ジャネット・L・アブー=ルゴド
ヨーロッパ覇権以前|上・下
もうひとつの世界システム
岩波書店 2001
Janet L. Abu-Lughod
Before European Hegemony 1989
[訳]佐藤次高・斯波義信・高山博・三浦徹
編集:杉田守康 装幀:中島かほる
大航海時代に「世界」は拡大したのではない。
13世紀にこそ「世界システム」は形成されていた。
それは「アラビアン・ナイトの人々」と
「シンドバードの海」と「チンギス・ハーンの国々」と
そして「マルコ・ポーロの道」とで
相互複合的にできあがっていた。
そこに「地中海の交易商人」が交じりあっていた。
その地理中心は中東と中央アジアと
インド洋とを結ぶネットワークにあって、
そこはすこぶるアラブ・イスラームであり、
かつモンゴリアン・チャイナな
世界システムを発動しつづける活動源だった。
13世紀とは、そういう「世界史の誕生」の世紀だったのだ。
それをいまこそ「ヨーロッパ覇権以前の世界」というふうにも
断乎として呼ばなければいけない。

 この数週間で、チュニジアのジャスミン革命を筆頭に、エジプト、リビア、イエーメン、バーレーンなどのアラブ中東イスラーム社会が、次々に火を噴きはじめました。執拗で強引で小心だった大統領フスニー・ムバラクも、僅か数週間の民衆暴動の波及によって、ついに退陣を余儀なくされましたね。
 フェイスブックのせいだなどと言っているのは日本のジャーナリズムと電子オタクだけで、そこには21世紀に入ってますます怪獣リヴァイアサン化しつつあるグローバリズムのなかで、アラブ・イスラーム社会に沈殿してきた世界史的なマグマがゆっくり噴き出てきたわけなのです。
 このマグマのこと、かなり大事です。かなり深いところから胎動しています。それなのに、オイルマネーやイスラーム原理主義や9・11以降のイスラーム・テロばかりに目を奪われて、われわれは「中東」や「マグリブ」(北アフリカ)の現代史がどんな世界史のマグマを孕んできたのかを、すっかり忘れていたにすぎません。

 いまさら言うのもなんですが、チュニジア、リビア、エジプト、イェーメン、バーレーンは人口の過半数がムスリムです。
 加えて東アフリカと北アフリカと西アフリカの、アルバニア、モロッコ、モーリタニア、セネガル、ガンビア、ギニア、アルジェリア、マリ、ニジェール、ナイジェリア、チャド、スーダン、ソマリア、ジブチ、アゼルバイジャンも、イスラーム諸国です。
 これに地中海と紅海を挟んで、サウジアラビア、シリア、ヨルダン、レバノン、クウェート、オマーン、カタール、UAE(アブダビやドバイ)、トルコ、イラク、イラン、アフガニスタン、パキスタン、バングラディッシュ、ブルネイ、マレーシア、インドネシアというふうに、イスラーム圏がアラビア海・ペルシア湾・インド洋・ベンガル湾・南シナ海に向かってびっしりつながっているのです。
 いや、さらにイラン高原やパミール高原の向こうにはトルクメニスタン、ウズベキスタン、カザフスタン、キルギスタン、タジキスタンがタン・タン・スタンと広がっていて、そこはマルコ・ポーロたちが動いた内陸イスラーム圏でした。
 このうち北アフリカ(マグリブ)は8世紀の後ウマイヤ朝以来の骨太のイスラーム社会であって、すでに紹介したように今日出回っている『アラビアン・ナイト』(1400夜)は、そのエジプトのカイロでほぼ全面的な編集がされたとおぼしいのです。だからチュニジアやエジプトの動乱といっても、この巨大イスラーム・ベルトの中の出来事というべきです。
 ぼくは2006年のサッカーのワールド・カップの決勝戦で、フランス代表のジダンがイタリア代表のマテラッティに頭突きをしたとき、この大イスラーム・ベルトが何かに向かってコツンと頭突きをしたのだと直感したものです。ジダンはアルジェリア移民のムスリムの家に育っていて、一説には姉を侮辱されたので思わず試合中の頭突きに及んだというのですが、それはウンマ(イスラーム共同体)への侮辱であったはずです。もっと詳しいことを知りたかったら、内藤正典さんの『イスラムの怒り』(集英社新書)を読んでください。
 ムハンマド・アブドゥという近現代エジプトのルーツをつくった知の巨人がいます。いずれ何かの千夜千冊の中で紹介したいと思いますが、エジプトの現在を語るには欠かせないルーツ的人物です。
 このところの報道で、「ムバラクは去れ」「ムバラクを倒せ」と怒号したエジプト群衆の背後にムスリム同盟とかムスリム同胞団といった正体不明の「堅い絆」が動いていたというニュース解説があったかと思いますが、これは正体不明どころか、祖国(ワタン)と民族(カウム)と信仰(ウンマ)を一緒にすべきだというムハンマド・アブドゥの思想を下敷きにしてきたものです。
 このあたりのマグマのことも大事です。これももっと詳しく知りたいのなら、加藤博(1395夜)さんの『「イスラムVS西欧」の近代』(講談社現代新書)を読まれるといいでしょう。

 ともかくも事態はまことに明白きわまりない。ここにきて、西洋中心主義の歴史観と欧米型資本主義の経済観が「世界の解明」には必ずしも役に立たないことが、あられもなく露呈しているわけなのです。
 けれども、そのことを身をもって知るには、ひとつには、中東や南米や東アジアの劇的な変化の意想外の現実に次々に出会ってみることが必須で、もうひとつには、そもそもこのような現代史のマグマが“本来の世界史”のどこから対流をしてきたのか、それがどんな裂け目で吹き上がってきたのかを知ることが重要です。
 しかしながら、その“本来の世界史”というものが、われわれには見えなくなってしまいすぎるようです。

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『ヨーロッパ覇権以前(上)』の表紙を飾る帆船の「ダウ」。
イスラーム固有の縫合船。

 たとえば、では、では、モンゴルの疾風怒濤の歴史とはどういうものだったのか。それはどんなふうに13世紀の世界史を誕生させたのか。
 おおざっぱなことくらいは、ほかならぬ東洋人である日本のわれわれは、それを歴史の血液感覚としてもそこそこ見えていてよさそうなはずなんですが、はたしてそうなっているのかといえば、かなり心もとないのです。
 残念ながら、見えているとは言いがたい。だからこのことについては、いずれ別の機会に千夜千冊したいのですが、いまはとりあえずその前代未聞のモンゴル軍によるユーラシア制覇の10大ステップとでもいうべきを参考までにまとめておきますと、ざっと次のようになっているわけなのです。以下のこと、びっくりしないでいただきたい。

 ①13世紀初頭の1205年にチンギス・ハーンがゴビ砂漠の南の西夏王国に侵入しはじめて、1227年に西夏を滅ぼし、翌年には、モンゴル帝国の第一歩が踏み出されます。②1209年に天山のウィグル王国がチンギス・ハーンに投降し、ついで西遼(カラ・キタイ)が帰順して、ここにモンゴル帝国の激越な第一弾が発射されることになりました。
 ③チンギス・ハーンは1210年に金と断交して、翌年からは内モンゴルと華北に侵入を開始、1234年にはこれをオゴタイ・ハーンが受け継いで金を支配してしまいます。④ついで1211年、ナイマン王の息子クチュルクがカラ・キタイに亡命すると、1218年、モンゴル軍はクチュルクとともにカラ・キタイ王国を撃破し、その最前線はカザフスタン東部にまで進出します。
 ⑤一方、セルジューク・トルコが1157年に断絶すると、ここに新たにホラズム・シャー朝がおこったのですが、これを1219年にチンギス・ハーンが全軍を指揮してシル河を渡り、7年の遠征によって掌握してしまいました。これが1220年代後半のことでした。⑥そのころ、チンギス・ハーンの長男のジョチはカザフスタンを任されています。そこでオゴタイ・ハーンは1234年にジョチの次男のバトゥを総司令官としてウラル以西の諸国の征服に乗り出し、キプチャクの草原とコーカサスの諸種族をまたたくまに制覇すると、ついでは1241年にはポーランド王国に入ってポーランド軍とドイツ騎士団を粉砕していくのです。その勢いはハンガリー王国やアドリア海にまで達します。
 ⑦そのオゴタイ・ハーンが1241年に死去すると、モンゴルの大遠征軍は東経16度線で突如としてヨーロッパ進軍を中止して引き上げてしまいます。そこで総司令官バトゥは方向を転じてヴォルガ河畔、北コーカサス、ウクライナ、ルーシなどを支配して「黄金のオルド」を築きあげます。
 ⑧他方、1253年、チンギス・ハーンの孫のモンケ・ハーンは弟のフレグを西アジア方面に派遣して、バグダードを攻略させ、1258年にアッバース朝を滅ぼします。⑨フレグはさらにシリアに侵入、そのままエジプトに進軍して1260年にマムルーク朝を襲うのですが失敗、フレグはタブリーズを拠点として南アゼルバイジャン、西トルキスタン、アナトリア、コーカサスに及ぶ広大な領域を支配することにします。これがイル・ハーン国ことフレグ・ウルスです。
 ⑩かくて1276年、フビライ・ハーンが派遣したモンゴル軍は杭州を占領、ここに南宋が滅亡します。フビライは1253年に雲南のタイ人の大理王国を、1259年には韓半島の高麗王国を降伏させ、それらの中核たる中国全土をモンゴル支配による元朝に染め上げていくのです。

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モンゴル帝国の拡大

 まあ、こうしたわけで、こんなにも凄まじいことが13世紀前半にあっというまにおこっていったのでした。
 かくして、東は日本海・東シナ海から、西は黒海・ユーフラテス河・ペルシア湾にいたる東アジア・西アジア・東ヨーロッパに及ぶほぼ全域が、大モンゴル帝国の版図となったわけなのです。これをしばしば「パクス・モンゴリカ」とも言いました。
 しかしとはいえ、「パクス・モンゴリカ」のこんな粗筋だけをもって、それで13世紀のすべてが説明できるわけではありません。ここにはウマイヤ朝とアッバース朝以来のイスラーム諸国の大胆緻密な動向と、『クルアーン』と『ハーディス』にもとづいたウンマ・ネットワークの網の目とが、まことにダイナミックな多発多様なエンジンとなって形成されてもいたわけです。
 これ、まさに13世紀は、「アラビアン・ナイトの人々」と「シンドバードの海」と「チンギス・ハーンの国々」と「マルコ・ポーロの道」とで相互複合的にできあがり、そこへヴェネツィアやジェノヴァが繰り出す「地中海の交易商人」とがさまざまに交じりあっていたという、そんな構図です。
 それは甚だアラブ・イスラームで、かつモンゴリアン・アジアでモンゴリアン・チャイナな世界システムの巨大な確立だったとともに、今日の北アフリカから中東をへて西アジア・東南アジアに及ぶ大イスラーム・ベルトの“母型”でもあったのです。

 というわけで、ぼくとしてはこの「世界史の誕生」の議論にできるだけ早く入るべく焦っていたのですが、そのためには、それなりの手順がありました。
 それは、ずっと気になっていたアラブ・イスラームの歴史社会の内外を飾ってきた極め付けの古典たち、すなわち『クルアーン(コーラン)』(1398夜)、『アラビアン・ナイト』(1400夜)、イブン・ハルドゥーン『歴史序説』(1399夜)、そしてマルコ・ポーロ『東方見聞録』(1401夜)を、なんとかその前に案内しておきたかったということです。
 これがこの数夜にわたった千夜千冊の人知れぬ格闘で(笑)、それもこれらはいずれ劣らぬ“大物”ばかりなので、すっかりぼくの年末年始が吹っ飛んだものでした。手間取りもしましたね。このアラブ・イスラームな著作群を再読するには、ぼくの自慢の速読をもってして(笑)、ゆうに1、2カ月がかかることになったのです。
 ともかくも、これでなんとか先へ進めることになったのですが、さて、それでは今夜は何を言いたいかというと、これははっきりしている。「世界は地中海資本主義と大航海時代とヨーロッパの市場でつくられたのではない。すでにマルコ・ポーロが動いた13世紀に確立していた」ということです。今夜のメッセージはこの一文に尽きてます。

 今夜は7、8年前から気になっていた本書『ヨーロッパ覇権以前』を選びました。それほどの大著とはいえない程度の、けれども中味がけっこう濃い2冊組です。
 本書の内容はきわめて明快、表題通りの『ヨーロッパ覇権以前』の、その“世界”とはどういうものだったのかということにほかなりません。
 ここで覇権とは「ヘゲモニー」の訳語なのですが、これはつまりは13世紀(正確には13世紀半ば)には、世界のヘゲモニーはアラブ・イスラームで、かつモンゴリアン・アジアで、かつ中東的で東洋的なしくみが、その大半を握っていたということをあらわします。
 念のためもうひとつ言っておくと、ぼくにとっての本書はアンドレ・フランクの『リオリエント』(1394夜)とぴったり一対につながっていて、そこに岡田英弘と宮崎正勝の2冊の『世界史の誕生』ものがくっついているというふうになっています。
 本書とフランクの関係については、アブールゴド(アブー=ルゴドと表記されているがアブールゴドにさせてもらいます)の先駆的な本書が先に刊行されて、これを受けてフランクが大著『リオリエント』を著したという順になります。だから、本書を先に読んでそのあとフランクに入っていけば、さらには岡田さんと宮崎さんの本を続けて読んで、そこに望むべくはたとえば杉山正明さんたちによるモンゴル興亡史の著作群などを加えれば、もっと「新しい世界史の誕生」の舞台の全貌がよくわかるということになるでしょう。
 この全貌とはね、世界の経済社会システムはいつ、そもそもどこで、どのような準備があったのか、それがどのようにヨーロッパにおいて“盗作”ないしは“転換”されていったのかという、その全貌のことをいいます。

 本書におけるジャネット・アブールゴドの主張は、多少は慎重なところもあるものの、全体としてはアジア・ラディカルでした。
 ブローデル(1363夜)やウォーラーステイン(1364夜)が近代資本主義の基本となる「世界システム」は15世紀のヨーロッパでほぼすべて成立していたという見解に立ったのに対して、いやいや、それ以前の13世紀後半にはすべての準備がほとんど用意されていたじゃないかというものです。
 これはヨーロッパ中心主義の文明史観に強くクレームをつけたもので、まことに激しい主張です。彼女は、1250年から1350年のあいだに東地中海とインド洋を結ぶ中東に世界交易システムの新たな心臓部が確立していたということ、すなわちイスラームの経済社会の拡大期こそがその後の世界大のシステムの基本を確立していたということを、終始一貫して主張するのです。

 すぐに合点がいくことでしょうが、この「1250年から1350年のあいだ」のまさに開幕にあたる1253年にこそ、マルコ・ポーロの父ニコロと叔父マテロがコンスタンティノープルから旅立って、広大なアジア・イスラームの土地に踏み入り、ついにフビライ・ハーンの国に入ったのでした。
 さきほどもモンゴル軍の進軍として10個のステップを列挙しておきましたけれど、このマルコ・ポーロ一族の大旅行の前後には、そのような大変化が、ちょうどユーラシア全域においてきわめて重大な出来事として連続しておこっていたのです。いえ、同時期にヨーロッパ側の出来事でも看過できないことがおこっていました。
 たとえば、1250年のルイ聖王による十字軍の手痛い失敗、1258年のモンゴル帝国のフラグによるバクダードの征服とイル・ハーン国の成立、1261年のコンスタンティノープルのラテン帝国の陥落、エジプトに1250年から60年のあいだのマムルーク朝の樹立などなど……。これらが続けざまにおこっていたのです。こういうこと、それぞれ世界史的にゼッタイに見逃せないことですね。
 それでふと思うのは、日本の高校の世界史で「1215年、マグナ・カルタ制定」「1241年、ハンザ同盟成立」「1309年、教皇のバビロン捕囚」などをおぼえさせるなら、チンギス・ハーンの即位やイル・ハーン国の成立やマムルーク朝の樹立を学習させたほうが、もっというならイタロ・カルヴィーノ(923夜)ではないけれど、マルコ・ポーロとフビライ・ハーンの話をしたほうが、ずっといいということです。
 歴史の目を中東や東方に移すのは、いまや焦眉の課題であるはずで、それでなくとも大統領ムバラクが退陣したエジプトを筆頭に、アラブ・イスラーム世界は時々刻々と現代世界史を変えつつあるわけなのですからね。

 では、本書のアウトラインを少々ながら眺めておきたいと思いますが、あらためてアブールゴドが一番言いたかったことは何かといえば、世界交易システムの新たな心臓部は「東地中海とインド洋を結ぶ中東にこそあった」「それはイスラーム社会とモンゴル社会と地中海社会のあいだにあった」ということです。
 これは、たんなるユーラシアの勢力地図がそうなっていたということではありません。経済社会が「世界システム」のレベルに達していたということなのです。つまり13世紀後半に、あらかた次のようなことがおこっていたということなのです。
 ①貨幣と信用取引のしくみがだいたい発明されていた、②資本蓄積とリスク分散のメカニズムがほぼ確立していた、③富についての大半の集積方法がおおむね用意されていた。
 もしもこの通りなら、これは世界の経済史を総覧しようと思う者にとってまさに驚くべきことでしょう。しかし、その驚くべきことが実際の歴史の中でおこっていたのです。アブールゴトはこのことが決して誇張や贔屓目ではないことを、これまでのヨーロッパ史観では見えていなかったことを通して執拗に立証しています。
 このことを理解するには、いろいろ方法はありますが、まずは、大きく13世紀のユーラシア全域がどのようになっていたかということを“鳥の目”で俯瞰しておく必要があるかもしれません。いや、それがわかれば大半が了解できると思います。

 当時の「世界」は、(A)西ヨーロッパ、(B)中東、(C)東方アジアという3システムに大別できるものになっていました。それらに2つか3つのサブシステムがそれぞれダイナミックに内属して、独特の外向けの回路を形成しつつありました。
 (A)の西ヨーロッパには、3つのサブシステム回路があります。①東フランス・中央フランス、②フランドル地方の織物生産地帯、③ジェノヴァとヴェネツィア、です。
 ①のフランス回路では、トロワ、プロヴァンス、バール、ラニイなどがシャンパーニュの大市などを形成していきました。②のフランドル回路の中心になったのは、商業面と金融面でのブリュージュと、工業面でのヘントです。③のジェノヴァとヴェネツィアの回路では、ジェノヴァがコンパーニャなどの商業的自治組織でムスリム諸国と争って西洋的な動力源になっていたのに対して、ヴェネツィアはコンスタンティノープルの庇護をいかした東洋寄りの商業都市国家になっていて、だからこそここからマルコ・ポーロ一族が東への旅を意図できたのでした。
 (B)の中東には3つのサブシステム回路が動いています。①黒海沿岸では、コンスタンティノープルがセンター機能をもちました。②パレスティナ海岸地帯では、ここに十字軍活動が加わって、内陸路によるバクダード回路と北東に進む中央アジアの隊商を包みこむ回路が発動します。③ペルシア湾とインド洋を媒介にした回路では、ここにはホルムズやシーラーフなどの交易拠点が含まれて、大量の商人が入り乱れます。
 (C)東方アジアにも3つのサブシステム回路が躍動しています。①アラブ世界と西インドを結びつける回路、②南東インドとマラッカ海峡を結ぶ回路、③マラッカ海峡と中国の東端を結ぶ回路、です。
 これらのうち、最近のぼくにとって重要なのは(C)の東方アジア・システムなのですが、マルコ・ポーロ的にいうならこれは、(A)の③回路のヴェネツィアを発して、(B)の①コンスタンティノープルを介し、さらに②バクダード回路、③インド洋のホルムズ回路をへて、すべての流れが(C)に至ったというふうになるわけです。

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13世紀世界システムの8つのサブシステムのおおまかな「形」
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 そこで、以上の俯瞰された(A)(B)(C)の13世紀世界システムを、今度はマルコ・ポーロふうに西から東へ向かうルートで表示してみると、そこには、(a)北方ルート(コンスタンティノープルから中央アジアの陸路を横切るルート)、(b)中央ルート(地中海とインド洋をバクダード・バスラ・ペルシア湾を経由して結ぶルート)、(c)南方ルート(アレクサンドリア・カイロ・紅海をアラビア海とインド洋のほうに結ぶルート)、という3つのルートが浮かび上がってくるのです。
 これが当時の「東方幻想」を満喫させるルートでした。修道士カルピニやマルコの一族たちも、まさにこの「東方幻想」ルートにかきたてられていたわけですね。そしてここにこそ“本来の世界史”が13世紀に誕生していった背骨が如実に見えてくるのです。

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オリエントへの3つのルート。
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 13世紀の(a)北方ルートを仕切っているのはモンゴル帝国ですが、そこには前史もありました。
 すでにアッティラ麾下のフン族がローマ帝国崩壊直後に内陸ルートをドイツ地域にまで進出していたのですし、ついでは、トルコ系の民族であるセルジューク族が西に向かい、12世紀までにはイラク全土と肥沃な三日月地帯とエジプトにいくつものルートをつくっていたわけです。また、別のトルコ系のホラズム・シャー朝はトランスオクシアナ(中央アジアのオクサス川以東のオアシス地帯)を押さえていました。
 このような前史に対して、さきほど10のモンゴリアン・ステップに紹介したような、モンゴル軍の未曾有のユーラシア撃破が連打されたわけなのです。とくに1225年までに、チンギス・ハーンのモンゴル軍先鋒隊がホラズム・シャー朝を破り、ハンガリーにまで進攻していったことが大きかったことは、さきほども案内した通りです。
 しかし、ここでチンギス・ハーンはなぜかくるりとヨーロッパに背を向けたのですね。これは世界史上のグランドシナリオにとってきわめて大きな“方針変更”なのですが、ここではその点には立ち入らないことにします。チンギス・ハーンにとって、ヨーロッパは魅力のある征服対象ではなかったということだけを強調しておきます。
 ともかくもこうしてモンゴル帝国はヨーロッパを捨てて、戦線を東に大きく切り返し、今度は中国に向かったのです。その1227年に、チンギス・ハーンはその途次で病没しました。けれども、このことがまわりまわって、13世紀ユーラシアにモンゴル型の(a)北方ルートを確立させたということ、いくら強調しても強調しすぎることにはなりません。

 ついでに言っておきますと、チンギス・ハーンの死後、世界制覇の野望は4人の息子たちに委ねられました。
 ジョチとバトゥはロシアと東ヨーロッパを、チャガタイはペルシアとイラクの全イスラーム地域を、トルイにはモンゴルの本土が任せられ、それらすべてをオゴタイ・ハーンが統率しました。
 その後、そのオゴタイが死に、モンケが継いだのち、モンケの兄弟であるフレグが1258年にバクダードを征服して、そこにフレグ・ウルス(イル・ハーン国)を創設し、もう一人のモンケの兄弟のフビライが中国北部を任されて元朝(大元ウルス)を確立したのですが、このバクダードと元の上都・大都こそは、マルコの一族が東へ東へ向かったルートと目的地になったわけです。

 さて、(b)の中央ルートのほうは、シリア・パレスティナの地中海沿岸部に始まり、メソポタミア平野を通ってバクダードに入り、そこで陸路と海路に分かれます。
 陸路というのはペルシアからタブリーズに至り、そこから二つに分岐して、南東へは北インドに向かい、東にはサマルカンドから西域をへて中国に進路をとるというふうになるルートです。海路のほうはティグリス川に沿ってペルシア湾に下り、バスラの港からオマーン・シーラーフ・ホルムズ・キーシュというふうに進んだ。大量の商品が運ばれたのはこの海路のルートです。
 (c)の南方ルートは、カイロと紅海とインド洋を結ぶルートのことですが、これは1250~60年のエジプトに出現したマムルーク朝の影響がすこぶる大きいといえます。
 もともとこのエジプト地域はアラブ・イスラーム史としてはさきほども述べたように、後ウマイヤ朝(756〜1031)やファティーマ朝(909~1171)がいたところで、そこが十字軍に攻められると、それを12世紀のクルド軍がサラディンのもとで撃退したことによってアイユーブ朝(1169~1250)となるのですが、そのアイユーブ朝がさらにエジプトの国土を実質的に守ってきた奴隷軍人たちによってマムルーク朝(奴隷王朝)に切り替わったことで、新たな世界史の躍り場になった地域なのです。
 それゆえこの南方ルートは、その中心のカイロが「世界の母」とよばれてカリフ制を再興したこと、ついでは初代のスルタンになったバイギルスが1260年にシリア・パレスティナを制圧したこと、さらには後続の十字軍を撃退しつづけたこと、これらの流れの出現がつくりだした新規ルートなのです。いわば十字軍とモンゴル帝国の挟撃によって出現したルートです。

 以上、13世紀世界は3つの(A)(B)(C)システムと、8つか9つのサブシステムをもつ回路の相互複合的な組み合わせによって説明できると、アブールゴドは見たわけです。
 ここでは省略しますが、彼女は交易品や宿駅での光景などの具体的なエビデンスもいろいろ挿入して、詳しい説明をしています。
 こうして本書も後半にさしかかって、「シンドバードの海」と「モンゴルの道」に分け入り、いよいよ「インドと中国が呼応しながらつくりあげた13世紀東方世界」の牙城に向かっていくのです。
 「シンドバードの海」とは、いうまでもなくまさにアラビアン・ナイトな広大な領域のことです。ここでは、かつての古代ペルシアの商圏がどのようにアラブ化され、イスラーム化されていったかということが証かされます。「モンゴルの道」のほうは13世紀においては、それこそぴったりマルコ・ポーロの東方への旅に重なっているので、もはや説明することもないでしょう。

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インド洋交易の3つの回路

 こうして最後に注目されるのが、紅海・ペルシア湾・アラビア海・ベンガル湾・南シナ海をまたいで形成された「インド洋交易圏」と、フビライ・ハーンの中国支配によって頂点に達した「モンゴリアン・チャイナ交易圏」です。
 「インド洋交易圏」を制したのは、当然ながらアラブ・イスラーム商人です。かれらは西側の海路では紅海・アラビア半島・ペルシア湾岸・インド西南を交易し、中央の海路ではインド東南・マラッカ海峡・ジャワを動きまわり、東端の海路ではそのマラッカ海峡からスンダ海峡・東インド諸島をへて、ついには中国華南をめざしました。
 こうした実情をアブールゴドは、15世紀に書かれたイブン・マジードの航海記などを克明に調べて再生させています。
 ちなみに、この商人たちは単独者たちなどではありません。それぞれが独自の商人組織をつくりあげていた。かれらは必ずしも共通の言語や共通の通貨で取引していたわけではないのですが、それでもアラビア語はギリシア語や口語ラテン語と同様にかなり広い地域で用いられていたし、北京語はすでに東方アジア諸国の共通語になっていました。
 通貨はヨーロッパでは銀が価値をもち、中東では金がそれにあたり、中国ではそのころは銅貨が好まれていたけれど、そういうことはこのアラブ・イスラーム商人たちの何の支障にもなりません。どんどん両替をすればすむからです。ようするに、かれらは資本主義の先駆者で、かつ非ヨーロッパ的な主役たちだったのです。
 ちなみにアラブ・イスラーム商人の前身の、そのまた前身はなんとシュメール人です。知っていましたか。そこには商業民族の歴史がありました。それがササン朝ペルシア期で「銀行・小切手・為替手形」の原型を生み、これをイスラーム商人がコンメンダによる契約商業に発展させていったのです。
 この契約商業はシャリカ・アルミルク(所有権上の協業)とシャリカ・アルアクド(契約による商業上の協業)によって発展したもので、労働すら投資行為とみなされます。このあたりのことは、いずれ櫻井秀子さんの『イスラム金融』(新評論)という本をとりあげて説明するつもりですが、つまりは、こういうところにもヨーロッパ的な契約とはまったく異なる“世界史”が登場していたということ、念を押しておきます。

 ヨーロッパとアジアを結びつけた地理中心は、中東と中央アジアとインド洋でした。なかでもインド亜大陸が、すべてのユーラシアの動きの波動力となりました。
 南インドは大半の航海者が出会うところです。西海岸にはアフリカやメソポタミアから来た船が着岸し、東海岸には中国・インドネシア・マレーシア・タイなどの船が西に向かうために寄港するところです。西側がマラバール、東側がコロマンデルですね。
 マラバールの中心はカリカットやゴアですが、その背後に発達したのがグジャラートやシンド(今のパキスタン)でした。コロマンデルのインド商人はもっぱら東に向かって活動します。
 インド亜大陸に次ぐのは東南アジアと、その海です。そもそも東南アジアは10世紀と11世紀に、南インドのチョーラ朝、クメールのアンコール朝、ビルマのパガン朝、北ベトナムの黎朝、中国本土の宋朝などの新たな動向によって勃興していったところで、海に向かってはいわゆる「都市の多島海」を形成します。
 そこからしだいに中核的な“海のブリッジ”となっていったのがマラッカでした。今のマレーシアにあたりますが、1511年にポルトガルの征服者カブラル艦長の一行がイスラーム商人の船舶を襲撃して捕縛するまで、ずっと東西の要衝をつなぐ“海のブリッジ”としてのマラッカ海峡を守護しつづけました。スンダ海峡とともに、ここに最も広域の東西のルートをつなぐ最も狭い海峡が位置していたのです。

 さて、どんじりの中国ですが、もともと中国の人口分布の重心は6世紀までは内陸部にあって、外国交易もシルクロードを中心とする内陸交易中心でした。
 それがローマ帝国の没落とともに、人口重心が南方に移動して、それにともない海洋交易が活発化します。それとともに12世紀末には人口が一気に7300万人に達します。それから1世紀後の、つまりフビライ・ハーンの時代には、全人口の80パーセントが中国南方に居住したのです。
 これは今日の北京型の中国からは想像がつかないことですが、この南がかった中国こそ、13世紀世界システムに大きく寄与したのでした。マルコ・ポーロは北の中国を「カタイ」と呼び、南の中国を「マンジ」と呼んでいます。
 その南のマンジの蠢動を体現したのは、広東・泉州・杭州です。マルコ・ポーロの時代でいうと、広東はカントン、泉州はザイトゥン、杭州はキンサイですね。とてもエキゾチックです。これらの港町の繁栄は1368年の元の滅亡後も続きます。
 もっともアブールゴドは、どうも中国についてはあまり冴えた分析をしていません。のちに『リオリエント』のアンドレ・フランクからそこを批判されたものでした。

 ごくごくおおまかな紹介をしたにすぎませんが、それでもざっとは、13世紀の世界システムは以上のような地理と勢力とネットワークをもって形成されたこと、伝わっただろうと思います。
 ともかくもここまでのこと、“新たな世界史の誕生”としてそのアウトラインだけでも十分に理解する必要があります。
 ところが、ところがそれらの大半が、15世紀にはヨーロッパによってしだいに分捕られていったわけなのです。そこでは、東方寄りのヴェネツィアよりも大西洋寄りのジェノヴァが活躍し、そのジェノヴァにコロンブスが登場しました。またポルトガルが「旧世界」を乗っ取り、スペインが「新世界」を合併したことが、13世紀世界システムに変容を生じさせのでした。
 いったいなぜそのようになったのか。このことについては、本書には述べられていません。この問題に入るには、いったんアラブ・イスラーム社会の歴史を離れ、ヨーロッパとイスラームの相克の歴史を、とりわけてはモンゴル帝国の動向とオスマン・トルコ帝国の動向などを通して検討する必要があります。でも、それはまだ先のこと、ぼくはまだしばらくアラブ・イスラームにこだわっていきたいと思っています。

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