父の先見
共感覚者の驚くべき日常
草思社 2002
Richard E. Cytowic
The Man Who Tasted Shapes 1993
[訳]山下篤子
シネスシージア(syn-es-the-sia)というややこしそうな言葉がある。「共感覚」と訳している。
たとえばM社のハンバーガーの味が尖った形で見えるとか、あるミントの匂いで一定の旋律が聞こえるとか、どんなチキンスープにもそれぞれ角度の違うとげとげを感じるとか、そういう感覚体験をする知覚現象のことをいう。
アルチュール・ランボーはAは黒、Eは白、Iは赤といったふうに、文字に色を見て『母音』という詩を書いた。これはおそらく比喩である。しかし世の中には実際にシネスシージアを感じられるというか、いつも特定の形状感覚や音響感覚を通してシネスシージアを実感している人が十万人に一人くらいの割合でいるらしい。いろいろの研究によってカンディンスキーやスクリャービンが共感覚者であったこともわかっている。
本書に出てくるマイケル・ワトソンもその一人で、医者である著者はこの共感覚者に出会って、いろいろ興味をもった。
しかしそれにしても、一つの感覚が別の感覚を不随意におこすシネスシージアとはいったい何なのか。なぜそんな別々の感覚体験が"共に"おこるのか。
ふつう、知覚現象の多くは脳のどこかの部位と結びつけて考えられる。局在説という。けれども、共感覚という機能をもった部位がどこかに局在しているとは考えにくい。
そこで「異種感覚間連合」という想定をするようになった。二つ以上の部位の機能が"混線"ないしは"交線"ないしは"連動"すると見ることだ。これはどうやらおこりそうである。しかし、何がおこっているのかはなかなか突き止めにくい。
これまでもぼくがたびたび書いてきたことだが、父が京都で呉服屋をやっているときの仕立屋の田辺さんは、失聴者で相手の唇の動きで言葉を読みとる読唇術をマスターして"話しあい"できるばかりか、手の平で音楽が"聞ける"おばさんでもあった。田辺さんはステレオ音響装置の両サイドのスピーカーに両手をかぎりなく広げて近づけ、その手の平を微妙に動かしながらどんなレコード音楽も聞き分けていた。
田辺さんの能力は少年のぼくを飛び上がらせ、怖がらせるほど驚かせた能力であったが(そして、ぼくはこのような体験にずいぶん影響をうけて育ってきたのだが)、この田辺さんの能力は厳密には「異種感覚間連合」なのではない。共感覚でもない。なぜなら感覚器官のひとつが損傷し機能しなくなったことによって、別の機能がその感覚器官の機能を代行するようになったからだ。
シネスシージアはそうではなくて、一般的な健康条件の持ち主が視覚と聴覚を、視覚と触覚を、嗅覚と聴覚を連動して動かしてしまうことをいう。
このようなことが人間のどこかでおこっているであろうことは、赤ちゃんや幼児がすぐにモノを口に入れることによって、ある種の"形態認知"をしていることでも憶測がつく。これを幼児は「口で形を見ている」というふうに言えなくもない。
またLSD実験やプラシーボ療法実験などから、われわれにはしばしば「目から鼻に抜ける感覚」が生じることや「音楽から匂いが溢れて出ている感覚」をもつことがありうることもわかっている。ティモシー・リアリーやジョン・C・リリーはそんなことばかりに関心を寄せた研究実践者であったし、そもそもオルダス・ハクスリーの『知覚を開く扉』は、そのような共感覚や異種感覚間連合こそがおこって、人間の意識がもっと高次化されることを望んだ話題の書であった。
しかしながら本書の著者もあれこれ紆余曲折をへたように、このようなシネスシージアっぽい現象がはたして意識の高次化にあたっているかどうか、また単一の感覚機能の深化にあたっているかどうかは、まったく見当がついていないことなのである。
その一方で、まったく別の分野の研究成果、たとえば人間はなぜ言語をつくれたかというような分野から見ると、異種感覚間連合や共感覚こそが言語をつくりだした本体機能だったのではないかという推測は、たいそう魅力のあるものなのでもあった。
脳神経科医の著者は、共感覚を人間の脳にとって必ずしも高次なものとか深化したものと見ているわけではない。むしろ偏頭痛などとも似たもので、脳の機能から見ると何かの原因で周囲にバランスよく散るべきものが片寄ったものというふうにも考えられると書いている。
そこで著者は、共感覚に似た現象をいろいろあげて、これを調べながら共感覚の実態に迫るというアプローチをとった。そしてこの共感覚に似た現象をまとめて「意識変性状態」(アルタード・ステーツ)をおこす感覚と見た。
共感覚との類似性をもたらす意識変性状態は、神経科でもおなじみの次の6つの刺激や機能として分類できる。すなわち、(1)LSDで誘発される共感覚っぽいもの、(2)写真記憶(フォトグラフィック・メモリー)の持ち主(例=映画『レインマン』のダスティン・ホフマン)のアタマの中でおこっていること、(3)側頭葉てんかんの持ち主のアタマの中でおこっていること、(4)感覚遮断実験でもたらされる共感覚めいた現象、(5)解放性幻覚がもたらす感覚(幻聴や幻視のこと)、(6)大脳皮質に直接の電気刺激を与えると生じる感覚、以上の6つである。
いずれも興味尽きない現象であるが、矯めつ眇めつ検討してみると、これらは共感覚そのものとは異なる現象であることがわかってきた。これらは大脳皮質の処理過程が混乱あるいは混線あるいは抑制状態にあって、しかも同時に感覚入力になんらかの遮断か異常が発生しているからである。どうも本来のシネスシージアとは何かが違っている。
こうして、本書はここからリアリーやリリーのハイパー感覚研究とは別の道を歩んでいく。いや、歩みながらも結論を得られない方向に旅立ってしまうのだ。けれども、その途中から別の道にも進んでみる立場があるというのが、どちらかというとリアリーやリリーが好きだったぼくには、ちょっと新鮮だった。
著者が本書のおわり近くになって証かした仮説は、共感覚は理性と情動がもともと共進化したことによって最初からあったもので、どんな人間にもそなわっているものだということである。ようするに共感覚は哺乳類が人類に進化したと同時に発生していたものだということになる。
そうだとすると、「なぜ一部の人々は共感覚をもっているのか」と問うことが間違っていたのである。むしろ「なぜ一部の人々は共感覚が意識にのぼるのか」と問うべきだった。ということは、共感覚は誰にでもおこっていながらいつもは隠されている神経プロセスを、意識がちらりと覗いた光景なのである。そう考えたほうがいいということになる。著者もそのように研究を進めていった。
が、このように考えるとすると、問題は共感覚のアリバイがどこにあるかということよりも、われわれの自己意識はいつのまに共感覚を使わないように発達してしまったのかということが問題になってくるはずである。
本書を閉じたあとに残された問題が、ここにある。
そうなると、ぼくは「千夜千冊」のどこかで、自己意識というものは実は何かの原機能を"未使用"にすることによって形成されたものではないかという問題や、茂木健一郎君がそれを追いかけているのだが、われわれの脳や神経系には感覚とか知覚とよばれている機能では説明できないクオリアとよばれるような、もっと愉快で格別な"原形掴み"の機能がひそんでいるのではないかといった問題を、次にはとりあげることになりそうだ。