オリヴィエ・ルブール
レトリック
白水社 2000
ISBN:4560058334
Olivier Reboul
La Rhetorique 1984
[訳]佐野泰雄

 今夜は、レトリックをレトリカルに説明せずに、古めかしく正面からとりあげておこうと思う。それには歴史をふりかえるのがいい。それには本書が適当だ。ただし十分な説明がされていないところもあるので(たとえばトポスについて)、ぼくなりに補っておく。

 ロラン・バルトがこだわったレトリック史によれば、当初にコクラスとティシアスの一冊の『弁論術』(テクネー・レトリケー)があった。両刀技法とでもいうもので、紀元前460年ころの著作だ。もっともこれは忘れてもいい。実際の弁論術はもうすこしあとの法廷弁論家アンティフォンと修辞教師ゴルギアスが実用的なものを作成したのをもって嚆矢とする。
 弁護士がいない時代である。アンティフォンはどんな訴訟やどんな裁判にも通用するようなプロトタイプとしての弁論術を考案した。これは弁論を5部構成とするもので、そのなかにいくつかのトポスを仕込んだ。ここではトポスは、きわめて多様な訴訟に対応できる類型としての論法や論点のことをさす(広義のトポスについてはあとで説明する)。
 これが司法分野のレトリックの開闢になった。いまでも弁護士たちはアンティフォンに学ぶことがある。
 一方、ゴルギアスはシチリアからアタネにやってきて民会で演説して、市民を熱狂させた。その技法がのちにゴルギアスによって教授され、いわば文芸的なレトリックの開闢となった。演示的弁論術とよばれる。それまでの定型的な韻文をやめて散文を定型にしてみせたのだ。均斉配置・並行体・合成語の使用・迂言法・隠喩が自覚的につかわれている。これがゴルギアスの弟子のツキディデスに継承され、歴史的記述を確立させた。
 ついでプロタゴラスが登場して、トポスを重視しつつ「ソフィスティック」(詭弁と見えてそうではない弁論)と「エリスティック」(論争を挑んでいると見えてそうではない弁論)を区別した。プロタゴラスはこうした弁論術を教えることにもすこぶる熱心で、いくつかのカリキュラムをのこしている。たとえば演説原稿を口に出して朗読し、そのあと記憶だけで再現する。同じ原稿をホメロスやヘシオドスを引用して話してみたり、論争的な口調にしてみる。どこにトポスを入れるかを学習してみる。そんなカリキュラムだ。

 以上が前史にあたる。ここでソクラテスが登場して、こうした弁論術の長所と限界を問題にする。弁論に過ぎた者たちはいわゆるソフィストとして批判されたのだ。かくてソクラテスの二人の弟子プラトンとイソクラテスが対立した。
 イソクラテスはゴルギアスやプロタゴラスの弁論術が雄弁術でしかないことを指摘して、節度を重視した。こんなことを言い出したのは、イソクラテス自身があがり症だった理由による。ともかくも、イソクラテスは「弁論と理性は人間の本来的な知能である」とした。レトリックは哲学に近づいたのだ。しかし本来の哲学をこそ確立しようとしていたプラトンは『ゴルギアス』を著して、レトリックが論破を目的とした正当性に偏っていることに注文をつけ、それでは不正を犯した者の弁護にもあてはまってしまうことを論難する。そういうレトリックは迎合ではないか、反復ではないかというのだ。
 しかしいま見ると、プラトンにも巧みなレトリックというものがあったのである。プラトンはソクラテスを話者に立て、そこからゴルギアスやイソクラテスを批判してみせたのであるが、その方法そのものがレトリックだったのだ。このことに気がついたのがアリストテレスだった。
 その後、アリストテレスは哲学の本位をくずすことなくレトリックを救う。そのためにレトリックが扱う領域を、法廷弁論・議会弁論・演示弁論の3つに限定し、かつ、レトリックを「どんな相手をも説得する技術」ではなく、「一つの事例が含むすべての説得に役立つ情報を見いだす技術」と定義した。驚くべき先駆性である。今日でもアリストテレスの『弁論術』を読むと、ほとんど反論しにくいほどの説得力を感じる。ともかくもこれでレトリックはついに哲学の水準に達し、パイディア(教養)の仲間入りをはたしたのだった。
 アリストテレスのレトリック論はキケロによって実証され、実用される。ごく簡潔にその方法を紹介する。

プラトンとアリストテレス

プラトンとアリストテレス

 古代ローマにおいて、レトリックは4段階によって成立していた。「発想」「配置」「修辞」「表出」だ。
 この4段階を訓練カリキュラムの説明であらかじめ紹介しておくと、「発想」は主題をよく理解して、その理解を強化するための知識や情報を集めてくる準備にあたる。そこから発想の翼をのばす。「配置」はこれらの収集した知識と情報を並べなおすことにあたる。ここで構想が練り上げられる。次の「修辞」ではこの構想に語りとしての順序をつけ、新たなシナリオとし、発表のための工夫の言葉を加えたり引いたりする。最後の「表出」はこうしてできあがった原稿を何度も練習して人前での読み上げ方を習熟していくことをいう。
 では、それぞれの4段階はどのようなレトリックで組み立てられるのか。キケロやクィンティリアヌスは次のように組み立てた。

(1)発想 ウレーシス(着想)を得るためのレトリックがある。アリストテレスも指摘していたことだが、ひとつはパラディグマ(例証)を見つけて帰納的な推論ができるようにする。もうひとつはエンチュメーマ(説得)で、アバウトな三段論法をつかって演繹的な論証をしていく。ただしこれらを直接につかってはダメなのだ。そこにはトポスがなければならない。トポスが動くようにならないかぎり、レトリックは生きてはこない。
 トポスとは、編集工学的にいえば、情報の極小の場所のことである。情報がアドレスをもつことである。キケロは「トポスとはさまざまな論法につけた分類ラベルのようなもので、それを目安に議論を賛否いずれの方向にも動かすことができる」と書いている。17世紀のデカルト派のラミは「どんな主題にも共通するトポスがある」と指摘した。
 この両方の見解でわかるように、トポスは知識や情報をどちらの方向にも進めていくための分岐点にあたっている。そのため、当時から外在的なトポスと内在的なトポスがあると考えられていた。トポスは知識や情報を動かす論点の場所なのだ。そのようなトポスを類型化した束は「トピカ」とよばれた。

(2)配置 いわゆるタクシスである。論点トポスによってウレーシスやエンチュメーマをつかって発見された材料を配列することをいう。そこにはたいてい起承転結が想定された。

①序論(プロオイミオン)は主題を予告するのだが、それだけではなく、聴衆をその主題にふさわしい心的な状態に導くことを含む。
②陳述(ディエーゲーシス)は事実を提示する。ここは簡潔で明示的でなければならない。ここでぐだぐだと言うから、たいていは馬脚がばれる。
③証拠だて(ピスティス)は証明と反駁をする。ここでは最強の論拠を前にもってくるか後ろにもってくるかを選択する。それによってはここに「余談」が入る。
④結論(エピゴロス)は全体を要約し、弁論を締めくくる。ときに悲愴に訴え、ときに和やかに結ぶ。

(3)修辞 レクシスとよばれた。これは弁論の様式をいう。モードであってモダリティだ。演説の文体でもある。シナリオに選ばれた語句がどのように組み合わされたのかによって、このモードと文体は醸し出される。

(4)表出 ヒュポクリシス。ここはまさに演技を磨くことにあたる。身ぶり、口調、高低、発音が問われる。まさに俳優(わざおぎ)としての訓練が要求される。この表出技術が演劇を、即興詩人を、巡礼歌人を、そして政治家を生み出した。

 以上が古典的な弁論術としてのレトリックの概略である。大きな変更をうけることなく、だいたい1000年にわたって続いた。とくに付け加えたいことはないが、あきらかな特徴をもっていることを付言しておきたい。それは、古典的レトリックは、理性と言説を分離することを拒否しているということ、および真理と美を分離することを拒否しようとしているということだ。
 こうしてこの古典的レトリックを土台に、ヨーロッパでは多くのレトリック技術が特定されてきたのだ。曰く倒置法、曰く誇張法、曰く同義反復法、曰く擬人法、曰く地口、曰くアレゴリー、曰くアイロニー‥‥。これらは大きくは「文彩のレトリック」と「構文のレトリック」に分かれる。説明すると長くなるので、ここではその大要と事例のすべてを省略するが、文彩と構文を決定づける「思考の継ぎ目のレトリック」としてとくに重視されてきた「転義」のレトリックについてだけ、少々だが、案内しておく。
 換喩・提喩・隠喩である。いずれも比喩のためのレトリックにあたる。
 ここでは「喩えられるもの」と「喩えるもの」とその「根拠にあたるもの」の関係で転義の技法が決まる。転義の広がりからいうとこの順なのだが、わかりやすくするため順番を替えて説明する。

◆隠喩(メタファー)は暗喩ともいう。類似性にもとづいて見立てをすることだ。「白雪姫」は肌の白さを雪に見立て、「ぼた餅」(ぼたん餅)は餅を牡丹に見立て、「月見うどん」は卵の黄身を月に白身を雲に見立てた。物知りのことを「生き字引」、がむしゃらに人々を引っ張る者を「ブルドーザー」というのも、「甘いマスク」「おいしい話」というのも隠喩である。隠喩の魅力はアリストテレスが『詩学』において直喩よりも隠喩を重視したときすでに、歴史のなかでの効能を発揮していた。
 ◆換喩(メトニミー)は、言葉(名辞)の入れ替えや変更を可能にするレトリックである。たとえば「キツネうどん」は油揚げが入っていることを日本人にはおなじみであるキツネ伝承をつかい、キツネという言葉に代替させている。駅の運搬を担当してくれる
「赤帽」、童話の「赤頭巾ちゃん」も換喩である。漱石の『坊ちゃん』では、山嵐・うらなりは類似見立てによる隠喩だが、赤シャツは換喩になっている。換喩では何をもって比喩を代替させたのかがポイントになる。
 ◆提喩(シネクドキ)は、言葉の意味の代償関係や包含関係をつかって比喩をつくる。「花」といえば桜、「卵」といえばニワトリの卵をすようにするのが提喩にあたる。「そろそろごはんにしましょう」はとくに白米を食べたいという意味ではなく、食事一般を「ごはん」であらわすわけである。「小麦色」も小麦だけの色のことではなく、その言葉に含まれる健康的な色をさす。提喩は一般と特殊をたくみにくぐりぬける比喩なのだ。

 最近は、これらをすべてメタファー(比喩)というふうに括ることも少なくないが、修辞学ではこれを厳密に区別する。むろん区別も重要で、だからこそかつての漢詩や連歌に見られるような華麗なルールというものも派生できたのだった。
 しかし比喩能力というものは、そもそも幼児にもそなわっているもので、かつ最高級のアーティストにも横溢しているものである。もっとはっきりいえば、脳のしくみにメタファー機能は内属しているのではないかという気がしないでもなく、そちらのほうのことを重視すると、ぼくとしては比喩の分類とはべつに、原メタファー思考というべきものの全般のシステム化や編集工学化が必要なのではないかと思うのである。
 ここではそのことをのべないが、たとえばアナロジーの理論、アブダクションの理論、メタファーの理論というものがまず用意され、これらを複合作用的に連鎖させている「或るシステム」が想定されるべきなのである。そうでないと、「月見うどん」や「親子どんぶり」や「目玉焼き」を食べるたびに、メトニミーやシネクドキの悪夢を見させられて、たまらない。 

附記¶レトリックについての研究は、それほど深まってはいないくせにずいぶん広まってきた。が、本気でやろうとするなら、なんといっても原典はアリストテレスの『トピカ』(アリストテレス全集第2巻・岩波書店)である。言語学や文法学に入っていくのは、よほどの覚悟がないと危険である。せいぜいソシュールの『一般言語学講義』(岩波書店)やチョムスキーの『文法理論の諸相』(研究社)あたりで踏みとどまっていたほうがいい。
 一方、本文でもふれたので見当がつくだろうが、意外に興味深いのは司法上のレトリックで、これについてはずいぶん研究書が出ている。比較的最近には、植松秀雄が監修している「レトリック研究会叢書」(木鐸社)というシリーズがあるのだが、そのなかにフリッチョフ・ハトフの『法律家のレトリック』『レトリック流交渉術』といったタフ・ネゴシエーターが喜びそうな本が入っている。このシリーズはまた『埋もれていた術・レトリック』や『掘り出された術・レトリック』という研究成果ももたらしている。
 こうしたなか、異色の輝きを発揮したのが十年前に亡くなった国学院大学の佐藤信夫さんだった。いまは『レトリックの意味論』『レトリック認識』『レトリック感覚』『レトリックの記号論』といった主要な著作が学術文庫(講談社)に入ったので読みやすくなっている。いつか紹介したいと思っているのだが、その機会を逸したままになっている。メタファー論でやや重みのあるものでは、管野盾樹の『メタファーの記号論』(勁草書房)などもある。メタファー思考の奥の記号論としては、第508夜にとりあげたチャールズ・パースのアブダクション仮説が圧巻だ

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