才事記

三分間の詐欺師

佐々木徹雄

パンドラ 2000

 洋画の題名を邦訳しないのは、つまらない。『タイタニック』や『マトリックス』はしょうがない。けれども、なぜにまた『フィールド・オブ・ドリームス』とか『ダンス・ウィズ・ウルブス』なんて映画を原題カタカナ表示をしているのか。
 昔、東和映画に筈見恒夫という宣伝部長がいた。本名ではない。「もののはずみ」からペンネームを採った。その筈見は昭和前半時代の洋画タイトルを日本語にする名人だった。『制服の処女』『嘆きの天使』『巴里祭』『会議は踊る』『女だけの都』『望郷』『たそがれの維納』『郷愁』など、すべての筈見の大ヒット作である。レニ・リーフェンシュタールの『オリンピア』を『民族の祭典』にしたのも筈見のアイディアだった。
 邦題がいいとはかぎらない。むろんヘタなのもある。けれども、英語の原題の定冠詞や前置詞まで入れて得意になっているのは、どうかしている。『巴里祭』をフランス語で表示したら、いったいどうなるか。『太陽がいっぱい』なんて邦題こそが、映画ファンを唸らせる。

 さて、本書だが、この標題だけで本書の中身の予想がついたのなら、諸君はよほどの編集感覚の持ち主か、もしくはヘソマガリか、かなり怪しい日々を送っている人である。
 「三分間の詐欺」が下半身に関するいかがわしいことだと思った人は、すごすぎる人生をおくっている。三分間の詐欺師とは映画の予告篇屋さんのことなのだ。このニックネームを贈ったのはかつての東京新聞の記者だった。その詐欺師の予告篇屋さんが本書の著者なのである。
 大正15年生まれの著者は、外国映画の場面の写真がほしくてほしくてたまらない少年だった。そしてそのまま映画会社に通いはじめ、そのまま映写技師になり、さらに予告篇づくりに魅せられていった。ユナイトから東和に筈見恒夫が移り、その東和に野口久光が入り、東宝には淀川長治がいた時代の話である。
 著者はさまざまな職人をへて、NCCことニッポン・シネマ・コーポレーションという英国映画配給会社に入る。パラマウント時代に名ブッカーとして名を馳せた島田ハットンの異名をもつ島田八州直がいた。ここで最初の予告篇をつくることになる。ジュリアン・デュヴィヴィエの『モンパルナスの夜』である。
 使えそうな場面を次々にノートに描き出し、これを削ぎに削いでいって、宣伝部員が用意した謳い文句を組み立てていく。これをもとにタイトルを入れ、音楽をつけていく。単純にいえばそれだけだが、これが映画ごとに千差万別になる。
 本書はこうした洋画予告篇の揺籃期を淡々と回顧した口述記で、なんとも銀幕の味がする。とくに詳しいことは紹介しないことにするが、「佳日」とか「過日」とか「果実」という響きがぴったりなのだ。

 ぼくは予告篇こそは映像メディア時代の決定的な象徴だとおもっている。このことを最初に指摘したのは稲垣足穂の『ぼくの触背美学』だった。「これからの映画はすべてが予告篇に向かっていくはずです」。
 予告篇は予言篇ではない。すでに実態をもっている虚構の出来事を、つまりはフィルムを、自由な連想だけによって予告することである。チラリズムといえばチラリズム、ストリップティーズといえばストリップティーズだが、いわば短詩型文学でもあって、俳諧的であり、ソネット的なのだ。
 必ずしもサワリやサビを出すともかぎらない。実は一番の見せ場はほとんど伏せられる。それにもかかわらず、予告篇はすべてが見せ場に見えてくる。では、歌舞伎の見得のようなものかというと、そうではない。そこには「はずし」というものがある。はずしているのに、その中に入っていきたくなっていく。ようするに「きわどい」の技術なのである。
 きわどいとは、際どいである。国際・業際・学際の際である。その際を高速で滑っていく。何が滑っていくかといえば、まさにイメージが滑降する。疾駆する。すなわち予告篇はフラグメンタル・オペラであるべきなのだ。
 実は、最近の予告篇はあまりいいものがない。邦題にいいものがないように、予告篇もヘタクソになってきた。とくに邦画の予告篇は「なめたらいかんぜよ」のたぐいの定型を別にして、ほとんどが興奮しない。俳諧がなくなったのである。
 予告篇がヘタになったのは、どうもコマーシャル・フィルムの製作陣に優秀なスタッフが動いてしまったせいらしい。これは残念なことである。しかし、コマーシャル・フィルムのスタッフが予告篇をつくってはほしくない。予告篇はあくまで遠くの“夜店”のようにつくってほしいのだ。