リービ英雄
日本語を書く部屋
岩波書店 2001
ISBN:4000017659

 中上健次は「おまえは和文脈にこだわりすぎているよ」と詰(なじ)ったようだ。たしかにリービは漢語を排した大和言葉による文章を偏愛してきた。しかし、なぜそうなったのか。
 こういう問題にとりくんでいることが、本書の醍醐味である。こういう本はめったにない。まず著者はガイジンである。ワシントンDCに生まれた生粋のアメリカ人。それなのに日本語でしか小説を書かない。しかも仮名まじりの日本語を称賛しつくしている。こういう例はめったにない。
 リービはその理由をいろいろ考えたすえ、それは自分のニューヨークに対する抵抗だったことに気がつく。マンハッタンには、たとえば「秋山の 木の葉を見ては 黄葉(もみじ)をば 取りてそしのふ 青きをば 置きてそ嘆く」という万葉的なジェスチュアがまったくない。リービはそういうマンハッタンの暴力的な力に馴染めなかった。そこで無意識に抵抗しつづけていたらしい。あるとき、そういう自分がいたことに気がついた。あるときとは、日本を知ってからのことだ。
 そして、考えた。もしニューヨークについて短歌がつくれるようになれば、自分のトラウマを越えられるのかもしれない。
 なぜなら、ニューヨークには長編小説も短編小説も、ギャグもコントも、俳句さえ生まれていくだろうが、これまで短歌が生まれたことはなかったからである。

 リービ英雄はスタンフォード大学で日本文学を教えていた。朝は『日本書紀』、昼は大江健三郎。
 やがて40歳の誕生日に教授職を辞し、日本語で小説『星条旗の聞こえない部屋』を書いた。
 なぜ日本語で書いたのか。日本語が音に聞いて美しく、漢字仮名まじり文が目で見て美しかったからだ。西洋から日本に渡って壁を越え、日本文化の内部の潜戸(くぐりど)としての日本語に入っていく。そのような小説を書きたかったらしい。リービはそのような日本語を「壁でもあり潜戸でもある日本語」とよぶ。これは今日の日本人にこそあてはまってほしいまことに適確な日本語に関する感覚だ。
 そのようにリービがなっていったのには、むろん背景がある。たとえば若いころに『万葉集』と英文抄訳版をリュックに入れて大和路を歩きまわっていたときである。こういう体験をした。
 山部赤人の歌「明日香の 旧き京師(みやこ)は 山高み 河雄大(とほしろ)し」の英訳では、山をマウンテンに、河がリバーとなっている。が、実際の大和の山は山ではなく丘のようなものであり、けっして雄大ではなく、河もまた河でも川でもない。リービはそのことにひどく失望する。そこにはあまりのズレがある。
 しかし、そこで考えた。そのズレにこそ実は古代日本人の想像力があったのではないか。万葉の言葉から実景を差し引かなければならなかったのではないか。

 あたりまえのことだが、リービ英雄には、単一民族という幻想のもと、日本人が小泉八雲に扮したかのような自己オリエンタリズムに陥いるような日本像をもつということがない。そういう日本人独特の錯覚がない。
 このことは、ぼくのような者がリービ英雄を読むことの重要性をもたらしてくれる。
 たとえば、リービは『古事記』は清潔だという。中身は凄まじいのに、スタイル(文体的なるもの)が汚れていない。なるほど、その通りだ。ぼくも『古事記』からは律動や様式を感じる。日本語しかもちえないエディトリアリティを感じる。
 リービはその理由は『古事記』のもつ日本語に豊かなイメージがあるからだという。だからフレキシブルな世界像が描けているという。それもその通りだ。一語がひとつの意味しかもたないなんてことは、ない。一語で多意味なのである。
 もっと重大な指摘もしてくれている。西洋や中近東ではピューリタニズムやファンダメンタリズムが跋扈したのに、また日本の近代にもそれにちょっと似たものが出たことは出たのに、その陥穽に落ちなかったのは、そもそも『古事記』がそのような陥穽を免れているからだという指摘である。
 これは、ふつうは一神教に対する多神教の柔らかさというものだと捉えられている。が、リービはそこを日本語の問題として証かしていく。そして、そのような日本語の問題をセンシビリティとして解こうとした本居宣長に、たいそうな共感を寄せていく。そしてこんなことを言う。「やっぱり宣長に戻るんですよ」。感慨を深めて、そうポツリと結ぶのである。

 リービ英雄が何をどのように「越境」しようとしているかということは、最近のぼくが考えつづけていることとかなり密接な関連をもっている。
 この「越境」は西から東への越境ではないし、外国人が日本を理解するための越境でもなく、日本人が日本語の中で自分自身を越境することでもない。むしろ、あえていうのなら、日本人が日本語にならないと思いこんでいる世界観から、日本語を越境させることなのだ。
 日本語を越境させること、そのためにアメリカ語から日本語に、漢字から仮名に入ってみること、その役目を引きうけたリービ英雄に、ぼくは言いようのない感謝のようなものを感じている。いわば共闘者への感謝だ。
 生易しいことではない。日本語を越境させるにはむろん日本語に精通している必要があるし、その上でグローバリズムの全質量をローカリズムの一視点をもって向こうへ飛ばしてしまわなければならない。これには言葉の力学もいるが、愛情の熱力学もいる。なによりも、自身の内なる異人性を使わなければならない。
 これを日本人はどう引き受けるか。ラフカディオ・ハーンなら、それは可能である。アーネスト・サトウやオギュスタン・ベルクにもそれは可能であろう。しかし、日本人はどうするか。
 おそらく内村鑑三のような視点をもつ必要がある。内村は自身の内なる異人性をキリスト教に感得することができた。また、柳宗悦なら可能である。柳は朝鮮の文物にそれを痛いほど感じることができた。
 いま、そのことを可能にする方法はどこにあるのか。むろん日本人として、日本語を使っている者として。それが、最近ぼくが考えつづけていることなのである。

 本書はとてもやさしい日本語で綴られている。いろいろなメディアから依頼されたエッセイと講演をまとめた。おそらくは誰でもすぐ読める。
 けれども、本書の内容をちゃんと理解するにはそうとうの力量と真剣な態度が要求されるのではないかとおもう。実際には各エッセイには似た内容の繰り返しが多く、ひょっとすると退屈するかもしれない。しかし、そのように繰り返してリービ英雄が何を考えようとし、何を言おうとしているのかを一緒に考えることは、ぼくにはすばらしく気分のよいことだった。
 それは自分の事情を守る文化から、他者が信ずるものの文化へ投企するとは何かということを、一緒に考えられるからだった。

コメントは受け付けていません。