レオン・ポリアコフ
アーリア神話
ヨーロッパにおける人種主義と民族主義の源泉
法政大学出版局 1985
Léon Poliakov
The Aryan Myth 1971
[訳]アーリア主義研究会
編集:石堂清倫・平川俊彦
この一冊は、ぼくの世界読書に
少なからぬ影響を与えた。
話題はアーリア神話の捏造に関するものだけれど、
実はセカイの作られ方の秘密が出入りしていた。
それとともに、ヨーロッパ中心史観なるものが、
民族や歴史や風土や言語の解釈によって
どのように歪曲していったのか、
また各国の中でまことしやかで身勝手な
正統化がもたらされていったのか、
その二重性をスリリングに証してくれた。
ヒトラー以前、セカイはとっくの昔から
とうてい尋常ではなかったのである。

 戦前までのヨーロッパでは、大陸の人種はもっぱら「アーリア人かセム人か」というふうに区分されていた。おおかたの諸君が知ってのとおり、ヒトラーはこのセム人に属するユダヤ人の撲滅を謳い、アーリア主義すなわちゲルマン主義を喧伝した。そして大量のユダヤ人が虐殺された。あれって、いったい何だったのか。ファシズム思想がもたらしたものなのか、たんなるヒトラーの狂気のせいなのか。
 ヒトラーは『わが闘争』に「アーリア人は人類のプロメテウスである」と書いた。しかし実は、ヒトラーがこのように断言できたのは長い前史があったからだった。
 キリスト教は長きにわたって、人間がアダムという共通の父から生まれ、族長ノアとその息子たち、ヤペテ、セム、ハムによって大きく3流に分岐したと説明してきた。ところがここにいつのまにか、ヤペテの子孫がヨーロッパ人になり、セムの子孫がアジア人となり、ハムの子孫がアフリカ人になっていったという俗説、あるいはまた、ハムは農奴の祖先で、セムは聖職者の祖先、ヤペテは貴族の祖先だという鼻持ちならない俗説が、どんどこ加わっていった。
 これがアーリア神話だ。その後にこの俗説がどのように変遷していったかはこのあと少々案内するけれど、ようするにヒトラー以前に、アーリア神話はとっくに、しかも多様に確立していたのだった。

  本書は、ぼくがこれを読んだ時点では、この手の議論に分け入った唯一の成果だった。目からウロコが2、3枚、落ちた。ただし著者のレオン・ポリアコフ一人の業績ではないようだ。
 1966年にサセックス大学のコロンバス・センターで、かのノーマン・コーン(897夜)の主導による「なぜ人種主義や民族主義は大量虐殺の歴史を演じてきたか」をめぐる研究が開始した。ポリアコフはその恩恵に広く浴したらしい。コーンが提示した研究対象は、魔女裁判から人種差別まで、スペインにおける白人と黒人の分離からナチスによるユダヤ人虐殺にまでおよぶもので、本書はその討議と研究の成果の最大の結実だった。
 それまで、どのようにアーリア主義が謳歌され、いつどこでアーリア神話がでっちあげられ、それがヒトラーのアーリア・ゲルマン賛歌になったのか。そこにはどれほど多様な前史があったのか、誰も全容を掴めないでいた。そこに本書が登場した。ポリアコフの記述と解説は残念ながらかなりまわりくどく、やや文脈がとりにくいのだが、そのぶん驚くほどのエビデンス(証拠)をちりばめていて、この難題に大きな方向性を与えた。
 ぼくはこの多国籍にまたがる文脈をあらかた理解するのに、ざっと10年を要した。ヨーロッパにおける民族主義と人種主義が入り組みすぎていて、なかなかその核心が掴めなかったからだ。
 だからうまく案内できるかどうかはわからないが、本書の記述にあらかたしたがって、まずはスペイン、フランス、イギリス、イタリア、ドイツ、ロシアの順にその前史をかいつまみ、そのうえでアーリア神話がどのように異様な超シナリオになり、それがヒトラーの言説にまでなっていったのか、その概略をマッピングしてみたい。
 これまでヨーロッパや「セカイ」について諸君が抱いてきたイメージや知識が、かなり粉砕されるのではないかと思う。

 まず、スペインから。
 スペインの歴史は711年のイスラム侵入とその後のレコンキスタによってその前の歴史が忘れられがちであるが、もともとはローマ帝国が土着文化を消し去ろうとし、そこへ西ゴート族とヴァンダル族が侵入したことによって変質していたと見たほうがいい。つまりスペインはもとから積極的に“ゲルマン化”していった国土だったのだ。
 カロリング朝以前のヨーロッパで最も学殖があったとされるセビリアのイシドルス大司教は、西ゴート王朝のすぐれて奉仕的な理論家でもあったから、スペインを「ゲルマン的歴史の人種文化」として正当化した。すると、ここからゴート人をどのようにみなすかという歴史が躍如した。
 スペインのアカデミーでは、いまでも「ゴド」(Godo)といえば「古くからの貴族」のことだとみなしている。そもそもルネサンスではゴート的なることは(すなわちゴシックっぽいとは)、自由であって、かつ野蛮でもありある両義性をもっていた。それゆえセルバンテス(1181夜)は『ドン・キホーテ』の冒頭に「高名で光輝あるゴート人ドン・キホーテ」と示したものだった。
 こうしたゴート認識を媒介にして、18世紀には古代スペイン人をゲルマン人あるいはドイツ人と呼ぶという見方が広がった。そこにはイスラムの席巻を撃退しなければならなかったイベリア半島独特の「レコンキスタ的なイデオロギー」も関与した。

 次にフランスだ。けっこうあやしい歴史をつくてきた。
 フランスにとって「ゴート」に匹敵するのは「フランク」である。十字軍は「フランク人の手になる神の行為」であり、解放された奴隷は「アフランシ」で、自由にされた者の意味をもった。
 そもそもフランスからすれば、フランスの地に侵入したゲルマン人とガロ・ロマン人が混交してフランク人になったのである。それがカロリング朝以降はフランク人の王が大陸の主人公となり、それにつれてオットー・フォン・フライジングの有名な『年代記』のなかで、ドイツ人はフランク人の分枝とみなされた。なんともフランスらしい矜持だった。
 これでシャルルマーニュ(カール大帝)は「フランク人およびチュートン人の皇帝」たることを自信をもって公称できた。吹聴できた。シャルルマーニュは親しい近臣には自分のことをダビデと称ばせていた。
 しかしドイツ人からすれば、ゲルマンの魂、すなわちアーリアの血をみんなフランク人がもっていくのは許せない。ドイツ人はタキトゥスの『ゲルマーニア』を論拠に、シャルルマーニュをフランス化したことを詰(なじ)り、ライン河のこちらにこそアーリアの起源があることを主張した。
 こうしてルネサンス期にはフランスとドイツ両者の言い分が早くも大いに食い違ってくるのだが、ここにフランソワ・ド・ベルフォレの『わが祖先ガリア人』(1580年代?)が刊行されるにおよんで、そもそもガリア人こそがフレンチ・アーリアの起源であるとの評判がたち、ギョーム・ポステルなどもゲルマン人に対するガリア人の優越を強調するようになっていった。
 が、そうした論争を尻目に、太陽王ルイ14世が登場すると、フランスは強引にもゲルマンの系統樹もフランクの系統樹もなべて配下にしてしまったのである。かくて17世紀のジャン・ラブール神父以降は、「元来、フランス人は完全に自由で、完全に平等なのである」というふうになり、これがサン・シモンにもモンテスキューにも伝染していった。モンテスキューは古代ゲルマン人を「われわれの父」とさえ呼んでいる。

 この手放しのガリア主義・ゲルマン主義をこっぴどくやっつけたのは、皮肉な歴史家ヴォルテール(251夜)だった。ヴォルテールはフランスにはフランクの家系を引くものなどひとつもないと言ってのけた。
 一方、同じ啓蒙派でもディドロ(180夜)のほうはこれを緩め、あえて語源を持ち出して、「フランク、フラン(自由)、リーブル(自由な)、ノーブル(貴族)」などが同じ語源であることを仄めかした。
 しかしフランス革命は、これらの議論をいったんご破算にした。フランス革命は「抑圧者ローマ人、被抑圧者ガリア人、解放者ゲルマン人」という三つ巴の構図を現出させ、これをさかんにふりまいたのである。民族の歴史から見たフランス革命とは、そういうものだった。フランス革命は必ずしも市民の起爆などじゃなかったのだ。フランソワ・ギゾーはこれを集約して、「フランス革命は結局はフランク人とガリア人の対立だった。それが領主と農民の、貴族と平民の対立で、そこに勝利と敗北があらわれたのだ」と述べた。
 つまりは、フランスのアーリア神話はかなり混乱していたわけだ。フランス革命とフランスの歴史を最も公平に記述したジュール・ミシュレ(78夜)さえ(ぼくが好きなあのミシュレさえ)、「人種は重なり合っていく。ガリア人、ウェールズ人、ボルグ人(古代ベルギー人)、イベリア人というふうに。そのたびにガリアの地が肥沃になっていって、ケルト人の上にローマ人が重なり、ゲルマン人がそこへ最期にやってきたのだ」と書いた。

 イギリスとは何か。
 ぼくは『世界と日本のまちがい』(春秋社)に、イギリスのいくつかの過誤を示しておいたけれど、もともとイギリスにはそのような過誤を演出せざるをえない事情がひそんでいたともいえた。
 11世紀以前のイギリスは多数の民族の到来によって錯綜していた。ブリトン人、アングル人、サクソン人が先住していたうえに、そこへケルト人、ローマ人、ゲルマン人、スカンディナヴィア人、イベリア人などがやってきて、そして最後にノルマン人が加わった。大陸の主要な民族や部族は、みんなイギリス島に来ていたのだ。
 この混交が進むにつれて、本来は区別されるべきだったろう「ブリティッシュ」と「イングリッシュ」の境い目が曖昧になっていった。株式会社楽天の諸君が後生大事にしている「英語」とは、こうした混成交差する民族たちの曖昧な言語混合が生み出した人為言語なのである。それゆえOED後の英語は、これらの混合がめちゃくちゃにならないようにその用法と語彙を慎重に発達させて、「公正」(フェアネス)や「組織的な妥協力」や「失敗しても逃げられるユーモア」を巧みにあらわす必要があったわけである。

 ところで、こうした調整をするにあたってイギリス人は、自分たちの起源神話をギリシア・ローマ神話にもケルト神話にも、ゲルマン神話にも聖書にも求めることにした。こんなちゃっかりした民族はない。
 ちなみにもっとちゃっかりしているのは、このイギリスから派生したアメリカ人だった。そのことはトマス・ジェファーソンらがアメリカ合衆国をつくりあげた起源神話として、ひとつにはサクソン人の首領ヘンジストとホーサによる海洋横断をあげ、もうひとつにメイフラワー号の渡航をもってユダヤ人による砂漠横断につなげたことにあらわれている。
 しかし実際には、ブリトン人は自分たちの「最初の横断」のことなどすっかり忘れていた連中だったのである。そこでやむなく、セビリアのイシドルスの記述に従って(またもや!)、自分たちの名の由来になる祖先として「ブリットないしはブルタス」という名を選び出し、これをせっせとヤペテの系譜につなげたのだ。
 かくて8世紀のベーダがそのようなイングランド史を書くことになったのだが、そのテキストのおかげでベーダは“イギリス史学の父”と呼ばれた。ベーダは「ジュート、アングル、サクソンがゲルマニアの地からやってきた」とも書き加えた。
 もっとも、この系譜はのちに書き換えられていった。それはアルフレッド征服王の“史実”を正統化するための変更だった。そしていつのまにか、あらゆるゲルマン部族のなかで、アングル族とサクソン族のみが(つまりはアングロ・サクソンのみが)、最高神オーディンにまでさかのぼりうる系譜をもっているとともに、セムの系譜に直結しているというふうになったのである。

 こうしてイギリス人はヤペテの系譜ではなく、ノアの長子のセムの系譜のほうに位置づけられたのだ。
 これでうまくいった。アーサー王伝説や獅子王リチャードの伝説がその線でかたまり、その後のイングランド王たちは自分たちがセムの末裔であって、「モーセの民」であることを誇るようになっていった。

 ヘンリー8世も、クロムウェルやジョン・ミルトンのようなピューリタン派も、さらにはウィリアム・ブレイク(742夜)でさえ、イギリス人をモーセの民に帰属させることに賛意を抱いたことには驚かざるをえない。
 さっそく、イギリス人とユダヤ人を積極的に結びつける理屈がいろいろ試みられた。ジョン・トーランドの『大ブリテン島およびアイルランドにユダヤ人を帰化させる理由』(1714)は、そういう一冊だった。逆に、そんな安易な選択に反対するウィリアム・プリンの『イングランドへのユダヤ人の召還に反対する小論』なども出回った。
 しかし近代に向かってイギリス人の血を沸き立たせたのは、なんといってもウォルター・スコットの『アイヴァンホー』と『ウェイヴァリー』だ。『アイヴァンホー』は12世紀のイングランドを舞台にした熱血小説で、『ウェイヴァリー』は1745年のジャコバイトの反乱を素材に若い草莽の血を描いたもので、それぞれ英国浪漫を滾(たぎ)らせた。
 ここにおいて、イングランドの血統はスコットランドの血統に対峙し、イギリスの血潮はフランスの血潮を凌駕してしまったのである。

 話をイアリアに進めよう。
 イタリアを、フランスやイギリスやスペインと同断の視点でみるのはやめたほうがいい。そのことはファビオ・ランベッリの『イタリア的』(1158夜)でもある程度の見当がつくだろう。
 むろんイタリアの地でも多くの部族や民族が通過していった。ギリシア人、ガリア人、ゴート人、ロンバルディア人、ビザンチン人、ノルマン人、フランス人、ドイツ人、スペイン人などだ。
 しかしイタリアは、フランスやイギリスとちがって、これらの民を決して自分たちの歴史の中心に組みこんではこなかった。イタリアはつねにウェルギリウスが描いた「アエネーアスの物語伝統」と、そこから国が築かれた「古代ローマの遺産」と、そして「歴代のローマ教皇」の上に成立し、いかなるイタリア性も別の国々から援用してはこなかった。

 イタリアにはフランク神話やゴート神話に類したもの、たとえば“ロンバルディア神話”といったものは一度も現出しなかった国である。どだいロンバルディアは「ロング・バルブ」(長い髭)という以上の意味をもってはいなかったのだろう。中世都市国家群すら、イタリアの民族主義に何の装飾も加えなかった。
 こうした純血イタリア主義ともいうべきをルネサンスに向かって派手に確立させたのは、イタリア起源神話の流れに最も貢献したダンテ(913夜)であろう。そのことは『神曲』がウェルギリウスの案内による世界巡りになっているということにも、シーザー(カエサル)を殺したブルータスとカッシウスが地獄の第9獄に配下されていることでも、よくわかる。
 いいかえれば、ダンテはイタリアを通過した数々の族長には決して関心を示さなかったということだ。ダンテだけではない。ルネサンスのユマニスムを謳歌したペトラルカやボッカチオ(1189夜)だって、その代表作『著名男子列伝』や『異教神系譜』に一人の古代ギリシア人すらとりあげなかったのだ。
 以来、イタリアはマッツィーニが「第3のローマ」を謳い、ガリバルディが「ローマか死か」と訴えたように、みんなが“ロムルスの子孫”というアーリア人になりたがったのである。

 では、いよいよドイツである。
 ふつう、イタリアが「個人主義と懐疑主義」に片寄るのなら、ドイツは「群衆心理と熱狂」に加担してきたと言われてきたはずだ。しかしニーチェ(1023夜)が言ってのけたように、「ドイツ人を定義することなど不可能なのである」。
 そもそもドイツ人には「ゲルマンの初期」と「大ドイツの初期」とのあいだに断絶を見る傾向がある。初期ドイツ人がゲルマン系の言葉を喋っていたというなら、すでにクローヴィスとシルペリクの時代がゲルマン的であったのだし、新たにドイツ的なるものがどこから芽生えたのかというのなら、ドイツ(Deutsche)という語そのものの語源が示しているように、ドイツは多様な部族間の言語的共同体あいだの中から生まれてきたものなのだ。
 この部族間の言語的共同体のあいだこそは、ドイツのナショナリズムの起原となる原郷なのである。これを真っ先に称揚したのは、誰あろうマルティン・ルターだった。そのことはルターの『ドイツ国民のキリスト教貴族に与う一書』に明白だ。
 こうして1780年、プロシアの政治家フリードリッヒ・フォン・ヘルツベルクは、ゲルマン民族(アーリア民族)の発祥地はブランデンブルクであって、そここそが「新しいマケドニア」であると言ってのけるにいたる。これが何を意味するかといえば、ロマン派の巨人ジャン・パウルがそれをドラスティックに示唆したのだが、「ヨーロッパにおけるどんな戦争も、つまりはドイツ人のあいだの市民戦争にすぎない」ということなのである。
 もうひとつドイツを象徴していることは、あらゆるローマ的なるものを軽蔑してきたということだ。それはオットー大帝が即位した962年にすでに、大帝の信頼を一身に浴びたクレモナのリゥトプラント神父が次のように断言したことにあらわれていた。
 「われわれ、ロンバルディア人、サクソン人、フランク人、ロートリンゲン人、バヴァリア人、ズェーヴェン人、ブルクントセ人は、ローマ人にたいしてきわめて大きな軽蔑の念を抱いているので、われわれが怒りを表現しようとするとき、われわれは敵を罵るのに、ローマ人という言葉を使うのである」。

 ドイツはその歴史の当初から、民族の秩序としての「ドイツ的な魂の共同的原理」をかこってきた。そう、言える。
 しかしながら、こんな「ドイツ的な魂の共同的原理」などというものがそうそう現実にあるわけがない。それはたえず“理想のドイツ”という共同幻想の上に咲かざるをえないものだった。しかもその程度の共同幻想は、日本の「八紘一宇」や「大東亜共栄圏」がそうであったように、ふつうならどこかで歪むはずである。
 ところがドイツにあっては、それが宿敵フランスとの対立対比が歴史上たくみに作動して(三十年戦争など)、ついに崩れることが避けられてきた。その最も顕著な例がナポレオン戦争によって、クラウゼヴィッツ(273夜)のドイツ・ストラテジー(戦争論)が確立し、フィヒテ(390夜)の『ドイツ国民に告ぐ』が熱狂的に受け入れられていったことなどにあらわれた。
 もうひとつ、ある。「ドイツ語がヘブライ語に先んじていた」という勝手な共同幻想が、大ドイツ主義の形成にあずかった。このことは「ドイツ人の世界精神」という観念をいつのまにか肥大させ、疾風怒濤のシラーがまさにそうであったけれど、「ドイツの世界精神が人間の教育を永遠におこなうための資源である」という妄想にまでふくらませていったのである。

 これらがやがてワーグナーやヒトラーのアーリア神話に行き届いていくのだが、そのことについてはのちにふれる。

 ロシアはどうか。
 ロシアには長らく5つの伝承が組み合わさってきた。ロシアという名称の起原となった「ルーシ」の伝承、スラブ族としての伝承、キエーフの年代記がもたらすネストルの伝承、各種の民俗習慣やロシア正教の伝承、そしてビザンチウムやロマノフ王朝の伝承である。
 これらの伝承はしばしば「ウラジミール公たちの伝説」というふうに束ねられていたけれど、実際にこれらのいくつもの伝承が一つに向かっていく結節点となったのは、1472年にイヴァン3世がギリシアの王女ソフィア・パレオログと結婚したことだった。こうして国民的紋章がビザンチンの双頭の鷲になり、それにふさわしいモノマクの王冠(白い三重宝冠)が用意され、モスクワが“第三のローマ”とみなされた。
 そこに加わったのが、ロマノフ家のアナスターシャと結婚したイヴァン4世(雷帝)による、「私はロシア人ではない。私の祖先はドイツ人だった」という宣言だ。雷帝はここにロマノフの王家がアーリア化し、ゲルマンの矜持をもつようになった。
 この路線を拡大したのはピョートル大帝である。
 大帝は、1700年前後の北方戦争で領土を著しく広域化すると、西欧主義を積極的にとりいれ、ロシア官僚主義とロシア絶対主義を築いた。しかしいくらピョートル大帝が夜郎自大なことをヨーロッパに向けて喧伝しても、ドイツ人からすると、ロシア人とはアジア起原の民族か、もしくはアッティラに率いられてヨーロッパに侵入したフン一族の末裔にしか見えなかったのである。
 が、こんなひどい侮辱は吹き飛ばさなければならない。それに着手したのはピョートル3世に嫁いでこの愚鈍な夫を放逐したうえ殺害し、ロシア全土に農奴制を強化していったエカテリーナ女帝だった。3度のポーランド分割、再度の露土戦争を押し切り、フランス革命を憎んだ稀代の女帝は、スラブ人の人種的優越を鼓吹し、晩年にはスラヴォニア語が人類最初の言語だと自分で執筆するほどになっていた。池田理代子の傑作マンガ『女帝エカテリーナ』(中公文庫コミック版)などを読まれるといい。
 こうして、さしもの不毛の地を多くかかえるロシアにも、カラムジの『ロシア国家の歴史』や国民詩人プーシキン(353夜)の歴史観などが出回るようになっていく。
 しかし実際には、プーシキンの友人だったチャダーエフが『哲学書簡』に述べたように、ロシアの唯一の特異性は「無」の中にひそんでいたのかもしれない。ロシア革命前のナロード・ニキの運動、ロシア革命のボルシェヴィズムの運動、ロシア革命後のユーラシア運動などを見ると、チャダーエフの暗示は当たっていたようにも思われる。

 以上が、各国に用意されていたアーリア神話の、それぞれの“前提”のためのプレ言説たちである。
 これらは各国でてんでんばらばらに出入りしてきた言説ではあるが、それが奇っ怪にも、しだいに「一つのアーリア神話」に向かって超シナリオ化されていったのだ。
 なぜそんな驚くべき超シナリオがつくられることになったかといえば、冒頭にも書いたように、ヨーロッパ各国に“人類の単一性”についての「聖書に代わる新たな神話」が必要になっていったからだった。

 人類をアダムの末裔として提示した聖書については、早くから疑義がもたらされていた。
 10世紀のアル・マスーディは「すべての人間が一人の父のもとから派生した」という考えのおかしさを指摘して、アダムの前にざっと28種ほどの民族が先行していたことを主張した。
 以来、このようなトンデモ仮説はさまざまなヴァージョンとなって歴史思想をかいくぐってきた。とくにこの手の仮説がまことしやかに立案されていったのは、なんと“人間復興”に耽ったはずのルネサンスに入ってからのことで、それも世界思想の駆動エンジンに大きな寄与をもたらしてきた人物たちの手で、立案された。
 たとえばパラケルススはアメリカの土着民は“別のアダム”の系譜に属するだろうと問い、ジョルダーノ・ブルーノは「人類はエノク、レビヤタン(リヴァイアサン)、アダムという3つの祖先をもっていた」と説いたのだ。イギリスでは詩人のクリストファー・マーローや数学者のトマス・ハリオットが「ヨーロッパのどんな外国でもアダム以前の人間たちの末裔がひしめいているはずだ」と述べている。
 こうした言説がアーリーモダンおいて最初の異様なセンセーションに達したのは、ボルドー地方のマラーノだったイザク・ド・ラ・ペレールが『ユダヤ人の召還』(1643)や『前アダム仮説に関する神学体系』(1655)を発表したときである。ラ・ペレールは聖書の年代記をいったんご破算にして、フランス王たちは「かつての選ばれた民」を国内に召還したほうがいい、そうすればユダヤ人以外の祖先によるダビデの王国を復活することも可能になると強調した。
 これは、アダムがユダヤ人のみの生みの親であって、それ以外の選民がもっといるはずだ、そこには「われわれのルーツ」もあるはずだという主張でもあった。いささかおっちょこちょいだったデカルトやメルセンヌはこの主張にけっこう心を動かした。さすがにパスカル(762夜)は一笑に付している。

 このような新しい人類起源論の流行を、いまではまとめて「複数創世説」ということができる。人類複数起原説である。
 お歴々の思想家たちにも人気があった。異説が好きなホッブス(944夜)、スピノザ(842夜)はむろん、後期ヴォルテール(251夜)も後期ゲーテ(970夜)も加担した。
 しかし、いざこの仮説を現実社会にあてはめようとすると、けっこうな難題が待ちかまえていた。その難題に最初に出会ったのがスペイン人だった。南米を侵略したスペインがここで原住民を布教することになったとき、インディオをアダムの末裔と見るか、それとも異民族と見るかで布教方法が論争になったからだ。
 ドミニコ会の修道士バルトロメ・ラス・カサスはインディオをアダムの末裔とみなし、その解釈にローマ教皇庁もフェリペ2世も同意した。ということは、ここでは「複数創生説」は破れたのだ。
 ところが他方、スペインから奴隷労働力として南米に連れていくことになったアフリカの黒人たちについては、かれらはぬけぬけと複数説をとり、「白いインディオ」と「黒いエチオピア人」(黒いアビシニア)を区別した。インディオをアダムの民と見ることと、黒いエチオピア人を白いインディオと対比させることには、あきらかに矛盾があったにもかかわらず。

 そこで何らかの工夫が必要になった。その工夫に貢献した一人のシナリオライターが『ノアの方舟あるいは諸王国の歴史』(1666)を書いたドイツ人のゲオルギウス・ホルニウスである。
 ホルニウスはノアの末裔に分岐をもうけ、ヤペテ系が白人になり、セム系が黄色人種になり、ハム系が黒人になったとしたのだ。歴史学も神話学も取り乱しはじめたのだ。
 やがてスペインの時代がオランダに移り、それがイギリスに移っていくと、こうした人種論に“科学の目”をからめることが流行した。ラ・フォンテーヌはそうしたイギリス人の趣味を、「いたるところで科学の王国を広げているイギリスのキツネたち」と呼んだ。アーリア人種は「科学の王国の住民」にもなったのだ。

 近代科学のプロトタイプとなった数々の科学論や哲学論が、人種についてはそうとうにめちゃくちゃな議論を正当化しようとしていたことについては、もっと知っておいたほうがいい。
 ジョン・ロックは「猫とネズミをかけあわせた動物」がいるだろうように世界の人種を見ていたし、レオミュールは「ニワトリとウサギのかけあわせに類する実験」のあれこれに成功したとフランスでは信じられていた。「最小作用の原理」を確立した数学者で、ベルリンアカデミーの会長だったモーペルテュイでさえ、皮膚の白さと黒さを比較することがきっと人種の優劣を決める科学になりうると考えていた。
 なかで最も有名な過誤を犯したのは、かの分類学の泰斗のカール・リンネだったろう。その『自然の体系』にこっそり“人間”の項目を入れたリンネは、大胆にも次のように人種分類をしてみせたのだ。
 

   エウロパエウス・アルブス(白いヨーロッパ人)=白くて多血質。創意性に富み、発明力をもつ。法律にもとづいて統治される。

   アフリカヌス・ルベスケウス(赤いアメリカ人)=赤道色、短気。自己の運命に満足し、自由を愛する。習慣に従って自身を統治する。

   アジアティクス・ルリドゥス(蒼いアジア人)=黄色っぽい、憂鬱質。高慢、貪欲。世論によって統治されている。

   アフェル・ニゲル(黒いアフリカ人)=黒くて、無気力質。狡猾、なまけもの、ぞんざい。主人の恣意にもとづいて統治されている。

 リンネの“理論”はビュフォンの「退化の理論」に受け継がれ、やがてはルソー(663夜)の『人間不平等起原論』の中で想定された“自然人”のカテゴリーにまで突っ込んでいく。
 こうして事態は18世紀末のクリストファー・マイナースの「人種理論」の創成に向かっていったのだ。マイナースはのちにナチスが評価した”早すぎた人類学の父”となった過誤の先駆者だった。

 近代思想の流れのなかで、ダーウィンの進化論ほどに誕生したその日から勝手に歪曲されていったものはなかった。なかにはすぐれた社会進化論に適用されたものもあったけれど、おおかたは度しがたい進歩思想と優生思想がさまざまに組み立てられ、捏造され、流布していった。
 その頂点にいたのがフランスの外交官で歴史家で、また東洋史の研究者であって、かつ人種的社会学の創始者ともなった、かのジョセフ・ゴビノー(1816~1882)なのである。悪名高い『人種の不平等性について』を書いた。
 ゴビノーは聖書の読み直しから出発し、創世記が「美と知と力をひとりじめ」にしている白い人類を強調していることに着目すると、その白い人類が北方アジアから出てきたであろうと推理した。まさにウクライナ平原を遊牧していたキンメリア人やスキタイ人を含む「アーリア人」(1421夜)に、白い人類の源流を見いだしたのだ。
 ただし、このアーリア人はそれまでの聖書学の慣習に従って「ヤペテの民」と呼ばれた。ゴビノーは、ヤペテとハムとセムが最初の白人となりながらも、それが分岐していったとみなしたのだ。
 そもそもゴビノーは人種には「人種の本能」というものがあり、そこに吸引の法則と反発の法則がはたらくと考えて、これは宿命的な“歴史科学”なんだと思いこんでいた歴史家だった。吸引の法則というのは人種の混交を受容していく傾向のことを、反発の法則は混交を避ける傾向をいう。
 この“歴史科学”が白い人類にあてはめられた。二つの法則がはたらいて、ハム人は黒い血との混交を吸引しすぎて飽和と劣化をくりかえし、セム人はそれよりもゆっくりした程度ではあるが劣化した。それに対してヤペテの子孫であるアーリア人は、キリスト教の初期時代あたりまでかなりの純粋を保ってきた。ゴビノーは、そう、みなしたのだ。ちなみにユダヤ人はセムの初期の血をやや純度をもってきたとみなされた。
 ゴビノーは、こんなどうにも理屈の整合性の説明がつかないような構図を自信をもって提示したのである。もっとも、アーリア人もキリスト紀元以降はフィン人をはじめとする各種の民族と混交したため、しだいに堕落していったと見て、決してドイツ人ばかりに好意の例外性を与えはしなかった。

 ゴビノーのトンデモ仮説は、当初はまったく評価を受けなかった。ゴビノーはがっかりしていた。そのためオーギュスト・コント、ド・トクヴィル、エルネスト・ルナンらはゴビノーを慰め、君の主張はきっとゲルマン諸国で受け入れられていくだろうと激励したほどだった。
 この慰めの予言はヒトラーの時代になって当たったということになったのだが、実際にはゴビノーとはべつに次のような思想家たちが似たような言説を強調していったことにより、このトンデモ仮説はまことしやかな恰好でしだいに広まっていった。
 たとえば、“自然哲学の父”と称ばれたシェリングは白人には最も重要な高貴があると考えて、『神話の哲学』では人類を「人間的な人種」(ヨーロッパ)、「動物的な人種」(アフリカ・アメリカ)、「中間的な人種」(アジア)に分けた。そのうえで「コーカサスの人種の祖先のみがイデーの世界に入りこむことができる唯一の人間だった」と、暗にアーリア人を称揚した。
 ドイツの自然主義哲学のパイオニアになったローレンツ・オイケンも、モンゴル人、アメリカ・インディアン、アフリカ黒人などに言及し、結果的にゴビノーの歴史科学に似た言説を披露した。そこには「黒人が赤面できないのは、内面的な生活がないからである」などという噴飯ものの強烈な差別発言もまじっていた。
 しかしヘーゲルだって、同じような人種論を展開したのだ。有色人種や黒人に対して劣等性を与えただけでなく、アフリカのような地域の全体を世界史の枠組みから外してしまった。
 それどころかヘーゲルの世界史は、①ゲルマン民族の発端からシャルルマーニュまで、②シャルルマーニュから宗教改革まで、③宗教改革からヘーゲル自身の思索の成就まで、というような鼻持ちならない3段階でフレーミングされていた。
 無神論者のフォイエルバッハはちょっと捻りを加えた。たいしたアイディアではないが、ゲルマン的本質に男性的な哲学原理を、フランス的なるものに女性的な思索原理を対比させたのだ。そのほか、昭和初期の日本で大流行した『唯一者とその所有』のマックス・シュティルナーはやや積極的に、「人類の歴史は、コーカサスの人種の天を征服していくことになるだろう」と予想した。もしそれがナチスの先取りだったとしたら、シュティルナーはヒトラーの先駆者だったということになる。 

 マルクス(789夜)やエンゲルスはどうだったかといえば、残念ながらこの件についての例外になりえていない。エンゲルスの『自然弁証法』は人種の下等性を動物に譬え、黒人には数学能力がないだろうと書いた。ただ、セム人とアーリア人については同一のホリゾントに並べた。
 ショーペンハウアー(1164夜)はどうかというと、さすがに人種主義には陥ってはいなかったろうとぼくは思っていたが、しかしそれでもなお本書の著者は、ショーペンハウアーが「アーリア主義」と「セム主義」を対比させるという方法をドイツ国民に普及させるにあたって、最も影響力と洗脳力を発揮した最初の人物だったと見ている。
 もしそうだとするのなら、この「意志と表象の哲人」はユダヤによって窒息された西欧思想をユダヤ思想から解き放つのに、はからずも貢献してしまっていたのだということになる。それならビスマルクも同じ役割をはたしただろう。この鉄血宰相はゲルマン人を奮い立たせるのに、たいていスラブ人とケルト人を引き合いに出したのだ。

 歌と社会の革命詩人ハインリッヒ・ハイネ(268夜)となると、もう遠慮もしていない。「われわれドイツ人は最も強く最も知的な民族である」と歌って、さらに次のように高揚させた。「われわれの王朝はヨーロッパすべての王位を占めており、わがロスチャイルドは世界のあらゆる財源を支配しており、わが学者たちはすべての科学を支配しており、われわれは火薬と印刷術を発明したのである!」。
 ずいぶんの誇張だが、こうなるともはや誰だって“早すぎるヒトラー”だったのである。
 通俗科学者たちもドイツ・アーリア主義の普及に寄与した。カール・グスタフ・カールスはジネコロジー(婦人科学)を標榜して、無意識にひそむゲルマン魂を“説明”してドイツ人のプシュケーを見えるように仕立て、カール・グスタフ・ユング(830夜)の先駆者の役割をはたしたし、ヴォルフガング・メンツェルは「ゲルマン狂い」(ゲルマン・マニー)になることこそ、普遍的な人間の魂や悲劇に触れうることを訴えた。
 もはやニーチェ(1023夜)は間近かなのである。ニーチェはプロメテウスの神話とアダム堕落の神話をアーリア的本質とセム的本質に結びつけ、決してアーリアン・スピリットばかりを強調したわけではなかったのだけれど、それはニーチェ自身の思想においてはそうであっただけで、これを読んだ者たちには「超人」こそアーリアン・スピリットの体現者と映っていったはずだった。
 こうして世紀末に向かって、ゴビノーのアーリア主義は数々の思想の意匠と尾鰭を身につけ、数々のえり抜いた言葉に飾られ、ついに一人の音楽家によって絶頂にまで高められたのだ。それがリヒャルト・ワグナーのオペラ・ファンファーレというものだ。もう、どうにもとまらない。

 ダーウィンがうっかり『人間の由来』を書いたのはよけいなことだったかもしれない。すでにパリに発足していた人類学会にとって、ダーウィンが人種にも進化生物学が適用できるというお墨付きをもたらすかたちになっていったからだ。
 フランスの形質人類学のリーダーとなったポール・ブロカーは「アーリア人種という用語は完全に科学的である」と確信し、ヘブライ人の原型である“ヘブロイド”などという人種を提唱したほどだった。堰は切って落とされたのだ。こうなっては誰もが黙っていない。
 マルスラン・ベルトゥロは「アーリア人とギリシア人が比喩の多い言葉を使う理由」を語り、イポリット・テーヌは「言語と宗教と文学と哲学とが血と精神の共同体となりうる理由」をとくとくと解説し、言語と文化と人種をごちゃまぜにすることにあれほど警戒をしていた文化人類学の創始者であるエドワード・タイラーでさえ、ついついアーリアン・ヒストリーについては寛大な姿勢を見せ、原始アーリア人はウラル・アルタイ系の短頭人だったのではないかといった勇み足もしてしまっていた。これでは長頭のフランク人がアーリアの源泉からずれることになる。

 もっとも、ここで新たな問題も浮上していた。
 それは言語と人種についての関連が濃くなってきたぶん、大英帝国の植民地となったインドについての調査と研究も深まってサンスクリット語の研究が進み、ヨーロッパ・アーリアとインド・アーリアの区別がつきにくくなっていったということだ。
 そのため、ここに「インド・ヨーロッパ語族=アーリア語族」という等式がいったん浮上したのだが、しかし、ヨーロッパ人たちにとってはこれでは困る。ヨーロッパ人とインド人が一緒くたでは困るのだ。なんとかしてヨーロッパ・アーリアの優秀を強調しなければいけない。
 かくていっそうに、20世紀はアーリアのための人類学、アーリアのための言語学、アーリアのための神話学、アーリアのための歴史学が過剰に演出されることになった。それとともに、それを言い募るには近隣の人種をもっと激しく睥睨するか、もっとありていにいえば糾弾する必要にも迫られたのである。
 ここにいよいよフランスを筆頭に「反ユダヤ主義」の旗が大きく振られていくことになる。

 アーリア主義と反ユダヤ主義の結びつきを確固たるものとしたのは、エラズマズ・ダーウィンの孫で、チャールズ・ダーウィンのいとこのフランシス・ゴルトンである。この男がここまでの気運に後戻りがきかないような決定的な方向を与えた。
 ゴルトンはケンブリッジ大学を出るとスーダンの首都ハルツームでダーウィン家独特の調査研究に携わり、『熱帯のアフリカ』や『旅行学』といった著書を執筆するような青年研究家だった。これで気象学に関心をもったゴルトンは各地の文化地理というものの特質がどのように生まれてきたかという研究に転じて、そこからひそかに人類の遺伝形質の分類をするようになった。
 やがて家系や血統によって才能が不平等に分布していることに気が付くと、『遺伝的天才』を発表、「人間性の堕落」の要因がどこかにあるだろうと思い始め、しだいに人類の今後の歴史において人種が無差別に堕落していくことに警戒するべきだと考えた。
 こうして1910年前後、最も優秀な民族や人種こそが未来の人類文明を築くために断乎として残ることの重要性を訴えるべきだと確信すると、ついにゴルトンはそこから「優生学」という忌まわしい擬似科学をつくりだしたのである。その優生学の目的は「不適応者が生まれるのを許さず、その出生率を抑制する」というものだった。
 どうすればいいか。「断種」をこそ実施するべきだという結論が出た。

 ゴルトンの優生学はイギリスからアメリカに飛び火し、たちまち燎原の火のごとくに広がった。
 インディアナ州とカリフォルニア州を皮切りに、アメリカ各州で断種法が次々に可決成立し、チャールズ・ダヴェンポートらによって優生記録局が設立されると、アメリカ中で断種が奨励されることになり、各州で数千人ずつがその対象になった。かくてアメリカでは1925年までに全土で優生学と断種が奨励されるにいたっていた。
 この優生学的断種運動がふたたびイギリスに逆流し、それがドイツに転化して、1933年に総統ヒトラーによる「ドイツ断種法」の成立になっていったのだ。
 これでわかるように、先進列強のなかでヒトラー・ドイツはこの運動の最も遅い後発部隊だったのである。すべてはイギリスとアメリカが用意していたものだったのだ。
 ただしドイツはその2年後に「ドイツ民族の血統と名誉を保護する法」というとんでもない法を付け加え、以降、アーリア・ドイツ民族とユダヤ人の結婚と性的関係を禁止した。

 優生学が最後にドイツで開花してしまったことが、アーリア神話をユダヤ人虐殺に結びつけた。ヒトラーが1935年に大学教授に任命したアルフレート・プレーツは、優生学を「人種衛生学」に改変し、ドイツ最大の産業家のクルップがその研究に資金を拠出した。
 もはやアーリア神話は忌まわしいアーリア問題以外ではなくなっていた。ドイツでこの忌まわしい問題をふたたび神話の輝きに変貌させたのは、パウル・ド・ラガルドがこれらを丹念に「ドイツ教」に組み替えて、ドイツ教すなわちアリーア主義をユダヤ教に対比させることに成功してからだった。ラガルドは「ユダヤ人がユダヤ人をやめるのは、われわれがドイツ人になるにつれてのことだ」と言って、ユダヤ人虐殺の先鋒を切った。
 問題は、そうしたラガルドの言説を初期のトマス・カーライルもトーマス・マンもバーナード・ショーも称賛してしまっていたこと、そのラガルドの言説がフートン・スチュワート・チェンバレンによって『十九世紀の基礎』『西欧の歴史におけるユダヤ人』といった啓蒙書として普及し、それがついにアルフート・ローゼンベルクの手による『二十世紀の神話』として未来に向けての概括として、ヒトラーに献上されてしまったこと、それが『わが闘争』の一部を飾ってしまったことである。
 ポリアコフは次のように書いている。
 ヒトラーやムッソリーニは新たな神話を捏造したのではない。1500年にわたってヨーロッパを動いてきたアーリア・ゲルマン神話を『サリカ法典』や『神曲』やルターの聖書崙のように援用したのである。むしろルネサンスの人文主義者や啓蒙時代の思想家たちが、この流れを一度も食い止めることができなかったことが、アーリア神話をヒトラーの手に委ねさせることになったのだ。
 

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