才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

> アーカイブ

閉じる

ソーシャル・キャピタルの潜在力

稲葉陽二編

日本評論社 2008

装幀:神田程史

ソーシャル・キャピタルとは何か。
社会関係資本などと訳されてはいるけれど、
こう言われてもその正体はよくわかるまい。
ロバート・パットナムらの研究者たちの定義は
ソーシャル・キャピタルが
「信頼×互酬性×ネットワーク」などで構成されるという。
そうだとすれば、「絆」こそが
ソーシャル・キャピタルなのである。
が、人と人の「絆」のどこがキャピタルなのか。
そこにどのくらいの潜在力の大きさや深さがあるのか。
ぼくはそこを考えることが、関係の充実を維持し、
新たな関係の束を創生する編集力になると思っている。
世の中には「しきる経済」とともに、
「なつく経済」があっていいのだ。
今夜は、その仮説への入口を示しておきたい。

 サン=テグジュベリ(16夜)の『星の王子さま』に、王子がキツネと出会う場面がある。王子が「おいでよ、ぼくと遊ぼうよ」と言うと、キツネは「でも、なついてないから遊べない」と言う。王子が「なつく」ってどういうことなのと聞くと、キツネは「それはね、絆を結ぶことだよ」と答える。
 キツネはこういう説明もする。ぼくにとって君はいまのところほかの10万人の男の子と何の変わりもない。だからぼくにとっては君はいなくても同じなのだ。でも、もし君がぼくをなつかせてくれたら、君はぼくにとってとても大事な人になる。君にとっても大事なキツネになる、と。
 この有名な話は、社会において「人がつながる」とは何かということを端的にあらわしている。「なつく」とは人と人とが何らかの信頼関係に入ることをいう。星の王子さまはこのことに納得した。

 では、このように「人がつながる」ということで何が生まれるのか。そこに個人的な友情や信頼がもたらされたのは当然だとしても、いったいそのことが何かを社会にもたらしているのかといえば、これまでこのような議論が社会の富や生活の規範やビジネスの充実に大きな意味をもつとは考えられてこなかった。
 なぜなら、多くの信頼はひたすら個人的な関係だとみなされてきたか、ないしは多くの社会にはもともと地域コミュニティがあって、人々はそれなりにつながっていたからだ。そういう伝統的なコミュニティでは、わざわざキツネと仲良くなる必要がなかったからだった。

 ところが、ある時期から社会は「よそよそしく」なっていったのだ。ないしはタンタロスの神話のように「じれったく」なった。その理由のひとつは個人主義がはびこりすぎたからだった。
 もうひとつの理由はジグムント・バウマンがすでに『コミュニティ』(1237夜)でみごとに論じてみせたのでここでは屋上に屋を重ねないが、一言でいえば利益社会(ゲゼルシャフト)が共同社会(ゲマインシャフト)をすっぽり覆ってしまったからだった
 日本でも同じことだった。もはや柳田国男(1144夜)が大切にしてきた「村」は自動車とロードサイドショップとで解体を余儀なくされたか、擬装を余儀なくされた。
 そのうち、学級は崩壊し、親子がいがみあい、鬱病が広がり、自殺者がふえていった。さらには共同体の風景がずたずたになっていった。それでも商店街がさびれてスーパーやコンビニが栄えるなら、それはそれで不便にはならないのだから、それでいいだろうと感じられてきた。
 けれどもやがて、生活者たちも疑問をもつようになった。なんだか心が荒んでくるような、誰かとのつながりが希薄になっているような気がしてきたのである。

 だったら、どのように共同社会を浮上させればいいのか。知識人たちはいろいろ模索した。自治体も生活者もいろいろ考えた。インターネットも工夫を凝らした
 公民館や道の駅で人々のつながりを回復しようとか、セーフティーネットをしっかりつくろうとか、介護施設をふやそうとか、ブログで共同社会が取り戻せるだろうとか‥‥。しかし、リーマン・ショックを過ぎてもまだ市場原理主義がはびこって、すべては自由競争社会にとりこまれ、結局はアキハバラで突然に人を殺したくなってしまったのである。

 いっとき、たいへん杜撰な議論がもてはやされたことがある。戦後社会は第1の道、第2の道を選択してきて、いまは第3の道を選択しつつあるというものだ
 第1の道は1945年から1973年までの、オイルショック以前の福祉国家型オールドレフトの道である。大きな政府による福祉の受給がユニバーサルな権利(entitlement)であるとみなした。
 第2の道は、サッチャリズムとレーガノミクスに代表されるニューライトの道で、しばしば新自由主義(ネオリベラリズム=ネオリベ)とかカジノ資本主義とか市場原理主義とよばれてきた。競争と排除(exclusion)を特色とした。これについてはぼくもいろいろ千夜千冊した。ジョージ・ソロス(1332夜)、ジョン・グレイ(1357夜)、デヴィッド・ハーヴェイ(1356夜)などの議論を読まれたい。
 これらに対して第3の道は、ニューレフト兼センターレフトな社民(社会民主主義)型の道である。サッチャーを補佐したアンソニー・ギデンスらによる命名だった。

 第3の道は、国家や市場を固定的な代替メカニズムとみなした第1、第2の道をそこそこ踏襲しつつも、「市民社会、政府、経済」の3軸を福祉供給の独立した対等パートナーとみて、政府はこれら3つのあいだに均衡をつくりだす社会政策をとればいいという立場をとる。
 その特色はしばしばキーワードの頭文字をとってRIOなどと略称される。権利をばらまくのではなく責任(Responsibility)をもってもらう。排除ではなく包括(Inclusion)をめざしていく。競争的不平等ではなく均等に機会(Opportunity)を開く。こういうRとIとOの3条件によって成り立っているというだ。

 が、この程度の第3の道では、その後のリーマン・ショック以降を乗り超えられなかったばかりか、さらには中国経済の増長中東ジャスミン革命の動向やユーロ経済圏の決定的な綻びに対処できるはずはなかった。このことは第3の道めいた方向を選択しようとした民主党の政治を見ても一目瞭然なのである。
 一方、こうした第3の道のような戦後経済の踏襲と修正による折衷案とはべつに、まったく新たな見方によって経済社会を眺めなおそうという機運も出てきていた。失われた共同体を再発見しようという機運が出てきた。今夜はそこに注目しようというのだが、それがソーシャル・キャピタル(社会関係資本)によって世の中の価値の付け方を見直そうというものだった。

 ソーシャル・キャピタルについてはハーバード大学の政治学者ロバート・パットナムの話題の大著『孤独なボウリング』(柏書房)から説きおこさなければならない。パットナムによってソーシャル・キャピタルは俄然脚光を浴びることになったからだ。
 だからぼくもこの大著から千夜千冊したほうがいいのだろうが、とはいえパットナムの試みはソーシャル・キャピタルの重要な発見を示した入口ではあっても、ソーシャル・キャピタルにもとづく社会展望ではなかった。サン=テグジュベリが気が付いていた「つながり」と「なつく」の本質からの展望に切り込むものではなかった。
 そこで今夜は、もうちょっと先にまで行きたいというつもりで、ソーシャル・キャピタルについての軽い見取図用に本書を選んだ。だから本書は深い議論はしていない。あくまで見取図を提供しているにすぎない。

ソーシャル・キャピタルが対象とする分野

 一応、紹介しておく。
 本書の編者の稲葉陽二(日大法学部教授)はソーシャル・キャピタルを「信頼」と「互酬性の規範」と「ネットワーク」の組み合わせとみなしたことで、いまはとりあえず日本のソーシャル・キャピタル議論の代表的な識者の一人ともくされている。

 本書はその稲葉のもと、吉野諒三、麗澤大学の堀内一史、明治学院の宮田加久子、三菱UFJの市田行信、それに日本福祉大学の研究者たちが各章を執筆した。中身は総花的である。
 ぼくの手元には、ほかにパットナムの『哲学する民主主義』(NTT出版)、ナン・リンの『ソーシャル・キャピタル』(ミネルヴァ書房)、宮川公男・大守隆が編著した『ソーシャル・キャピタル』(東洋経済新報社)、稲葉陽一らの『ソーシャル・キャピタルのフロンティア』(ミネルヴァ書房)、ミシガン大学の教科課程にもとづいたウェイン・ベーカーの『ソーシャル・キャピタル』(ダイヤモンド社)、一般向けに書かれた稲葉の『ソーシャル・キャピタル入門』(中公新書)、あるいは領域適用型の戸井佳奈子の『ソーシャル・キャピタルと金融変革』(日本評論社)、イチロー・カワチの『ソーシャル・キャピタルと健康』(日本評論社)などがあるけれど、いずれも似たりよったりで、残念ながら群を抜いたものがない。
 このあたりのものばかりを読んでいると、ひょっとしてソーシャル・キャピタル議論がそもそも貧しいのか、ソーシャル・キャピタルというものそのものに発展力がないのか、いささか迷うほどである。
 が、それにもかかわらず、ソーシャル・キャピタルの可能性は「第3の道」の議論などに代わって、これから一挙に深化する「社会的充実」への期待を担う斬新な広がりをもつべき見方だとぼくは思っている。今夜はその理由の一端を手短かに書いておく。

 パットナムが何を提起したかということは、その入口を示した試みだったとはいえ、いまなおソーシャル・キャピタル論の大前提である。だいたいこういう本だった。
 2000年に刊行された大著『孤独なボウリング』(Bowling Alone)には「米国コミュニティの崩壊と再生」というサブタイトルがついている。なぜボウリングの遊び方などが米国コミュニティの崩壊や再生と関係があるのだろうか。
これはアメリカでかつて大流行し、どの地方でもその地域のコミュニティの絆をあらわしていたはずのリーグ・ボウリングがなぜか20世紀末に向かって廃れていったのだが、その理由がコミュニティの衰退と関連があったということを証していったものだった。リーグ・ボウリングとは地域のボウリング場に地域住民が一定期間集まってチーム戦をくりかえしていくことをいう。
 このリーグ・ボウリング時代では、たとえばボウリング場で知り合ったフツーの33歳の白人が、3年にわたって腎臓移植の順番を待っていた64歳の黒人に自分の腎臓を提供するという「関係の創発」がおこっていた。それはたいてい無償の行為だった。ほかにもこういうことがいろいろあった。ところが、それがだんだんおこりにくくなったのだ。
 あげく、どういうふうになったかというと、1985年から2004年までの20年間に「重要なことを相談する相手がいない」という比率が3倍になった。
 パットナムの詳細な調査による結論からいうと、このことはアメリカ社会での「互酬性と信頼性を支えてきたソーシャル・キャピタル」の積み上げが、目に見えて薄れていったためだということになる。だから「アメリカ社会はソーシャル・キャピタルをふやすことをめざさないかぎり再生は不可能だ」というのだ。これはいっとき話題になったフランシス・フクヤマの『「信」なくば立たず』(三笠書房)と同じ結論だった。

 経済学や社会学では、市場を通さないでおこる影響や効果のことをしばしば「外部性」とよぶ。いささか乱暴な区分けだが、そのうち社会経済に好ましい影響をもたらすものを「外部経済」と名付け、社会や生活に損害をもたらすものを「外部不経済」と名付ける。
 たとえば養蜂業者のミツバチが周辺地域の花のあいだを飛びまわり、蜜とともに受粉をもたらしているのはプラスの外部経済であり、工場廃液が地域住民に公害をもたらしているのはマイナスの外部不経済である。
 外部経済にはいろいろの例がある。タイガーマスクが匿名でランドセルを子供たちに寄贈することや、東北の被災地に救援金や支援物資を贈るのは、市場を介さない行為である。その行為者の収入と支出は等価にはなっていない。ホームパーティを催すことや色紙に何かを書いて渡すことも、市場を媒介にしていない。
 しかしこれらがまったく経済的な行為ではないかといえば、そんなことはない。そこにはなんらかの社会的な経済力のスピルオーバー(波及)がある。
 以前から、経済学はこうした外部的な経済力の正体を測りかねていた。市場を介していないのにそこに生まれているかもしれない社会的経済力を、エコノミストたちは認めたがらないからだ。
 そこで、社会学者や社会観察者たちがこの手の議論にしだいに援軍を出すようになった。たとえば勇敢な構想者であったジェイン・ジェイコブズが1961年に発表した『アメリカ大都市の死と生』やその後の『都市の原理』(鹿島出版会)はそうした力強い援軍のひとつだった。ジェイコブズは都市の自治の実態を調査して、自治の本来は人々が複合的につながりあうことによって蓄積される関係資本、すなわちソーシャル・キャピタルによっていることを訴えたのである。

 その後、ソーシャル・キャピタルとネットワークの関係に光が当っていった。シカゴ大学のジェームズ・コールマンは互酬性がもたらす経済的なスピルオーバーに関心をもち、『リーディングス・ネットワーク論』(勁草書房)などによって、適当に閉じたネットワークのほうが互酬性が相互にゆきわたりやすいという実証結果を発表し、社会現象にひそむ「類は友を呼ぶ」(homophily)の意義に少し迫るものを見せた。
 ここで互酬性とは、中世イタリアのコムーネや日本の結(ゆい)や講や株仲間のような、相互扶助的な経済行為のことをいう。
 ぼくが大好きなピエール・ブルデュー(1115夜)も『再生産』(藤原書店)などで、ソーシャル・キャピタルは現実力と潜在力を同時に合わせもったリソースの力であるとみなし、これは「ネットワーク関係資本」ともいいうるとした。

 パットナムはこうした議論のなかへ、『孤独なボウリング』をもって大きな論拠を持ち出したのだ。そして、ソーシャル・キャピタルが結論的にまとめていうのなら、ずばり「信頼性」と「互酬性」と「ネットワーク性」との重なりのなかで蓄積されていくことを証明した。
 またソーシャル・キャピタルには、大きくは二つの作用特色があって、野鳥の会や異業種交流やNPOなどのように異質な者を次々に結びつけていく「ブリッジング・タイプ」(橋渡し型)と、親戚や学校の同窓生や商店会や消防団のように同系の者たちを結びつける「ボンディング・タイプ」(結束型)とに分かれうることをあきらかにした。

 パットナムのソーシャル・キャピタル論は絶大な威力を発揮した。なにしろそれまでは互酬性の正体なんて、とんとはっきりしなかったのだ。「持ちつ持たれつ」とか「おたがいさま」といった社会関係は、どうにも得体の知れない特別な社会感情の作用だとみなされてきたのである。星の王子さまさえキツネの言うことに最初はピンとこなかったのも、当然なのだ。
 ぼくの場合は機会があって、金子郁容(1125夜)らと『ボランタリー経済の誕生』(実業之日本社)などを通して、「持ちつ持たれつ」の経済的可能性がどういうものかという問題に挑んだけれど、「おたがいさま」の社会経済学なんて、当時もほとんど見向きもされなかったのである。
 しかしパットナムの論拠は勇気を与えた。そこ(信頼性・互酬性・ネットワーク性)には、リソース(資源)やキャピタル(資本)が発生し、交通しているとみなされたのだ。こうしてソーシャル・キャピタル論はビジネス界にも影響を及ぼしていった。

 シカゴ大学ビジネススクールのロナルド・パートは、ソーシャル・キャピタルがネットワーク上の「ストラクチュラル・ホール」(構造的空隙)によって関係づけられていくという仮説をたてた。
 Aの閉じたネットワークとBの閉じたネットワークとのあいだには、たいてい隙間か隔たりとしてのストラクチュラル・ホールがある。それがA、B、C、Dというネットワークグループにふえればなおさらだ。しかし、この相互のネットワーク間の空隙には、必ずやこれらをつなぐ個人や小人数グループがいる。この連中こそがソーシャル・キャピタルの潜在力の鍵を握っているのではないかという説だ。『競争の社会的構造:構造的空隙の理論』(新曜社)に詳しい。
 一方、ミシガン大学ビジネススクールのウェイン・ベーカーは、自己発見や自己能力の開発では決してオリジナル・ビジネスは保証されないという視点から、組織コンピテンシーとしてのソーシャル・キャピタルを捉え、ビジネスマンに必要なソーシャル・キャピタルは「創発的ネットワーク」こそがつくっていくというカリキュラムを仕立てた。
 ダブルロールやポリロールを積極的に引き受け、組織内の誰かを意図的に支援することで、自分にどのくらいのソーシャル・キャピタル係数が加わっていくかということを見るカリキュラムだった。
 デューク大学のナン・リンはさらに深いところへソーシャル・キャピタル論をはこんだ。ソーシャル・キャピタルはもともと「社会に埋め込まれた資源」なのだから、ここにアクセスする動員関係によってその質量が決定されていくという見方である。ソーシャル・キャピタルを「人々が何らかの行為をするためにアクセスをおこし、これを活用しようとするときの社会ネットワークの中に埋め込まれた資源」と定義したのだ。

「ストラクチュラル・ホール」
グループXとグループYの間には空隙がある

 こうしてソーシャル・キャピタルの議論はだんだん膨らんでいった。本書はソーシャル・キャピタルが及ぼす力が、①企業の経済活動、②地域社会の活力、③国民の福祉と健康、④教育の充実、⑤政策の効率、という5つの領域に及んでいるという証拠をあれこれ示している。
 たいへんに興味深い。世の中にはコスト・パフォーマンスが成立する経済とともに、BSやPLに書きこめない経済力もあるということなのである。いわば「しきる経済」が君臨しているとともに、それとはべつに「なつく経済」だってあるということなのだ。

 しかし、いまのところ「信頼」や「互酬性」を明確に計測できるインディケータは、とりあえずは統計数理研究所の5年ごとの一般社会調査などで似たものが掲示されてはいるものの、『星の王子さま』のキツネの説得力ほどには明示されてはいない。
 内閣府や日本総研や稲葉らが調査している調査も、次の12項目を調べているというのだから、かなり情けない。おぼつかない。
 ①近所つきあいの程度、②つきあっている人の数、③職場外での友人と知人の数、④親戚との親密度、⑤スポーツ・趣味・娯楽への参加状況、⑥一般的に人を信頼していると思うかの度合い、⑦近所の人々への信頼度の度合い、⑧友人・知人に対する信頼度、⑨親戚への信頼度、⑩地縁的活動への参加状況、⑪ボランティア・NPO・市民活動への参加状況。

 これではいかんのである。これでは何のためにソーシャル・キャピタルを重視してきたのか、わからない。
 ぼくはこの程度のことでソーシャル・キャピタルを計量しないほうがいいと思っている。ソーシャル・キャピタルはシンタックスではない。アクティブ・セマンティクスなのである。コンパイルされた編纂力ではなく、エディットされる編集力が重要なのだ。ソーシャル・キャピタルはつねに社会的な文脈の中におかれた編集リソースなのである。
 そうだとすれば、ソーシャル・キャピタルは、その該当ネットワークの内外に出入りする文脈上にプロットされるべきなのだ。また、そこに萌芽する物語の起承転結によって納得されるべきものなのだ。
 そんなことはムリだと思うなら、たとえば医師や弁護士や教師にともなう「信認義務」(fiduciary duty)のことを思ってみるといい。信認義務はしばしば採算を度外視してでも患者や依頼人や生徒の利益のために最善を尽くすことをいう。もしも患者が「医者は最善を尽くさない」などと思ったら、医療行為の大半は崩れてしまうのである。先生がいいかげんだと思われれば、教育なんて成立しないのだ。
 これこそは「絆の社会」の底辺である。けれども、さらに言っておかなければならないことがある。
 それは「絆」にも「なつく」にも必ず負の側面があるということだ。これまでのソーシャル・キャピタル論では、この負をなべて「ソーシャル・キャピタルを毀損するもの」と批判的に捉えてきた。ぼくは、ここが不満なのである。

 パットナム以降、ソーシャル・キャピタルを毀損するものとして格差や不平等や暴力や犯罪があげられてきた。
 なるほど、そのようなものは一時的にソーシャル・キャピタルの蓄積をがっかりさせる。できればそんなことがおこっていないほうがいい。しかしながら、いったい何が不平等で何が非正義かということは、その時代社会とともにあるわけで、ということは平等や正義の観念そのものが時代社会のソーシャル・キャピタルの中身そのものなのである。
 あえて特異な例をいえば、『楢山節考』(393夜)に見られる「姥捨て」という習慣はある種の共同体では重要な容認行為だった。村の祭祀とともにご開帳される賭場も、ある種の経済事情の解放であり、外部経済の臨時のシャッフルにもなっていた。
 これを正当な料金設定による養老施設の普及や公開オークションの実施やカジノ経営にしていったのが、その後の資本主義社会の過剰発達というものだった。それは老人ビジネスの競争やヤフー・オークションの暴走にもつながっていくばかりなのである。
 つまりは、これらの「負」は、いくら正当化をはかったところで、どこかにわだかまるものなのだ。

 実は、ソーシャル・キャピタルはそもそもにおいて「正と負の両方のフィードバック」をもっているはずなのである。
 そのような二つの価値を内在させているものをこそソーシャル・キャピタルとみなすべきなのだ。
 いやいや、この話の続きはべつのところでもしてみたい。急ぎたい諸君は、手近かなところでは荒井一博の『自由だけではなぜいけないのか』(講談社選書メチエ)や新雅史の『商店街はなぜ滅びるのか』(光文社新書)などを読まれたい。
 もうひとつ、話しておかなければならないことがある。
 それはネットワークと人のつながりはベキ乗になっているということだ。このことを除いてソーシャル・キャピタルのネットワーク性は語れない。これも急いで気にしたいというのなら、ダンカン・ワッツの『スモールワールド』(東京電機大学出版局)やアルバート=ラズロ・バラバシの『新ネットワーク思考』(NHK出版)などを読まれるといい。いつかぼくも言及する。

『ソーシャル・キャピタルの潜在力
編著者:稲葉陽二
執筆:宮川公男・吉野諒三・埴淵友哉・石田祐・堀内一史・宮田加久子・市田行信・平井寛・近藤克則
2008年9月20日 発行
発行者:黒田敏正
発行所:株式会社 日本評論社
印刷所:日本ハイコム(株)+平文社(印刷)
製本所:松岳社
装幀:神田程史

【目次情報】

新しい福祉国家への道とソーシャル・キャピタル (宮川公男)
序章 ソーシャル・キャピタルの多面性と可能性 (稲葉陽二)
第1部 ソーシャル・キャピタルを測る
 第1章 信頼の国際比較 (吉野諒三)
 第2章 ソーシャル・キャピタルと地域(埴淵友哉・市田行信・平井寛・近藤克則)

第2部 ソーシャル・キャピタルの担い手
 第3章 ソーシャル・キャピタルとコミュニティ (石田祐)
 第4章 ソーシャル・キャピタルとボランタリズム (堀内一史)

第3部 ソーシャル・キャピタルの醸成要因
 第5章 情報メディアがソーシャル・キャピタルに及ぼす影響 (宮田加久子)
 第6章 ソーシャル・キャピタルと経済格差 (稲葉陽二)

第4部 ソーシャル・キャピタルの重要性
 第7章 健康とソーシャル・キャピタル (市田行信・平井寛・近藤克則)
 第8章 定年後のソーシャル・キャピタル (稲葉陽二)

【著者情報】

稲葉陽二(いなば・ようじ)
日本大学法学部政治経済学科(日本経済論)・大学院法学研究科教授
1949年東京生まれ。京都大学経済学部卒業,スタンフォード大学経営大学院公企業管理コース修了。経営学修士(MBA)。経済開発協力機構(OECD),財団法人日本経済研究所常務理事,日本政策投資銀行設備投資研究所長などを経て現職。
著書:『「中流」が消えるアメリカ』日本経済新聞社(1996年),『日本経済と信頼の経済学』(共著)東洋経済新報社(2002年),『社会投資ファンド』(共著)有斐閣(2004年),『ソーシャル・キャピタル』財団法人社会経済生産性本部(2007年)