アーサー・C・クラーク
地球幼年期の終わり
創元SF文庫 1969
ISBN:4488611028
Arthur C. Clarke
Childhood's end

 この話には参った。
 スタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』を京橋のテアトル東京のバカでかいスクリーンで見た年に翻訳が出たのだが、続けて脳天を何かで打ちのめされたようなおもいだった。1969年の冬である。
 そのころのぼくは、まりの・るうにいと三宿の三徳荘に入ったばかりのときで、いま振り返るとこれまでの生涯ではいちばん貧乏な時期にあたっていた。夏は胡麻とソーメン、冬は味噌汁とイナリズシで過ごしたようなもの、部屋にはテレビも炊飯器も洗濯機も、机すらなかったので卓袱台を代用した。ベッドもなく、戸板をはずしてその上に布団をおいていた。そこにリスが一匹と、武田泰淳家からやってきた牡猫がいた。ポオという名をつけた。
 ただひたすら本だけを読んでいる日々で、それでも、冴えに冴えていたと思えるのは、何を読んでもその読書体験を自分でも驚くほど結晶格子のごとく組み立てられていたからだ。
 なぜそんなことをしたのかははっきりしないのだが、読みおわるとその本を自分で好きに装丁していった。なんというのか、一冊の本を自分なりの"立体"や"編集デザイン物"として捉えたかったのかとおもう。いっぱいのノートもつくっていた。小室等、加納典明、佐藤允彦、のちに井上陽水となったアンドレ・カンドレ、黒田征太郎、小島武、別役実らが入れ替わり立ち代わりやってきて、このボロ・アパートには異常なほどの本の量に驚いていた。
 そういうなかでの『地球幼年期の終わり』だったのだが、読みはじめて15分もたったころからだったか、何かがピンときて、物語の進行よりもなお速くアーサー・C・クラークに代わって物語を組み立てはじめていた。
 これは、ぼくが絶好調のときによくやる「先行読書法」とでもいうべきもので、著者とスピード競争をするような読み方である。筋を先取りするのではない。一冊の本に投下された心性の動向のようなものを先に読む。ところが、これが次々に裏切られた。完敗だったのだ。

 なぜ、完敗したのか。
 サウナに入って汗を全部出したようなものだったから気分は爽快ではあったけれど、その理由をちょっと考えた憶えがある。どうやらアーサー・C・クラークが考えている「心性の大きさ」とでもいったものが、ぼくよりはるかに大きかったのである。
 それに加えて、その「心性の大きさ」をキューブリックが漆黒のモノリスを出したように(それも原作者クラークのアイディアだったかもしれないが)、クラークは『地球幼年期の終わり』でもそれを「形」にし、かつ「発信源」にしていた。この、「心性のルーツを形をもった発信源にする」という見方が、当時のぼくにはまったく予想がつかなかったのである。

 もっともSF作品としてはアーサー・C・クラークはこれ一作で充分で、のちに読んだ『2001年宇宙の旅』をノベライズした作品など、たいしておもしろくなかった。日本のマスメディアや文化プロジェクトの企画者たちはなぜかアーサー・C・クラークが大好きで、しばしば近未来社会の予想を占うテレビ番組のコメンテーターなどに登場するのだが、これもほとんどつまらない。良識的なのだ。
 しかし、『地球幼年期の終わり』は別だった。
 おそらくは20世紀のSFベストテンに残るだろうし、場合によっては現代文学や現代人間学の主題として語り継がれるものをもっている。地球人の全体に勝る「オーバーマインド」(主上心)というものを、かつての神ではない別の「ありうる可能性」によって大胆に提示してみせたからである。
 あるとき、ニューヨークの上空5万メートルのところに巨大な銀色の円盤が覆ったまま動かなくなった。いいかげん地球上の衝突や功利をやめないかぎり、ここを動かないという態度である。
 やがてその円盤の総督らしき人物(カレレンという名前になっている)が、全無線周波数帯を通じて演説をした。みごとな人工音声による英語の演説で、しかも圧倒的な知力を駆使したもので、カレレン総督の演説がおわると、地上のめいめい勝手な主張などが通用する時代に一挙に幕がおりたことが明白になった。それよりもなによりも、地上のすべての決定力よりも、この知的円盤体がくだす指導や決定のほうが、あきらかに地球全体の知恵を足し算したものよりも秀れたものであることが了解されてしまった。
 むろん国家によっては、この得体のしれぬ"超存在"に抵抗したところもあった。が、ミサイルを打ちこんだところで何もおこらない。びくともしないばかりか、何の報復もない。ミサイルを打ちこんだ国では報復を恐れた陣営とさらにミサイルを打ちこんだ陣営とのあいだに対立がおこり、そのうち両陣営は知的円盤が上空に存在するというただそれだけの圧力の前に、瓦解してしまった。
 また、こういうことも次々におこっていった。たとえば南アフリカでは人種差別が甚だしかったのだが、総督はそのアパルトヘイト政策を何月何日までにやめなさいと警告し、それでもその日まで南ア政府が何もしないでいると、太陽がケープタウンで子午線を通過する前後30分のあいだ、太陽を消してしまったのである。

 このためその影響を被った地域では輻射エネルギーを失って、どうしようもなくなった。翌日、南ア政府は人種差別の撤廃を発表せざるをえなくなっていた。
 やがて世界は一見、ふつうの日々に戻った。ただし、それから5年にわたって知的円盤だけが上空にいつづけた。あるときはロンドン上空に、あるときはモスクワ上空に、あるときは東京上空に、あるときはマドリッド上空に。たったそれだけのことなのに、地球上のすべての意識の機能はすっかり変わっていったのだ。
 クラークは、この知的円盤の正体に「オーバロード」(上主)という名を与えている。上主様である。上主様は地球中を世界市民化することを促しているらしい。

 これに対して、最高異常事態を迎えた地球側を代表するのは国連事務総長のストルムグレンや総長代行のライバーグである。そのほか何人もの登場人物が出てくるが、人間の側におこることはつねにドストエフスキーやバルザックや新聞報道がやりつくしてきた人間の矛盾の発露というもので、これらはどうみてもオーバーロードが提供する知能を越えられない。
 クラークはそれを「オーバーマインド」(翻訳では主上心)と名付けている。
 やがて、意外なことがおこる。総督たちがそれまでひたすら隠してきた姿を見せたのである。なんとその姿は翼と角と尾をもった悪魔そのものだった。しかし、もっと意外ことがおこる。地球の人間たちはこの不愉快きわまりないオーバーロードたちの姿に、言い知れぬ親しみをもちはじめたのだ(この、宇宙人が悪魔に似ていること、その悪魔のような姿に人間や子供たちが親しんでいくという発想は、その後のすべてのET映画の原型になった)。

 こうして、地球には国家がムダになり、犯罪や殺人がむなしいものとなり、教育はすっかりさまがわりして、大学を予定通り出ていく者などなくなった。何度でも大学に戻ってくるのである。さらに重要な変化もおこった。一切の宗教が力をなくし、ほとんど無用になっていったのだ。わずかに生き残ったのはアジアの一部の地域の仏教だけだったという(これはクラークの宗教観をかいまみせるもので、ほほえましい)。
 こうしてどうなったのか。
 オーバーロードたちと地球人の釣り合いがとれない共生が始まったのだ。そして数十年が過ぎていく。
 この先、どんな展開が待っているかは書かないことにするが、クラークは途中でさまざまなヒントを出している。
 たとえば、この事態はヨナが人間を呑みこんだ例の物語に似ているのではないかといったふうに。また、これは総督の最後の演説にも含まれているメッセージでもあるのだが、地球人はその多くがテレパシー癌とでもいうべきに罹っていて、それは「精神そのものが
悪性腫瘍になっている状態」にあるせいではないのだろうかというふうに。
 さっきも書いたように、ぼくはこのヒントを読みそこなったわけである。なぜ読みそこなったかというと、いろいろ理由が考えられるのだが、決定的だったのは、おそらくそのころのぼくに「地球は何かに促されている」という感覚が欠けていたせいだとおもう。
 しかしそれは当時のこと、それからしばらくすると、ぼくもまたジュール・ラフォルグや稲垣足穂やアーサー・C・クラークとともに、「ぼくは地球にネクタイを取り替えにやってきた」と言えるようになっていた。『遊』をつくろうとおもったのは、それから半年後のことだった。

コメントは受け付けていません。