父の先見
ろくでもない生活
JICC出版局 1993
P.J.O'Rourke
Pepublican Party Reptile 1987
[訳]山形浩生
アメリカにはこういうコラムニストがごろごろいる。アメリカ人ではないわれわれには、綴り方教室の悪い見本を読まされているようなものが多いのだが、なかに、これは日本人には絶対に書けないというものもある。
オロークはそういうコラムニストの一人で、ベストセラーになった『モダン・マナーズ』はアンブローズ・ビアスの再来と評判だった。が、それはアメリカ人の見方で、ぼくには日本人が書けないというか、書かない非常識のセンスによって新たなアメリカン・コモンセンスをつくろうとしていると見えた。
本書は原題をそのまま訳すと「共和党爬虫類派」という日本語になる。序文にオローク自身が「本書に収めたエッセイはすべて保守的な共和党の立場で書かれている」と宣告している。
実際にも、オロークの家系はゴリゴリの共和党主義者だったようで、だからクリントン政権時代は文句たらたらだったのが、いまごろはジョージ・ブッシュの登壇に喜びつつも、かえってハラハラしているにちがいない。
というのは表向きのことで、本書を読めばわかるように「共和党爬虫類派」というのは、「もうどうでもいいや、くそったれ小泉純一郎万歳!」と言っているようなもの、まことに複雑に、かつ巧妙に新保守主義の「擬制感覚」とでもいうものをつくろうとしている仮の姿だとおもったほうがよい。
昔ならこういうのをブラックジョークとかシニシズムと言った。けれども、オロークのような書きっぷりをそういう言葉でくくることはできない。
日本でいえば全共闘世代や団塊の世代に似た特有の屈折した心情をもちながら、世の中の現象、高速道路の走り方からスパゲッティの食べ方を相手に全知全能を軽く駆使して評論してみせつつ、かつそのように観察できるような現象に生活マスターベーションしているアメリカ人に警告を発するという、手のこんだ嫌味によってカウンター・シニシズムに人々を誘おうという手法なのである。
アメリカはかつては愛国心のためなら何でも許された。いまアメリカは安全のためなら何でも許す。これをオロークは「安全ナチ」と名付ける。
なるほど、こんなふうに言われると、オロークがナチをちゃんと批判しているようにも見えるし、安全神話に狂乱しているアメリカ人を鎮静しようとしているようにも見える。しかし、それは上滑りなのだ。オロークはそう言いながら、愛国心を何によって表明するかも、安全を何によって守るかも、すべては相対価値でしかなく、政治を眺めるにあたっても、そういう相対価値を前提にしないかぎりは、どこがいいどこが悪いといったって、しょせんどうにもならないと考えているだけなのだ。
けれども、ただそれを言いたかっただけかといえば、そこがオロークの手で、かつてのカール・クラウスや斎藤緑雨に似て、世の知識人による批評そのものを無化させてしまうことをこそ目論んでいるのだった。
そして、そのような素振りを言葉でしてみせることが、表面から見えているアメリカとは異なったアメリカン・コモンセンスの実験なのでもあった。
なお、本書の訳者の山形浩生は日本では珍しい翻訳文化感覚の持ち主で、コラムニストとしてもピリ辛をものしている。
本書を訳した当時は、本職は東大の都市工を出てシンクタンクの野村総研に務めているリサーチャーだった。その後の職業は知らないが、週刊誌にも痛快な批評をしつづけている。日本にもオロークのようなコラムニストがしだいにふえているのであろう。