才事記

ゼビウスと横須賀功光

ぼくの半生はさまざまな才能に驚いてきたトピックで、髪の生え際から足の親指まで埋まっている。小学校の吉見先生との一緒の遊びや南海ホークスの飯田のファースト守備に驚き、藤沢秀行の碁の打ち方や同志社大学の平尾ラグビーに驚き、電子ゲーム「ゼビウス」のつくりや井上陽水のシンガーソングぶりに驚き、亀田製菓の数々の「サラダあられ」や美山荘の中東吉次の摘草料理に驚き、横須賀功光が撮った写真やコム・デ・ギャルソンの白い男物シャツに驚いた。

ファミコンゲーム《ゼビウス》

いずれも予告なし。ある日突然に出会ってたまげたのだ。これらの代わりにマイルス・デイヴィスを聴いたときとかヴィトゲンシュタインを最初に読んだときとか、そういうものを挙げてもいいのだが、できればナマっぽく体験したことと向き合ったほうがいいので、こんな例にした。

まずは何に驚いたかということが大事なのだが、それにとどまってはいけない。そのときこちらを襲ってきた唐突な感動が、その日その場のシチュエーションや当日の体調や別の記憶との共属関係とともに新たに残響してくることが、もっと大事だ。

われわれは当然のことながら、幼児期には何にでも驚いてきた。子供になってからもアサガオの開花やセミの羽化に出会ったこと、土中の化石やホタルの点滅を初めて見たのは、忘れられない体験だ。ただし、これら植物や動物を相手にした感動はのちにも体験可能になる率が高いけれど、それにくらべて誰かがもたらしてくれるものは、その時その場にかぎられることが多い。

この誰かによる感動とどう付き合えるかということから、世の「才能」というものへの陥入がおこっていく。

感動や共感について心すべきことは、出会って驚いた瞬間の感動というか逆上といったものを、その後どのように保持できる状態にしておけるのか、またその感動をここぞというときに脳裏から自在にリコール(リマインド)できるようにしておけるのかということにある。

感動も共感も誰にだっていろいろの機会におこるものだけれど、それをどこかに転移しても(時と場所とメディアを移しても)、その鮮やかさをそこそこ賞味できるかということが、キモなのである。

たとえば、誰かの講演を聞いて、おおいに痺れたとする。内容にも共感したとする。では、この感動をどのように保持するかなのである。またどのように再生するかなのである。これがけっこう難しい。

驚きをもたらしてくれたものには、当然にそれをあらわした当事者の才能が光っている。横須賀のモノクロ写真や陽水の歌においてはあきらかに格別の「個の才能とスキル」が発揮されたのだし、「ゼビウス」や「サラダおかき」には開発チームの「集団的で統合的な才能」が結実したのである。しかし、その秘密に分け入るには、たくさんの分析や推理が必要だ。

たとえば第1に、その才能が開花するにあたっては、少年少女期や青春期に何をめざしていたのかということがある。栴檀は双葉より芳しと言うけれど、小さいころの能力の芽生えがそのまま開花することは少ない。なんらかの深堀りやエクササイズが生きたはずなのだ。横須賀や陽水はそこをどうしたのか、これは覗きにいく必要がある。

第2に、その才能開花に預かったメンターや技の協力者やチームはどういうものだったのかということがある。ゼビウスはどのようにチームを組んだのか。一人で独創をはたしたかに見える棟方志功だって、実はたくさんのメンターがいた。志功はそのメンターに強く影響されたいと思った。指導者や師や影響者の存在は、メンターの資質に選択肢があるというより、むしろその師に掛けたほうの強度がモノを言う。

のちのちそんな話もしたいと思うけれど、ぼくの場合はいったん選んだ影響者のことを、その後もまったく疑うことがなかった。

また第3に、その才能によってどのように同時代の競争を抜きん出たのか、そこにはどんな時代の水準がわだかまっていたのかということも才能分析の対象になる。セザンヌが人気があったときとカンディンスキーが「青騎士」として登場したときとウォーホルがシルクスクリーンで登場したときとでは、時代のアイコンも驚きの関数も違っていた。そのため、その時々の勝負手がちがってくる。こういうときは、自分で才能を懸崖に立たせる必要がある。イチかバチかに向かう必要がある。

横須賀功光《射》

横須賀功光が颯爽と出現したときは、日本の写真界はキラ星がひしめいていた。ファッション写真や広告写真で腕を磨いた横須賀は、ここで全裸の若者をモデルに『射』というモノクローム作品に挑んだ。若者が壁に向かって跳び移ろうとする肉体を、撮ってみせたのだ。ライティングも絶妙だった。誰も見たことがない写真だった。

第4に、才能開花のためのエクササイズやレッスンや機材はどういうものであったかということがある。棟方志功のように「板と刀」だけが武器だということもあるけれど、多くの場合、才能開花にはいくつもの道具や機材が関与する。レンブラントの版画には日本から取り寄せた和紙が、プレスリーのギターにはマイクやアンプの性能が、アンセル・アダムスのf/64のカメラにはレンズやプリントペーパーの質がかかわっていた。

顔料やコンピュータをどう使うか、録音機やプロジェクターをどうするか、釉薬や鉄材は何を入手するか。テクノロジーは才能の信頼すべき友人なのである。このことも才能にまつわっている。

ぼくは執筆には、いまだにシャープの「書院」を使っている。発売されていないだけでなく、いまや修理ができる工房もない。

第5に、なぜその当事者たちは「ゾーン」に入れたのかということだ。才能に自信がもてるには、どこかでゾーン体験がいる。ゾーンに入るとは、予想を超えるノリに入ったことをいう。俗にエンドルフィンやアドレナリンが溢れることだ。

しかしながら、為末大が言っていたけれど、あるときゾーンに入っていけたとしても、その継続は必ずしもおこらないし、その手前でそうなるとはほぼ気が付かないものなので、そこをどうするか。そのため、アスリートの多くはゾーンを思い描いたイメージ・トレーニングをしたり、ルーチンを確実なものにしていくということをする。

けれども意外なことだろうが、スポーツ以外ならいくらだってゾーン体験は引き寄せることが可能なのである。一番有効なのは誰かとコラボすることだ。スポーツは必ずチームや相手がいてスコアを争っているのだが、他の才能開花は一人で自分の才能の発揮に悩む。そういうときは、誰かとともにその才能を試すのがいい。編集能力の発揮なら、学習仲間とともにさまざまなことを試みたり、メディアを変えたりするといい。

たんに感動したといっても、そこにはざっと以上のようなことが準備されていたり、参集していたのである。これらを無視しては才能は発揮できないし、才能を云々することも叶わない。

しかし、ここまでの話は、ぼくがこのコラムであきらかにしたいことの範疇のうちのまだまだ一端にすぎないのである。どちらかというと、ここまでは才能議論の準備やアプローチに必要なことで、実は序の口の話なのだ。クロート向きとは言えない。
 才能に痺れたのちに重視してみたいのは、驚かされた相手の才能は当方(受容者)にどのように伝播されたのか。その後はどうなっていったのか、ここを抉るということだ。

ラグビーの平尾やシンガソングライターの陽水の才能は、ほおっておけばすぐに「スポーツの才能」とか「音楽の才能」というふうに一般化されてしまう。また他のプレイヤーとの比較分布にマッピングされていく。ジャンクフードや料理の個別の感動は、たちまち無数の「おいしさランク」にいいねボタンとして回収されて、平べったくなっていく。

ゼビウスはその後は無数の電子ゲームが乱舞していったので、おそらくいま遊んでみても当初の感動は色褪せているにちがいない。

愛用の”お古” シャープ《書院》

コム・デ・ギャルソンの黒い紐付きの白シャツはいまでも気にいってはいるけれど(イッセイのスタンドカラーの白シャツなどとともに)、それははっきりいって「お古」なのである。

が、大事なのはこの「お古」との付き合いのうちにも、あのときの感動とそれをもたらした才能とを交差させられるかどうかということなのだ。

そもそもプラトンも人麻呂もバッハもゴッホも複式夢幻能も、これらはすべて「お古」なのである。「お古」だからこそ、何度もプラトンを読みなおしたり能楽を見なおしたりするのだが、そしてそれで少しは自分が感動した才能の位置や重みに気がつくこともあるし、少しは「お古」を脱したと感じるのだけれど、これでは甘いままになる。それよりむしろもっと「お古」を相手に才能と向き合うべきなのである。「お古」をバカにしてはいけない。

これは思うに、感動は転移しつつあるあいだも(AからBに、BからCやDに)それなりの主張をしているはずなのだから、その転移のなかでの様変わりな変容も捉えておいたほうがいいだろうということだ。ぼくが何を一番鍛えてきたかといえば、おそらくはこの「お古」をいつも甦らせる状態で自分の編集力をリマインドしたりリコールできるかということだった。

感動や驚嘆には才能の楽譜やレシピが刻まれている。ぼくの編集力はそのことをヴィヴィッドな状態でホールディングしたり別の場所にキャリングする(移行させる)ことを、試行錯誤をくりかえしながらも何度も試みることで、そこそこ鍛えてきたように思う。ただし、そこにはいろいろの秘伝もある。そのあたりのこと、おいおい話してみたい。

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図説 お金の歴史全書

ジョナサン・ウィリアムズ

東洋書林 1998

Jonathan Williams
MONEY A History 1997
[訳]湯浅赳男
装幀:桂川潤

かの消費税議論で、参議院選挙を迎える前に、
ちょっとだけ、マネーの歴史を
貨幣のほうから眺めておこう。
いつの時代も、ほとんど似たようなことが、
ほとんど同じ順でおこっていたことが見えてくる。
これは、富と戦争を求めたマネーたちの、
懲りない面々の歴史なのである。

 ぼくは長らくお金に見放されてきたのかと思ってきた。もっともそんなことは、ついぞ金銭に敬意を払わず、ついぞ会計の努力もしなかったのだから当然で、自業自得なのである。
 工作舎にも迷惑をかけたし、編集工学研究所にも苦労をかけた。いまでも経済には極端に疎いし、儲け仕事からもおおむね爪弾きにあっている。だいたいお金を「マネー」などと片仮名で綴るのが落ち着かない。

 しかしそれでも、通貨や貨幣については歴史的な関心があるのだから、困る。言語の謎についての関心とほぼ同等の関心をもってきたのだ。いずれ説明するけれど、言語と貨幣は似たような出自とコミュニケーション性をもってきたからだ。それとともに、世界のいつどこで、どのように貨幣が歴史化していったのかということは、歴史社会がどこでどのように息づこうとしたのかということと完全に合致しているからである。
 こんなふうなので、自分の“知の冒険史”のなかでは、このような歴史の暗合と符牒はできるだけ考えたいと思ってきたし、貨幣と社会の関係を決してバカにしてはいけないと、一応は自分に言い聞かせてきたのだ(笑)。けれどもいくらそんなことをしても、ぼくの仕事になんらの寄与ももたらさなかったのは、当然だった。
 まあ、そんな愚痴だか弁解だかはいまはさておき、今夜は前夜に続いて「マネー」の歴史を覗いておくことにする。

 本書は、大英博物館が1997年1月に「HSBCマネーギャラリー」を新設開館したときの調査研究展示がベースになっていて、さすがに名うてのキュレーターが揃ったのか、なかなかの出来ばえになっている。まさにマネーとコインの世界史なのだが、背景の歴史がたいそう詳しく蘇るようになっている。ヴィヴィッドでもある。自分のことをさておいて言うのはナンだけれど、こういう本はなるべく早く覗いておくのがいい(笑)。
 大英博物館はずっと以前から充実した「コイン・メダル部門」を持っていた(世界中のたいていの本格的ミュージアムはコイン・コレクションを充実させている)。それが一挙に独立ギャラリーに発展した。本書もその部門長で新たなマネーギャラリーの館長になったアンドリュー・ベネットが監修役になり、チーフキュレーターのジョナサン・ウィリアムズが執筆にまわっている。うまい執筆だ。
 翻訳者もいい。湯浅赳男さんである。この人が書くものは何もかもが先駆的で、かつ編集的だった。環境文明論といい、コミュニティ論といい、着手も問題意識も早かった。ぼくもずいぶん教わった。いずれ湯浅さんの著書の何かを千夜千冊するつもりだが、マネー史についても『文明の血液:貨幣から見た世界史』(新評論)という、日本ではめずらしい一書がある。

 とはいえ、本書を案内するのは世界中のコイン・コレクションのミュージアムを旗をもって巡るようなものだから、そういうガイドは疲れるし、やりにくい。こういうものこそ図版入りでiPadがなんとかするべきだ。ということで、以下は興味深い論点のみを拾うことにした。

(1)本書のなかで最も驚いたのは、ユーラシアの両端で貨幣の作り方がまったく異なっているということだった。西は貴金属に打刻したコイン、東は卑金属に鋳造したコインなのだ。
 この東西の貨幣文化の違いは、肉体から直接に翼をはやす西の天使と、体には衣を纏うばかりの東の天女ほどに、おそらく東西文明の本質的な相違にかかわっているはずだろうが、いまだにその謎は解かれていないと思う。
 もうひとつ、本書を通して感じたことは、貨幣や通貨を「信用貨幣」とみるのか、「交換手段」とみるのか、あるいは「支払い手段」とみるのか、その見方によってマネーパワーの説明はいくらでも変化するということだ。本書はカール・ポランニー(151夜)がそうだったのだが、ほとんど「支払い手段」としてのマネーという見方を採用している。

(2)コインの歴史はマネーの歴史ではない。古代メソポタミアでは紀元前24世紀にはすでに銀がマネーになっていて、ハンムラビ法典にも支払うべき銀の重量が定められていたが、コインが登場したのはせいぜい紀元前7世紀の後半だった。
 そして、もしも「支払い手段」こそがマネーの本質だとすれば、古代メソポタミアで他人の人格や財産に損害を与えたときに支払われる罰金だって、マネーの起源のひとつだったということなのである。アナール派のように「市場の発生」によってマネーの発達史を起動させるのはたいへん説得力のある方法ではあったけれど、必ずしもそれだけがマネーの歴史の説明ではなかったのだ。

(3)マネーのはたらきに貸付けや利子が不即不離だとすると、エシュヌンナ法典やハンムラビ法典で銀の貸付け利子率が20パーセントと示されていたことに驚く。そこでは借り手に銀がないときは、銀との交換レートに従って穀物で支払ってもよいとさえされていた。
 メソポタミアには「古代銀本位制」があったわけである。そうだとすると、神殿とは神々のためのものだけではなくて、銀という「マネーの神々」のものであり、税金・貢納・略奪の貯蔵庫(アーカイブ)でもあったわけだ。これはおそらく「神の歴史」を変えるはずの材料だ。

(4)古代社会の経済的活動は思いのほかに活発である。古代エジプトでは銀が算出しなかったが、そのかわりにヌビアに金(黄金)が出て、大いに黄金文化を反映させたし、リュディアではパクトロス川の近辺で金と銀の自然合金であるエレクトロンを算出したので、紀元前7世紀にはエレクトロンに刻印を施したコインを発行し、その勢いのまま金貨や銀貨も打刻した。
 土器だってガラス瓶だってあったのに、貴金属という材料ばかりがどうして貨幣に発展したのか、その理由と説明は本書には書いていないから別の千夜千冊でその錬金術性について言及するけれど、ここではむしろ古代エジプトの周辺に黄金が出土してしまったことが大きな事件なのである。それは石油を掘り当てた事件に匹敵するものだったのだろう。
 ちなみに今日までに発掘された世界最古の金貨と銀貨はリュディア王国のもの。たぶん紀元前6世紀のクロイソスの治世の時代だ。前面にライオンと雄牛が刻まれている。

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紀元前7世紀のリュディアのエレクトロンコイン

(5)アリストテレス(291夜)は、古代ギリシアに貨幣が流通した理由をつきとめられなかった。『政治学』にはアテネのコインに梟などの刻印があるのは「価値の印」のためだろうとしか説明しない。なぜあれほどの洞察力の持ち主だったアリストテレスが貨幣の本質にほとんど近づけなかったのか。かえってそこに興味が向く。ヘロドトスはもう少し経済分析的で、コインは商業との結び付きを示す共同体のシンボルだと説明した。
 実際の古代ギリシアでは、ソロンの改革以降のアテネでもスパルタでも、マネーはあきらかに都市国家のレギュレーションと結び付きはじめていた。コインを意味する「ノミスマ」は「ノモス」(法典・制度・規格)の派生語であり、アテネの銀行は両替商と質屋を兼ねていた。のみならずアテネとエギナ島などのあいだでは、コインこそが“国際貨幣”として流通を開始していた。ここをアリストテレスは見落としたのだ。

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アテナイの4ドラクマ銀貨

(6)古代ローマが貨幣制度にめざめるのは、紀元前212年のハンニバル指導下のカルタゴ戦争がおこってからである。軍事費の捻出のために青銅のアスとデナリウスが生まれた。
 やがてイエスの時代に入ると、福音書の多くに「マネーの支払い」の記述が見られるようになった。たとえば「カエサルのものはカエサルに返し、神のものは神へ収めなさい」などなど。このことは原始キリスト教もその後のキリスト教も、そもそもが“福音マネー”とでもいう思想をもっていたということを暗示する。
 それはともかく、キリスト教の波及とともに、ローマ帝国の内外には大量のコイン・マネーが動きまわるようになった。帝国は造幣長官を立て国庫の管理に乗り出し、ペルガモン王国やエジプト王国に対してあえて閉鎖的な通過制度を押し付けた。プリニウスは「貨幣によって軍隊を維持できない者は富裕者とは言えない」と書いた。
 しかし、ローマ帝国の領域にマネー制度が多様化していくと、どんな時代もそうだろうが、制度は当然のごとくに疲弊して、それにつれて属州におけるローマン・マネーの力が落ち、他方ではインフレすらおこるようになっていた。そこにはむろん銀の産出量の低下も手伝っていた。
 土地の中に眠るものについて、歴史はいつだってそこに「富」の起源を求めるものなのだ。

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デナリウス銀貨

(7)422年から437年のあいだ、ローマ帝国がフン族に毎年支払っていた助成金は、なんと金113キロから680キロに跳ね上がっていた。それにもかかわらず、ローマは452年にアッティラがイタリア半島に侵入してくるのを止められなかった。金の切れ目が縁の切れ目なのだ。
 かくてローマの帝国力に見切りをつけたゲルマン諸族たちは、ゴート族の将軍オドアケルの着手を皮切りに、次々に自前の金貨を作り始めた。ヴァンダル、ロンバルド、西ゴート、フランク、ブルグントなどである。これらはのちのヨーロッパの原型になる諸国だが、かれらはまさに「金貨製造力の持ち主」だったのだ。
 こうして西ヨーロッパの貨幣は、ひとまず諸国諸民族の「王が発行する通貨」になっていく。

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ソリドゥス金貨

(8)メロヴィング朝からカロリング朝に向かって、ヨーロッパの通貨は過渡期を迎えた。まとめて「ペニー銀貨の時代」という。きっかけは南からのイスラームの影響と北からのヴァインキングの影響のせいだった。
 715年にイベリア半島の半分がイスラーム勢力の手に落ちた。ここからウマイア朝カリフの領土で通用していたマネー制度が侵食を始めたため、西ヨーロッパ諸国が慌てはじめた。カロリング朝の国王ヒピンは755年に貨幣改革に踏み切り、イングランド南部もまたシャッカス銀貨を使用するようになった。他方、ヴァインキングの脅威は9世紀に頂点に達し、カロリング朝の造幣所はことごとく、まるでヴァインキングへの貢納金の需要に応えるためのものになりつつあった。
 こうした事情はフランス地方やドイツ地方の“分権化”をもたらした。そうなると「王の通貨」だけが旧来の力を保ちつつづけるわけにはいかず、俗界の権力も「領主の通貨」を発行するようになる。
 これがいわゆる「封建貨幣」の登場だ。トゥールの修道院、アンジュー伯、シャンパーニュ伯、ケルン大司教のコインなどが有名だが、そこにはザクセンのガスラール銀山といった各地の鉱山開発と金銀産出がともなっていた。
 このような過渡期のなか、北ヨーロッパを背景にペニー銀貨が広く流通しはじめたのである。国王と領主のパワーバランスの不安定がヨーロッパのマネーの歴史の不安定を用意し、そこから脱却するための「市場」の機能が、結局は今日の自由市場主義をつくりだしたのだ。

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ペニー銀貨

(9)13世紀をすぎると、ヨーロッパはハンザ同盟、シャンパーニュの大市、テンプル騎士団、リューベックの交易力、ロンバルト商人などの積極的な経済活動によって、大きく変質していく。ハンザ同盟のいくつかの都市はヴェンド貨幣同盟にもとづいて、共通の基準のウィッテン銀貨の発行に踏み切ってもいた。「国王の通貨」と「領主の通貨」の力関係はときに均衡し、ときに逆転し、また頻繁に揺り戻しを続けた。
 マネーの力も、アラゴンやリューベックのフローリン金貨、ヴェネチアやハンガリーのドゥカート金貨などの出現と、ボヘミア最大のクトナ・ホラ鉱山の産出量などが後押しして、東へも北へも拡張されていった。ヴェネチア金貨がバルカン諸国でコピーされ、イスラーム貨幣のディナール金貨とその価値を争うようになったのも、この時期だ。
 ぼくはまだ読んでいないのだが、1382年に死んだニコラス・オレスムの『マネーの起源、本性、法則、変造についての論説』という本には、早くも次のようなことが述べられているらしい。「マネーをその本来の目的に従って使うことなしに利益を生み出すには、金貸し、銀行家、両替商をやることである。それよりもっとあくどくしたいのなら、高利貸しか金貨の変造をすることだ」。
 なるほど、なるほど、ファウスト博士の錬金術やナニワ金融道はルネサンスのずっと以前から始まっていたわけである。

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イスラームのディナール金貨

(10)こうして、イタリアの海洋都市のジェノヴァやヴェネチアを起点にして新たなマネーパワーがはみ出していく。“擬似マネー”も流通しはじめる。その代表的なものが為替手形だった。このことは、手形という「遠隔からの操作」によってもマネーを自在に動かせるという自信を、時の国王・領主・商人につけさせた。
 そこへ「地理上の発見」と「大航海時代」が到来する。たちまち「信用=手形=投資=探検=配当」は、ひとつながりのマネーバリュー・チェーンとして重なった。今日とほとんど変わらない。そこへルネサンスとプロテスタントの価値観が加わったのだから、たまらない。マックス・ウェーバーが『プロテスタンティズムと資本主義の精神』を書いた背景には、こういう事情があったのだ。ただしウェーバーはそこに「コーリング」(ベルーフ)という要素を読みとった。その意味、いずれ千夜千冊する。

(11)15世紀半ば、ヴェネチアとミラノが「リラ」という画期的な貨幣計算単位を“発見”した。当時の会計システムにあう貨幣単位だった。9グラムから10グラムの銀貨が次々に使用された。と同時に、コインに肖像が刻まれるようになった。
 これらのコインはまとめて「テストーニ」とも呼ばれたけれど、それは「テスタ」(頭)という意味をもっていたからだ。スイス、南ドイツ、フランス、イギリスがすぐにこれを真似た。この地域ではいちはやく、貨幣と“会計する頭”と権威的肖像とが結託をはじめたのである。

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テストーニ銀貨

(12)テストーニのひとつに「ターレル」というニュータイプのコインが出現した。これこそ「ドル」の語源になっているもので、もともとは聖ヨアヒムスタールの鉱山とグルデングロシェンの造幣所が“開発”した母型をもっていた。アメリカはいつも先駆者の母型に額ずくものなのだ。
 しかし、新大陸となったアメリカは最初からドルでスタートをしたわけではない。アメリカはポトシ銀山の銀で肥大した。一方、ヨーロッパはポトシ銀山の銀で溺れた。ハプスブルク家の経済は、この銀との闘いに破れて苦しくなったようなものだった。

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ターレル銀貨

(13)16世紀から17世紀にかけて、西ヨーロッパに価格革命がおこり、物価が6倍に跳ね上がった。長期インフレである。
 各国は単位貨幣のシステムを小割りにせざるをえなくなった。それまでは5~6段階だったのが、おおむね10~12段階に変更されていった。ポンド、シリング、ペンスが小割りになり、4分の1ペンスなどという単位が次々に出現した。
 しかし、そうなってくると少額単位貨幣のためにいちいち貴金属の貨幣を用意することが無駄になってきた。こうして「紙幣」の時代がやってくる。

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4分の1ペンス代用銅貨

(14)紙幣が銀行券として“印刷”されるようになった経緯は、何度かジョン・ローの異常な物語として千夜千冊してきたので、省いておく。
 また、ここから小切手、クレジット、保険、証券などの擬似通貨がどんどん派生してきたことや、兌換制度や金本位制がしだいに崩れていった理由についても、前夜を含めてあらかた紹介してきたので、省略する。すでにイギリスでは1792年から1821年まで、早くもイングランド銀行の銀行券とコインの兌換は禁止されていたのだ。
 では、このあまりにもドラスティックなマネーの擬似化のプロセスで、いったい何がおこっていったのかといえば、ひたすら「銀行による信用膨張」だけが始まっていたということなのである。マッド・マネーの萌芽はここにすでに始まっていた。

(15)アメリカがイギリスから独立できたのは、軍費のために莫大なコンティネンタル紙幣を発行したからである。むろん、こんなものはあとからとんでもないしっぺ返しがやってくる。コンティネンタル紙幣は急速に暴落し、政府は当初こそ前面的支払い停止を避けようとしたものの、1780年には銀貨1ドルにつき紙幣40ドルというレートの償還をしたのだが、結局は97・5パーセントの切り捨てになった。
 フランス革命だって同じだ。1789年に革命政府はアッシニアという紙幣を、5パーセントの利子つき国庫証券として発行するのだが、これがすぐに通貨と交じって流通するようになると、共和国は財政危機に陥り、なんとか400リーブル札を400万枚発行して対応しようとしたのも束の間、結局、額面の300分の1でアッシニアの価値を下落させることになった。
 代用マネーの問題は、今日では電子マネー時代を迎えて、ますます難問になっている。あとの歴史は推して知るべし。 菅さん、消費税をどうしたいんですか。

【参考情報】
(1)本書にはアジアやアフリカのマネーとコインの歴史もちゃんと扱っている。ぼくが勝手に割愛しただけだ。ちなみに日本の貨幣史については、次のものがある。日本学術協会編『日本貨幣史』(展望社)、滝沢武雄『日本の貨幣の歴史』(吉川弘文館)、東野治之『貨幣の日本史』(朝日選書)、山本有造『両から円へ』(ミネルヴァ書房)、三上隆三『円の誕生』(東洋経済新報社)など。
(2)通貨や貨幣についての参考書はいくらでもあるが、なかなかおもしろいものには出会えない。とくに歴史がつまらない。ここでは、黒田明伸の『貨幣システムの世界史』(岩波書店)と、ファウスト伝説を貨幣論につなげたハンス・クリストフ・ビンスヴァンガーの『金(かね)と魔術』(法政大学出版局)と仲正昌樹の『貨幣空間』(情況出版)をあげておく。仲正昌樹は最近は多くの著書を書いていて、注目すべき著者の一人になっているが、この本は初期の著作だったと思う。ついでにもう一冊。ピエール・クロソウスキーの『生きた貨幣』はかなりぶっとんでいる。
(3)きっと千夜千冊しないだろうから、ここにあげておくがハンス・アビングの『金(かね)と芸術』(グラムブックス)はめっぽうおもしろかった。芸術家をめざすと、なぜ多くのアーティストは貧乏になったり、お金に不如意になるのかということを、徹底して追求しているのだ。アビングはアムステルダム大学の芸術経済学のセンセーで、かつアーティスト。関心がある向きは、本書を「松丸本舗」にも置いておいたし、中央公論社の『松岡正剛の書棚:松丸本舗の挑戦』(7月1日発売)のブックガイドにもあげておいたので、見られたい。