才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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ウイルス・プラネット

カール・ジンマー

飛鳥新社 2013

Carl Zimmer
A Planet of Viruses 2011
[訳]今西康子
編集:矢島和郎
装幀:寄藤文平・吉田孝宏

ウイルスが生きものなのか非生物なのかという決着がついていないということそのことが、平時の社会思想としてもとびきり重大なのに、そうは思われていないところが問題なのである。

 新型コロナウイルスに世界中が揺れている。見えない動揺もかなり広がっていて、それがトップダウンの動揺であることが由々しい。東京オリンピックやパラリンピックはIOCの鶴の一声で延期された。
 新しいウイルスは去年の暮、中国湖北省の武漢の食肉魚介市場でなんらかの動物感染源によって発現し(当初はアルマジロやセンザンコウが噂にのぼった)、またたくまに中国国内とアジアに拡まり、以降はヨーロッパに飛び火し、いまはアメリカをも危険に陥(おとしい)れている。
 とめどもない勢いであるが、すべてがインビジブルなのである。しかし、インビジブルで価格がついてないまま拡張浸透していくものは、世の中にいくらでもある。イルカの遊泳、菌類の増殖、バッタの移動、渡り鳥、昔話、流行語、インフルエンザ、みんなそうだ。
 これを綴っている2週間ほど前、WHOは新型コロナウイルスによる世界的感染拡大を「パンデミック」(pandemic)と認定した。あの3・11(東日本大震災)に当たる日だった。7代目事務局長マーガレット・チャン以来のあいかわらずのWHOの、あいかわらずのエッジが利いていない認定だった。ウイルスの生理学的疫学的正体ははっきりせず、何をもって新型と言っているのかも、旧コロナウイルスとの関係も、いまのところほとんど不明なままになっている。

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ロックダウンした武漢
誰もいない巨大な高速道路を一人の男が渡っている。
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中国広州の駅構内の様子
コロナの疑いがないかを検査員が一人ひとりチェックする。
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買い占めにより野菜置場がもぬけの殻になった武漢のスーパー
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武漢で食肉を売っている町の様子

WHOのパンデミック宣言

キクガシラコウモリ
SARSコロナウイルス近縁ウイルスの保有宿主の1つ。『生命科学のためのウイルス学』(南江堂)p221より(Friedrich Specht)

 2020年3月25日現在、感染者総計が30万人を突破して50万人に及び、正確なことはわからないが160カ国以上で同時発生しつづけている。感染者は3月中旬の時点で中国8万人、イタリア7万7000人、スペイン2万5000人、イラン1万3000人、韓国8000人だったが、この数字はさらに激増しつつある。なんらかのオーバーシュートがおこって、イタリアでは死者が1800人と急上昇した(その後に3400人に、さらに3日後に8000人を突破した)。
 各地の医療崩壊も深刻になってきた。さきほどのニュースではインドが全土封鎖(ロックダウン)に踏み切ったようだ。感染病理学上の正式名は「COVID-19」である。

 日本ではどうだったか。横浜に入港したクルーズ船ダイヤモンド・プリンセス号でやきもきする危機状況が続き(感染者621人)、数週間にわたってニュース画面いっぱいに全長300メートル・高さ54メートルの優美な「病んだ豪華客船」が夢魔のごとくあらわれるたび、まるでSFパニック映画の予告編を何度も見せられているようだった(船は英P&O社所有、米プリンセスクルーズ社運航、三菱重工の長崎造船所建造)。
 そのころの日本のトップや自治体には漢然とした非プロフェッショナルな危機感だけが覆っていて、海外から帰国した感染者とその行動履歴が次々にあきらかになっても、有事としての見通しがそうとう甘く、どこか対岸の火事のように、それは他人事だろうといった応接が続いていた。
 テレビのコメンテーターとして呼ばれた専門医や研究者たちの警告も、初期はすこぶる緩慢なもの。37度5分の体温が3日つづいたら検査を受けてくださいと言うばかり。屋形船で感染が拡まったというニュースが流れたときは、「クルーズ船とか屋形船とかの閉じた船みたいなところが危険なんです」と言う始末だった。クラスターという用語も浮上していなかった。
 それが小学生の感染を機に、夕張市長から北海道知事に転進した鈴木直道知事が発した緊急事態宣言で、日本を見舞いつつある疫病力が告げられて、少しずつ遠来の鐘の音が近づくように風雲急を告げていったのである。
 こうして突如としてシステミック・リスクの箱がバッカーンと開いたのだ。国家や都市や企業が慌てた。有事は平時をあからさまにする。システミック・リスクの蓋が開いた箱を繕うための命令が前後左右に捩れ、市民や国民に唐突なお頼み事をするしかなくなった。
 みんながマスクをし、卒業や春休みを控えた小学生のいる家庭の中は、たちまち「おそ松くん」の家のような様相を呈し、盛り場では人波が寄せては返して、引いては満ち、パリやロンドンやニューヨークがすでにそうなっているが、突然に無人の街の映像が、ベルイマンやアントニオーニの映画の数シーンのように吹きっざらしなのである。

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新型コロナウイルスの集団感染が起きた大型クルーズ船ダイヤモンド・プリンセス
下船後も含めて723人の陽性が確認され、10人が死亡している。
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ダイヤモンド・プリンセス号の乗客が垂れ幕で現状を訴える

北海道「新たなステージ」緊急事態解除へ(20/03/18)

 威信にかかわるとはこのことだった。習近平の中国は強引なトップダウンによる封じ込めに乗り出した。欧米も緊急警告を連発しはじめた。こういうときはまるで国家の威信をかけるかのような様相になるのだということが、よくわかった。
 国家にとってはレストランやコンビニが潰れるのはかまわないが、巨大システムの崩壊が怖いのだ。とくに生産力と労働力の停滞が怖い。主要国の政治力はこの20年来ずっと停滞しているから、こういう緊急事態のほうが身が引き締まる。
 歪みあいもおこっている。アメリカが「中国は武漢ウイルスの初期状況を隠蔽した」と報道したことに中国側が反発して、アメリカこそ事態を不安定に導いている張本人だと名指しにし、11月で武漢にアメリカ軍が催した軍事体育訓練大会でコロナが持ち込まれた疑いがあると言及した。これでカチンときたトランプは「チャイナ・ウイルス」呼ばわりをする。パンデミックは国際政治の戦略投げ合い競争なのである。

 1カ月ほど前からの日本のテレビニュースでは、感染者が発見されるたびに知事や市長が発表会見をする様子が映されていた。ふーん、自治体の首長が感染者情報をテレビカメラの前で発表するのか、こういうときは首長がお出ましなのかということを初めて知った。こんな言い方をするのは不謹慎だろうけれど、県別・市長村別の対抗戦のようなのだ。
 それがいまや各国の威信をかけての緊急対策試合のようになってきた。とともに各国首脳が「これは戦争だ」「見えない敵との戦争だ」と言っているのがやたら目立ってきた。
 有事といえば「戦争」しか思いつかないのだろうが、それがおかしい。平時の中で有事を示すボキャブラリーが払底しすぎてきたのである。ウイルスや細菌をめぐる「社会と知と病いの関係」など、巷間でも大学でも企業でもメディアでも、まったく語られてこなかった。だから戦争用語ばかりが乱発される。
 これは戦争なのではない。恐慌でもない。われわれの足元にある生物的文明の亀裂なのである。ウイルス・プラネットの咆哮なのである。有事は平時をあからさまにし、平時の中の有事を誇大化させる。かくして何か根本的なところが腑に落ちないままのパンデミックが続いている。

北海道「新たなステージ」緊急事態解除へ(20/03/18)
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Citta Fantasma: Rome On Coronavirus Lockdown
ROME, ITALY – MARCH 13: A woman is seen cycling in a completely empty Navona Square on March 13, 2020 in Rome, Italy. Rome’s streets were eerily quiet on the second day of a nationwide shuttering of schools, shops and other public places. Italy has more than 15,000 confirmed cases of COVID-19 and over a thousand related deaths. (Photo by Marco Di Lauro/Getty Images)
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Italy Continues Nationwide Lockdown To Control Coronavirus Spread
ROME, ITALY – MARCH 17: Medical staff collect a patient from an ambulance at the second Covid-19 hospital in the Columbus unit on March 17, 2020, in Rome, Italy. Italian Government continues to enfoce the nationwide lockdown measures to control the coronavirus spread. (Photo by Antonio Masiello/Getty Images)
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マスクを求めて長蛇の列をつくるフィリピン住民
ドゥテルテ大統領のもと、厳格な「封鎖」が実施されて、日々の収入を失った低所得が困窮する事態となっている。

 事態が少し収まってからでいいが、よくよく振り返ったほうがいい。だいたい「新型」(new type)とは何だったのか。コロナウイルス(corona virus)とはどういうものなのか。
 2009年にメキシコに発して大流行した新型インフルエンザのときにも「新型」だと言われた。そもそもは動物感染しかしないはずの豚インフルエンザ・ウイルスがあるときにヒトに感染し、それがヒトからヒトへの感染経路に確認されたとき、そのウイルスが「新型」と呼ばれるのである。動物感染のウイルスがヒト感染に変容したとき、新型が生まれる。新型の「新」とはウイルス遺伝子の変異だったのである。ほんとうは「変型」だ。
 今度は武漢でおこったこともそのことだった。それがコロナウイルスのヴァージョンなので、今回のウイルスは「新型のコロナウイルスの変異体」なのだ。
 ということは、このウイルスは重度の肺炎などの呼吸器系疾患をもたらすRNAウイルスであって(RNAウイルスのことはあとで説明する)、2002年発見のSARS(サーズ)のコロナウイルスや、2012年発見のMERS(マーズ)のコロナウイルスの類系であることを示している。SARSの感染源はコウモリともハクビシンとも言われ、MERSはヒトコブラクダが感染源だったと言われている(まだ正確なことはわからないか、もしくは伏せられている)。
 コロナという呼称がついたのは見た目のことで、ビリオン(感染性をもつウイルス粒子)の表面のエンベロープ(膜構造)に花弁状の外観をもつスパイク突起が付いているためである。中国では「冠状病毒」と言っている。

伝染性気管支炎ウイルスの電子顕微鏡写真

コロナウイルスの形体
赤い突起:スパイクタンパク、スパイクペプロマーは電子顕微鏡で見るとビリオンを囲む光冠外観を作り出す
灰色の被膜:エンベロープ、主成分は脂質でアルコールや石鹸で破壊できる

ウイルスの分類体系 武村政春『新しいウイルス入門』(講談社ブルーバックス)p36-37より

 コロナウイルスが危険な正体をあらわしたのは、21世紀になってからである。2002年11月、中国広東省で305人の住民が急激な肺炎にかかって病院にかつぎこまれ、それが重症急性呼吸器症候群(Severe Acute Respiratory Syndrome)とみなされ、略称SARSと命名されたときからだ。
 このときも潜伏期は2日間から1週間、最初に発熱や悪寒がきて、2週間をこえると非定型肺炎などになり、下痢もおこった。5カ月で世界32国に広まり、8000人が罹患して、916人が死亡した。
 その後、風邪のような症状をおこすウイルス4種、重症肺炎を発病させるウイルス2種、動物から感染するウイルス1種の、計7種のコロナウイルスが確定された。ウイルスの遺伝子になんらかの突然変異があったか、あるいは耐性変異があった(人体感染を通過しているうちにウイルス自体が強化された)のである。ウイルスはしだいに変異するのが当たり前なのだが、その形質がいつまでも定位しないこともある。そのせいで、いまだに治療薬はない。ワクチンもつくれていない。
 MERSは2012年9月にサウジアラビアで発病した患者から感染したロンドンの患者の検査で発見されたコロナウイルスで、中東呼吸器症候群(Middle East Respiratory Syndrome)と呼ばれる。潜伏期間は14日間で、中東とヨーロッパに拡って死者800人をこえた。こちらもいまなお治療法がない。

SARS患者の胸部X線写真
両肺野に不透明な領域が増え、肺炎を示唆する

SARSコロナウイルスに感染した肺組織の写真
肺胞組織が破壊され、中央に多核巨細胞が出現している

 鳥インフルエンザや新型インフルエンザとの類縁性もほとんど言及されてこなかった。2009年の新型インフルエンザがパンデミックをおこしたときも(メキシコ東部が発祥源)、感染者や死者がべらぼうに多かった。1600万人が感染し、2185人の死者が出た。
 日本は麻生太郎内閣のときで、やはり右往左往が目にあまった。こちらはさいわいワクチンやタミフルなど治療薬が出回ったので、ワクチンも治療薬も開発できていない新型コロナでは話題にしにくいのだろうと思うが、それでいいのかどうか。

 どうもウイルスを甘く見ているようだ。いまさらながらの話だが、ウイルスが細菌とは異なるものであること、細胞をもっていないこと、宿主(ホスト)を選んでそこに寄生して増殖をくりかえすこと、感染が拡大するうちに遺伝子に変容がおこること、こういうことが根本的に甘く見られているような気がする。
 もっとさかのぼっていえば、ウイルスが生きものなのか非生物なのかという決着がついていないということそのことが、平時の社会思想としてもとびきり重大なのに、そうは思われていないところが問題なのである。
 おそらくウイルスのことだけでなく、ウイルス・細菌・寄生虫・真菌などによる、つまり微生物全般による感染症(infectious disease)の全体が「知」にも「情」にもなっていないのだろうと思う。
 パンデミックはすべて感染症の世界的拡大なのだが、それはウイルス学の山内一也がずっと警鐘を鳴らしているように「人獣共通感染」(zoonosis)の大問題でもあって、これは有事のときに慌てて急に考えることではない。平時においても、国家においても、組織においても、大学においても、思想においても、政治家においても、経営者においても、もともと総合的に探求しているべきことだった。
 もっとはっきりいえば、これは社会の流動的インフラの中に組み込まれるべき「情報感染」という大問題の根底に疼いている由々しさなのである。

 そんなこんなで、今夜はカール・ジンマーの『ウイルス・プラネット』をとりあげることにした。専門的ではないが、きっとわかりやすいだろうからだ。
 ジンマーには『進化の教科書』全3巻(講談社)、長谷川眞理子さんが訳した『進化』(岩波書店)、O157を含む大腸菌の悪役イメージを刷新させる『大腸菌』(NHK出版)、寄生生物のヒトとの共生を扱った『パラサイト・レックス』(光文社)、『水辺で起きた大進化』(早川書房)などの著書がある。いずれも構成や展開がうまく、読ませる。
 ただしウイルスについてもっと詳しく知りたいなら、本書ではまにあわない。デイヴィッド・ハーパーの『生命科学のためのウイルス学』(南江堂)などがいい。ぼくがお世話になった教科書だ。それが少しむつかしいというのなら、入門的におもしろく読めるのは武村政春の『新しいウイルス入門』(講談社ブルーバックス)、生田哲の『ウイルスと感染のしくみ』(サイエンス・アイ新書)、中屋敷均の『ウイルスは生きている』(講談社現代新書)あたりだろうか。
 もっとも中屋敷のものは科学出版賞をとったわりに、ぼくにはしごく萎縮しているように感じた。

カール・ジンマー(1966-)と『ウイルス・プラネット』の原著

左上:『進化の教科書』(講談社)、右上:『大腸菌』(NHK出版)、左下:『パラサイト・レックス』(光文社)、右下:『水辺で起きた大進化』(早川書房)

 社会思想としてウイルスを考えるには、腰を入れなおすべきである。さきほども書いたように、まだこのあたりは「知」にも「情」にもなっていない。
 たとえば懐しい畑中正一の『現代ウイルス事情』(岩波新書)や『レトロウイルスと私』(海鳴社)、やや新しい山内一也の『ウイルスの意味論』(みすず書房)、『エマージングウイルスの世紀』(河出書房新社)、『ウイルスと地球生命』(岩波書店)など、フランク・ライアンの『ウイルスX』(角川書店)、話題になった『破壊する創造者』(早川書房)、ポール・イーワールドの『病原体進化論』(新曜社)、細菌の著述がめざましい武村の『巨大ウイルスと第4のドメイン』(講談社ブルーバックス)などを覗くのがいいだろう。
 なかでライアンのものは“Virolution”という抉(えぐ)った造語が原題になっていて、ウイルスがヒトとともに進化していることを強調する快著だった。進化生物学者のライアンが、疫学や免疫学やウイルス学の専門家のテリー・イエーツやジョシュア・レーダーバーグらを訪ねて執拗な質問をしながら、ウイルスと人間との共生の臨界域をさぐっていくというスリリングな展開になっている。ヒトゲノムの約半数がウイルス由来であることなど、驚かされることも多い。

『破壊する創造者』の原題となった“Virolution”

 感染症については、千夜千冊では石弘之(1655夜)がまとめた『感染症の世界史』(洋泉社→角川ソフィア文庫)をとりあげておいた(千夜千冊エディション「理科の教室」角川ソフィア文庫参照)。これは古典的名著のウィリアム・マクニール『疫病の世界史』上下(中公文庫)の21世紀版をめざしていた。
 感染とは何かということを知るなら、最近の新型コロナ騒ぎでニュースに登場する国立感染症研究所の初代センター長だった井上栄の『感染症の時代』(講談社現代新書)や『感染症』(中公新書)、あるいは山本太郎の『感染症と文明』(岩波新書)あたりだろうか。
 中国が感染症に悩みつづけた歴史をもっていたということをふりかえったのは、飯島渉の『感染症の中国史』(中公新書)である。これはかつてマクニールも参照した陳高傭の『中国歴代天災人災表』を下敷きにしつつ、得意の近現代中国史や沖縄までを視野に入れたもので、啓発された。
 ちなみに25年ほど前のことになるが、「現代思想」がウイルスを特集したとき、多田富雄(986夜)と畑中正一(1078夜)とが「ウイルスの世紀」という対談をしていて、ぼくはこれに大いに触発されたものだった。畑中がマクロファージやライボザイムの話をしていると、多田が「逆向きRNAというのはどうですか」と言って、ウイルスがアンチセンスRNAを利用したんじゃないでしょうかという話をするところなど、とてもチカチカした。

多田富雄と畑中正一による対談「ウイルスの世紀」『現代思想』(1995)

 では、そろそろ今夜の本題について綴っておきたいのだが、ぼくの今夜の眼目はウイルスという奇妙な相手を考えるにあたっては、生物学がウイルスを厄介者だとみなした理由を問題にしておいたほうがいいということにある。
 これはいいかえれば、ウイルスは生物なのか非生物なのか、ウイルスは生きているのか、生きものなのか、生物に乗っかっている乗客なのか、何かに付随している情報なのかという、たいへんデリケートだがきわめて重大な問題を、いったいどのようにウイルス・プラネット生態系の思想として採り入れたらいいのだろうかという問題につながっていく。
 ところが、このことをそれなりに敷延していくには、ウイルスについての知識だけでなく(ウイルスは次々に新しくなっていく)、ウイルスをとりまく生物学の知識をつかいつつ、そこからのわずかではあるが重大な離脱を図らなくてはならず、そうなるとごくごく基本の問題、たとえばRNAワールドはDNAのセントラルドグマより先行してたかどうかといったような“太始の問題”に言及せざるをえなくなるのである。
 とはいえ、われわれの前に突き付けられている厳然たる事実は、おそらく次の5つのことである。こんな事実でちゃんと理解するのは、けっこうややこしい。

 第1に、ウイルスには「細胞がない」ということだ。ウイルスは細胞として生きているのではなく、ウイルス粒子(virion)として存在している。だから細胞膜(生体膜)もない。ここをどう見るか。
 ふつうは細胞膜がなくて細胞がないものは自立生物ではない。生命体の定義に入らない。ウイルスは宿主(ホスト)を選んでそこに寄生して、増殖をくりかえしているにすぎない。自前の代謝系という生物としての基本性質をもっていないのだから、そこを見るとウイルスは非生物だということになる。
 しかし第2に、ウイルスは核酸(RNAやDNAなどの遺伝子)をもっている。核酸はカプシド(capsid)というタンパク質の殻に包まれ、エンベロープ(envelope)という封筒のような膜で宿主に送り出される。遺伝子をタンパク質に包んでいるのがカプシドで、そのカプシドは脂質でできているエンベロープの格好をとって移動する(郵送される)。それが宿主の細胞に巧みに入ってカプシドが脱殻(だっかく)し、あとは宿主の細胞をつかって遺伝子を複製する。
 遺伝子があって、それが他者の生物の細胞の中であれ複製をおこすのだから、こういうところはすこぶる生物的なのである。
 第3に、ウイルスには細胞壁もなく、ATPの合成もできないということがある。つまり自己エネルギーをつくれない“生きもの”なのである。ただし、ちょっとややこしいこともある。細胞壁はマイコプラズマなどにもなく、クラミジアなどもATPをつくっていないからだ。こういう変則的な事情をみると、逆に「なぜかれらはウイルスっぽいのか」という説明がけっこうむつかしいものだということをガツンと知らされる。
 第4に、ふつうの細胞はRNAとDNAの両方をもっているのに、ウイルスはそのどちらかしかもたないということが、たいへん微妙で、かつ重大な問題を突き付ける。ある種のウイルスには(それこそが新型コロナウイルスにもあてはまるのだが)、どこかとても初期のRNAワールド的なものが残響しているかのようなのだ。
 この特色はひょっとするとウイルスの起源的特色を雄弁に語るものだろうと思われるのだが、さあそうなると、話は生物学の根本にかかわるRNAとDNAの先陣争いに巻きこまれていく。ぼくのように「RNAが先にエディターシップを発揮したのは当然だろう」などとは、多くの慎重な生物学者は口がさけても言わないのだ。しかしRNAウイルスを解くことが、ウイルスと生物と文明のあいだを羂索になるだろうと、ぼくは見ている。
 第5に、ウイルスは増殖しすぎて、せっかく乗っ取った宿主細胞を殺してしまうことがあり、これはあきらかにウイルスの自滅行為なのだが、そこをどう考えるといいのかということがある。ウイルスには利己的遺伝子としての矜持がないということなのだろうか。
 細胞のほうからすれば、これによって(細胞のアポトーシスによって)、宿主はウイルスの侵略から身を守っているということになるのだから、ウイルスの過剰とともに細胞が犠牲になることによって宿主全体のバランスを取り戻したということで「よかった、よかった」だけれど、ここにはウイルスと生命体との「もちつもたれつ」が垣間見えるとも言えるのだ。
 あえて5つの事実をあげるにとどめたが、実際にはウイルスにはもっともっと「変なところ」がいっぱいある。それゆえ、生物界での分類ではたいてい「例外者」扱いをされてきた。

ウイルスの基本的な「形」 武村政春『新しいウイルス入門』(講談社ブルーバックス)p24より

インフルエンザウイルスの増殖

代表的なウイルスたち 武村政春『新しいウイルス入門』(講談社ブルーバックス)p39より

 地球上の生きものは、これまでの生物学の規定では「真核生物」(動物・植物・真菌)、「原核生物」(細菌)、「アーキア」(古細菌)の3つの超界(ドメイン)に分けられている。もう少し深入りすると、6つのドメインに分かれる。動物界(ヒト、イヌ、昆虫)、植物界(コケ、イネ、草花)、菌類界(キノコ、酵母菌、カビ)、原生動物界(アメーバ、ゾウリムシ)、バクテリア界(大腸菌、チフス菌、結核菌)、そしてウイルス界だ。
 このうちウイルス界だけが「いわゆる生物圏」から外れている「例外者」なのである。外れているけれど、動物にもヒトにもバクテリアにも寄生してインフルエンザやC型肝炎やヘルペスやエイズをおこす。かつてならペストや天然痘を大流行させた。つまりウイルスはどのドメインの生物をも宿主にする。そういう意味ではウイルスはすべての生物界(生きものたち)を覆っているわけだ。覆っているというより侵食しているとか、移籍しているとか、借家住まいをしていると言ったほうがいい。
 どのように侵食移籍してるかというと、吸着→侵入→脱殻→合成→成熟→放出ということをする。この勇敢きわまりない寄生力は何なのだろう?

 だいたいは次のような手順になっている。
 ①[吸着] ウイルスはまずは感染する宿主の細胞にぴったりとくっつく。吸着専用のタンパク質をエンベロープの表面にもっていて、このタンパク質をつかって宿主の細胞膜の表面にあるタンパク質にくっつくのである。これが感染の最初だ。
 たとえばインフルエンザウイルスはヘマグルチニン(HA)というタンパク質を、上皮細胞の表面にあるタンパク質の先端にあるノイラミン酸という糖にくっつかせる。ヒト免疫不全ウイルス(HIV)はENVという吸着専用タンパク質を、リンパ球のひとつのT細胞の表面にCD4をくっつかせる。
 エンベロープがないウイルスの場合は、タンパク質でできたカプシドを宿主の細胞膜に結合させる。ポリオウイルスの一種のピコルナウイルスでは膜のくぼみを利用するし、バクテリオファージの場合はミズスマシか宇宙船のような形の吸着着陸用の「足」をもっている。
 ②[侵入] 吸着のあとは、宿主の細胞にRNAやDNAを侵入させる。エンベロープ・ウイルスの場合は、エンベロープそのものが宿主の細胞膜と同じ脂質二重膜でできているので、エンベロープと細胞膜が融合する。HIVの侵入はそうなっている。融合しない場合は、エンベロープが細胞膜に包まれてあぶくのようになる。あぶくがなじんでくると、インフルエンザ・ウイルスは仲間のような顔をしてまんまと入りこむ。
 エンベロープをもたないウイルスは皮膜ピットのような細胞膜のくぼみに入り、そのくぼみが細胞質側にくびれると、にゅるっと入る。エンドサイトーシス(細胞内とりこみ)と呼ばれる。バクテリオファージでは足を突き刺して細胞表面に吸着したあと、お尻の部分にあるピンを刺しこみ、頭部に格納していたDNAだけを細胞内部に注入する。

ウイルスの「吸着」武村政春『新しいウイルス入門』(講談社ブルーバックス)p51より

ウイルスの「侵入」武村政春『新しいウイルス入門』(講談社ブルーバックス)p53より

 ③[脱殻] これらの侵入が成功すると、次はタンパク質の殻であるカプシドを壊して、核酸を放出する。これが脱殻(だっかく)である。インフルエンザ・ウイルスの脱殻は、エンドソーム内の酸性条件によってエンベロープがゆるみ、HAのはたらきでウイルスの核酸(RNA)が宿主の細胞質の中に入室する。
 ④[合成] こうしてウイルスは遺伝子(RNAかDNA)のプログラム情報をもとに、ちゃっかりと自分そっくりのタンパク質をつくり、遺伝子を複製し、たくさんの子ウイルスを生産する。借家の一隅で自己生産に励むのである。
 ⑤[成熟] 子ウイルスをつくるところは、さまざまだ。HIVでは合成されたタンパク質と核酸(RNA)が宿主の細胞膜の内側あたりで組み立てられ、ヌクレオカプシドをつくる。インフルエンザ・ウイルスでは合成された核酸(RNA)は核の中でタンパク質と複合体を用意してRNPという構造になる。そのRNPが核膜の孔を通って細胞質に流れこむ。ピコルナウイルスでは、合成されたRNAとタンパク質が小胞体に接したところで組み立てられる。
 ウイルスによっては細胞骨格という網目を手摺りにして細胞質内を移動するらしい。使えるものはなんでもつかうのである。
 ⑥[放出] こうしてついにウイルスが放出される。その場合も細胞を殺して出ていくものと、細胞をそのままにして出ていくものがある。ピコルナウイルスは細胞1個あたり2万から10万におよぶ子ウイルスたちが細胞を壊して放出されていく。これでは世の中に感染症は広まるばかりだ。
 これらのプロセスで、細胞も黙ってはいない。バランスを維持しようとするし、免疫系が抵抗することもある。合成・成熟・放出がすぐにおこらないこともある。ヘルペスのウイルスは神経細胞に入りこんだまま、ずうっと潜伏する。潜伏感染という。しかし宿主の体力が落ちたり、免疫力が低下すると、ヘルペスウイルスが動きだし、帯状疱疹を発疹させる。

ウイルスの「脱殻」武村政春『新しいウイルス入門』(講談社ブルーバックス)p56より

ウイルスの「成熟」武村政春『新しいウイルス入門』(講談社ブルーバックス)p59より

ウイルスの「放出」武村政春『新しいウイルス入門』(講談社ブルーバックス)p61より

 これがウイルスの「吸着→侵入→脱殻→合成→成熟→放出」のプロセスである。すべては他人の細胞でのお仕事だ。
 いったい、どうしてウイルスはこんなふうに「他人まかせ」なのか。なぜ自分では生きていけないのに、宿主がいると生きていけるのか。そういうウイルスはいったい何者なのか。この問いに答えるのは容易ではない。
 自力では自己複製できず、宿主細胞に寄生すると自己複製するのだから、ウイルスが生物であるのか、それとも生物ではないのかはいちがいには決めがたい。いったいどっちなんだということがずっと議論されてきたけれど、いまだ決着がついていない。それほど厄介な連中なのである。
 しかし厄介者に見えるのは、生命体についての定義が粗雑だからということもある。もっと思い切った見方をしなければ、ウイルス界を含んだ生物界の本来の構造はわからない。ぼくはずっとそう感じてきたのだが、なかなかそういう議論は世の中に向かっていかなかった。知の体系からも外されてきた。これはいかにも怠慢だ。まずかった。
 
 そこであらためて考えるべきは、われわれはウイルスを起源とした共生編集的な生命系をつくってきたのであろうと思うことである。
 あとからウイルスが厄介なことをしはじめたのではなくて、厄介なウイルスによって生命系が複合的に始動してきたと考えてみることだ。借家住まいのウイルスの活動を活用して、本体の生命系が細胞や細胞膜をつくったのではないかと思うことだ。
 細胞は外からやってきたミトコンドリアだって取り込んだのである。さまざまな初期ウイルスの出入りをなんだかんだ活用しなかったはずがない。
 もうひとつの考え方は、3つの超界(ドメイン)からウイルスを見るのではなく、「ウイルスから生物圏を見直す」ということだろうと思う。この見方についてはなかなかユニークな仮説がなかったのであるが、2008年にフランスの微生物学者のディディエ・ラウールとパトリック・フォルテールは、ウイルス以外の生物を「リボソームをコードとする生命体」とみなし、ウイルスを「カプシドをコードとする生命体」とみなした。
 この見方はなかなか画期的だった。ラウールは世界中の微生物学者たちを驚かせたミミウイルス(巨大ウイルス)の発見者である。フォルテールにはこれまたすこぶる画期的な「ヴィロセル」(virocell)という仮説もある。ウイルスに乗っ取られた細胞のことをいう。

ディディエ・ラウール(1952-)

ミミウイルスの構造

パトリック・フォルテール(1949-)

 ウイルスの思想をもっと明確にするには、ウイルスにはRNAウイルスとDNAウイルスとがあるということに注目しなければならない。とくにRNAウイルスだ。
 すでに書いておいたけれど、コロナウイルスも新型コロナウイルスもRNAウイルスなのである。
 あらためて説明するまでもないだろうが、たいていの生物は細胞の中にDNAとRNAをもっている。DNA(デオキシリボ核酸)はヌクレオチドという情報物質がネックレスのようにつながって、ヌクレオチドの部分であるA(アデニン)・G(グアニン)・C(シトシン)・T(チミン)という4種の塩基を、二重の鎖に並べていろいろの塩基配列に組み合わせていく。それが転写されるにしたがって遺伝情報を親から子へ、子から孫へと伝えている。伝えるたびに、DNAの塩基配列が生物個体のタンパク質のアミノ酸の配列(20種類のアミノ酸の配列)を決めるのである。

 RNA(リボ核酸)も4種類の塩基で特徴づけられているのだが、DNAのT(チミン)の代わりにRNAではU(ウラシル)が入る。
 またDNAがヌクレオチドの一部を形成する糖をデオキシリボースをつかっているのに対して、RNAはリボースをつかっている。ふつうの生物では、DNAは転写のときに遺伝情報のコードをいったんmRNA(メッセンジャーRNA)のかたちにして翻訳し、その塩基配列をtRNA(トランスファーRNA)が連れてきたアミノ酸でつないでいくのである。
 以上のことをウイルスもしたいのだが、その気がない(そういう機能をもっていない)。ウイルスはDNAだけのウイルスか、RNAだけのウイルスなので、ふつうの細胞の中でのようなDNAとRNAの協同作業がない。
 そのかわり、DNAウイルスは宿主の細胞がもっているRNAポリメラーゼを借用し、転写をおこなうことにした。細胞のRNAポリメラーゼには細胞とウイルスのDNAを区別する能力がないので、宿主細胞がもつDNAで転写してしまう。

DNAとヌクレオチド 武村政春『新しいウイルス入門』(講談社ブルーバックス)p67より

 一方のRNAウイルスのほうはかなり特異である。分類すればレトロウイルス、二本鎖RNAウイルス、一本鎖プラス鎖RNAウイルス、一本鎖マイナスRNAウイルスがある。コロナウイルスや新型コロナウイルスは一本鎖プラス鎖RNAウイルスだ。
 コロナウイルスの本体である一本鎖プラス鎖RNAウイルスは、遺伝情報の転写と翻訳に一本鎖のRNAをつかうウイルスで、その後にウイルス複製複合体(VRC)をつくるという特色をもつ。この複合体は変異によって生じるもので、ウイルス由来と宿主由来との両方のタンパク質を含む。ここがコロナウイルスの厄介なところだったのである。
 レトロウイルスはかなり意外な連中だ。宿主細胞の中でウイルス自身がもちこんだRNAをつかってDNAを逆転写によって合成し、そのDNAを宿主細胞に組みこんでしまうという芸当をやってのける。
 レトロという名がついているのは、RNAからDNAを合成するときの酵素が「逆転写酵素」(reverse transcriptase)であるからで、つまりはリバース・エンジニアリングができるウイルスなのである。
 ヒトに感染するレトロウイルスとしては、最初にヘルパーT細胞(免疫系の司令塔)に感染して白血病をもたらすウイルス(HTLV)が発見された。1980年にアメリカのロバート・ギャロがT細胞腫瘍に羅患した患者から取り出し、翌年には京大ウイルス研究所の日沼頼夫がT細胞白血病の患者から分離した。まとめてATLウイルスとして知られる。日沼は日本の先住民はATLウイルスの持ち主だったという仮説を提示した。
 もっとよく知られているレトロウイルスは、エイズを発症させるヒト免疫不全ウイルス(HIV)であろう。やはりヘルパーT細胞に感染する。T細胞はインターロイキンというタンパク質を分泌して、これを受け取った他のT細胞や、抗体をつくるB細胞にはたらきかけて免疫反応を促進しているのだが、そこを攻撃するのだから、宿主は免疫不全に陥ってしまうのである。

RNAとヌクレオチド 武村政春『新しいウイルス入門』(講談社ブルーバックス)p69より

プラス鎖RNAとマイナス鎖RNA 武村政春『新しいウイルス入門』(講談社ブルーバックス)p77より

レトロウイルス 武村政春『新しいウイルス入門』(講談社ブルーバックス)p122より

 RNAウイルスのことがいろいろわかってくると、ここに大きな仮説が立ち上がってくるように思われる。それは「生命系は細胞から生まれていった」のではなくて、実は「RNAウイルスから細胞がつくられたのではないか」という、とてつもなくドラスチックな仮説だ。
 以前から、ウイルスの誕生については3つのシナリオがありうると考えられていた。シナリオAは「ウイルスはもともとは独立した細胞だった」というものだ。独立した細胞だったものが、進化の黎明期に何かのきっかけで他の細胞の代謝メカニズムや複製のメカニズムを借用あるいは活用して、ウイルス粒子という系譜を自己保存するようになり、そのかわりすべての細胞小器官を失ってしまったというシナリオである。
 なるほどウイルスが“元細胞”だったとしたら、“今ウイルス”たちが宿主に感染するとき、細胞表面のタンパク質を介して吸着して侵入していくのは、お手のものになる。細胞どうしにトレードオフがおこったという見方だ。
 シナリオBは「極小の自己複製分子のようなものが、細胞の中の遺伝子をとりこんでウイルスに進化した」というものだ。
 植物細胞の中にはウイロイド(viroid)という自己複製するRNAがいることがわかっている。これは一本鎖RNAだけで構成されている。RNAウイルスやDNAウイルスよりも小さく、カプシドもつくらない。また単細胞生物であるバクテリアにはプラスミド(prasmid)という環状DNAを細胞の中にもっているものがある。この環状DNAはバクテリア自身の遺伝子の本体であるゲノムDNAとは別にある。
 こういう極小の自己複製分子のようなものたちが細胞から細胞へと渡り歩くうちに、細胞の中の遺伝子を拝借してウイルスになっていったというのだ。たいへんおもしろいシナリオだが、ただこのことが立証できるには、あらためてウイロイドやプラスミドの起源も仮説しなければならなくなる。
 シナリオCは「細胞とウイルスは別々に独自につくられた」「おそらく細胞よりも先に誕生していた」というものだ。ウイルスは核酸をタンパク質で包んだだけの単純な構造なのだから、細胞よりも先にできていてもおかしくはない。一番説得力がありそうなのだが、ただしこのシナリオでは、なぜウイルスが他の生物の細胞に寄生しなければならなくなったのか、その細胞依存性がうまく説明ができない。

タンパク質合成における「転写」と「翻訳」『新しいウイルス入門』(講談社ブルーバックス)p71より

 かくて、これらのシナリオに代わって「RNAウイルスから細胞がつくられたのではないか」という仮説がお目見えすることになったのだった。
 もっとも、この蠱惑的な仮説の正当性を議論したり検証しようとすると、とんでもなく話がやっさもっさしてくるので、ここではこういう仮説がありうるということだけを示すにとどめる。いずれ別の千夜千冊で採り上げたいが、どの本を紹介するかが、いまはむつかしい。
 けれども、この仮説は生命系の発現の直前におそらく「RNAワールド」が編集因子として先行していただろうことを物語るだけでなく、いまなおわれわれはそのとき以来のRNAウイルスに悩まされ、ウイルス・プラネットの中で共生させられているということを雄弁に告げるものになりうるはずなのである。
 そしてこのことは、われわれの文明や社会はRNAウイルスの上につくられてきたということ、それが生物学的文明の平時の姿だったということを示唆するはずなのである。

HIVによるヘルパーT細胞への感染。右上はHIVの電子顕微鏡写真『新しいウイルス入門』(講談社ブルーバックス)p126より

ウイルス誕生に関する3つの仮説『新しいウイルス入門』(講談社ブルーバックス)p155より

プラスミド
右上や右下に見える、輪ゴムのようなものがプラスミド。そのほかの大多数の紐状のものは、バクテリア(左上の白い物体)のゲノムDNA『新しいウイルス入門』(講談社ブルーバックス)p158より

 こうして話がやっと元に戻ってくるのだが、われわれは新型コロナウイルスにかぎらず、ウイルスの侵入に対してまずは発熱信号を発するようになったのだった。発熱は免疫系が発動したことの知らせである。
 ウイルスが侵入して最初に駆動するのは自然免疫系で、ウイルスを非自己な抗原とみなして、その解体や消滅に乗り出す。これは個人差のある自然免疫力だから、ウイルスに強い者と弱い者が出る。しかしウイルスがもっと多くなってくると、自然免疫力だけではまにあわない。
 そこで第一部隊としては、マクロファージと樹状細胞が発動して、ウイルスを食べて殺す。それでも全滅しない場合は、次に第二部隊がウイルスという抗原に対する抗体をつくる作業にとりかかる。防御体制づくりにとりくむのだ。生き残りウイルスの情報をヘルパーT細胞に伝え、ヘルパーT細胞が一方ではキラーT細胞にウイルスに侵食された細胞を破壊するように命じ、他方でB細胞に抗体(防御部隊)をつくるように命じる。
 このときキラーT細胞はウイルスに乗っ取られた細胞を見いだすと、これにすかさずドッキングして、パーフォリンという破壊爆弾を感染細胞に発射する。パーフォリンが命中すれば細胞膜に穴があき、ここから細胞に維持のためのイオンが流れ出て、細胞が死ぬ。これでキラーT細胞もダメージを受けるのだが、損傷がなかったT細胞はメモリー細胞として、抗原抗体関係をアーカイブしていく。
 こうした情報的戦闘がおこっているあいだ、われわれは発熱をしつづける。それが37度5分あたりの発熱戦線なのである。情報は熱をもっているのだ。
 宿主が発熱しているあいだ、ウイルスのほうはどうなるのかというと、生き残りをかける。①免疫系を壊すか、②細胞の中に隠れるか、③変装するか、この3つのシナリオだ。この③「変装する」は遺伝子の変異のことで、この変異こそがコロナウイルスを新型にせしめたのだった。

自然免疫応答『生命科学のためのウイルス学』(南江堂)p76より

 今夜は新型コロナウイルス・パンデミックの渦中での千夜千冊だったので、さすがに落ち着かなかった。
 2年半前に肺癌になって右肺3分の1を切除し、これまでのヘビースモーカーの宿痾のタタリで残りの肺も真っ黒な肺気腫状態(COPD)になっているぼくとしては、人混みも講演も濃厚接触もすべて回避したほうがよいのだが、まったくそんなことはしていないまま、今夜の千夜千冊を綴ってみた。
 講演は2つキャンセルされ、会合もネット化を迫られた。けれどもぼくは根っからの自粛嫌いなので、あいかわらず毎日仕事場に通い、タバコも喫っている。これでバチが当たらなければ神さまが怒りだし、仏さまが見放すことになるだろう。しかしカール・ジンマーは、こう書いている。私たちの知識不足がウイルスに不滅性を与えてしまったのでしょう。遺伝子はたんに種の進化をもたらしてきただけではなく、再集合を試みようとしてきたのでしょう、と。
 ちなみに、もう少し身近でウイルス問題を感じたい向きには、「遊刊エディスト」連載中の小倉加奈子による「おしゃべり病理医:編集ノート」を読まれることをお奨めする。

(図版構成:寺平賢司・西村俊克)


⊕ウイルス・プラネット⊕

∈ 著者:カール・ジンマー
∈ 訳者:今西康子
∈ 発行者:土井尚道
∈ 発行所:株式会社飛鳥新社
∈ 印刷・製本:中央精版印刷株式会社
∈ 発行:2013年2月26日

⊕ 目次情報 ⊕

∈ プロローグ 「感染力をもつ生きた液」タバコモザイクウイルス
∈ 1 いにしえからの道づれ 古顔のウイルス
 (「ただならぬかぜ」ライノウイルス;「天の星々のしわざ!?」インフルエンザウイルス ほか)
∈ 2 どこにでもいるアイツ あなたの隣(や中)にいるウイルス
 (「敵の敵」バクテリオファージ;「ウイルスに充ち満ちた海」海洋ウイルス ほか)
∈ 3 末永くよろしく?新入りウイルス
 (「新たな病魔の出現」ヒト免疫不全ウイルス;「目指すは自由の国アメリカ!」ウェストナイルウイルス ほか)
∈ エピローグ 「冷却塔のエイリアン」ミミウイルス

⊕ 著者略歴 ⊕
カール・ジンマー (Carl Zimmer)
1966年生まれ。アメリカで最も人気があるサイエンスライターのひとり。イェール大学で講師として自然環境などについて教える傍ら、多数の記事やエッセイを「ニューヨークタイムズ」紙や「タイム」「サイエンス」「ナショナル・ジオグラフィック」各誌に寄稿。優れた科学読み物を集めて毎年出版される「ザ・ベスト・アメリカン・サイエンス・ライティング」シリーズにも掲載されている。
『大腸菌~進化のカギを握るミクロな生命体』(日本放送出版協会)、『「進化」大全』(光文社)、『進化――生命のたどる道』(岩波書店)など多数の著書がある。

⊕ 訳者略歴 ⊕
今西 康子(いまにし やすこ)
神奈川県生まれ。訳書に『ミミズの話』『「悪意の情報」を見破る方法』(以上飛鳥新社)、『「やればできる!」の研究』(草思社)などがある。