才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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エレガントな宇宙

ブライアン・グリーン

草思社 2001

Brian Greene
The Elegant Universe 1999
[訳]林一・林大

【1】 【2】 【3】 【4】 【5】

 こうしてMは重力であって物質であり、時空であって数学であり、量子であって法則となったのである。いや、そうしたもののいずれの候補ともなった。
 以上のことを感じるにはスーパーストリングに触れてみる必要がある。何かの物理学的な感触が必要だ。けれどもこのスーパーストリングがすでにして、素粒子であって場所であり、要素であって振動であり、クォーク的であって相互作用的であり、量子ひもであってトポロジーだった。そんなものに触れることができそうもないことは、なんとなくわかる。
 これはどうみても究極のお化けなのだ。研究者たちのあいだでも、こんなもの(スーパーストリング=超ひも)があるはずがないと言いたいグループと、こういうものこそ待ってましたと言いたいグループとに分かれてしまった。しかもこのお化けの正体は、原理的には「点粒子」を「ひも」に代えただけのものなのだ。この発想だけをとりあげれば(厄介な数学的手続きを省けば)、コロンブスの卵のようなもの、いや、コロンブスの紐なのだ。それが宇宙と物質をめぐる究極の理論の担い手になるなんて、にわかには信じられないにちがいない。しかし、いま、最終理論はそこに着々と向かっている――。
 
 M理論やスーパーストリング理論のアウトラインを綴ってみる前に、しばらく迂回をしておきたいことがある。必要な迂回である。それにはひとつの重要な問いをたてておくのがいいだろう。
 宇宙論や物質論はいったいなぜこんなお化けのような奇妙な正体(スーパーストリング)を想定しなければならなくなったのか。このような理論はどうして「大きい本質は小さい本質だ」という恰好をとるのか。宇宙の本質と物質の本質は(すなわち極大と極小の時空の本質は)どこで重なり合ったのか。こういう問いだ。この問いの方向は、なぜ量子重力理論(相対論を量子化する)の試みはスーパーストリング理論やM理論にまで進攻していったのかという方向をあらわしている。

 もともと相対論(重力論)と量子論はまったく別々に生まれてきたものである。それゆえこれらを統合する必要はなかったはずだった。それがいつのまにか、その統合こそが物理学の最後の課題になってきた。問題はそこにある。
 すなわち、「大きい本質は小さい本質だ」というのは「宇宙論の解明は素粒子論の解明である」と提言しているようなものであるのだが、このように問題が成立するのは、宇宙がビッグバンで生まれる直前にすでに「ひも」だか「超ひも」だかが動いていたという未知の状態を想定することになるけれど、それでいいんですねと念を押しているようなものなのだ。
 仮にそういう想定をするとなると、考えなければならないことは、少なくとも2つある。ひとつはそんなことがわかると何が理解できるのかということ、もうひとつは科学がそのことを最後の問題(最後の問題ではないかもしれないが)として極めるしかなくなってきたのは、いったいどうしてかということだ。順番に考えたい。

 現代人には「思想」と「表現」を哲学・文芸・芸術にばかり求めすぎてきた傾向がある。「思想」や「表現」は社会・文化・人間から生じると考えすぎてきた。むろんそれらにも思想と表現は発生もし、派生もしているのだが、それらを根こそぎ支えているのはあくまで基本的自然像であり、そこから生じた宇宙観であり、そこにまとわりつく空間と時間の観念なのである。
 プラトンの哲学はプラトンの宇宙観と結びついていたのだし、デカルトの思想はデカルトの近接作用論にもとづく宇宙観と不即不離になっていた。ニュートン力学やファラデーの法則がなかったら、どんな動力も動かせなかったし、したがってどんな都市像も描けなかった。そればかりか印象派の絵画にすらニュートンとホイヘンスの物質観の論争が下敷きになっていた。どんな「思想」も「表現」もその起源には宇宙観がどこかで関与していたものなのである。いいかえれば宇宙観に介入しないでいては、思想や表現が問題にできるはずはなかったのだ。
 ところが近代科学の確立と20世紀科学の登場によって、こうした哲学と宇宙観との蜜月関係がぎざぎざに分離していった。
 宇宙観が分離した理由はいろいろあるが、20世紀科学を代表する相対性理論と量子力学があまりに難解であったことがある。また、脳神経科学や心理学の発達が「脳」や「心」といった“もうひとつの宇宙”を想定したこともある。科学の成果が技術にばかり集中し、あまつさえ原子爆弾などの軍事目的に流れていったこともある。さらに決定的なのは、相対性理論と量子力学がわれわれの知覚する世界には直接には影響を与えていないということが喧伝されすぎたことだろう。こういうことがいろいろ重なって、科学の求める宇宙像と人間社会が求める世界像は分断されたのだった。
 むろんそれでも、宇宙観から「思想」と「表現」を導き出そうとした哲人たちもいた。ホワイトヘッドやボームはその一人であったし、ペンローズもホーキングも宇宙理論の想定と人間思考の原理を重ねて考えようとした。しかし多くは、そんな難題を抱えるのをできるだけ避けた。実は、スーパーストリング理論やM理論だって、いまのところは宇宙像と人間像とをこれっぽっちも重ねて考えてはいない。が、ぼくには、このような理論もまた、いずれは近未来の「思想」や「表現」の根本的変更を迫るものであろうと思えるのである。
 なぜそんなふうに思うのかはここでは説明しないが、そのかわりにぼくの思索体験を少々さしはさんで、ぼくがどのように宇宙観と思想とを重ねて考えてきたかを回顧しておきたい。きっとそのほうが話がわかりやすくなる。あらかじめ言っておくけれど、「宇宙」と「思想」と「表現」をつなぐもの、それは「方法」だったのである。
 
 ぼくには、自分に課していることがいくつかある。煙草をやめない、ホワイトヘッドに加担する、サラダおかきを手離さない、思索は図にしてみる、夜半3時まで起きている、生命系を情報とみなすなどなどだが、そのひとつに約10年ごとに宇宙論と物質論を検討してみるという作業がある。自分でもときどき驚くのだが、ぼくはこの課題をかなり律義にこなしてきた。
 10年ごとというのはその程度しかとりくむ余裕がないということと、そのくらいの仕切りで見ないと、宇宙や物質や数学をめぐる理論成果や実験成果の全貌が見えないからである。ざっとふりかえることにする。
 最初はなんであれロマンティックなおとぎ話の宇宙だった。物質についても、鉱物や自転車や食塩が「驚き」でありさえすればよかった。だからここには宮沢賢治やノヴァーリスや野尻抱影がいた。この少年期のディケードこそ懐かしくも根本的なフィジカル・イメージが生成されていた時期であるのだが、ここでは話をはしょる。すでに「千夜千冊」のそこかしこに書いてもきた。
 学生時代から20代半ばまではきっと多くの者がそうだっただろうように、もっぱらアインシュタイン宇宙論一辺倒だった。ここにはロバチェフスキー宇宙やリーマン宇宙やフリードマン宇宙模型やド・ジッター宇宙模型が含まれた。ぼくはこれらの宇宙モデルを通して「かたち」の起源が宇宙にあることを知った。やがて、これにすぐさまミンコフスキーやワイルらの時空幾何学と、百花繚乱の量子力学が加わった。
 いったん量子力学を知ると、これまたきっと多くの科学者たちの卵がそうだったろうと思うのだが、こちらのほうに宇宙を感じた。極小時空のほうがずっと宇宙っぽかったのだ(この実感をなぞるのはむずかしい)。ともかくも宇宙と物質の秘密を嗅ぎたくて、一番どぎまぎして夢中になった時期である。ドゥ・ブロイ、シュレーディンガー、ディラックらに憧れた。湯川さんを頻繁に訪れ、詩人の高内壮介さんに湯川論を書いてもらい、林忠四郎センセイを訪ねたのもこの時期になる。

 次の10年のディケードは、電波天文学や宇宙線天文学が発達して、ビッグバン理論と宇宙構造論とシュワルツシルト半径をともなうブラックホール理論とが課題になった。ここではぼくの相対論も深まって重力場方程式が格闘技リングのチャンピオンになった。ここまでがわが編集歴に照らしていうと、5年をかけた漆黒の書物『全宇宙誌』(工作舎)でおおよそ扱った範疇になる。
 続く10年では、「時空の相転移」をめぐった。ぼくに「思想」と「表現」があるとすれば、この相転移や臨界面に編集思想を結集させるという方法に全力をかけるところがミソだった。それにはときどき時空論を扱っておく必要がある。ベンヤミンの「パサージュ」だって相転移が都市に降りてきたということなのだ。
 そのため新たな時空論としては、アラン・グースや佐藤勝彦のインフレーション理論やホーキングとペンローズの特異点理論などをパサージュすることが大きな課題になった。これらは「かたち」ではなく「変異」を扱っていた。とくにホーキングとペンローズを追跡するのはとても危うく、そこが痛快だった。ペンローズがホーキングの博士論文を審査する立場にあったこともあって、2人は緊密な共同見解を発表するとともに、量子重力論においてはかなり対立してもいた。だからこの二人の相違に気がついていくのがやたらにおもしろかった。たとえば、2人が互いを意識して連続交互講演をした『時空の本質』(早川書房)からは、ホーキングが「ペンローズはプラトン主義者だが、ぼくは実証主義者なんだ」と言っている意味がびしびし伝わってくる。

 もっともこういう作業を自分に課しつつも、さっぱりお手上げの苦手領域が出てきてもいた。たとえば、これらに絡むトポロジー理論やくりこみ理論をクリアするのはとても厄介だった。宇宙というもの、どの部分をとってもトポロジカルなのであるが、けれどもそういうトポロジーを時空知覚的に理解するのがむずかしい。
 また、このころには「情報としての宇宙」をどう見るかということが気になってきた。ぼくは物質やエネルギーの動向を「情報」として語りなおしたくなっていた。ただし、それにはプリゴジンらの熱力学宇宙論やヘルマン・ハーケンのシナジェティックスや津田一郎のカオス論にいったん傾倒してみることが必要だった。
 こうしてこの直近の10年になってからは、以上のことをオブリックに交差させる作業にとりくんだ。いわばカイヨワの「斜線」を極大宇宙や極小物質の範疇でも動かしたかったのだ。宮沢賢治ではないが、ぼくは北に行ってゲージ理論の行方を追い、東に向かっては泡宇宙やインフレーション理論やダークマター仮説と語りあい、南ではワインバーグ゠サラム理論やカルツァ゠クラインの統一理論の消息を尋ね、西に赴いてWボソンの正体に驚き、町に戻ってはあわただしくスーパーストリング理論を読むといった作業を、オブリックに交差させる日々をおくったのである。
 このような作業によって何が見えてきたかは、このあとまとめて書く。いずれにせよこのあたりで、ぼくには宇宙観と物質観と人間観はやはり密接に絡まっているはずだという確信が、ふたたびよみがえってきた。とくに、南部陽一郎さんの「ひもクォーク」と「自発的な対称性の破れ」をめぐる考え方のその後の変遷をつぶさに追ったことは、量子重力論の謎こそがすべての思想議論の鍵になっているという展望をもたらした。こうしたなか、いよいよM理論の萌芽に出会うことになったのだ。

 だいたいこんな作業をしていたことが、ぼくが哲学と宇宙観の、すなわち文科系と理科系の分断の裂け目に墜落しなかった背景になっている。
 まったく理科系と文科系なんてくだらない分別である。どう考えたって、これらは同じルーツをもつ母胎であったはずなのだ。われわれの想像力の根底にあるものは、古代から今日にいたるまでなんら変わらないはずなのだ。まとめれば、その根底にあるのはフィジカルイメージとバイオイメージの姿、あるいはその2つがエッシャーふうに絡まった姿というものだ。
 ぼくは30代の半ばまで、この2つのイメージの交じりあいを「物質の想像力」と「生命論的超越」の絡みとよんでいたのだが、その後はこれらをいったん「自然と生命をめぐる情報編集力」ととらえ、その成果と捩れと暴走がもたらした想像力をなんとか統合的に眺めようとしてきた。そしてその絡みぐあいのすべてに宇宙論的投影があると考えるようになった。
 しかしそれからしばらくたって「方法」こそがこうした絡みぐあいの本体であることに気がついた。ケプラーからホーキングにおよぶ幾多の宇宙論も、まさに「方法宇宙」であると思えるようになった。とくに特異点理論やゲージ変換理論が現代宇宙物理学の中央に躍り出るようになってからは(ゲージ理論についてはのちに説明する)、「宇宙は方法論である」ということが、より鮮明に確信できたのだ。ぼくにとっては存在と運動をめぐる関係のいっさいを描出するための方法論、それが宇宙論なのである。宇宙論とは「方法の宇宙」そのもののことだということなのである。
 この結論は、まずまちがってはいないはずだ。宇宙の描像を獲得するための方法の統合が、宇宙の構造や本質なのである。ただ、このことをわかりやすく説明するのがけっこう面倒だ。
 面倒な理由はわかっている。今日の宇宙論は長らく「4つの力」を別々に議論してきて、その統合にとりくんでいる真っ最中なのだが、その別々に議論してきた「4つの力」にはすでにたくさんの子供やルールや数学がひっついてしまっているからだ。宇宙は方法の統合であるけれど、その方法の出自にちがいがありすぎた。
 
 宇宙とは「方法の宇宙」のことである。これは、哲学や科学がたどりついたいくつかの記述を総合していけば、宇宙の相互作用をめぐる統合的な記述が可能になるのかどうかを問うことにあたる。統一像が見えるのではない。記述の統合をめぐる方法が向こう側に見えるのだ。
 ニュートン力学は重力をめぐる運動の統一的な記述を可能にした。マックスウェルによって発見された電磁力学も統一的記述を可能にしてみせた。けれども20世紀科学はそれらとは異なる記述の中にも真実のパースペクティブがあることをつきとめた。それが相対性理論と量子力学である。
 ところが、ここで方法は統合を阻まれた。ニュートンの運動方程式とマックスウェルの電磁場方程式は容易に関連させられないことがわかってきた。4つの相互作用の相互記述が容易ではないことに気がつかされたのだ。この4つの相互作用は広く「4つの力」とよばれているものである。A「重力」、B「電磁気力」、C「強い力」(強い相互作用)、D「弱い力」(弱い相互作用)をいう。
 これらは人間の想像力の歴史がやっとたどりついた相互作用としての究極的な「フォース」(力)であったはずである。それなのに、いっこうに相互の関連をあきらかにしてくれない4つの異なる力であった。
 
 まず、A「重力」である。重力の正体はまだはっきりしないが、まっさきに知っておくべきは、重力は「4つの力」のなかでは最も弱い力しかもっていないということだ。重力は太陽と地球に軌道を与え、恒星が爆発するのを防ぎ、宇宙全体の制御エンジンをつかさどっているはずなのに、力(相互作用)としては4つの力のなかで一番弱い。この意外性はついつい忘れがちになることなのだが、宇宙と物質の現象学ではきわめて重大な意味をもつ。
 その重力の源は質量である。それをあきらかにしたのがニュートン力学で、質量が大きければ大きいほど重力は強くなっていくということを教えた。それゆえ重力は宇宙のどこにもはたらいている。重力にはどんなばあいも中断がない。どんな遠くにも重力はとどいている。われわれの血液が球形をとりやすいのも重力によっている。素粒子にもクォークにもはたらいている。これを「重力の普遍性」という。ただし、極小空間にかかわるその効果はほとんど計測にかからないほど小さい。
 一方、アインシュタインの力学では、重力は宇宙の存在様式の根源的な特徴を決定づけられている。このことはニュートン力学からはまったく出てこない。一般相対性理論が初めてこのことをあきらかにした。その内容は、「重力は空間の曲率を決めている」ということに尽きていた。
 このことは、いくつもの言い換えが可能になるけれど、なかで丸呑みしてでも理解してしまうといいと思われるのは、われわれは長らく空間の特性のあり方を、たまさか重力とか物質とよんできたにすぎなかったということだ。もっというなら、物質とはそもそも「重力時空の皺」だったということ、重力とはそもそも「時空間の歪みの発現」だったということだ。このことが理解できたかどうかということは、次のことを感じられるかどうかをみてみるとよい。
 重力には重力加速度というものがあって、重かろうと軽かろうとどんな物体をも1秒ごとに秒速約10メートルずつ自由落下速度を増大させている。これがマッハの「等価原理」の原形である。ただし、この落下という感覚がまぎらわしい。ガリレオの落下の法則は落下でいいが、自由落下するエレベーターの中で落ちる2つのリンゴがしだいに近づくのは、空間を曲げているほうの重力の影響によっている。
 赤道上の2点から飛行機が飛び立って北極に向かって出発すると、最初は平行して北へ飛ぶが、北極に近づくにつれ2機の距離は狭くなっていく。これを外から見ると、2機のあいだに何かの力(相互作用)がはたらいているように見える。けれどもこれは地球の表面空間の曲がりのせいである。2機を引き寄せているのは空間の特徴のせいであり、それは重力のせいなのだ。
 こういう空間を重力場という。アインシュタインの一般相対性理論はこの重力場をめぐっている。中央に有名なgμν(ジー・ミュー・ニュー)をつかった重力場方程式がある。重力場を担っているのが重力子や重力波であろうことも、いまでは認証されている。しかし、重力はどんなばあいでも「場」の方程式でしか表現できない。
 
 次は、B「電磁気力」であるが、この力がいまのところは一番わかりやすいと思われる。ファラデーの法則やマックスウェルの電磁場方程式を筆頭として、ほぼそのふるまいが説明されてきた。ダンテの「M」を輝かせていた光は電磁波だった。
 もうひとつ、ホッとすることがある。ここではすでに、電気力と磁気力が一緒になっている。これで、もともとは「5つの力」が並立していたのが、そのうちの一組が消されたわけなのだ。
 電気力は電荷をもった粒子のあいだにはたらいている。その基本は、粒子の電荷はプラスを陽子がもち、マイナスを電子がうけもっているということにある。ふつうの物質原子ではこのプラス・マイナスのやりとりが中性になる。ということは電磁気力からみれば、物質とは、原子のなかでプラスの電荷をもった原子核がマイナス電荷の電子を引き付けていることを成立させている状態の、別名にすぎなかったということだ。これは、重力から見た物質像とはまったく異なっている。このちがいはいつまでも重力と電磁気力の二つの婚姻を妨げてきた。
 ファラデーやマックスウェル以上に、電気の本質を暴いた科学者がいた。J・J・トムソンだ。トムソンは「電子」をつきとめ、それが原子核のまわりをまわっていることに気がついた。それでわかったことは、電子は原子核に捉えられているということだった。これは電子の力ではない。原子核が秘めている力である。これが次の「強い力」とか「弱い力」と称されているものになる。磁気力については、多少の謎も残っている。そのひとつが「モノポール問題」なのだが、ここでは触れない。
 さて、ここからがミクロにおける2つの力のことになる。C「強い力」(ストロング・インタラクション)とD「弱い力」(ウィーク・インタラクション)だ。
 
 C「強い力」は、原子核を引き付けている力のことをいう。かつては原子核のなかで陽子と中性子をパイ中間子のキャッチボールによって結びつけている核力のことだと考えられていたのだが、その後にパイ中間子以外のハドロン粒子(メソンやバリオン)が数多く発見されるにおよんで、事態が一変した。
 ハドロンの存在はその奥にひそむ何かの奇妙さに因っている。この奇妙さこそ、ゲルマンが「ストレンジネス」とよび、それをきっかけにクォークが発見されるようになった当のものである。ハドロン粒子はアップ、ダウン、ストレンジ、チャーム、ボトム、トップと、その反クォークによって構成されることになった。
 「強い力」がはたらいている時間は10のマイナス22乗秒くらいだから、まことに短い。これに対して「弱い力」は中性子が陽子に変わるのに15分ほどかかる。こうして問題はいよいよ「弱い力」とは何かということになる。
 
 D「弱い力」は、ぼくが注目もし警戒もしている力である。この力はもともとは中性子のベータ崩壊の特性として理解されていた。ベータ崩壊は素粒子現象学のなかでも格別に興味深いもので、中性子が電子とニュートリノを放出して陽子に変わることをいう(これが15分かかる)。ぼくはこのベータ崩壊の魅力に惹かれて、ニュートリノの追っかけ(カミオカンデを訪れることなど)をしていた時期がある。
 けれどもこのベータ崩壊も、いまではダウンクォークが電子とニュートリノを放出してアップクォークに変わる現象というふうに理解される。「弱い力」はクォークの種類を変える力なのである。またレプトンのあいだではたらく力にもなっている(レプトンとは、電子やニュートリノのような軽粒子のことをいう)。
 しかし「弱い力」にはさらに注目すべき性質がある。なんと保存則が成り立たないのだ。「強い力」ではインタラクションの前後でアイソスピンやストレンジネスが保存されるのに、「弱い力」はそれを破ってしまう。ストレンジネスも残さない。のみならず「弱い力」は、パリティ(対称性)をも破る。このことはまだ十分には説明がつかないことなのだが、宇宙における「時間の対称性」に微妙な影響を与えている。

 これが「4つの力」のあらかたの特徴なのだが、以上のような「4つの力」の相互関連を求め、そこに「力の統一理論」をむりやりにでも仮想してみようというのが、コスモロジー(宇宙論)とコスゴノミー(宇宙進化論)の最大課題なのである。
 順番にいうなら、まず、「電磁気力」と「弱い力」の統一がはかられた。2つの力を比較すると、電磁気力が弱い力の数億倍もの力があったり、電磁気力がパリティを保存するのに対して弱い力がパリティを破ったりするというようなちがいもあるのだが、どちらもスピン1のボソンをやりとりしているところは共通する。これが「ゲージ場」というもので、ワインバーグ゠サラム理論が用意した。
 ワインバーグとサラムは、電荷をもった粒子(電子など)と弱超電荷をもった粒子(ニュートリノなど)を、1つの粒子のコインの両面のようなものと仮定し、そこに「ヒッグス粒子」という新粒子を想定した。ヒッグス粒子は3000兆度以上では蒸発しているが、それ以下になると凝縮して真空空間を埋めつくすという性質をもっている。水は100度以上では蒸発しているが、それ以下になるとお湯になるようなものである。このヒッグス粒子の作用によって「真空の相転移」がおこると考えられた。こうして電磁気力と弱い力が重なってきたのだ。これをまとめて「電弱力」という。
 そこで次には、この「電弱力」と「強い力」との統一が試みられた。統一した力には「大統一力」というおおげさな呼称を期待されているのだが、そのころは理論的な成功にまでは至らなかった。
 成功しきれなかった理由は、電磁気力と弱い力が統一されるのに必要な温度が約3000兆度なのに対して、電弱力と強い力が統一されるのはその1兆倍近くの温度が想定されていたことにある。ビッグバンがおこって、3000兆度の相転移から次の相転移までに、これほどの差があるのは不自然ではないかというのだ。実際にも、この何も事件がおこらない時期を、天体物理学者たちは月の砂漠ならぬ「宇宙の砂漠」とか、もっと野暮には「階層問題」とよんでいた。かくして、この砂漠や階層問題を解決するために「超対称性理論」なるものが提案されたのである。
 ここからの話はゲージ対称性などの、ちょっと厄介な話をしながら進めなければならない。けれども一尾なぼくとしては、ここでいったん宇宙の「火の鳥」がどのように生まれてこの世にあらわれたのか、その話をしておきたいと思っている。究極の宇宙と究極の物質の“関係”をめぐるM理論の案内所の看板は、そのあとに見えてくる。

【つづく】