才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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デカメロン

ジョヴァンニ・ボッカチオ

河出書房新社(世界文学全集第2期第1巻) 1963

Giovanni Boccaccio
Decameron 1348~1353
[訳]柏熊達生・高橋義孝

1日10話が10日にわたる。
そこには、物語の編集様式の確立が生まれた。
それは、ダンテの『神曲』に対応した『人曲』だった。
ダンテ、ペトラルカ、そしてボッカチオ。
この3人のトスカナ人こそは、
ルネサンス以前の物語編集の革命者だった。
そこに共通するのはレミニッセンスというものだ。
世阿弥と近松に遊ぶためにも、
いま『デカメロン』をお薦めしたい。

 やっとボッカチオについてふれる夜がきた。ダンテに心酔したボッカチオだった。だからほんとうはダンテのあとにペトラルカの文体をちょっと覗いて、それからボッカチオの野心に言及したかったのだが、そんなふうに問屋は卸してくれない。任意な順になった。ま、そこが「千夜千冊」のいつも通りのたいそう気まぐれで、いいところなのだけれど……。
 ボッカチオについて書きたかったことは二つある。ひとつは「物語様式の確立」について、もうひとつは「レミニッセンス」(reminiscence)についてだ。レミニッセンスは日本語にしにくい用語だが、心理学用語では記憶が少し時をへだててからのほうが増強されることをいう。「気がつかない真似」とか「無意識の模倣」とか、あるいは「人が人に似たくなる行為」「知らないうちに真似していること」などと見るといいだろう。ぼくのとっておきの言葉でいえば、レミニッセンスは「肖る物語性」というものだ。

 とんでもないことに、いまは誰にとっても物語なんてものはごく容易に綴れるものだと思われている。実際にも世の中に流布している小説からライトノベルまで、メタフィクションからトレンディドラマまで、大半の物語はまったくもっての大安売りだ。
 こういう物語の乱売は、かつて中上健次がそういう物語の消費しやすさをあしざまに“物語の豚”呼ばわりしたことがあったけれど、まさに牛肉にまぜた豚や得体の知れない食肉のように、腹をこわしかねない。さもなければ賞味期限を週単位にしつつあるにすぎない。ようするに何でも物語になると思われている。
 かつてはどうだったかといえば、何をもって物語とするかというそのこと自体が、きわどい冒険であって危険な企てだった。それまでは「物語」と「物語でないもの」との区別さえついていなかったといっていいだろう(ウソとホントの区別が幼児につかないように)。では、どこで物語は自立できたのか。一言でいえば、「物語には物語をひっつける作用がひそんでいる」ということに誰かが気がついたとき、物語は勇躍して自立していったのだ。その「ひっつける」という作用をおこしているのがレミニッセンスだった。
 心理学の分野ではレミニッセンスは学習効果の手立てとしてつかわれている。記憶はしばらくたってからのほうが想起しやすいという記憶改善学習だ。しかし、実のところレミニッセンスの本質は「模倣」なのである。「似せ絵」なのだ。「擬態」なのだ。「アナロギア」なのだ。それが物語というコンテキストにからんでいく。すなわち物語の心棒のようなものになっていく。ボッカチオが挑戦してなしとげたことは、この心棒のようなレミニッセンスを体現させる物語様式を創りだしたことにある。

 今夜は物語の本質や属性を説明しようとは思わない。しかし、物語が安易なものではないということだけは前提にしておきたい。
 誰も「背広」や「美術館」というものを知らないときに、何をもって背広や美術館とするかという決断には、関係者たちの大いなる算段が必要だったように、物語も、そのような野心と算段をもってしか生まれえなかった。そして、何をもって何に肖るのかということが、ただひとつの物語性の原理だったのである。このことはよくよく知っておいたほうがいい。
 ダンテ、ペトラルカにつづいて登場した三人目のトスカナ人のボッカチオは、そういう意味でヨーロッパ最初の物語様式の確立者となった。もうちょっと正確にいえば、『デカメロン』によってボッカチオは物語編集様式の最初の確定者となったのだ。これで世の中は、「ああ、これが物語というものだ」と思えたのである。
 それを日本においてレミニッセンスの本質を最初に深々と見抜いた世阿弥に倣っていえば、ボッカチオは「無心」のコントを「有心」のバラードに変換させた“物学編集術”の比類のない天才だったということになる。
 ボッカチオがヨーロッパ最初の小説創造者なのではない。作品としては英国のダニエル・デフォーを大きく先行したけれど、時期からすれば日本の紫式部にははるかに遅れていた。しかしボッカチオは小説家のハシリだったのではなくて、物語様式の最初の編集大成者だったのである。いいかえれば「抱けば普遍に、離しても普遍になりうる物語」という様式をつくりたかったのだ。そこに、ぼくの言葉でいうところの“肖像的物語”(アヤカロジー?)ともいうべき新たな牙城が奇跡的に誕生した。

 ボッカチオ以降、ヨーロッパはこの物語様式に関するマザーモードを愛することで、あらゆる文芸を育んだ。いくらでも「続ボッカチオ」や「超ボッカチオ」や「反ボッカチオ」が出現していった(実際にも、ヨーロッパ文学の多くはダンテとボッカチオの模倣で埋め尽くされていると見られよう)。これにくらべると紫式部の快挙は、その後の多くの者を『源氏物語』のもとに組み伏した(日本のアヤカロジーはむしろ和歌や能や文様で開花した)。
 以下は、そのようなぼくの文芸視像に入ってきたボッカチオのみをとりあげる。ちなみに、現在ではボッカチオは「ボッカッチョ」と日本語表記するのがふつうになったけれど(今夜とりあげた本も「ボッカッチョ」と表記している)、ぼくは昔からの好みで、あえて「ボッカチオ」というふうに、わざわざ古風に(荷風に?)綴ることにする。
 今夜とりあげた一冊は河出書房新社が昭和三四年から刊行をはじめた「世界文学全集」の第二期の第一巻にあたるもので、実はイタリア語からの翻訳ではない。かつて柏熊達生がイタリア語から訳した『デカメロン』を、ドイツ文学の高橋義孝が重訳した。部分訳ではあるが、大久保昭男訳の角川文庫版や河島英昭訳の講談社文芸文庫版は読みやすい。そうではあるのだが、ぼくの青春の一読一過も忘れがたく、この河出全集版の一冊を提示しておくことにした。あしからず。
 ついでにもう一言。イシス編集学校「破」では“物語編集術”というとっておきのエクササイズがあるのだが、この骨格にはボッカチオ風のアヤカロジー的レミニッセンスが仕込まれている。気になる諸姉諸兄は入門されたい。

 一〇×一〇=一〇〇。これが『デカメロン』である。デカメロンとは「十日尽くし」という意味で、一日ずつ十話を十日続けて百話にいたるという“話題構成のリセプタクル様式”をあらわしている。物語の容器、それがデカメロンだ。容器だからといって、でたらめに話題を入れこんでいくわけではない。それはデタラメロンであって(笑)、デカメロンではない。編集ルールが設定されていた。
 十日物語としての『デカメロン』は、次のような語りのための編集ルールをもっていた。ボッカチオがそういう“発明”をした。
 一日目はテーマは各人の自由だ。まず話をおこせばいい。二日目は多くの苦難をへて、のちに成功や幸福にいたった人物をとりあげる。次の三日目はちょっと変わっていて、ながいあいだ熱望していたもの、あるいは失っていたものがやっと手に入ったという物語を選ぶ。何を望んだかで、話は高くも低くも、退屈にもなる。四日目はよくあるたぐいのテーマで、不幸な恋の物語をお涙頂戴たっぷりに語る。みんなが得意の、どの町にも転がっている話だ。しかし五日目はその恋人たちの身の上にさらに悲しい出来事がおこり、かつ、それをクリアーした者をめぐる特異な話をしなければならない。
 これだけでも準備がたいへんだが、六日目にがらりと変わって、機知に富んだ話が要求される。当意即妙の返答で窮地を脱した者たちの話を用意するのだ。ただし、神話や昔話にはこの手のプロットはイソップ話をはじめわんさとたまっているので、さがしてくるのはそれほど難しくない。ついで七日目はこれまたどこにでもころがっているから困らないだろうが、夫を騙した妻の話を準備する。イタリアの地方文化ではとくに女房の毒が好まれるのだ(ピエトロ・ジェルミ監督、マルチェロ・マストロヤンニ主演の《イタリア式離婚狂想曲》をご覧いただきたい)。そして八日目はそれをうんと広げて、女が男を騙し、男が女を騙す話ならなんでもよいというふうになっていく。『ボヴァリー夫人』のプロトタイプはここにあったのだ。
 こうして九日目にもう一度、自由なテーマで話し気分をととのえると、最後の十日目で気高い者がいったいどのように寛大を示したかを強く語って、結んでいく。この寛大と気高さに十日にわたった物語展開のゴールがあるわけなのである。

『デカメロン』扉絵(1492年 ヴェネツィア版)

 十の話を十段階にわたって積み上げていくという方法は、宗教の分野ならとっくの昔に得意としてきたものだった。たとえば空海の『秘密曼荼羅十住心論』は、まさに十段のマインドステップで構成されている。しかし『デカメロン』はたんに十段のステップを積み上げるために構成されたのではない。まだ誰もが聞いたことのないお話を積み上げる必要がある。加えて、そこには「お題」があった。
 当時、このような「まだ誰もが聞いたことのない話」のことをノヴェッラといった。「新奇な物語」という意味と「最新の情報」という意味をもっていた。ボッカチオが十段にわたって収集・翻案・新案して書いたのはこのノヴェッラである。その連鎖と再構成である。ただし、好き勝手に書いたのではなかった。たったいま説明したように、ボッカチオはお題付きの編集ルールにもとづく「枠物語」を書いたのだ。問題は最初に枠を思いついたのか、それとも書きながら枠をつくっていったのかということだ。
 いずれにしても、このような「枠」(フレーム、スキーマ、アーキテクチャ、フォーマット)にあてはめて物語を集中させたことがボッカチオの方法の真骨頂だった。その接着剤がレミニッセンスだった。
 物語をなんらかの枠組に入れるということは、ボッカチオの発明ではない。中世からルネサンス初期にかけて、そういうものはすでにちらほら出ていたし、ここではその点についての研究成果を援用することはしないけれど(たとえば『ノヴェッリーノ』)、どんな民族のどんな昔話や伝説も、それなりの枠組をもつことを好んできた。とくに有名なのはアラブ社会の『千夜一夜物語』や日本社会の『今昔物語』であろう。
 けれども、このような枠組に一人でとりくんだ者はいなかった。それまでは伝承物語の複数による継承だった。が、ボッカチオはそこをたった一人で組み上げた。
 もうひとつ、強調しておかなければならないことがある。『デカメロン』は『神曲』を徹底的に意識した。下敷きにしたのではなく、その精神の構成力において『神曲』に対応した。あらかじめ結論を言ってしまうことになるけれど、実は『デカメロン』とは、『神曲』に対する『人曲』だったのである!

 ちょっと時代の符牒を併せておこう。ダンテが死んだとき、ボッカチオはフィレンツェにいて八歳だった。ダンテの『神曲』はその後のボッカチオの生涯をずっとゆさぶったのだ。
 文芸的にもダンテの後裔たらんとしたボッカチオは、私生活においてもダンテの後塵を拝したかった。生まれ変わりになりたいとさえ思ったはずだ(ここにもレミニッセンスがはたらいていた)。実際にもたとえば、ダンテにおけるベアトリーチェは、ボッカチオにとってはマリアという実在の女性だった。ナポリ王の婚外子マリア・ダクィーノがボッカチオの終生の「俤」になった。
 そういう“ダンテがらみ”のボッカチオが生まれたのは、一三一三年のパリ。父親がフィレンツェ人で、母親がパリ人だとも婚外子だったとも伝わる。育ったのはフィレンツェ。しかしその血はまさにダンテ同様のトスカナ人のものだった。幼少のころからフィレンツェのジョヴァンニ・ダ・ストラーダのもとに通わされて、ラテン語を教わっている。ダンテを教えたのはこのストラーダだったのだ。
 十二歳から十五歳くらいのあいだ、ナポリに送られてバルディ商会で商人見習いをした。父親のたっての期待だったのだが、この職業とはよほどに相性が悪く、しばしば仕事場を抜け出してナポリ王の宮廷に出入りした。ここでボッカチオの古典趣味が一気に培われた。日本では後醍醐天皇が登場して、建武の新政をおこしたころだ。
 ナポリの宮廷に出入りするボッカチオは二つのものに心酔する。ひとつは韻文や叙事詩としての騎士道物語。もうひとつは聖ロレンツォ教会で出会った美しいマリア・ダクィーノだ。たちまちマリアにぞっこんになったボッカチオは、彼女を「フィアンメッタ」(小さな炎)と名付け、ダンテのベアトリーチェに準える。それとともにマリアに捧げる詩・韻文・叙事詩に手をつけた。「肖る」ことと「準える」こと。これこそボッカチオの、そして物語的編集術の王道である。
 純愛は数年で終わった。マリアは別の男に走ってしまった。寂寞に堪えかねて、いくつもの幻想譚に手を染めてみるものの、気持ちは落ち着かない。これでボッカチオは初めてダンテになろうという気になっていく。ダンテに肖って、失ったものとは別途のものへの再生にとりくむことにする。ゆっくりと騎士道物語や韻文からの脱出を試みる。

 一三三九年、このあと一〇〇年にもおよんだ英仏百年戦争が始まると、ヨーロッパに覆いがたい変化があらわれた。各国各領土各都市の孤立と分断がおこるのだ。いわば意図しなかった競争を強いられるのだ。
 こうしてここからしばらくは、ルネサンス勃興に向けての「再生の苦悩」の時代がやってくる。ナポリやフィレンツェもその波風からは逃れはできない。
 ボッカチオの周辺にもいくつもの変化がおこったらしい。ナポリを去ってフィレンツェに戻ったり、ラヴェンナの宮廷に通ったり(ラヴェンナはダンテの死の象徴の都市)、フォルリに滞在したりしていたようだ。
 かくて三四歳のとき、ヨーロッパ各都市をペスト(黒死病)の猛威が襲う。これが決定的だった。コンスタンティノープル、キプロス、ヴェネツィア、マルセイユと地中海沿岸を風魔のごとくに走ったペスト菌は、一三四八年にはフィレンツェに届き、あっというまに父親の命を醜悪に奪ってしまった。誰も抵抗などできはしない。すべては宿命とみなすしかない悲劇の到来である。日本なら、この時代をこそ「乱世」とか「末法」という。
 しかしそうであったがゆえに、この渦中にこそボッカチオは『デカメロン』を構想し、そして着手した(まさに長明や世阿弥のように)。序には、「私は、あの過ぎ去った死のペストの時代に、一団に寄り集まった七人の淑女たちと三人の紳士たちによって、十日の間に語られた百の物語をお話ししようと思います」というふうにある。
 そうなのだ。『デカメロン』とはペストの脅威が擦過した直後のフィレンツェの一隅、聖マリア・ノヴェッラの教会で七人の女性が落ち合い、郊外の別荘に会合を移して男性三人を加えて語られていった物語という想定なのである。一三四八年に起稿され、一三五三年に脱稿したとされている。
 ところでずっと言い忘れたことだったが、井上ひさしの『東京セブンローズ』(文春文庫)を読んだとき、ぼくは『デカメロン』冒頭の七人の女性たちとの出会いを思い出していたのだった。

 では、『デカメロン』がどのようにレミニッセンスを駆使したかを、ごく手短かにお目にかけておく。
 念頭には世阿弥や近松門左衛門の戯曲をおいてもらうといいだろう。なにしろこのプロット集は飛び抜けたレミニッセンス編集術のお手本だからだ。ちなみにこのボッカチオに近松を合わせるという東西の意外な比較はまだ誰もしていないとは思うけれど、ぼくとしては日本人のボッカチオ読みにはきわめて有効な想定だと思われる。
 まず、いったいなぜ、お話を語るという出来事がおこったかということだ。さっきものべたようにペストの猖獗と恐怖がやっと通りすぎたのである。このことは人々にいっときの至福感をもたらした。けれども、いつこのエピキュリズムがふたたび侵されるかは、わからない。そこでせめてもの十日間、七人の熟した女たちが人生のすべての物語を語っておきたいと思いついたのである。
 こうして一日目、パンピネアの主宰によって各自が最も得意とする物語の披露が始まったのだ。Aは、ある男が偽りの懴悔をして修道士を陥れたにもかかわらず、死後にはなぜ聖人扱いをされたのかという話をする。Bはユダヤ人アブラハムの話を持ち出して、聖職者の堕落ぶりを見たことが、のちに彼をしてキリスト教徒にさせたという物語を語った。Cは三つの指輪をめぐる話をし、Dは罪には似たような罪や同じような罪があるという話を、Eはそういうことは王たちの恋の道にもおこっているという話をした。
 こういうぐあいに物語は始まっていくのだが、ここには驚くべき編集的転位がおこっていく。二日目、最初の十の挿話の交流は、早くも「苦しんだ者がはからずもそこから脱出できた物語」という次の方向をつかんでいった。一種のコレクティブ・ブレイン(集合脳)が作動したわけだ。しかし、集団催眠にかかったわけではない。男女十人の語り部たちは、前の者の物語を聞きながら、それとは似て非なる物語を創発させていく。そこが「肖」と「準」のレミニッセンスなのである。
 そのレミニッセンスの最もわかりやすい例が三日目に噴出する。この日は「ほしくてたまらなかったものが手に入ったという物語」がお題になるのだが、最初の語り部が、ある男が口をきけないふりをして女修道院の園丁になりすまして修道女たちの体を得たという話をしたとたん、次から次へと似たような話が連鎖する。のちに『デカメロン』がポルノグラフィとしてよろこばれたのは、この三日目の「ほしいものが性的な欲望だった」という一連の十話を読んだ者たちによっていた。

サンドロ・ボッティチェリ『ナスタジョ・デリ・オネスティの物語』(1483)
(『デカメロン』第5日より)

 これらは実際に十人の男女が語り交わしたお話の連鎖ではない。一人ボッカチオが委曲を尽くしてつくりあげた物語連鎖なのである。想像の産物だ。ぼくはかつて、この「肖」と「準」の作為にとても驚いたものだった。
 かねてよりぼくは、美術史上において「肖像」あるいは「肖像画」というものが確立した謎に興味をもっていた。なぜ人は人に似せた肖像画を描くのか。おそらく最初は王が描かせたものが多かったろうが、しかし幼児が最初にお父さんやお母さんの似顔絵らしきものを描くように、そこには人類学的幼児性の自主発揮もはたらいていたはずなのだ。先だってのこと、「連塾絆走祭」の「牡丹に唐獅子」と題した回で森村泰昌さんに舞台であることを演じてもらった(六月十六日・築地本願寺)。三島由紀夫に扮して最後の演説をすることと、フィルムに収めた森村ヒトラーの映像を見せることだった。
 森村さんの提案によるそのプランを、二人で一ヵ月ほど前に相談していたとき(最初はレーニンに扮したフィルムも上映する予定だった)、ぼくと森村さんは「肖ることの存在学」の重大な意味と、それを森村さんが実現しつづけてきた驚異的に高度な作品性をめぐって交わしあったものだった。
 いったい「肖る」とはどういうことなのか。それを画像や文章に定着したくなるとはどういうことなのか。
 知る人ぞ知るように、ぼくはオリジナリティという言葉を信用していない。ジャン・コクトー同様に、「ぼくはオリジナリティを誇ることが嫌い」なのだ。このことは「似ている」とか「似る」ということから、すなわち、われわれがわれわれ自身から逃れようとすることの愚の骨頂を暗示している。むろん何かに似さえすればいいということではない。そうではなくて、内なるレミニッセンスがはたらくところにこそ、イメージ人類学的なマザーが発効するのではないかということなのだ。

 以上、ボッカチオの『デカメロン』にひそんでいたことで、ながらく話さずにいた気持ちが、これでちょっとだけ解放された。あとはただひとつのことを付け加えればいい。当面、ボッカチオはこのことで十分だろう。
 付け加えたいこととは、すでに書いてきたことだけれど、ボッカチオはダンテに肖ったということだ。『神曲』に肖って『人曲』をものしたということだ。それだけではなく、ボッカチオは用意周到なダンテ研究ものこしていて、晩年には(死ぬ直前の六十歳のとき)、フィレンツェの聖ステファーノ・デ・バディーア教会に頼まれて『神曲』についての連続講義もおこなった。死後に『ダンテ評釈』として出版されている。
 このようなダンテに対する傾倒は、ボッカチオの生涯にわたる精神の風貌のすべてを語っている。いっさいがダンテを確信することによって支えられたのである。それはまた年長の同時代人のフランチェスコ・ペトラルカとも共有されていた。『ペトラルカ゠ボッカッチョ往復書簡』(岩波文庫)も残されている。これはまことに心ゆくことだ。とくに精神を編集し、物語を編集したい者にとって、このようなこと、ぜひぜひ肖りたいことである。たとえそれがポルノグラフィ呼ばわりされることがあったとしても。

『デカメロン』第1日より 修道士と修道院長の邪な情事
(中世石版画より)

『デカメロン』第4日より サレルノ公の娘の悲しき情事
(同上)

附記¶ジョヴァンニ・ボッカチオの著作はけっこう多い。まだその多くが日本語に訳されていないけれど、『女神ディアーナの狩』『フィローストラート』『テーセウス物語』『愛の幻影』『アメートのニンフ物語』『フィエーゾレのニンフ物語』などがある。とくに『異教の神々の系譜』にぼくは跪いた時期がある。
 『デカメロン』については次の日本語訳を参照してほしい。最初は戸川秋骨が昭和2年に『十日物語』を国民文庫で訳した。ついで森田草平が昭和6年に2巻本『デカメロン』を新潮社で刊行した(森田は漱石の弟子で、平塚らいてうと心中する途中で逃げ出した作家)。定番は野上素一の岩波文庫の全6冊だろうか(ただしいまは絶版のままである)。戦後は上にも紹介した柏熊達生の翻訳が河出書房で(のちにちくま文庫に入ったりノーベル書房版になったが、いずれもが絶版中)、岩崎純孝訳のものが集英社で、大久保昭男訳が角川文庫で、それぞれ出版された。ボッカチオの評伝は寡聞にしてよく知らないのだが、ぼくはアンリ・オヴェットの大著『評伝ボッカッチョ』(新評論)をときどき参考にした。ただし、これは1914年の著作だ。