ブライアン・W・オールディス
地球の長い午後
早川書房 1977
ISBN:4150102244
Brian W Aldiss
Hothouse 1962
[訳]伊藤典夫

 伊藤典夫の訳業でずいぶん充実した読書三昧がおくれた。とても感謝している。本書もそのひとつだ。原題が『温室』となっているように、たくさんの奇妙な植物が出てくる。その名前の翻訳だけでもたいへんな仕事になったろう。ぼくもレオ・レオーニの『平行植物』(工作舎)のエディトリアル・ディレクターをしたときに、幻想植物名の翻訳で大騒動にまきこまれた。苦労はよくわかる。
 原題『温室』を邦題『地球の長い午後』としたのは悪くなかった。温室とは地球のことで、その地球の午後の曳航の物語なのである。この和訳はSFらしくもオールディスらしくもあって、心に残る。最近は直訳ばかりが小説にも映画にもポップスにも目立つのだが、できれば和訳の妙味を発揮してもらいたい。きっと伊藤典夫のような達人が少なくなってしまったのだろう。

 本書はべつの意味でも、ぼくの青年期の読書三昧を変えた一冊だ。ほかにJ・G・バラードとイタロ・カルヴィーノとレイ・ブラッドベリにもお世話になったけれど、オールディスにも感謝しなければならない。
 何を変えてくれたかというと、地球の見方と植物の力の見方を教えてくれた。これはたとえばアンリ・ファーブルが昆虫の見方を、ピョートル・クロポトキンが野生の動物たちの協同生活の見方を、ジェームズ・ラヴロックが気候や大気の見方を教えたことに似て、べつだん科学的に正しい見方だけではない感知や認識のしかたが地球や植物にもあっていいという、そういう勇気の提出だった。
 むろんこの作品はSFであって、文字どおりの空想科学小説なのだが、それでも多くの者たちは科学への関心をこうしたSFで鍛えてきたものだった。ぼくがよく知っている例では武満徹と奈良原一高の知性の多くはSF仕込みだったはずである。それでいいのではないか。ケプラーもニュートンも、ラボアジェもドルトンもラマルクもヘッケルも、寺田寅彦も岡潔も、ガモフやホーキングさえもまさにSFのなかにいた科学者たちだったのであり、もっと本当のところをいえば、どんな科学もSF的なるものから芽生えていったのである。
 それでも、SFは科学とはまったくのべつものでもある。この魅力は科学では味わいがたく、またその味わいがたいものがないと、SFの名作とはいいがたい。オールディスの『地球の長い午後』はそういう意味でも堪能の一冊だった。宮崎駿がこれをヒントに《風の谷のナウシカ》を構想したことでも、よく知られている。
 
 太陽が変質して重力異常がおきたのである。そのため地球の自転がゆっくりとなり、やがて停まってしまった。昼と夜がなくなって、地球の背中は闇となり、太陽に向いた正面にはいっぱいの光エネルギーが照射されることになった。光合成をほしいままにした巨大な植物が繁茂した。動物や人体はサイズが縮み、植物たちのなかには食肉化を拡張するもの、別の生物体に寄生するもの、互いに殺しあうものが出た。
 そもそも植物は重力の軛を守ってきた生物である。千年杉がいかに天空に聳えようとも、山より高くなることはない。重力の域の裡の出来事であるからだ。けれども少しでも重力の呪縛が緩んだらどうなるか。紫外線を浴びすぎた動物はおかしくなってくるだろうけれど、もともと天空に向かって成長することを大半の使命としてきた樹木たちは一挙にその軛を破ってしまうにちがいない。そのような巨木に覆われた地球はどうなるか。巨木は地球と月とのあいだの重力空間すら突き破っていく。植物は地球と月とのあいだの空間を網目のようにつなげてしまう。そうなったら、この空間の網目は新たな「土地」なのか、それとも「超国家」なのか、それとも「生命情報系の交通網」なのか。
 そんな“温室”の中でいったい人類がどうなっていくかは想像もつかないことだが、オールディスが描くのはそこからの異常な物語なのである。
 人類は五分の一ほど小さくなって、肌がしだいに緑色になり、知能が退化して、狂気のように繁茂する植物群のなかで女長をリーダーにした小さな群れを営むようになってしまったのである(のちにジェームズ・キャメロンが《アバター》で借用したイメージだ)。

 オールディスは、なぜ人類の知恵が退嬰したのか、その理由をあげている。もともと知能は人類が独自に育んだものではなかったというのだ。
 人類の祖先の祖先がメガネザル時代に樹上で群生していたとき、ある種のキノコが原生猿の一部に寄生し、そのキノコのもっている「知能の胞子」のようなものが、サル族からヒトザルをへて人類に移行するあいだに、脳のしくみに沿った情報知性になった。そう、説明するのだ。
 その「知能の胞子」をもったキノコのほうはどうなったかというと、暗がりを好んで地表や地中を這うように生きていた。ただしこのキノコは紫外線に弱かった。そのためわずかにアミガサダケだけがこの難を逃れ、いま重力異常に見舞われた地球の“長い午後”のなかで縮退した人類の知能として急成長することになったらしい。
 それで、何がどうなったのか。べつに意地悪をするわけではないけれど、このあとの顚末は紹介しないことにする。そのかわり、この作品を読んだことによってぼくのイマジネーションのどこかに芽生えた発想がどういうものになっていったのか、そのことについて少しふれる。
 
 単刀直入にいうと、超未来のSFを示したオールディスによって、シュメールの叙事詩ギルガメッシュや北欧のオーディンの物語やスサノオの出来事を想像した古代人の想像力がよく見えてきたのである。またたとえばジョン・キーツの『エンディミオン』(岩波文庫)、宮崎駿の『風の谷のナウシカ』(徳間書店)、安彦良和の『ナムジ』(中央公論社)がただちに了解できたのだ。
 逆のことを言ったほうがいいだろうか。暴風雨や落雷や氷河の倒壊を鎮めるために古代中世の人間が何を考えたのか、よくよくわかるのだ。ジェームズ・フレイザーの『金枝篇』(ちくま学芸文庫)や白川静の『中国古代の民俗』(講談社学術文庫)がよくわかるのだ。古代中世だけではない。イスラム社会で宗教生活をおくり、オーストラリアで岩に住む者たちの気持ちもわかる。
 もっとわかりやすくいえば、これはオールディスのおかげだけではなく、バラードやブラッドベリやカルヴィーノのおかげでもあるのだが、本来のファンタジーというものの古代中世的な起源が見えたのだ。そうなると、ちょっと乱暴に苛酷なことをいえば、三島由紀夫の『美しい星』(新潮文庫)や松本零士の『銀河鉄道999』(少年画報社)やハリウッド製SFXによるハルマゲドン幻想が、たいそうつまらないのだ。

 いやいや、もうちょっと基本的なことを言っておこう。
 すぐれたSF的想像力は、ゲーテの「原植物」という見方、ラマルクの「プラスチック・フォース」(形成力)という見方、フォン・ユクスキュルの「環境から見た生物」という見方、ヤニス・クセナキスの数学と音楽と建築を同時に見る見方にあらわれるもので、そのためこういった見方に徹してみようかという気にさせてくれるのだ。ときにSFはこうした「生︲情報系」の来し方行く末についての展望をもたらしてくれる。オラフ・ステープルドンやアーサー・C・クラークを読んだときも、同様の展望がおとずれた。
 われわれは、こういうことが用意周到なSFによってもたらされているということを隠しすぎていたような気がする。それはロックやポップスのすばらしい一曲を聞いただけで何かが急にはっきりしたことを、ちゃんと思想や方法の問題にしてこなかったことにもあてはまる。「ユーレカ!」というものは、案外、マーク・ボランや手塚治虫やアンドレイ・タルコフスキーや井上陽水によってもたらされてきたのであって、哲学書や文芸作品や大学の授業によるものばかりではなかったのだ。そんな気がする。
 しかし、そんな気がするだけではまずいだろう。用意周到なSFはどうして「深い遡行」や「遠い展望」を可能にできたのか、そこを擁護するべきだ。オールディスのばあいは、それを植物力によってあらわした。

 われわれには過去・現在・未来にまつわる三つのディープ・ツイストがある。ぼくはそう思っている。そのことはポール・ゴーギャンが《われわれはどこから来たのか、われわれは何者か、われわれはどこへ行くのか》をもって一幅の絵にした。仏教は阿弥陀如来(過去仏)・釈迦如来(現在仏)・弥勒菩薩(未来仏)という三尊としてあらわし、シェイクスピアは『ハムレット』で「われらはいかにあるかを知るも、われらはいかになるかを知らず」と語らせた。
 われわれはいつだって歴史的現在にいるのだが、この現在点から過去に遡るも未来に向かうも、そこに蟠るディープ・ツイストが複雑で途方もないため、ついついゴーギャンの絵や仏像三尊を前にして溜息をつく。しかし、考えてみればわれわれ自身の中に過去も現在も未来もまじっているわけである。そのためわれわれはたえず「たくさんの私」の交錯にいて、発熱したり失業したり出産に立ち会ったりするたび、ふいに三世にわたるディープ・ツイストに思いをめぐらしもするわけだ。それは誰もが味わうSF的想像力というものだろう。
 このことに気付き、SFそのものも切実なディープ・ツイストを描くべきだと確信したのが、バラードやオールディスのニューウェーブSFだった。こうしてバラードは「現在に到来した時の声」によるツイストを相手にし、オールディスは「過去を覆す時の身」をツイストさせたのである。
 
 オールディスが植物力をもって応えようとしたのは、さすがだった。植物こそはこの地球に生︲情報系の最初の逆上をもたらした。光合成こそ地球に生物進化と生物多様性を駆動させたオーガニック・エンジンだったのだ。けれども、そういう植物に、われわれは「意識の起源」など求めなかったし(仏教徒やゲーテやラマルクや芭蕉を除いて)、まして「時の身の未来」の担い手であろうことなど、想定してこなかったのだ。オールディスはそこに挑んだ。
 オールディスには『十億年の宴』(東京創元社)というSF全史がある。SFをワイドスクリーン・バロックの試みとして捉えたユニークなSF史記であるが、そこでオールディスはSFの起源がメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』にあるとした。『地球の長い午後』はそのフランケンシュタインを植物力の裡に蘇らせたのだった。
 それにしても、次のことをおもうと、いまもなお胸が急に縮んでしまうときがある。それは、われわれは「地球の長い午後」のあとの夕暮れや夜半というものを、知らないままにいてもいいのだろうかということだ。

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