才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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北条政子

永井路子

文春文庫 1990

 頼朝と政子が恋に落ちて歴史が変わった。武門の時代が始まった。トロイのヘレンこのかた歴史が恋を変えることは多々あるが、恋が歴史を変えることもたまにある。
 仁安2年(1167)の冬。京都警固の大番役をすませた北条時政が3年ぶりに伊豆の北条郷の館に戻ってくると、長女の政子が頼朝を慕っていると聞いて驚いた。時政は京都から一緒に戻ってきた目代の山木兼隆に、娘の政子をお主の嫁にやるぞと言ったばかりだったのに、政子は「私は佐どののほかには嫁ぎません」と言う。
 佐とは、頼朝が右兵衛佐に任官したときからの愛称である。時政は娘をあんな流人にやるものかと怒る。さんざん説教をして、山木に嫁ぐことを了解させた。政子はすでに頼朝とは肌を許しあっていた仲なのに、強引な父の話を承知する。魂胆があったからだった。鹿ケ谷で、俊寛という僧侶が清盛公を討つための密談をしたらしいという噂が聞こえてきたころの話である。

 頼朝は源義朝の三男にあたる。父の義朝は東国に落ちのびる途中の尾張で殺され、長男の悪源太義平と次男の朝長は平清盛との平治の乱で死んだ。弟に範頼と義経がいた。その一行に加わっていた13歳の頼朝も殺されるところだったが、清盛の継母の池禅尼の嘆願で助命され、伊豆の蛭ケ小島に流された。そこは平時忠の知行国だった。頼朝は清和源氏の家督を継ぐ立場になった。
 蛭ケ小島は狩野川が蛇行した一角にあって、島のように見えたのでこの名がついている。北条の館からは2キロしか離れていない。頼朝は流人とはいえ平家に謀反さえしなければ放置されるままなので、比較的自由に青年期をすごしつつあった。伊豆山権現の文陽房覚淵、箱根権現の別当行実を学びの師とし、読経写経に勤め、家来と遊んだ。そういう青年頼朝のところに、伊豆や相模の豪族の若者たち、工藤茂光・天野遠景・岡崎義実・加藤次景廉などが出入りして、狩りをたのしんだ。武者なる者たち、のちの武士団のメンバーだ。
 そこそこの乙女に成長していた政子は颯爽とした頼朝に恋をした。頼朝がくどいたのかもしれないが、前後のいきさつはわからない。どちらにせよ政子は17、8歳のころには頼朝に従っていこうと決意したようだ。しかし時代は平安末期、容易に男女が添えるわけではない。「家」が時代のすべてであり、「家」が社会のすべてなのである。家父長の時政の意見を聞かなければならないことは多い。そこで一計を案じた。
 
 当時、「足入れ婚」というものがあった。結婚に先立って花嫁が先方に赴いて事実上の夫婦の行為をすることをいう。庶民の社会ではごく一般的な風習だが、地域豪族や武士たちはめったにそんなことはしない。時政は政子のことが心配だったのか、娘を山木兼隆のところに足入れさせることにした。
 足入れとはいえ、豪族と目代の関係である。一応の支度をしなければならない。都から袿や化粧用具をとりよせ、兄の宗時や郎党・侍女とともに山木の館へ入った。そこからが政子の計画だ。体をほしがる兼隆に、私は伊豆山権現に誓うことがあるのでそのときまでお待ちくださいましと言って身をかわし、半年後の夏、突如として出奔し、頼朝が待つ伊豆山権現の塔頭で逢引きをした。頼朝側近の安達盛長と政子の弟の北条義時がフォローしてくれた。父の顔をたてて足入れもし、そのうえでの出奔だ。目代とて手出しはできなかった。
 こうして治承2年、政子は頼朝の子を産んだ。大姫である。時政は政子の勝手を許し、山木をあきらめさせた。政子はそういう父の心理をあらかじめ読んでいた。頼朝は頼朝でこのころからそういう時政の力を憑むようになった。
 2年後、以仁王の令旨が伊豆に届いて、頼朝による平家追討の蹶起が促された。頼朝は水干に装束し、男山八幡を遥拝してこの令旨を読んだ。時政や義経が活躍した。頼朝が「武家の棟梁」となる日がしだいに近づいていた。それは政子が愛した頼朝とわが子の頼家と実朝の武家政権の幕開きを約束する前触れだったが、その鎌倉3代の死滅への合図でもあった。
 
 この小説は、永井路子が『吾妻鏡』を読みこんで作りあげた歴史小説である。永井は『炎環』(光風社→文春文庫)で直木賞をとっていた。『炎環』は一種の連作で、頼朝、時政をはじめ、梶原景時や阿野禅師を次々に登場させて、その脇にいた女たちの宿命と冒険を炎の燃え尽きる様相のごとく描いた。NHK大河ドラマ《草燃える》の原作にもなった。これらを政子の日々としてまとめたい。
 永井は作家ではあるが、本格的な歴史研究家でもある。古河の瀬戸物商の家に育って、茨城県立古河高女から東京女子大の国文科に入り、丹念に古文書を読んだ。とくに東京女子大に入った昭和16年が太平洋戦争勃発の年だったので、一国の来し方行く末を考えるようになった。女として、一国が作られ一国が滅びる歴史を見るようになり、そこに生きる者と死ぬ者たちの宿世を観じた。
 敗戦後は東大の聴講生となり、今度は日本経済史を学んだ。経済史をやるなんて、日本の女性作家としてはめずらしい。また結婚にあたっては日本史研究者の黒板伸夫を選び(選ばれたのかもしれないが)、生活の周辺すべてを歴史で埋めた。関心の大半が、一国が生まれて死んでいく様相に向けられていったのだ。なかでも『吾妻鏡』に魅せられた永井は、その歴史観を「鎌倉という世」に集中させようと決意した。
 ただ、歴史には編集が付きものである。永井は現実がどのように編集されていくかを肌でも言葉でも割付けでも感じるために小学館に入社して、「女学生の友」のペーペー編集者から「マドモアゼル」の副編集長になるまで、徹底して現場にいつづけた。それは歴史とはべつの日本の現代を、とくに「女の昭和」を体と言葉で感じるためだったらしい。そして、そのあいまに小説を書きはじめたのである。そういうこともあってか、永井の小説は何というのか、決して時代ぶってはいない。

 かつて講談社の日本美術文化全集『アート・ジャパネスク』の対談企画で、永井さんに会う機会をもった。対談者の村井康彦(520夜)さんに一歩もひけをとらずにしばしば反論していたのをほれぼれしながら聞いていた。
 たとえば村井さんが鎌倉と京都の二極構造を話題にして、いわゆる鎌倉リアリズムといわれるものが武家社会から出てきたとよくいうけれど、はたして頼朝や北条にそんな武家のリアリズムがあっただろうか、鎌倉には独自のリアリズム文化はまだ生まれていないのではないかと言うと、永井さんは「そうでしょうか」と静かに反証した。
 東国の首長の頼朝のリアルな肖像を描いたのは貴族の似絵師の藤原隆信で、頼朝が父の義朝の冥福を祈って勝長寿院につくった仏像は優美な成朝作だったのですが、北条時政が願成就院に寄進した仏像は運慶に頼んだもので、そこには京風のものとはあきらかに異なる造容が出ています。その数年後に和田義盛が芦名の浄楽寺で運慶につくらせた仏像群にも鎌倉リアリズムが芽生えています。
 頼朝はたしかに京風文化を東国に移すわけですが、最初のうちこそ公家っぽい文化が漂っていたとしても、その次にはあきらかに東国の独自性に着手しています。そうでなければ東国は治められませんよというのだ。
 対談が終わって、永井さんが「明治が鎌倉の終わりなんです」「日本の本質は700年の継続的特色を解くことです」となんなく言ったのも、当時のぼくはびっくりしたものだ。鎌倉に始まった武家政権が幕末まで続いたという意味ではあろうが、それ以上の凝縮を感じた。永井さんには『異議あり日本史』(文春文庫)という裂帛の一冊もある。

村井康彦×永井路子対談

『アート・ジャパネスク』第8巻より
永井路子×村井康彦対談

 そこで本書だが、この作品には『炎環』が扱った鎌倉三代の断片的な流れが、あらためて北条政子という一人の女の襞に焼きこまれるように描かれている。
 長らく政子は「尼将軍」とか「男勝り」という猛々しいイメージで語られてきた。しかし、これは江戸時代の『大日本史』が「性妬忌ニシテ」とか「厳毅果断ニシテ丈夫ノ風アリ」と書いたあたりの形容からくるもので、同時代の描写にはそんなものはない。いや、そもそも政子の性格を描写しているものなど、ほとんどない。
 江戸時代の判官贔屓の風潮によって義経にくらべられた頼朝の人気が落ち、それが政子を悪妻扱いにしていったにすぎず、ほぼでたらめな政子のイメージがつくられたといっていい。おそらく源平抗争史の研究者だった明治大学の渡辺保(11夜)の『北条政子』(吉川弘文館)と永井路子のこの小説が、政子についての最初の詳細な描写だったろう。
 永井さんは政子の並々ならぬ母性を強調するのである。長らく日本の女性の母性を語ってこなかった日本史では、このことに注目できなかったことが決定的な欠落だった。政子には頼朝夫人の日々と、その後の頼家・実朝の母の日々と、そして夫とわが子を失った尼の日々があるのだが、なかでも二人の将軍の母としての日々が、日本史上でも日本女性史上でも特筆されるのである。
 
 いったいわれわれは鎌倉三代と政子の歴史、および北条氏の台頭というものを看過しすぎているようだ。義経や『平家物語』や親鸞(397夜)に目を奪われすぎたため、鎌倉問題についての目を曇らせたようだ。
 たとえば、頼朝の天下草創がどこで始まるかといえば、頼朝が以仁王の令旨をうけとって最初にとりかかった山木攻めに発端した。山木とはさきほどのべた山木兼隆のこと、政子が婚姻を押し付けられた相手である。頼朝は平家の知行国を守っている目代をまず攻めたのだ。つまり近親の平家から攻めた。これに時政が加担した。頼朝はこの瞬間から公然と平家に反旗をひるがえし、同時に北条時政・政子の父娘と宿命をともにしたことになる。
 このあと頼朝は石橋山の合戦で梶原景時らによって敗走させられ、いったん房総に退去するのだが、そのあとは領地の武士団を巧みに統合しながら逆襲に転じて東国を制していく。とくに富士川の合戦では西国から下ってきた平家の軍勢を数万羽の水鳥の羽音とともに追いちらかした。
 この「東国を制する」とはどういうことだったかというと、源氏の棟梁の頼朝を頭目とした武士団が、他の武士団を制圧して関東を経営するということだ。そうしたかった関東の豪族はいくらもいたけれども、まだ武士団の力の差が出ていない。また、頭目になるという大義名分がない。とりわけ都からの命令状がない。この時期は、前代から続いていた律令性(=貴族公家的任官性)を一方で引き継ぎ、他方では在地領主の武士団が培ってきた土豪性(=農村荘園的武闘性)を二つながら兼ね備えている者こそが、新たなリーダーシップをとる必要があった。
 それを頼朝がはたした。それには時政・政子の土豪性が強い味方になることが必須だった。逆に北条氏からいえば、その頼朝につくことが、東国の歴史のなかで経営グループに入るための一度だけのチャンスだった。政子の生涯もここで決まった。
 
 歴史学では、10世紀の武力集団のことは武士団とはいわない。武士ではあるが、武家ともいわない。平将門らの武力集団は一時的な戦闘にたとえ1000余の兵力を集められたとしても、ふだんは農業に従事している「兵」だった。
 それが12世紀になると各地に所領をもつ在地領主でありつつ、かつ一族郎党を率いた常時の戦闘能力をもった集団に変化する。これが武士団である。三浦氏も大庭氏も北条氏も武田氏も武蔵七党も、各地の源氏(村上源氏や清和源氏)も平氏(桓武平氏や伊勢平氏)も、こうした戦闘集団としての武士団だ。そういう戦闘集団が日本列島各地で鎬を削っていた。このうちには、都に上って官位をもらうことがステータスだと考えた武士団のリーダーたちもいたが、そんなことをしてもせいぜい検非違使庁の属官に任ぜられる程度で、在地に帰ってきてもたいした力をもてなかった。
 そこへ平清盛が登場して貴族(公家)と伍して、太政大臣までのぼりつめた。そうなると、平氏が次期長期政権になったときの権力ピラミッドに入っておいたほうがのちのちの発展があると判断する者がふえてくる。これを源氏は許せない。
 初期のころの源氏の武士団は平氏同様に貴族と伍する位置をほしがったにすぎず、存分な戦闘能力をもっていながらも官位をほしがった。このように貴族(公家)に侍ってのし上がる者が「侍」である。貴族に屈して仕えたから「侍」だ。「侍」は「兵」ではない。また、このような武士は武門ではあるが、武家ともいわない。しかもこの「侍」の競争は平氏が圧倒的にリードし、源氏その他の武門はまったく手が出なかった。こうして清和源氏の棟梁の血筋をもつ頼朝に、千載一遇の反撃のチャンスがまわってきたわけである。
 
 頼朝の時代は、都から見ると最後の権力をふるっていた後白河法皇とまだ10代だった後鳥羽天皇の時代にあたる。九条兼実の実権が次第に確立しつつあった。その弟が『愚管抄』を書いた天台座主の慈円(624夜)だ。兼実は後白河の横暴きわまりない院政に眉を曇らせていた。頼朝はそういう都に上ってわざわざ官位をほしがるようなことはしなかった。在地領主の武士団の戦闘能力を結集するだけで、一挙に勝ち進むという方針にした。だからこそまず山木を叩いた。
 こうして頼朝は関東を経営する「源氏の棟梁」となったのだが、鎌倉に仮の居宅をおいて政務を始めたときは、それはたんなる家政機関というもので、まだ武家政権ではない。この時期は頼朝の傘下に入った者を家人として来たるべき政権組織をかためた。これが「鎌倉殿の御家人」である。頼朝は御家人を管轄する別当に和田義盛を任じた。ここまでは地方政権としての関東経営者にすぎない。
 このあと頼朝は義経に命じて平家を追い落とさせる。複雑な事情が手伝って頼朝と義経の兄弟に決定的な亀裂が生じた。ついで義経が後白河法皇に頼朝追討の宣旨を出してもらうのを知ると、頼朝は法皇に宣旨の無責任を突いて文句をつけ、その見返りとして各地に守護・地頭を配置する勅許をとった。これで全国を制圧するパスポートを手にした頼朝は奥州に逃げた義経を討った。
 ここで後白河が崩御した。このタイミングが重要だ。頼朝は入洛して関白九条兼実とはからって征夷大将軍に任官される。鎌倉幕府の開府であり、武家政権の誕生である(現在は、守護・地頭を設置した1185年を鎌倉幕府成立とする)。武家政権という用語をつかうのは、公家の政権にとって代わった武家の政権が誕生したからだ。以降、幕末まで日本は武家の棟梁を競いあった政権交代をくりかえす。永井路子が「明治が鎌倉の終わりなんです」というのはこの意味だった。
 
 頼朝は53歳であっけなく死んだ。残された43歳の政子は18歳の頼家、15歳の乙姫、8歳の実朝をかかえる母に戻る。前々年に長女の大姫は病死していた。政子は落飾して黒い絹布をかぶった。御台所ではあったが、政務は父の北条時政と弟の義時、大江広元、三善康信、比企能員らに任せた。頼家は第2代の将軍を継いだ。その直後、乙姫が死んだ。
 3年のうちに夫と二子を次々に失った政子の悲嘆を、永井路子は「政子は、もう私の生涯は終わった、と嘆じた」というふうに描いている。実際にも、政子はしばらく死者と向き合う日々をおくる。しかし政子を試練させ、奮い立たせることが、またまた続いた。頼家がおかしかったのだ。政子の目から見て「不堪」であり、慈円の目から見て「不覚」だった。家臣を信用しないし、蹴鞠で遊んでばかりいる。
 やむなく12歳の実朝を3代将軍に立てた。ところが実朝もまたかなりの病弱で(疱瘡にもかかった)、和歌の好きな青年将軍にすぎなかった。頼家は幽閉同然の修善寺で23歳で死んだ。永井も暗示しているが、暗殺説もある。
 政子は一心不乱に神仏詣でをする身になっていった。孤立した将軍実朝は、しだいに北条一族とその周辺の武士団が発揮する土豪的なるものを嫌悪する。実朝の土臭いものを嫌う感情は、義時が和田義盛を討ったことで頂点に達した。急速に貴族化し、和歌を詠み、聖徳太子に憧れて瞑想し、『万葉集』を贈ってきた藤原定家とは書を往復するといったことばかりしていた。
 政子はせめて神仏への帰依を促したく、園城寺に修行していた10代の公暁を鎌倉に呼んで、実朝の心身を慰めるため鶴岡八幡宮の別当にした。公暁は頼家の遺児である。けれども、そんな程度では実朝の孤立はとうてい癒されない。かつて父の頼朝が親しかった九条兼実が失脚して、公家の権力が土御門通親の手にわたっていたことも実朝を孤立させていた。絶対の孤立というべきだった。
 
大海の磯もとどろによする波われてくだけてさけて散るかも(実朝)
山は裂け海はあせなむ世なりとも君に二ごころわがあらめやも(実朝)
 
 そこへ信じがたいような悲劇がおこった。実朝が公暁に殺された。ハイティーンによる叔父殺しだ。永井はこの暗殺事件の黒幕が三浦義村だろうと推理した。それに気がついたとき、政子はくらくらとする。すべての子を失うことになった政子はもう六三歳である。残されたのは死か、鎌倉三代の菩提を弔うか、それしかない。時代は後鳥羽院の時代になっている。永井は物語をここでぷつりと切った。「火は燃えつづけるのだろうか。私の生きるかぎり……」というふうに。
 
 小説は終わったが、ここから先の政子がいわゆる尼将軍の日々になる。とはいえ、どう歴史の日々を想像しても、政子が政務をしたかったとは思えない。まして策略をめぐらしたとも思えない。むしろ自分の恋と血がかかわった鎌倉三代がこれほど弱体化して短時日に瓦解していったことに悲嘆とも暗澹ともいうべき感慨をおぼえて、これに圧される思いであったろう。母なる政子は、母なる政子として解体したのだ。
 現実の日々はそれでも苛酷に進行した。まず将軍を決めなければならない。源氏の棟梁の血族は断絶したのだ。なんとか穏便に事態を継続させて、そのうえで新たな展望に立ち直さなければならない。協議したうえで六条宮か冷泉宮を迎えることにしたが、後鳥羽上皇に拒否された。やむなく九条頼経を迎えることにした。このときたった2歳、のち幼くして将軍になる。飾りでしかない。武家の将軍でもない。当然、北条家が執権として幼少将軍を手助けしなければならなかった。
 この事態は、後鳥羽上皇側からみれば、もはや武家政権の継続とは見えないものだった。勝手な公武合体が北条主導で進められているとしか思えない。政子はその疑念をはらすため簾中で政務を司るのだが、時すでに遅かった。後鳥羽上皇が討幕の軍旗を掲げて挙兵した。「承久の乱」である。後鳥羽上皇軍からすれば、執権北条義時の打倒が大義であった。
 政子と義時と御家人代表の大江広元らは、鳩首を寄せて対策を練った。迎え撃つか、攻め上るか。談義は二転三転して、打って出た。攻め勝ちだった。後鳥羽院は敗退、隠岐に流された。そのあと、義時が死ぬ。
 このあたり、歴史はどんなときでもそうではあるが、後鳥羽院から事態を見るか、政子から見るか、北条義時から見るかでは戦乱の動向にひそむ心情は異なって見える。ぼくは長らく後鳥羽院の立場で「承久の乱」を見てきたのだが、この小説を読んだときばかりは、さすがに政子の身を想像した。政子は辛くも甥の泰時を執権に就かせて戦後処理のすべてを整えると、気絶したまま息をひきとった。

[追記]令和4年のNHK大河ドラマは、三谷幸喜による《鎌倉殿の13人》だった。つぶさに見たわけではないのだが、永井路子の数々の「鎌倉もの」を下敷きにして、これに《ゲーム・オブ・スローンズ》や《ゴッドファーザー》の味を加えて、鎌倉殿をめぐるホームドラマに仕立てたようだ。武門という「家」がドラマになったのである。