ライナー・マリア・リルケ
マルテの手記
新潮文庫 1979 岩波文庫 1984
ISBN:4003243218
Rainer Maria Rilke
Des Malte Laurids Brigge 1910
[訳]望月市恵

  久しぶりにパリに行って、慌ただしく仕事(平家物語についての講演)をして帰ってきたとき、同行した者たちから「松岡さんはまるで心ここにあらぬという感じでパリにいましたね」と口々に言われた。みんなでパリの街をあれこれ動いていたときの印象らしい。ある女性からは「まるで死に場所をさがしているようだ」とも言われた。みんな鋭いもんだ。
 パリを歩くと困ってしまうのだ。そこがボードレールや。ヴァレリーの街であり、ナタリー・バーネイやジャン・コクトーココ・シャネルの街であることが困るのだ。それが東京の下町を歩いて、そこは永井荷風も葛西善蔵も辻潤も見えなくなるほど光景が様変わりしているというならまだしも、パリはほとんどが元のままなのだ。
 もっとも往時の景観がよく残っているはずの京都を歩いていても、こういう気持ちはおこらない。ぼくは京都ではエトランゼになりえないのだ。パリはそうはいかない。神経を尖らせて歩いている。
 それでも、この程度なら軽症なのである。ここに紹介するライナー・マリア・リルケのパリは、あまりにも鮮烈すぎて魂を直撃してしまっている。

 リルケはプラハの人である。軍人であって鉄道屋の父はリルケの母と離婚すると、少年リルケをザンクト・ペルテンの陸軍幼年学校に放りこむ。やむなく陸軍士官学校までは進んだが、ここでついに挫折した。
 しばらく商業学校に通いつつ詩作をはじめ、プラハ大学で法律と芸術を習ううち、悲しくなって『ヴァークヴァルテン』という詩集を自費出版をした。少女がこの名をもつ草に変身して恋人を路傍で待つという伝説に因んでいる。リルケはこの詩集を貧しい人々に配ったり病院へ送ってみた。それからミュンヘンに行き、ベルリンに転居した。『家神奉幣』『夢の冠』『降誕節』を出版し、それを自分で祝って『わが祝い』を書いた。寂しすぎる詩だ。リルケはロシアに旅行する。そのとき20世紀がやってきた。25歳だった。
 ロシアはひたすら荒涼とし、ひたすら広聊としていた。リルケはクレムリンの復活祭の鐘の音を聞くうちに、これが自分の復活祭だと思う。リルケはこのあとも鐘の音について何度も綴っているのだが、この言葉の音感のようなものには凍てつくように鋭いものがある。ただその音を共有してくれる者が見つからない。
 それでもロシアには新たに感じるものがあった。のちにリルケはイタリアを「かつて神がいた国」と名付けるのだが、ロシアは「やがて神がくる国」だったのである。この独特の直観はついに『時祷詩集』という大作になる。暗闇ですら会える神との逢着を歌っていた。ぼくは辛くて途中で放棄したほどに、痛哭で神々しい。

 リルケが少しは人間の温度と出会うのはロシアから帰って、女流彫刻家のクララ・ヴェストフと結婚してからだ。ヴォルブスヴェーデに住んだ。ぼくは胸を撫でおろすのだが、リルケはその中途半端がかえって苦手だったようだ。ただクララとともに出会った芸術家たちの交流には気が惹かれて、それがのちのちまで尾を曳いた。
 それならヴォルブスヴェーデにそのまま住めばよいだろうに、リルケはここで単身でパリに行ったのだ。すべてを残してパリに孤独を求めに行っている。なととんでもないことをするものかと思うけれど、それがマルテとしてのパリなのである。マルテとしてのリルケには、今度は寂しさよりも厳しさがほしかったのである。
 だからリルケは4年にわたってロダンのアトリエに出入りして、芸術家の苦悩にふれた。内面に入っていった。リルケ自身にロダンを勝るものだってあったというのに、それでも自分より大きい厳しさが必要だったのである。ロダンだけではない、セザンヌのアトリエにも出入りした。リルケは生涯一書生であらんとしたにちがいない。
 しかし、やはりリルケはリルケである。ロダンやセザンヌに感得した言葉は『形象詩集』という結晶になる。とうてい美術批評家には書きえない。とくに日本の美術批評にはまったく見当たらない炯眼が輝いている。けれどもそれを書いてしまえば、またリルケは温度から遠ざかるのだ。そこで徹底してみたのが、パリを命の行方として凝視することだった。こうして『マルテの手記』が綴られた。詩というよりも小説であり、物語というには詩魂が透徹されすぎていた。第1行目がこうなのだ、「人々は生きるためにみんなここへやってくるらしい。しかし僕はむしろ、ここでみんなが死んでゆくとしか思えない」。
 これではパリは歩けない。ボードレールやコクトーをなんとかしても、リルケのパリが残響すれば、とてもぼくにとっては歩けるものじゃない。

 『マルテの手記』におけるパリ観察は、デンマークの貴族の家に生まれた無名詩人マルテが見たパリということになってる。リルケはデンマークの詩人たち、たとえばヤコプセンやヘルマン・バングが好きだったので、デンマーク生まれの若者を自分の分身にした。 しかしマルテにとってのパリは、死ににくるための街なのだ。実際にも手記に登場するパリは、そこがノートル・ダム・デ・シャンであれオテル・ディユ病院であれ、明るいはずのチュイルリー公園ですら、なんだか死に方の見本のような細部観察で成り立っている。
 リルケは似たような感想を、新たな恋人となったルー・アンドレアス・サロメへの手紙にも書きつらねている。とくに「パリは困難な都会です。ガレー船です」というセリフは有名だ。パリはリルケにとってもマルテにとっても「いとわしいもの」で、つねに「行きあうすべてのものたちからたえず否定されている」ような街だったのである。

 こういうところがぼくのパリ散歩にも響いているのだが、さらに困るのは、マルテことリルケの姿勢があまりに過敏で真摯であるということだ。
 そもそもこの手記は「僕は見る目ができかけているのだろうか」という疑問の萌芽から始まっている。そのうえで、ひたすら心を観察するという手記になっている。できるだけ正直に、できるだけ偽りなく――。そこには国木田独歩の日記『欺かざるの記』のような日本人はいない。あくまでヨーロッパの、オーストリアの、ブレーメン地方の、幼年学校や士官学校が育てた青年の、そのような人物によるパリにおける赤裸々な手記なのだ。
 もっと俯瞰的なことをいうのなら、リルケが見たパリは20世紀がその後に作り出すすべての資本主義都市の行方を見定めたものだったのである。

 第一次大戦がヨーロッパを覆ってきた。リルケは少年時代のように逃げるのはやめた。応召してオーストリア軍に加わった。ところが軍隊はリルケを弾き出す。軍隊で動くには、リルケは病弱すぎた。ミュンヘンに行った。戦争の4年間をミュンヘンで、できるだけ創作に携わらないようにして、たとえば翻訳に従事するようにした。リルケはこの戦争から弾かれた時期を「旱魃期」と名付けている。
 しかし、その翻訳のレパートリーを見て、ぼくは驚いた。ゲランポオジッド、ヴァレリー、そしてミケランジェロなのだ。たしかにリルケは「僕は変化する印象だ」と綴っていた。けれども、その変化はつねに懸崖に向かっている印象ではないか。そうでなければ、翻訳にこんな顔ぶれを選ばない。あまりに鋭い相手ばかりになっている。いったいなぜここまでリルケは突き詰めるのか。挑むのか。手を抜かないのか。言葉の錬磨のためなのか、精神の凡庸を嫌ったのか、それとも持ち前の気質というものなのか。
 ぼくにはその謎はとうてい解けないのだが、ひとつ気になることがある。それは別れた母親を憎悪していたということだ。そのことを何度も書いている。
 この感覚はぼくにはない。母は「いとしきもの」である。そのリルケがニーチェやルー・サロメを思慕し、また思慕されるのはよくわかるのだが、そこにはあまりにエロスとタナトスを合致させすぎているようにも見える。もっとも、リルケがそうであればこそ、ぼくにはリルケの内面体験を読むことが、ときにショーペンハウエルやニーチェを読むときの唯一の感情的な律動になりうるのでもあった。リルケを読んでいなかったら、ぼくはとっくにニーチェにもジル・ドゥルーズにも愛想をつかしていたことだろう。パリで陽気にはしゃいでいたことだろう。

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