ジョヴァンニ・ボッカチオ
デカメロン
河出書房新社(世界文学全集第2期第1巻) 1963
Giovanni Boccaccio
Decameron 1348~1353
[訳]柏熊達生・高橋義孝
1日10話が10日にわたる。
そこには、物語の編集様式の確立が生まれた。
それは、ダンテの『神曲』に対応した『人曲』だった。
ダンテ、ペトラルカ、そしてボッカチオ。
この3人のトスカナ人こそは、
ルネサンス以前の物語編集の革命者だった。
そこに共通するのはレミニッセンスというものだ。
世阿弥と近松に遊ぶためにも、
いま『デカメロン』をお薦めしたい。


 やっとボッカチオについてふれる夜がきた。ダンテ(913夜)に心酔したボッカチオだ。だからほんとうはダンテのあとにペトラルカの文体をちょっと覗いて、それからボッカチオの野心に言及したかったのだが、そんなふうに問屋は卸してくれない。任意な順になった。ま、そこが「千夜千冊」のいつも通りのたいそう気まぐれで、いいところなのだけれど‥‥。
 もともとボッカチオについて何を書きたかったかといえば、二つのことがある。ひとつは「物語様式の確立」について。もうひとつは「レミニッセンス」についてだ。それはいまもって変わらない。レミニッセンスは日本語にしにくい用語だが、「気がつかない真似」とか「無意識の模倣」とか「人が人に似たくなる行為」「知らないうちに真似していること」とでもいえばいいだろう。ぼくのとっておきの言葉でいえば、ここにあるのは「肖(あやか)る物語性」というものだ。

 とんでもないことに、いまは誰にとっても物語なんてものはごく容易に綴れるものだと思われている。実際にも世の中に流布している小説からライトノベルまで、メタフィクションからトレンディドラマまで、大半の物語はまったくもっての大安売りだ。
 が、これは気をつけたほうがいい。こういう物語の乱売は、かつて中上健次(755夜)がそういう物語の消費しやすさをあしざまに“物語の豚”呼ばわりしたことがあったけれど、まさに牛肉にまぜた豚のように、いまや物語はニセモノを増殖させつづけて、賞味期限を週単位にしつつあるにすぎないというふうになっている。いいかえれば、物語は日々ブログ化しているという惨状だ。
 しかし、かつてはどうだったかといえば、何をもって物語とするかということそのこと自体が、きわどい冒険であって危険な革命だったのである。それまでは「物語」と「物語でないもの」との区別さえついていなかったといっていいだろう(ウソとホントウの区別が幼児につかないように)。では、どこで物語は自立できたのか。一言でいえば、「物語には物語をひっつける作用がひそんでいる」ということに誰かが気がついたとき、物語は勇躍として自立していったのだ。その「ひっつける」という作用をおこしているのがレミニッセンスだった。
 レミニッセンスの本質は「模倣」である。「似せ絵」だ。「擬態」だ。「アナロギア」だ。それが物語というコンテキストにからんでいく。すなわち物語のマザーのようなものになっていく。ボッカチオが挑戦して成し遂げたことは、このマザーのようなレミニッセンスを体現させる物語様式をついに創りだしたことにある。

 今夜は物語の本質や属性を説明しようとは思わない。しかし、物語が安易なものではないということだけは前提にしておきたい。
 誰も「背広」や「美術館」というものを知らないときに、何をもって背広や美術館とするかという決断には、関係者たちの大いなる算段が必要だったように、物語も、そのような野心と算段をもってしか生まれえなかったのだ。そして、何をもって何に肖(あやか)るのかということが、ただひとつの物語性(ナラティヴィティ)の原理だったのである。このことはよくよく知っておいたほうがいい。
 ダンテ、ペトラルカにつづいて登場した3人目のトスカナ人のボッカチオは、そういう意味でヨーロッパ最初の物語様式の確立者となった。いや、もうちょっと正確にいえば、『デカメロン』によってボッカチオは物語編集様式の最初の確定者となったのだ。これで世の中は、「ああ、これが物語というものだ」と思うようになったのだ。
 それを日本においてレミニッセンスの本質を最初に深々と見抜いた世阿弥(118夜)に倣っていえば(世阿弥はボッカチオが50歳のときにペトラルカに出会った年に生まれた)、ボッカチオは「無心」のコントを「有心」(うしん)のバラードに変換させた“物学(ものまね)編集術”の比類のない天才だったということになる。
 それゆえボッカチオは、ヨーロッパ最初の小説創造者なのではない。その点では英国のダニエル・デフォー(1173夜)を大きく先行したけれど、日本の紫式部にははるかに劣っていた。しかしボッカチオは、そもそもが小説家のハシリだったのではなくて、物語様式の最初の編集大成者だったのである。いいかえれば「抱けば普遍に、離しても普遍になりうる物語」という様式をつくりたかったのだ。そこに、ぼくの言葉でいうところの“肖像的物語”(アヤカロジー?)ともいうべき新たな牙城が奇跡的に誕生したのだった。

 かくしてボッカチオ以降、ヨーロッパはこの物語様式に関するマザーモードを愛することで、あらゆる文芸を育んだ。いくらでも「続ボッカチオ」や「超ボッカチオ」や「反ボッカチオ」が出現していった(実際にも、ヨーロッパ文学の多くはボッカチオの模倣で埋め尽くされていると見られよう)。
 これにくらべると紫式部の快挙は、その後の多くの者を『源氏物語』(1569夜)のもとに組み伏した(日本のアヤカロジーはむしろ和歌や能や文様で開花した)。
 以下は、そのようなぼくの文芸視像に入ってきたボッカチオのみをとりあげる。『デカメロン』の筋はいっさい追わないことにする(あまりにも短編的筋書きが多すぎて、追うのはとうてい不可能だ)。ちなみに、現在ではボッカチオは「ボッカッチョ」と日本語表記するのがふつうになったけれど(今夜とりあげた本も「ボッカッチョ」と表記している)、ぼくは昔からの好みで、あえて「ボッカチオ」というふうに、わざわざ古風に(荷風に?)綴ることにする。
 また、今夜とりあげた一冊は河出書房新社が昭和35年から刊行をはじめた「世界文学全集」の第2期の第1巻にあたるもので、実はイタリア語からの翻訳ではない。かつて柏熊達生が訳した『デカメロン』を、ドイツ文学の高橋義孝が重訳した。ちゃんとした翻訳を読みたいなら、大久保昭男訳の角川文庫版や河島英昭訳の講談社文芸文庫版をおすすめする。そうではあるのだが、ぼくの青春の一読一過も忘れがたく、この河出全集版の一冊を提示しておくことにした。あしからず。
 ついでにもう一言。イシス編集学校「破」では“物語編集術”というとっておきのエクササイズがあるのだが、この骨格にはボッカチオ風のアヤカロジー的レミニッセンスが仕込まれている。

 10×10=100。これが『デカメロン』である。デカメロンとは「十日尽くし」という意味で、一日ずつ十話を十日続けて百話にいたるという“話題のリセプタクル様式”をあらわしている。物語の容器、それがデカメロンだ。容器だからといって、でたらめに話題を入れこんでいくわけではない。それはデタラメロンであって(笑)、デカメロンではない。編集ルールが設定されていた。
 十日物語としての『デカメロン』は、次のような語りのための編集ルールをもっていた(ボッカチオがそういう“発明”をした。イシス編集学校「離」の文巻のように)。
 一日目はテーマは各人の自由だ。まず話をおこせばいい。二日目は多くの苦難をへて、のちに成功や幸福にいたった人物をとりあげる。次の三日目はちょっと変わっていて、ながいあいだ熱望していたものがやっと手に入ったり、あるいは失っていたものがやっと手に入ったという物語を選ぶ。何を望んだかで、話は高くも低くも、退屈にもなる。四日目はよくあるたぐいのテーマで、不幸な恋の物語をお涙頂戴たっぷりに語る。みんなが得意の、どこにでも転がっている話だ。しかし五日目はその恋人たちの身の上にさらに悲しい出来事がおこり、かつ、それをクリアーした者をめぐる特異な話をしなければならない。
 これだけでも準備がたいへんだが、六日目はがらりと変わって、機知に富んだ話が要求される。当意即妙の返答で窮地を脱した者たちの話を用意するのだ。ただし、神話や昔話にはこの手のプロットはイソップ話をはじめわんさとたまっているので、さがしてくるのは難しくない。ついで七日目はどこにでもころがっているから困らないだろうが、夫を騙した妻の話を準備する。イタリアの地方文化ではとくに女房の毒が好まれるのだ。そして八日目はそれをうんと広げて、女が男を騙し、男が女を騙す話ならなんでもよいというふうになっていく。『ボヴァリー夫人』(287夜)のプロトタイプはここにあったのだ。
 こうして九日目にもう一度、自由なテーマで話し気分をととのえると、最後の十日目で気高い気持ちをもった者がいったいどのように寛大を示したかを強く語って、結んでいく。この寛大と気高さに十日にわたった物語展開のゴールがあるわけなのである。

『デカメロン』扉絵(1492年 ヴェネツィア版)

 10の話を10段階にわたって積み上げていくという方法は、宗教ならとっくの昔に得意としてきたものだった。たとえば空海(750夜)の『秘密曼荼羅十住心論』は、まさに10段のマインドステップで構成されている。しかし『デカメロン』はたんに10段のステップを積み上げるために構成されたのではない。まだ誰もが聞いたこともないお話を積み上げる必要がある。加えて、そこには「お題」があった。
 当時、このような「まだ誰もが聞いたこともないお話」のことをノヴェッラといった。ノヴェッラとは「新奇な物語」という意味と「最新の情報」という意味をもっていた。ボッカチオが10段にわたって収集・翻案・新案して書いたのはこのノヴェッラである。その連鎖と再構成である。ただし、好き勝手に書いたのではなかった。たったいま説明したように、ボッカチオはお題付きの編集ルールにもとづく「枠物語」を書いたのだ。問題は最初に枠を思いついたのか、それとも書きながら枠をつくっていったのかということだ。
 いずれにしても、このような「枠」(フレーム、スキーマ、アーキテクチャ、フォーマット)にあてはめて物語を集中させたことがボッカチオの方法の真骨頂だった。その接着剤はレミニッセンスだった。
 もっとも、物語をなんらかの枠組に入れるということは、ボッカチオの発明ではない。中世からルネサンス初期にかけて、そういうものはすでにちらほら出ていたし、ここではその点についての研究成果を援用することはしないけれど(たとえば『ノヴェリーノ』)、どんな民族のどんな昔話や伝説も、それなりの枠組をもつことを好んできた。とくに有名なのは『千夜一夜物語』や『今昔物語』であろう。
 けれども、このような枠組に一人でとりくんだ者はいなかった。それまでは伝承物語の複数による継承だった。が、ボッカチオはそこをたった一人で組み上げた。そこがボッカチオの自慢なのだ。
 もうひとつ、自慢がある。『デカメロン』は『神曲』を徹底的に意識した。下敷きにしたのではなく、その精神の構成力において『神曲』に対応した。あらかじめ結論を言ってしまうことになるけれど、実は『デカメロン』とは、『神曲』に対する『人曲』だったのである!


 ちょっと時代の符牒を併せておこう。ダンテが死んだとき、ボッカチオはフィレンツェにいて8歳だった。このことをどれほど強調しておいてもいいだろう。ダンテの『神曲』はその後のボッカチオの生涯をずっとゆさぶったのだ。
 文芸的にもダンテの後裔たらんとしたボッカチオは、私生活においてもダンテの後塵を拝したかった。生まれ変わりになりたいとさえ思ったはずだ(ここにもレミニッセンスがはたらいていた)。実際にもたとえば、ダンテにおけるベアトリーチェは、ボッカチオにとってはマリアという実在の女性だった。ナポリ王の私生児マリア・ダクィーノがボッカチオの終生の「俤」(おもかげ)になったのである。
 そういう“ダンテがらみ”のボッカチオが生まれたのは、1313年のパリ。父親がフィレンツェ人で、母親がパリ人だとも、私生児だったとも伝わる。育ったのはフィレンツェ。しかしその血はまさにダンテ同様のトスカナ人のものだった。案の定、幼少のころからフィレンツェのジョヴァンニ・ダ・ストラーダのもとに通わされて、ラテン語を教わっている。ダンテを教えたのはこのストラーダだったのだ。
 ところが、10歳から15歳くらいのあいだ、ナポリに送られてバルディ商会で商人見習いをさせられた。商人見習いは父親のたっての期待だったのだが、この職業とはよほどに相性が悪く、しばしば仕事場を抜け出してナポリ王の宮廷に出入りするようになった。ここでボッカチオの古典趣味が一気に培われた。日本では後醍醐天皇が登場して、建武の中興をおこしたころだ。
 ナポリの宮廷に出入りするボッカチオは二つのものに心酔する。ひとつは韻文や叙事詩としての騎士道物語。もうひとつは聖ロレンツォ教会で出会ったマリア・ダクィーノだ。たちまちマリアにぞっこんになったボッカチオは、彼女を「フィアンメッタ」(小さな炎)と名付け、ダンテのベアトリーチェに準(なぞら)える。それとともにマリアに捧げる詩・韻文・叙事詩に手をつけた。「肖る」ことと「準える」こと。これこそボッカチオの、そして物語的編集術の王道である。
 しかし、この純愛は数年で終わった。マリアは別の男に走ってしまったのだ。寂莫に堪えかねて、いくつもの幻想譚に手を染めてみるものの、どうにも気持ちは落ち着かない。これでボッカチオは初めてダンテになろうという気になっていく。ダンテに肖って、失ったものを別途のものへの再生にとりくむことにする。ボッカチオはゆっくりと騎士道物語や韻文からの脱出を試みる。


 1339年、このあと100年にもおよんだ英仏百年戦争が始まると、ヨーロッパに覆いがたい変化があらわれた。各国各領土各都市の孤立と分断がおこるのだ。いわば意図しなかった競争を強いられるのだ。
 こうしてここからしばらくは、ルネサンス勃興に向けての「再生の苦悩」の時代がやってくる。ナポリやフィレンツェもその波風からは逃れはできない。
 ボッカチオの周辺にもいくつもの変化がおこったらしい。おこったらしいというのは、この時期のボッカチオの足跡がいまひとつはっきりしないからで、ナポリを去ってフィレンツェに戻ったり、ラヴェンナの宮廷に通ったり(ラヴェンナはダンテの死の象徴の都市)、フォルリに滞在したりしていたようだ。
 かくて34歳のとき、ヨーロッパ各都市をペスト(黒死病)の猛威が襲う。これが決定的だった。コンスタンティノープル、キプロス、ヴェネツィア、マルセイユと地中海沿岸を風魔のごとくに走ったペスト菌は、1348年にはフィレンツェに届き、あっというまに父親の命を醜悪に奪ってしまった。誰も抵抗などできはしない。すべては運命とみなすしかない悲劇の到来である。日本なら、この時代をこそ「乱世」とか「末法」という。
 しかしそうであったがゆえに、この渦中にこそボッカチオは『デカメロン』を構想し、そして着手した(まさに長明や世阿弥のように)。序には、「私は、あの過ぎ去った死のペストの時代に、一団に寄り集まった七人の淑女たちと三人の紳士たちによって、十日の間に語られた百の物語をお話しようと思います」というふうにある。
 そうなのだ。『デカメロン』とはペストの脅威が擦過した直後のフィレンツェの一隅、聖マリア・ノヴェッラの教会で7人の女性が落ち合い、郊外の別荘に会合を移して男性3人を加えて語られていった物語という想定なのである。実際には1348年に起稿され、1353年に脱稿したことがわかっている。
 ところでずっと言い忘れたことだったが、井上ひさしの『東京セブンローズ』(975夜)を読んだとき、ぼくは『デカメロン』冒頭の7人の妖精の出会いを思い出していたのだった。


 では、『デカメロン』がどのようにレミニッセンスを駆使したかを、ごく手短かにお目にかけておく。念頭には世阿弥や近松門左衛門の戯曲をおいてもらうといいだろう。なにしろこれらは飛び抜けたレミニッセンス編集術のお手本だからだ。ちなみにこの東西の意外な比較はまだ誰もしていないとは思うけれど、ぼくとしては日本人のボッカチオ読みにはきわめて有効な想定だと思われる。
 まず、いったいなぜ、お話を語るという出来事がおこったかということだ。さっきものべたようにペストの猖獗と恐怖がやっと通り過ぎたのである。これは人々にいっときの至福感をもたらした。けれども、いつこのエピキュリズムがふたたび侵されるかは、わからない。そこでせめてもの十日間、7人の熟した女たちが人生のすべての物語を語っておきたいと思いついたのである。
 こうして第1日目、パンピネアの主宰によって各自が最も得意とする物語の披露が始まったのだ。Aは、ある男が偽りの懴悔をして修道士を陥れたにもかかわらず、死後にはなぜ聖人扱いをされたかという話をする。Bはユダヤ人アブラハムの話を持ち出して、聖職者の堕落ぶりを見たことが、のちに彼をしてキリスト教徒にさせたという物語を語った。Cは3つの指輪をめぐる話をし、Dは罪には似たような罪や同じような罪があるという話を、Eはそういうことは王たちの恋の道もおこっているという話をした。
 こういうぐあいに物語は始まっていくのだが、ここには驚くべき編集的創発がおこっていく。第2日目、最初の10の挿話の交流は、早くも「苦しんだ者がはからずもそこから脱出できた物語」という次の方向をつかんでいった。一種のコレクティブ・ブレイン(集合脳)が作動したわけだ。しかし、集団催眠にかかったわけではない。男女10人の語り部たちは、前の者の物語を聞きながら、それとは似て非なる物語を創発させていく。そこが「肖」と「準」のレミニッセンスなのである。
 そのレミニッセンスの最もわかりやすい例が第3日目に噴出する。この日は「ほしくてたまらなかったものが手に入ったという物語」がお題になるのだが、最初の語り部が、ある男が唖のふりをして女修道院の園丁になりすまして修道女たちの体を得たという話をしたとたん、次から次へと似たような話が連鎖する。のちに『デカメロン』がポルノグラフィとしてよろこばれたのは、この第3日目の「ほしいものが性的な欲望だった」という一連の10話を読んだ者たちによっていた。

サンドロ・ボッティチェリ『ナスタジョ・デリ・オネスティの物語』(1483)
(『デカメロン』第5日より)

 
 むろん、これらは実際に10人の男女が語り交わしたお話の連鎖ではない。一人ボッカチオが委曲を尽くしてつくりあげた物語連鎖なのである。想像の産物なのだ。ぼくはかつて、この「肖と準の作為」にとても驚いたものだった。
 そもそもぼくは、美術史上において「肖像」あるいは「肖像画」というものが確立した謎に興味をもっていた。なぜ人は人に似させた肖像画を描くのか。おそらく最初は王が描かせたものが多かったろうが、しかし幼児が最初にお父さんやお母さんの似顔絵らしきものを描くように、そこには人類学的幼児性の自主発揮もはたらいていたはずなのだ。
 先だってのこと、「連塾」の「牡丹に唐獅子」と題した絆走祭で森村泰昌さんに舞台であることを演じてもらった(6月16日・築地本願寺)。三島由紀夫に扮して最後の演説をすることと、フィルムに収めた森村ヒトラーの映像を見せることだった。森村さんの提案によるそのプランを、二人で1カ月ほど前に話していたとき(最初はレーニンに扮したフィルムも上映する予定だった)、ぼくと森村さんは「肖ることの存在学」の重大な意味と、それを森村さんが実現しつづけてきた驚異に高度な作品性をめぐって交わしあったものだった。
 いったい「肖る」とはどういうことなのか。それを画像や文章に定着したくなるとはどういうことなのか。
 知る人ぞ知るように、ぼくはオリジナリティという言葉を信用していない。ジャン・コクトー(912夜)同様に、「ぼくはオリジナリティが嫌い」なのだ。このことは「似ている」とか「似る」ということを、われわれがわれわれ自身から逃れようとすることの愚の骨頂を暗示している。むろん何かに似さえすればいいということではない。そうではなくて、内なるレミニッセンスがはたらくところにこそ、イメージ人類学的なマザーが発効するのではないかということなのだ。

 
 ボッカチオの『デカメロン』にひそんでいたことを、ながらく話さずにいたことから、これでちょっとだけ解放された。今夜はただひとつのことを付け加えればいい。当面、ボッカチオはこのことで十分だろう。
 付け加えたいこととは、すでに書いてきたことだけれど、ボッカチオはダンテに肖ったということだ。『神曲』に肖って『人曲』をものしたということだ。実はそれだけではなく、ボッカチオは用意周到なダンテ研究ものこしていて、晩年には(死ぬ直前の60歳のとき)、フィレンツェの聖ステファーノ・デ・バディーア教会に頼まれて『神曲』についての連続講義もおこなっている。死後に『ダンテ評釈』として出版された。
 このようなダンテ参画は、ボッカチオの生涯にわたる精神の風貌のすべてを語っている。自身のいっさいがダンテその人を確信することによって支えられたのだ。それはまた年長の同時代人のペトラルカとも共有されていた。これはまことに心ゆくことだ。とくに精神を編集し、物語を編集したい者にとって、このようなこと、ぜひぜひ肖りたいことである。たとえそれがポルノグラフィ呼ばわりされることがあったとしても。

『デカメロン』第1日より 修道士と修道院長の邪な情事
(中世石版画より)

『デカメロン』第4日より サレルノ公の娘の悲しき情事
(同上)

附記¶ジョヴァンニ・ボッカチオの著作はけっこう多い。まだその多くが日本語に訳されていないけれど、『女神ディアーナの狩』『フィローストラート』『テーセウス物語』『愛の幻影』『アメートのニンフ物語』『フィエーゾレのニンフ物語』などがある。とくに『異教の神々の系譜』にぼくは跪いた時期がある。
 『デカメロン』については次の日本語訳を参照してほしい。最初は戸川秋骨が昭和2年に『十日物語』を国民文庫で訳した。ついで森田草平が昭和6年に2巻本『デカメロン』を新潮社で刊行した(森田は漱石の弟子で、平塚らいてうと心中する途中で逃げ出した作家)。定番は野上素一の岩波文庫の全6冊だろうか(ただしいまは絶版のままである)。戦後は上にも紹介した柏熊達生の翻訳が河出書房で(のちにちくま文庫に入ったりノーベル書房版になったが、いずれもが絶版中)、岩崎純孝訳のものが集英社で、大久保昭男訳が角川文庫で、それぞれ出版された。ボッカチオの評伝は寡聞にしてよく知らないのだが、ぼくはアンリ・オヴェットの大著『評伝ボッカッチョ』(新評論)をときどき参考にした。ただし、これは1914年の著作だ。

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