イアン・ビュルマ
日本のサブカルチャー
TBSブリタニカ 1986
ISBN:4484861070
Ian Buruma
A Japanese Mirror
[訳]山本喜久男

 この本が出たとき、こんなに気楽に、かつ新鮮に、そしてあけすけに日本を見たことがかつてあっただろうかとおもった。
 今度、ざっと読み返して、どうやら著者が提起した謎かけはちっとも回答が得られていないのだということに気がついた。

 イアン・ビュルマがこの本で取り扱った日本は、ある種の日本人にとっては目をそむけたくなるような、あるいは一部の日本人にはどうしてそんなことで日本を議論できるのかというような、そんなアイテムとアイコンである。
 山口百恵が三浦友和の世話をするためにスターの座を捨てたことになぜ共感するのか、谷崎潤一郎はなぜ母に対する思慕を裏返してナオミを偏愛し瘋癲老人を描いたのか、日本のラブシーンはなぜ「濡れ場」とよばれるのか、ノーパン喫茶のクライマックスがなぜウェイトレスが着けていたパンティの競売になりうるのか、オスカルとアンドレが天国に行って結ばれる必要があることがなぜ宝塚にとって必要なのか、少女マンガの日本人の主人公はなぜわざわざ茶色や亜麻色の髪になるのか、篠田正浩は高校球児にとって甲子園が聖地であることをなぜあんなに強調するのか、鈴木清順は『けんかえれじい』に北一輝を出す必要があるのか、東寺デラックスのストリッパーは踊っているときは無表情なのに“特出し”のときになってなぜ急にお母さんのように微笑するのか、高倉健と鶴田浩二はなぜギリギリまで我慢するのか、まあこんなぐあいなのだ。
 しかし、これらのアイテムやアイコンは、ひとつとしてイアン・ビュルマが解答したかったことではない。

 イアン・ビュルマが指摘したかったこと、そして考えたかったことは、「日本人のやさしさ」と「日本人の暴力性と色情性」とを重ねあわせられる何らかの説明を、日本人はもっているのだろうかということである。
 いいかえれば、日本人の行動規範のいっさいは、大衆的な遊びの中では何ひとつ守られていないし、生かされてもいない。ようするに日本のサブカルチャーにはいっさいの説明可能な道徳も反道徳もないのだとしたら、日本人は快楽と暴力をよそおうことでしか日本的なペシミズムを回避できないということになるが、それでもいいんですね、ということである。
 イアン・ビュルマは冒頭で、こんなことを書く。日本神話においては、スサノオは絶対的な悪神ではない。風によって木がなぎ倒されるように、他に迷惑をかけるから悪い神だとみなされているにすぎない。日本人の思考には絶対的な悪は存在しない。ケガレを恐れているだけだ、というようなことである。

 この本は英語で書かれた。それゆえ、欧米社会ではかなりの反響があった。
 だいたいの批評が「これまで触れにくかった日本をよくぞ巧みに描きだした」というものだったようだ。ただし、ぼくは、フィリップ・ウインザーの書評に出ていた次の一節にほとほと感服した。
 「フロイトが日本で生まれていたら、自分の仕事をやめただろう。というのも、日本には父権的な宗教や、その派生物である西洋の道徳的な伝統がないのにもかかわらず、日本人は西洋と同じように多くのエディプス・コンプレックスをつくりだして、働くときや遊ぶときの特性としているからだ」。
 こういうことについて、いまだ日本人は何も答えてはいない。

参考¶著者のイアン・ビュルマはライデン大学で中国語と日本語を学んだのち、日本大学芸術学部に2年留学している。その後、東京では写真家・ライター・映画作家として活動し、日本人と結婚した。

 

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