才事記

巻菱湖伝

春名好重

北井企画 2000

 いつか菱湖について知りたいと思っていたから、本書を新潟の鍋茶屋で磯島岩雄さんから頂戴したときはありがたかった。
 磯島さんとは初めてお目にかかったのだが、ぼくが良寛についての本を出しているのを知っていて、今度出会う機会に本書を贈呈しようと考えておられたという。磯島さん自身がつくった本である。日本海の紺の色を表紙にした上製本だった。
 その夜、佐渡に渡って雪風吹きすさぶ厳冬の日本海の景色の中に佇んで、しばしさまざまなことを偲んだが、ふと今宵は良寛ではなく菱湖を想うことにしようとおもい、夜陰に未詳倶楽部の仲間たちと童謡などを唄った暁方、ひとり露天風呂につかって部屋に戻ってから、本書を蒲団で繙いた。途中、不覚にも寝入ってしまったが、東京に帰った夜、また拾い読んだ。翌日、母が死んだ。

 菱湖が西蒲原の巻に生まれた安永6年は、良寛は21歳になっている。すでに出家している。
 そのとき、のちに越後に縁が深くなる亀田鵬斎はまだ24歳、市河寛斎は29歳、加藤千蔭は43歳、ちなみに池大雅は55歳である。菱湖のあと、1年おくれて貫名菘翁が、2年おくれて市河米庵が、3年おくれて頼山陽が生まれた。菱湖と同じ歳には田能村竹田がいる。
 菱湖は私生児だった。おまけに母が自殺した。19歳で青雲の志を抱いて新潟から江戸に出て鵬斎の門に入った。当時、鵬斎には多くの門人がいたが、寛政異学の禁にひっかかって、まもなくさびれた。やむなく版下を書く。それでも『当世名家評判記』には「行筆は近世に稀なる名筆でござります。江戸での書家の親玉にござります」と出ている。
 29歳で『十体源流』を著し、書塾「蕭遠堂」をひらいた。幕末の三筆に数えられた能書家であるが、その結体は整いすぎているようにもおもう。だからこそ習いやすかったのであろう、やがて1万
人をこえる弟子を擁した。
 その結体をくずさない菱湖の書が開眼するのは、京都に出て青蓮院に出入りすることになり、嵯峨天皇の書、最澄の尺牘、空海・佐理・行成の書状、青蓮院の代々の門主の墨跡にふれたときからだった。嵯峨天皇の書というのは『哭澄上人詩』であろう。最澄の尺牘は『久隔帖』である。空海のものは何かはわからない。いずれにしてもこれだけ見れば世界は変わる。加えて北小路大学の案内で比叡山にのぼって最澄の『請来目録』も見た。

  菱湖の書を見ていると心が静まる。破綻がない。日下部鳴鶴が最初は菱湖を学んだというのもよくわかる。
 破綻がないのはクセがないということだが、この書をいま書ける者はいない。菱湖の書は現代に継承されてはいないのだ。むろんそういう書家はいくらでもいる。空海の書も光悦の書も蒼海の書も、いまは誰も受け継げない。だから菱湖が忘れられていてもいっこうにかまわないのだが、空海や蒼海の書は誰もが書けない卓越すぎる筆勢があるとしても、菱湖の書は継承できるはずの「よさ」に富んでいる。それが引き継がれていないのは、おそらくはたんに菱湖を見る機会がなくなっているせいなのだろう。本書をつくった磯田さんは菱湖を数百点もっているそうだから、そのうち東京や京都で展覧会をしてほしい。
 巻菱湖、実はその書を見ていると母を思い出すのである。もっとも、母の書は少し右上がりだった。「冬の海佐渡の波濤は右上がり」玄月。