡む。

 第一段階はおそらく紀元前三世紀前後のことで、朝鮮半島から稲作や金属器をともなって、なにがしかの一群あるいはシーズや文物が渡来してきた時期である。半島は衛氏朝鮮をふくむ古朝鮮時代だった。
 そうなったのは奥に控える中国のせいである。紀元前二二一年が秦の始皇帝による統一だから、そのあとの事態は漢の武帝以降のことで、楽浪郡などを設置して半島経営を試みていた。この時期、日本は半島経由ではなくむしろ遼東からの燕人の影響をうけていたのではないかという見方もある。このへんの事情は岡田英弘の『日本史の誕生』(弓立社→ちくま文庫)や『倭国』(中公新書)が説得力のある仮説を提供してくれている。
 第二段階は「分かれて百余国」が「倭国」に統合されていく時期で、卑弥呼が魏に使者をおくった事績を含んでの三世紀近辺までのことだろう。中国の韓半島支配がいくぶん弱まって、半島の東南部には馬韓・弁韓・辰韓が出現した。
 第三段階の日本は「謎の四世紀」である。仁徳天皇の血脈をうけた“河内王朝”が胎動しているのだが、半島には新たに百済・新羅が勃興し、日本列島にいちばん近い南部には「加羅」あるいは「加耶」とよばれる諸国が活力をもった時期になっていく。北方では高句麗の勢力がやたらに強くなっていた。
 第四段階では中国が南北朝時代に突入する。倭国は「倭の五王」時代を含んで中国との朝貢関係を切り替えて、新たな半島との政治経済関係をマネージメントしようとしている。それというのも新羅がしだいに強大になって、高句麗の広開土王が百済を討つというような変化が次々におこっていたからだ。こうした百済の危機に、倭国=大和朝廷がしだいに巻き込まれるというのが、五世紀から六世紀のことだ。
 そこで日本側は加耶や百済との複雑な関係を相互的に処理しようとするのだが、なかなかうまくいかない。このとき、いわゆる「任那の日本府」の経営も試みられた。考古学的には須恵器が倭に入っている時期になる。
 第五段階はいよいよ七世紀だ。背後に隋・唐という大帝国が登場し、百済が滅亡してしまう。高句麗も滅んで、新羅が朝鮮半島統一をなしとげる。そこにさきほど書いた神功皇后の新羅への挑戦などの神話的なエピソードがたくみにくみこまれるわけだが、これは史実としては認められていない。
 認められてはいないのだが、仮に倭と新羅とのあいだになんらかの渉外関係があったとしても、しかし日本は、斉明天皇期の六六三年に白村江の海戦で唐・新羅の連合軍に敗れ去った。これで古代日韓関係は途絶えることになる。こうして六六八年、天智天皇が即位した。自立した「日本史」はここから始まったわけだ。
 ざっといえば、以上のような五段階になる。日本から見た東アジアの相剋の歴史はここからスタートしたのだった。

 これらから何を読みとればいいのか。最も気になるのは百済との関係であろう。つなげていえば、中国の支配力が強かった朝鮮半島において、諸国がこの勢力の減退を機会にしだいに自立し、やがて高句麗・新羅・百済が三国鼎立していった時期に、わが倭国はどのように百済型の勢力と交流をしたのかということだ。
 日韓外交史はここに始まり、そしていくつもの謎をのこして、韓半島は新羅から高麗へ、日本は白村江の敗戦後に天智・天武時代を迎えて、記紀の編纂や律令制の確立に向かっていったのだ。このとき最も密接な日朝関係を最初に築いていたのが、まさに倭国と加耶の諸国だったわけである。もしも竹島問題のルーツのルーツをさかのぼるとすれば、ここにこそあった。本書はその倭国と加耶の関係の謎を解く。
 著者は京大で朝鮮古代史を修めたあと、古代日朝関係史を追い、『大加耶連盟の興亡と「任那」』(吉川弘文館 一九九二)などを世に問うた。今夜のテーマにふさわしい。

 さて、日本人も韓国人も実は古代日韓関係にははなはだ弱い。見て見ぬふりをしたいからというよりも、学者センセーがいくつもの仮説と推理のなかにいるのをうすうす感じながらも、本気でとりくんでこなかったように思う。とくに中国の関与という視座を欠いてきた。
 そもそも古代朝鮮半島がダイナミックに動き出したのは、紀元前一〇九年に前漢の武帝が水陸両軍を発して朝鮮半島に侵入し、衛氏朝鮮を攻略し、楽浪・臨屯・真番・玄菟の四郡をおいてからなのである。中国が手を出さなければ、当時の韓半島は動かなかったといっていい。楽浪郡は衛氏朝鮮の本拠地であった平壌あたりに位置し、その後は四郡を統合する勢いになり、ついでは公孫氏が新たに帯方郡をおいて、韓民族との交渉にあたるようになっていた。
 中国の支配力がおよぶ一方で、半島の北には扶余と高句麗がしだいに力を伸ばしていった。これは北方遊牧民族が北から突ついた動向の反映である。千夜千冊ではすでに『アーリア人』(一四二一夜)、『スキタイと匈奴』(一四二四夜)、『東アジアの世界帝国』(一四三五夜)などで書いておいたように、中国の歴史は北方民族の果敢なヒットエンドランと無縁ではいられない。ツングースや扶余や高句麗はこの流れの突出だ。
 他方、南には「韓」がいて、この韓の発展系こそが後漢時代の三世紀には馬韓・辰韓・弁韓となった。三韓時代という。弁韓・辰韓はともに十二国ずつに分かれ、慶尚南道を中心に広がっていた。弁韓にはのちの「金官国」の前身ともいうべき狗邪国があり、辰韓にはのちの新羅の前身にあたる斯盧国があった。
 その弁・辰が四世紀には「加耶」とよばれる諸国になって、馬韓の辰王がゆるい統合でまとめていたわけである。当然、倭国とは目と鼻の先だ。
 やがて黄巾の乱(一八四)でさしもの後漢の大帝国が凋落すると、ここに三国志で有名な魏・呉・蜀が鼎立して、魏の司馬懿(仲達)が公孫氏を倒して帯方郡を受け継ぎ、東方社会に対する勢力の拡張を企図した。が、魏には武力で周辺を制圧する力はなかったようだ。やむなく帯方郡の役人たちは異民族との協調につとめた。
 このことが日本にとっては大きかった。邪馬台国の卑弥呼が魏に難升米らを派遣したのは、こうした背景を読んでのことである。ライバルの狗奴国と対立していた卑弥呼は公孫氏滅亡の知らせを聞くと、魏が帯方郡を併合した翌年の二三九年に使者を送り、「親魏倭王」の称号をすかさずもらったのだ。

3世紀頃の東アジア
『東アジアの動乱と倭国』(吉川弘文館)より

 三世紀末、中国は西晋によっていったん統一された。そこで卑弥呼の後継者の台与が西晋に使者をおくった。けれども西晋は内紛続きの国情である。当時ちょうど「分かれて百余国」から初期統合の道を歩みつつあった倭国は、ここが肝心なところだが、このままでは中国からはたいした利益は得られないと判断したのであったろう。案の定、三一六年に匈奴の侵入で西晋が滅ぶと、このあと中国は隋の統一までの長きにわたる南北朝の混乱並立期に入っていった。
 この中国勢力の減退の事情が韓半島に諸国の興隆をもたらし、そのままの勢いで倭国と朝鮮との密接な交流をもたらした。その諸国興隆を順にいえば、高句麗が三一三年前後に楽浪郡と帯方郡を攻略して、待望の半島進出をはたした。南部では馬韓の一部地域であった「伯済」が地域を統合して漢城(現・ソウル)を拠点に独立国家となり、国号を「百済」と定めた。続いて辰韓の一部の勢力であった斯盧が地域統一をしだいに進め、国号を「新羅」とした。
 こういう順だ。しかし半島東南端の加耶諸国だけは勢力を保っていた。その中心あたりに「大加耶」「小加耶」あるいは「金官国」があったのである。

 いまのところ、加耶の実在を示す最も古い史料は高句麗の広開土王碑である。その記事の中に「任那加羅」という言葉が出てくる。年号では四〇〇年ちょうどになる。任那加羅は金官国の別名だった。
 金官国が存続中の時代は、この国々こそが倭国と深い関係にあったとおぼしい。倭は加耶の国々となんらかの濃い交流関係や重合関係をもっていたはずなのである。ただ『日本書紀』はこの地域をなぜか「任那」とよんで、「みまな」「イムナ」と発音した。まさに倭国が西日本を統合して、朝鮮半島南部との重なり合いを模索していた時期にあたる。けれども、「任那≒加羅≒金官国」が栄えていたのも、ここが下限だ。加耶の国々はついにひとつにまとまることなく、新興の百済および新羅によって分割された。

百済・新羅の加耶侵攻図
数字は侵攻年代。スクリーントーンは大加耶連盟の防禦ライン。
●はその築城地。■は関連地名。
本書より

 加耶や任那とはどういうところなのか。金官国はどこなのか。日本(倭国)とはどんな関係があったのか。この問題については、ずいぶん前からさまざまな学問上の議論があって、かなり意見が錯綜してきた。とくに「任那日本府」なるものがあったのかどうかをめぐっては、意見が対立してきた。
 ぼくのばあいでいうと、学校で教えられたことはともかくも、二十年ほど前に、井上秀雄の『任那日本府と倭』(東出版)や坂元義種の『古代東アジアの日本と朝鮮』(吉川弘文館)を読んだときですら、どうも歴史的事情がこんがらがって困ったものだ。韓国の歴史研究が当初はそうとう出遅れていたせいもある。ところが、その後は急速に進捗し、「任那日本府」をほぼ完全に否定するようになった。
 そのうち鈴木英夫の『古代の倭国と朝鮮諸国』(青木書店)から本書の著者の『大加耶連盟の興亡と「任那」』へと研究が進んだあたりで、なんとかかんとか全貌に筋が見えてきた。なかでも上垣外憲一の『倭人と韓人』(講談社学術文庫)がおもしろかった。しかし、慶北大学の朴天秀が韓半島の考古学を駆使して綴った『加耶と倭』(講談社)を読んで、またぐらついた。
 結局、いまだに古代日韓交流の“真相”ははっきりしていない。決定的な歴史事情は確定していない。しかしそれでも加耶と倭国は強いパイプでつながって連携関係にあったと思われる。このことはまちがいない。軍事的あるいは交易的な同盟関係でもあったろう。だから決定的なことはわかっていなくとも、何度も言うように、ここに竹島問題のルーツのルーツが始まっているのである。
 そこで今夜は、いまは滋賀県立大にいる田中俊明がわかりやすく書いたリブレットの本書をもって、日韓両国の“あいだ”を象徴する「任那問題」を眺望しておくことにしたわけだ。詳しくは『大加耶連盟の興亡と「任那」』を読まれたい。音楽派にはとくにおススメだ。加耶琴の音が聞こえてくる。ちなみに鳥越憲三郎の『古代朝鮮と倭族』(中公新書)など、ぼくにはいまなお気になる視点がいくつかあるのだが、今夜はふれないでおく。そのうち“倭国”だけではなく、東アジアに広がる“倭族”についても考えたいと思っているからだ。

左:『楽学軌範』の伽耶琴図(巻7・伽耶琴条)
右:加耶琴の復元
『大加耶連盟の興亡と「任那」』(吉川弘文館)より

 念のため、加耶とか加羅とよばれてきた地域の呼称を整理しておく。朝鮮古代史の基本史料は『三国史記』と『三国遺事』である。その『三国史記』では加耶・伽耶・加良・伽落・駕洛などと、『三国遺事』では主に伽耶と、ほかに呵囉、駕洛と記される。
 『日本書紀』では加羅が多く、『続日本紀』では賀羅とも綴る。中国の『梁書』はもっぱら伽羅で、『隋書』では迦羅である。日本読みではこれらはすべてカヤかカラになる(「カラク」もある)。朝鮮語読みでは“karak”に近い。
 このように厳密な呼称ははっきりしないものの、あきらかにこうした呼称をもつ「加耶の国々」が四世紀と五世紀に栄え、倭国との濃厚で複合的な関係をもっていたのだった。

 その『三国遺事』のなかに「駕洛国記」がある。駕洛国は金官国のことをいう。建国から滅亡までがおおざっぱに記されている。
 冒頭、この地に九人の「干」(酋長)がいて一〇〇戸七六〇〇〇人の民を統べていたという説明がある。そこへ紫の縄が垂れてきて、紅い布に包まれた金色の盒子を降臨させた。中に黄金の卵が六つあり、そこから童子が生まれると、その最初に成長した首露が王となり即位した。これが駕洛または伽耶という国の誕生であるという話だ。
 いわゆる卵生創成神話だが、この話は何かに似ている。そうなのだ、天孫降臨っぽいストーリーになっている。日本のニニギにあたるのが駕洛の首露王である。このことからニニギノミコトの天孫降臨説話は朝鮮半島からの転移であったろうという推理がさまざまな研究者によって広げられていった。いまのところニニギが誰であるかはまったく同定できてはいないのだが、そういう大移動がおこっていたことは十分にありえただろう。
 計算してみると、駕洛=加耶の誕生は歴史的には西暦四二年のことにあたる。日本列島のことでいえば、志賀島に後漢の光武帝の金印が届いたころだ。日朝に何がおこっていてもおかしくない時期である。

 加耶はどこにあったのか。
 天孫降臨型の建国神話をもつ「駕洛=金官=加耶」の拠点は、実際には洛東江の西側の金海にあった。ここは半島の東南端で、いまの釜山付近にあたる。海港集落だから、当然、海上交易に長けていた。この地は倭国からすると、日本列島に最も近い“外国”にあたる。だから倭国は「駕洛=金官=加耶」と親しく接触した。すぐさま交易が行き交った。それだけでなく、この地域からは鉄がとれた。産鉄部族がいた。今日でも餘来里、美崇山、冶瀘面などの製鉄遺跡が認められる。
 倭国は、交易と鉄を求めて加耶諸国と交流しはじめた。交流にあたって、倭国が先行したのか、加耶が先立ったのかはわからない。ぼくが学生時代に耽読した福士幸次郎の『原日本考』(三宝書院→批評社)は日朝の古代産鉄部族の共通性を探るものだった。福士は詩人でもあって、口語自由詩のパイオニアでもあった(昭和七年には日本ファシズム連盟を結成した)。
 次に、交流史の発端を覗いてみると、倭国と加耶の交流の記録については、日本側の最も古い記述が『日本書紀』の崇神紀六五年にある。そこでは任那国が蘇那曷叱知という者を派遣してきたことを述べている。
 また任那国は筑紫国から二〇〇〇余里のところにあると記している。そこは北に海を隔てた鶏林の西南だというのだから、おそらく金官国をさしている。これが倭国と加耶が接した最初の記述だ。日本の外交史は、任那こと駕洛=金官=加耶との交流から始まったのである。四世紀前半のことだった。
 続いて垂仁紀二年で、ソナカシチが任那に帰国したところ、彼が持っていた貢ぎ物を新羅の者が勝手に奪ったという記事になる。奇妙な記事だが、新羅が加耶に敵対しつつあること、したがって倭国も新羅とは調整がきかなくなっていくだろうことが予想される。また、この記事の註には「意富加羅国の王子」こと都怒我阿羅斯等という人物が出てきて、意富加羅国が大加耶のこと、すなわち金官国らしいことを告げている。
 このあと『日本書記』は、かの「神功皇后の新羅征伐」の話になっていく。この話ははなはだ極端なものになっていて、それゆえ歴史学からは無視されているのだけれど、検討せざるをえないものがある。
 おそらくは事実だったろうことから紹介すると、神功皇后紀によれば、三六六年、百済の使者三人が卓淳国(大邱市)に到着して、卓淳王に倭国に通ずる道筋を教えてほしいと乞うた。
 王は自分は何も知らないが、倭国の使者が来たら知らせるようにしようと答えた。二年後、倭国から斯摩宿禰が使者として来てこの話を聞き、従者を百済に派遣した。百済王は大いによろこんで翌年に使者を倭国に遣わした。このとき新羅の使者もやってきた。新羅の貢物は立派で、百済の貢物は貧弱だった。あまりにその差が極端だったので、訝ってその理由を聞くと、百済の使者は道に迷って新羅に至り、そこで監禁されること三ヵ月にわたり、その間に新羅人は貢物をすり替えて自分のものとして倭国にやってきたのだという。
 そこで倭国の王は千熊長彦を新羅に遣わして、新羅の罪を責め、さらに三六九年に荒田別・鹿我別を将軍とした軍を百済の久氐らの使者とともに卓淳国におくりこんだ。けれども兵力が少なかったため新羅を襲えない。そこで百済に援軍を求めた。百済は木羅斤資らを出陣させ、みんなで卓淳に集結して新羅を蹴散らすと、さらには洛東江流域の、南加羅・安羅・多羅・卓淳・加羅など七国を平定したというのだ。
 いわゆる「加羅七国平定記事」である。このうちの南加羅が金官国にあたっていると思われる。
 記事はまだ続く。さらに倭軍あるいは百済軍は西のほうに回って全羅南道の康津を征服して百済の領有とした。そこへ百済王の肖古と王子の貴須が合流したので、全羅南道の四邑も百済軍に降伏した。千熊長彦と百済王は百済の辟支山と古沙山で盟ったのち、都(広州)に至って、そこで別れた。
 その後、三七〇年から連続三年にわたって百済の使いが倭国に朝貢して七支刀一口、七子鏡一面などを献上した。この七支刀が当時の日朝関係の動かぬ史実を提供するものだと、歴史学者たちはながらく考えてきた。

加耶諸国図
本書より

 七支刀はいまでも奈良天理の石上神宮にある。刃から六本の枝がにょきにょき突き出た異様なもので、ぼくは「アート・ジャパネスク」(講談社)の取材のときに実物をたっぷり見たが、なんだか古代海峡の水しぶきを浴びたようにぞっとしたおぼえがある。
 東晋太和四年の日付が刀の表面に刻まれ、裏には二七文字がはっきり読める。東晋太和四年は三六九年だから、以上の出来事が実際におこっただろうことを示す。二七文字は「先世以来、未有此力、百済王世子、奇生聖晋、故為倭王旨造、伝示後世」というふうになっていて、百済王の世子(貴須)が晋の聖王の世に生まれあわせたことをよろこばしく思い、とくに倭王のためにこの刀を造らせ、後の世までの記念としたという意味である。
 つまり三六九年には、百済と倭国が同盟関係にあったことを告げているのである。このとき新羅を蹴散らしたという記事なのだ。ところが、これらの話に日本側でさまざまな尾鰭がついた。主に二つがくっついた。ひとつは時代が前にさかのぼるのだが、崇神天皇は韓半島から騎馬に乗ってやってきた征服王であるという話だ。もうひとつは、神功皇后の新羅征伐(三韓征伐)の神話である。これらがしだいに重なった。

 崇神天皇仮説のほうは江上波夫が騎馬民族渡来説として唱えたもので、当時の学界で大いに話題になった。第十代の崇神はハツクニシラススメラミコトの名をもち、ミマキイリヒコ(御間城入彦)の和名をもっているのは、“ミマの城のイリヒコ”が倭国に入って“ハツクニをシラス天皇”になったというものだ。ミマとは任那のことではないかという仮説も乱れとんだ。
 その崇神の一族が騎馬民族だったということは、のちに縄文学者の佐原真らの馬をめぐる徹底的な反証によって退けられたのだが、任那あたりから崇神らしき大王の一派がやってきたという仮説は、いまなお否定されきってはいない。

 神功皇后の新羅征伐のほうは、おそらく七世紀につくられた伝説がかぶせられたのであろうということで、今日の歴史学ではほとんど認められていない。とはいえ、神功皇后紀の物語がすべて作り話かというと、そこに何かの残響を聴きとることもできる。ここをどう解釈するかが加耶問題のいささか面倒な喉元に刺さっている骨なのだ。

神功皇后三韓征伐図(半島上陸の場面)
「大日本史略圖會」より

 ぼくの子供時代は「神功皇后の新羅征伐」の話はごくごく当たり前だった。第十四代の仲哀天皇の時代に熊襲がまた叛いたので、天皇は皇后のオキナガタラシヒメ(息長足姫)とともに熊襲を制圧するべく出陣したが、平定を前に病没したというのだ。
 オキナガタラシヒメが神功皇后である。息長足姫という名からはアマ族(海人)系の海洋的な響きが匂う。それはともかく皇后はたいへん勇ましかったので、忠臣の武内宿禰と計って、熊襲を背後から援助していた新羅を討つことにした。そこで、武装した皇后が自身で軍船を率いて彼の地に迫ると、新羅王は恐れおののいて降伏し、その後は日本の属国となることを誓ったという話だ。小学校四年のころだったと思うが、初めて大阪の住吉神社に家族で行ったとき、父が「ここが神功皇后さんのお社やで、新羅征伐をしたことを称えているんや」と誇らしげに言っていたことを思い出す。
 むろん、こんなことは史実としてはほとんどでたらめなのだが、先に紹介した都怒我阿羅斯等や千熊長彦の記述が勝手に拡張されたものとみれば、まったく根拠のないこととはいえない。
 そのほか、気になる話はいくつもある。今夜はふれないが、記紀神話にはアメノヒボコ(天日槍命)が新羅からやってきたという伝承があるし、出雲神話に新羅との国引きの説話が語られている。その一端を千田稔さんが祖述したのが『王権の海』(八八一夜)だ。
 このように新羅との関係についてはいろいろあやしげな話も入りまじってはいるのだが、まとめていえば、四世紀後半に百済と加耶の南部諸国と倭国とがなんらかの軍事的同盟関係を確立していたことだけは確かだろう。百済が南下する高句麗と対抗する事情に入ったことが、こうした南部諸国の糾合をもたらしたわけである。

 倭国は金官国や卓淳国と交渉していただけではなかった。卓淳の西に位置する安羅国とも交渉をもっていた。それを示す記録が「広開土王碑」である。
 碑文には、永楽九年(三九九)に新羅が高句麗に救援を求めたこと、その理由として自国に倭人が満ち溢れていることが述べられ、その要請をうけて高句麗の広開土王が五万の軍勢を新羅の王都に派遣したところ、倭賊がさあっと退いた。そこでさらに急追すると、倭賊は任那加羅の従抜城に至り、そこに「安羅の戌兵」がかかわって城は帰服したというのである。
 任那加羅は金官国だろうと本書の著者はいう。従抜城も金海付近にあったのだろうとも推理している。その従抜城を明け渡すとき「安羅の戌兵」がかかわったというのだ。安羅は弁辰十二国のひとつだった安邪国が前身で、のちに阿羅加耶ともよばれた小国である。三世紀には狗邪国と並ぶ力をもっていた。倭国はその安羅の兵力とも関係して、新羅に脅威を与えていたわけである。神功皇后の新羅征伐がまことしやかに誇張されたこと、ゆえなしとしない。
 ようするに四世紀の後半に百済と加耶と倭国は複合的につながっていた。この複合関係は六世紀初めまでつづく。つまり一〇〇年か一五〇年間ほど、釜山・対馬・北九州は船団が行き交う一衣帯水の地帯水域だったのだ。ということは五世紀の「倭の五王」時代は、これらの同盟関係のうえで進行していたということになる。

 広開土王の死のあと、どうやら高句麗と倭国のあいだに和解が成立したようだ。そこで四一三年、高句麗王の長寿王の使者と倭王の讚(履中天皇)の使者が連れ立って東晋の
朝廷を訪問した。劉裕という将軍が実権を握っていた。
 劉裕はその後の四二〇年に宋朝を開き、高句麗王に「使持節・都督営州諸軍事・征東大将軍・高句麗王・楽浪公」の地位を、百済王に「使持節・都督百済諸軍事・鎮東将軍・百済王」の地位を与えた。
 これでは倭王には何も与えられていないということである。そこで讚のあとの珍(反正天皇)は宋に使者を送り、「使持節・都督倭・百済新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王」という称号がほしいと頼んだ。冊封に甘んじようというのだ。中華秩序に対する日本の従属的な立場がよくあらわれている。けれども宋が珍に許可したのは「安東将軍・倭国王」だけだった。
 珍の長ったらしい称号要求には南朝鮮の大半の国名が並んでいる。この時期の倭王が反高句麗同盟の盟主たらんとしていることをうかがわせる。これはこれで、古代日本としてはけっこうな外交感覚だ。いまなら安保理事国としての権利を要請しているといったあたりだろうか。
 ともかくもこうして次の倭王の済(允恭天皇)のときに、ついに「使持節・都督倭・新羅・任那加羅・秦韓慕韓六国諸軍事・安東将軍・倭国王」の称号を得ることになった。ここには「任那加羅」の名が入っていた。このことについて本書の著者は、それ以前に加羅との関係に失敗していたので、ここでその失地回復を狙ったのであろうと推理する。
 次の興(安康天皇)も武(雄略天皇)もこれを継承したところをみると、この路線はうまくはこんだようだ。ワカタケル大王こと雄略については、書きたいことがいろいろあるので、いずれ千夜千冊しよう。

 六世紀になると、南朝鮮の事情が大きく変化した。百済と新羅が加耶諸国を取り込みはじめるからだ。まずは百済が動いた。『日本書紀』継体紀には次の記事がある。継体六年(五一二)、百済が任那国の上夛利・下夛利・裟陀・牟婁の四県を要求してきたので、倭はこれを百済に賜与した。いわゆる「任那四県割譲」記事である。
 ついで百済は、穂積臣押山を従わせて五経博士の段楊爾を遣わせ、伴跛の国がわが地を略奪したので本属するように要請したいと言ってきた。倭はこれを受けて斯羅・安羅および伴跛からやってきていた人物を召集してその旨を伝えたが、伴跛がこれに抵抗したので撃破し、その地を百済に賜った。
 このとき伴跛は戦闘力を整えて築城し、新羅にも迫って子女や村邑を蹂躙した。この暴虐に対して、倭は物部連らに五〇〇の船団をもって向かわせることにしたのだが、抵抗が強いので帯沙江に停泊せざるをえなかった。なおも伴跛が攻撃してきたので、物部連らは退却した。百済はさらに加羅の多沙津を戻してほしいといってきた。倭はこれを認めた。以上は継体九年(五一五)の記事になっている。
 この記事の語るところを倭国の譲歩と見るかどうかが、これまで歴史家たちの意見の分かれるところだった。だが、著者はこれらはすべて百済の進出を天皇家の視点で書きあらわしたものだとみなしている。百済が進出をはたしたのであって、それ以外ではなかったというのである。

四県比定諸説位置図
本書より

日本書紀による任那日本府の成立と変遷(任那境域の縮小過程)
『アジア歴史地図』(平凡社)より

 百済が倭国を押し返していった直後、今度は新羅がついに洛東江を渡って金官国と加耶諸国を攻めた。侵略された諸国は倭に救援を要請したので、五二七年、倭は近江毛野臣を派遣した。近江毛野臣は筑紫の折から勃発した北九州の磐井の乱に足止めされ、ようやく二年後の五二九年、二回目の派遣に当たり、安羅に向かった。
 新羅の侵攻に対してろくな手が打てない。継体紀二四年の記述によれば、毛野臣は久斯牟羅に舎宅を立てて二年ほど滞留したが、功績は上げえなかった。かくて金官国は新羅に投降し、五三二年に滅亡してしまったのである。
 これは百済にとっても、また安羅にとっても倭国にとってもかなりの大打撃だったろう。五三八年、百済はそれまでの熊津を捨てて泗沘に遷都し、なんとかもちこたえようとした。さらに欽明二年(五四一)と欽明五年には、聖明王が任那の旱岐(首長)たちを集めて、任那を“復建”する対策を問うたという記事があるように、いわゆる“任那復興会議”も開かれたのだ。このとき初めて歴史上に「任那日本府」という言葉が登場するのである。しかしこの日本府は出張ガバナンスではなかった。出店ではなかった。おそらくは「倭宰」だった。倭宰とは何か。倭国のミコトモチの使臣のことだろうというのが、著者の見解だ。
 いずれにしてもこの会議で、百済は的臣・吉備臣・河内直・阿賢移那斯・佐魯麻都という五人を放逐することが決議された。かれらが新羅と通じていたという理由だった。かれらは安羅の要請で新羅との交渉に当たっていたのだとも見られる。つまり、ここでは百済は安羅と新羅の関係を断たせることが狙いだったのである。
 このとばっちりを受けたのが加耶諸国だ。加耶は親百済派と親新羅派に分かれざるをえなくなり、五五四年には百済と新羅との戦闘に巻きこまれ、さらに五六二年の新羅の大攻撃によって潰えてしまうのである。ここについに倭と加耶との関係もなくなった。
 このあと、倭国は任那復興を独自に画策する。そういう決断をする。欽明天皇が死に臨んで「朕、病い重し。後の事を以て汝に属く。汝、新羅を打ちて任那を封し建つべし」と遺言したからだ。
 汝とは、次の天皇の敏達天皇である。敏達は日羅という百済系の役人を招聘して、対策を練った。日羅は大伴金村に師事し、その軍事力に頼んで事を進めようとしたが、百済がこれを阻んだ。そんなこともあり、敏達時代には任那の復興はならなかった。
 欽明の遺言である任那問題は先送りされ、用明天皇、推古天皇にまで持ち越されたのである。また、その渦中では金官国系の秦氏の一団と安羅系の東漢氏の一団が渡来して定着し、倭国内での新興勢力となっていた。

 以上がざっとした「加耶」と「倭」をめぐる流れである。ともかくは要約的な流れを追うことだけにした。
 最初に書いておいたように、これらは東アジアにおける重要な日韓史すなわち日朝史の最初の出来事だったのである。竹島問題のルーツのルーツなのだ。それはまた、日本国の最初の「戦争の歴史の発端」なのでもある。白村江で唐と新羅の連合軍に敗退したことが「日本」の自立になったのであるけれど、それ以前にこんなにもややこしい交易と内乱と進出と同盟が続いたのだ。
 その複雑な日朝の動向に、倭国のリーダーたちはそれなりに果敢にかかわったと言っていいだろう。何が成功で何が失敗だったかではない。これらの出来事のいずれにも目をふさがなかった倭国の当事者たちのこと、むしろ今日こそ思い起こされるべきかもしれない。どんな時代においても、外交とは「平時の戦争」だと言うべきなのである。

日本列島の金官加耶産文物(3〜4世紀)
左から大阪府柴金山古墳、奈良県新沢千塚500号墳、
岡山県金蔵山古墳、香川県猫塚古墳
『加耶と倭』(講談社)より

金官加耶地域における日本列島産文物(4世紀)
金海市大成洞13号墳
『加耶と倭』(講談社)より

大伽耶地域における日本列島産文物(5世紀後半)
高霊郡池山洞32号墳
『加耶と倭』(講談社)より

日本列島の大伽耶産文物(5世紀後半)
上:熊本県江田船山古墳
下:京都府穀塚古墳
『加耶と倭』(講談社)より