才事記

インド仏教はなぜ亡んだか

保坂俊司

北樹出版 2003

 インドにおける仏教は、先行する古代ヒンドゥ教に対抗して出現し、アショーカ王による仏教の国教化政策によって一挙に広域波及した。これはカニシカ王にも継承されて、そこに大乗仏教と上座部仏教の複線的な発展が加わって、圧倒的なものとなっていった。
 ところが、そのインド仏教が廃れてしまったのである。壊滅してしまったのだ。なぜなのか。

 このことについては仏教史では、1203年に東インドの密教の根本道場だったヴィクラマシラー寺が、イスラム教徒の軍隊によって破却され、多くの僧尼が殺害されたことをもって、インド仏教の終焉とみるのが“常識”になっている。たとえば平川彰の『インド仏教史』はそう書いている。
 しかし、大道場ではあってもその拠点が破壊されたというだけのことで、インド仏教全体が廃れるというのは考えにくい。むしろそれ以前から仏教は民衆離れをおこしていたのではないか。そう考えたのが中村元だった。仏教があまりに合理的で抽象的な哲学思考を好んだことが、衰退の要因になったというのである。
 けれども、そういう傾向なら仏教がもともと抱えていた特徴だった。その特徴が突然に姿をあらわして民衆の理解から遠ざかるというのも、考えにくい。むろん中村元はそのことを認めたうえで、それにもかかわらず仏教が民衆向けの説明の変更をしなさすぎたということを指摘しているのだが、はたしてそれだけなのか。
 奈良康明はそれに対して文化人類学的な視点から、仏教が貴族層や商人層に受け入れられたわりに、もともと家庭儀礼や日常儀礼を重視しなかったために、社会の底辺にゆきとどいていなかったのではないかという意見を出した。奈良の『仏教史』はそのように書いている。
 むろんこのようなこともあったろう。また仏教に伝道師(いわゆる宣教師)が欠けていたことを指摘する声もある。それもたしかに問題である。
 しかし、どうも決定的な理由にはなりえない。なぜなら、そのようにインドで廃れた仏教は中国や日本では蘇ったばかりか、歴史家によって認められているように、むしろインドの外で世界宗教としての力を発揮していったからである。
 きっとここには、インド社会独自の原因がひそんでいたはずなのである。

 本書は、これまで十分な説明がなされてこなかったインド仏教衰退の解明に、ついに“新しい鍵”を提供した、なかなか意欲的な試みである。
 結論を先にいうと、インド社会においては、仏教は長らく反ヒンドゥの装置、あるいは抗ヒンドゥの装置としての社会的な役割をはたしていたのだが、その社会装置としての役割がインド進出を頻繁に繰り返すイスラムに取って代わられることによって、その使命を終えたのではないかというものだ。
 ぼくには、この推理が当たっているのかどうかを判定する力はないのだが、なるほどこれはありうることだろうと思えた。というのも、イスラム教徒がかなり細かく反ヒンドゥあるいは抗ヒンドゥの社会的ジャンクションを担ったのだろうということが、本書から見えてきたからである。

 著者はそのような変化がおこった背景を示す重要な史料として、イスラム側の『チャチュ・ナーマ』を持ち出している。
 これはインド亜大陸へのイスラム進出の最初の記録にあたるもので、711年以降の出来事が記されている。チャチュ王によるチャチュ王国成立を記念したもので、しかも、その記すところは玄奘の『大唐西域記』がカバーしている時代と地域にほぼ重なっている。そのため、数々の研究的照合が可能になってくる。
 著者はそこに着眼して、仏教衰退の背景がイスラムの進出によるインド社会の変質と密接な関係をもっていたことに気がついた。
 そのような『チャチュ・ナーマ』の内容を紹介することはここでは省略するが、もしその内容通りのことがおこっていたのだとすると、インド社会がアショーカ王このかたつくってきた仏教社会的な結節点(ジャンクション)は、どうも確実にイスラム教徒によって取って代わられていたと言えそうなのだ。逆にいえば、やはり仏教の浸透は別の宗教的結節点によって取り替え可能な程度の奥深さにしか届いていなかった、というふうにもなってくる。
 たとえばインドでは仏教僧のことをサーマニーという。これはパーリ語のサマナから派生したもので、「非ヒンドゥの僧侶」という意味である。ということは、非ヒンドゥであるのならべつだん仏教僧でなくとも、この言葉の意味は損なわれない。イスラム教徒はそこへ滑りこんできた。
 インド仏教にはこうした自由度のようなものがたくさん入っていた。それは、いいかえれば仏教独自の平等主義ともいえるもので、カースト制にもとづいたヒンドゥ教とはまったく違っている。しかしそれゆえに、その平等主義がアダとなって、そこにイスラムの容易な進捗と確保を許したのである。

 ここには、もうひとつの原因も重なっていた。それは、イスラムの進出とヒンドゥ教の再興隆が時期をひとつにしていたということだ。これが8世紀から11世紀のことである。
 もともとイスラムは土着宗教には寛容なところがある。いずれは靡(なび)くという過剰な自信ももっていた。しかし抵抗する勢力には決定的な蹂躙を辞さないものももっている。これが世にしばしば「剣か、コーランか」と言われるところだ。
 イスラムがインド社会に怒涛のごとく進撃していったとき、そこに立ちはだかったのは仏教徒ではなく、ヒンドゥ教徒だったのである。もっと正確にいえば、仏教徒はイスラムとヒンドゥのパワー・バランスの中で、イスラムについたほうが有利な状況にさえ立たされたといってよい。記録によれば、多くの仏教徒はスムーズにイスラム教徒に鞍替えをしているという事実も少なくない。とくに大乗仏教はそのような融通性に富んでいた。
 こうしてイスラムは仏教徒を味方につけつつ、ヒンドゥに対峙していったのだった。しかし、本書にはその説明はほとんどないのだが、新興勢力としての密教徒だけはこれらに抵抗したようだ。密教の根本道場だったヴィクラマシーラ寺が破壊されたのには、そうした背景もあった。

 イスラム教の特徴のひとつはタウヒードにある。聖俗不分離である。政教一致というものだ。
 最近のテレビではイランやイラクなどのイスラム社会の動向が刻々報じられているが、なかでおそらくは異様に見えるだろうことは、政治家たちの多くが宗教的民族衣裳を着たまま会議をし、そのまま会見に応じていることだろう。これはイスラム社会というものが宗教と政治を同一視できるということを、雄弁に見せている光景なのである。
 仏教社会ではこんなことはありえない。小泉純一郎がたとえ仏教徒や仏僧の資格をもっていても、国会や政治の議論の場に僧服を着てくることなど、ありえない。そうでなくとも日本は政教の接近を極端に恐れる国になっている。公明党議員が政治の場で法華経日蓮のことはむろん、池田大作の名を持ち出すことなど、もってのほかというふうになっている。

 宗教というものは、その土地の風土や民族の習慣や、歴史的社会におけるパワー・バランスを正確に反映するものである。宗教を無視して社会を語ろうとすれば、この正確な目が失われることになりかねないとさえ言える。
 日本人の多くは家に仏壇をもつか、どこかの寺に葬儀を頼んでいるような、いわば“柔らかな仏教徒”である。しかし、その仏教はほとんど社会の利害が衝突するところからは注意深く排除されている。べつだんそれで問題がおきているわけではないのだろうが、それは日本に宗教戦争が仕掛けられていないからのことで、もしも、その一端でも“開戦”すれば、おそらくはたちまち日本人の「心」さえもがずたずたに混乱するであろうとも思われる。
 中世インドにおいては、この問題こそが大きな社会問題だったのである。

 インド社会にイスラムが進出していったとき、ひとつには仏教徒はそれをアンチ・ヒンドゥ勢力として容認してしまったのだ。本書が述べるところは、その詳細な経緯だった。それはひょっとすると仏教徒たちの知恵であったかもしれない。
 しかしながら事態は、そんなに柔らかくはなかったのである。ヒンドゥ社会が再興を期して屹立しようとしていたし、やっと芽生えつつあった新しい密教勢力は海外にその場を求めるしかないほどの打撃を受けていた。
 こうして仏教はインドを離れて、その類い稀な普遍主義や平等主義の思想と慈愛の枝を、西域や中国や東南アジアのほうに伸ばすことになっていったのである。
 その枝に稔ったいくつもの果実が、ぽとりぽとりと中国や日本の大地に落ちたとき、そこには反ヒンドゥでも抗ヒンドゥでもない仏教が“挿し木”された。このことこそが、仏教がインドから遠い中国や日本に栄えた理由になっていく。
 本書を読んで驚いたのは、玄奘がインドを訪れたとき、どうやら意図的にイスラム勢力による仏教制圧の事実を隠していたということだった。しかしそれは玄奘が中国仏教に“火種”をもちこまないための、やはり知恵だったのであろう。