トマス・シービオク&ジーン・ユミカー=シービオク
シャーロック・ホームズの記号論
岩波書店 1981
Thomas A. Sebeok & Jean Umiker-Sebeok
You Know My Method 1980
[訳]富山太佳夫

 チャールズ・パースという知の巨人がいた。ある学者によると、アメリカが生んだ最も独創的で、最も多彩で、しかも2位以下に大きく水をあけた唯一無比の知性だといわれている。
 2位以下云々はやや眉唾としても、当たらずとも遠くないものはある。天文学・化学・地図製作・分光技術・心理学・辞書編集・数理経済学・論理学・マーケットリサーチ・文献学・戯曲、なんでもこなした。しかも一級品だった。プラグマティズムを創始したといわれるウィリアム・ジェームズはパースの友人で弟子だった。最近では記号論の王者として扱われることも多い。「千夜千冊」でもいつかとりあげたいとおもっているのだが、そのパースには「探偵」としての才能もあった。
 シービオク夫妻はそこに目をつけて、パースをシャーロック・ホームズに準(なぞら)えた。これは炯眼。パースには搦め手が必要だ。ということは、シービオクもパースに匹敵して、なかなか隅におけないということなのである。
 こうなると、本書を説明するにはパースとシービオクの両方を褒めながら話をすすめることになって、それはなんだかおべっかづかいのようなので、以下、ぼくの勝手な感想に切り替える。

 ひとつ。パースが重視したのは「アブダクション」と「レトロダクション」ということである。二つとも広くは「推測」「推量」という意味にあたるが、もっと厳密にいうとアブダクションは連想を含んだ「当て推量」に近く、レトロダクションは「遡行推理」に近い。ここではまとめて「推感編集」ということにする。
 パースはすべての人間の知的思考のなかで、このような推感編集こそが最も重要な思考方法なのだと結論づけた。では、その推理的思考方法は何によって進むのかというと、「問い」によって進む。とくにパースが強調したのは、その「問い」を言葉にしていくことである。つまり「二〇の扉」にするべきだと考えた。
 「二〇の扉」というのは、伏せられた解答に向かって、何もヒントをもたない質問者が20回にわたる質問をし、それがイエスかノーかだけを知ってしだいに解答に行き着くという、ぼくが最も好きなエディトリアル・ゲームのことをいう。かつてNHKラジオの看板番組だった(原形はアメリカ)。
 この「二〇の扉」のルールは、自分が順番に何を質問してきたのか、それに対してイエスを得たのか、ノーを得たのかというQ&Aの蓄積だけなのだが、ところが、どのように質問をしていったかによって、やってみればすぐにわかるのだが、興味深いことには、多くの人が20問に達しないうちに「当て推量」に達するケースが非常に多いのだ。

 ひとつ。ところで、この「問いを言葉にする」ということを怠ると、どうなるかということを指摘しておきたい。
 とたんに同じような思考が"言葉をつかわない合図"のほうに向かっていって、いわゆるオカルト思考になっていく。「言葉にしないですむ合図」に引き寄せられていくからだ。これは危ない。あくまでも「問い」は一回ずつ言葉になるべきなのである。
 実は仮説形成とは、この問いを「二〇の扉」のように適確に続けることにあたる。科学も、論理も、人々の日常生活も、そしてシャーロック・ホームズのすばらしい探偵術も、この仮説形成によってのみ、すなわち推感編集によってのみ成り立っている。
 これがパースの思想の最も重要な特色のあらましである。

 ひとつ。パースは実際にも探偵をしたことがある。1879年の遺言状事件とよばれるものにかかわって、パースの父とともに証言をし、さらにみごとな推理を披露した。
 シービオクが注目したのは、このときのパースの推理力だった。本書を読むと、事件のあらましやパース父子のかかわりが細かに述べられているが、これは省略する。パースがそのような実際の事件にかかわっていたとは驚きだが、そのことに注目してそこからパースの推量理論を一挙にわかりやすい探偵的記号思想に展開していったシービオクの手腕も、これまた驚きである。
 それは、いったいシービオクはパース好きなのか、ホームズが好きなのかがわからないほどの、渾然一体の手腕なのだ。

 ひとつ。コナン・ドイルは医者だった。ドイルはやがてエディンバラ王立病院の実在の医者ジョーゼフ・ベル博士をモデルにして、探偵シャーロック・ホームズを仕立てあげた。
 探偵小説にするにあたっては、原型としてエドガー・アラン・ポーの『モルグ街の殺人』のデュパンがいたが、デュパンが数学的で詩的であるのに対して、ホームズはずっと臨床医学的であり、論理的であり、そして推感編集的だった。そこが自分も医者だったコナン・ドイルの自慢なのだ。
 しかしホームズが最もホームズ的であるときは、シービオクによれば、ホームズはつねにパースのいう「最善の仮説を選ぶ」という原則に従っている。シャーロック・ホームズこそは「二〇の扉」の発案者なのである。

 ひとつ。シービオクの記号思想を知るには、本書よりも『自然と文化の記号論』(勁草書房)を読むほうが、深い。
 ただし、どこが深いところかを掴むには、ぼくがそうだったのだが、ノートをとるか、もしくは2、3回は読む必要がある。これはふつうに考えると、シービオクが書いていることがよほど難解な内容なのか、シービオクのどこかに限界があるせいなのか、そもそもシービオクが考えようとしている記号論的構想が出発点からも中継点からもはみだしているか、シービオクは文章がヘタかのいずれかだろうけれど、実はそのいずれでもない。
 シービオクの構想はそもそもが推感編集的なのである。
 シービオクは、シービオク自身が書いたことで論理を追ってもらおうなどとは考えていないし、その読書から論理の正体や犯人を当ててもらおうとは思っていないのだ(これはウンベルト・エーコもそうなのだが、ありきたりな読書によって自分の仕掛けを理解してもらえるという幻想を拒否しているということでもある)。
 それよりもシービオクがしたがっていることは、「当て推量」が重なっていくうちにそこに適用されつつある方法自体が新たな方法を創発しつつあることに、読者を導いているわけなのである。
 このことを説明するのは面倒である。ぼくも、そうそういつまでもお人よしではいられない。しかし、ごく簡単な素材だけを紹介しておくと、シービオクはざっと次のような6種類の記号的なるものの作用を想定していて、それを縦横に組み立てようとしているはずなのだ。
 その6種類の作用とは、次のようなもの。示唆深い。また、ここにはパース=シービオク方程式のようなものが芽生えている。

1).記号的なるものには必ず「知覚可能な面」と「理解可能な面」がある。ダンテは『俗語論』でそのことにはやくも気がついていた。
2)ゼロ記号あるいはゼロ形式というレベルもある。アフリカ象の警戒が沈黙によるように、記号の不在もまたコミュニケーションであり、推理の重要な作用なのである。ちなみにぼくはこれを「負の作用」とか「マイナスの編集」とよんできた。
3)個物を指示できるトークン、それが様相で見当がつくタイプのようなものがある。これは記号によって指示されたものを意義として受け持つ作用で、フレーゲ(Sinn/Bedeutung)、フッ
サール(Bedeutung/Bezeichnung)、ソシュール(valeur/substance)にもこのことは指摘されていた。
4)いまでは誰もが知っていることだが、記号表現と記号内容は別々に作用する。
5)信号・徴候・類像・指標・象徴・名称はそれぞれ別の作用を発揮しながらも、つねに関係しあっている。
6)記号作用には、それが誰かによって発動されるに先立って、またそれと同時にといってもよいのだが、記号の構造性、記号の機能性、記号の歴史がおおいかぶさっている。

 

 これらが結局、何を示唆しているかというと、記号的なメッセージは交換され、編集されることによって初めて成立していくものだということである。ぼくはこれを『知の編集工学』で「コミュニケーションとは、エディティング・モデルの交換なのである」と書いておいた。

 ひとつ。シービオクはパースを食べながらも、しだいにホームズからフォン・ユクスキュルのほうへ、さらにはルネ・トムのほうへと推感編集の方法の半径を広げている。
 これは環境世界の中においても、生物的な推感編集という方法が生きているということ、および、自然のトポロジックな変換過程やカタストロフィックな変換過程にも、たとえば「形態」というもの自体がみずからを推理し、編集しているということを認めたいというシービオクの考えで、なかなかおもしろい。これについてはすでに多くの提案もあるところで、たとえば第140夜のルネ・ユイグの『かたちと力』、第308夜のランスロット・ロウ・ホワイト『形の冒険』などを参照されるとよい。
 ただし、シービオクはそのような拡張をうまく説明することがヘタなようで、察するに、そのような拡張は論理そのものからの離脱なのだから、そんなことを説明することそのものの「つまらなさ」を強調したいのかもしれないともおもえる。

 ひとつ。実際にもシービオクは、学術的な研究生活というのは自分の活動のせいぜい2割くらいにとどめたいらしく、そのほかの時間は「組織」と「編集」に時間を割きたいし、割いてきたということを明言している。
 このシービオクの生き方は、ぼくにはすこぶる勇気を与えてくれた。まったく同様なことがウンベルト・エーコにもあてはまっていたことを、ぼくは僥倖とすらおもうほどだった。
 なお、このようなシービオクの生き方については、本書の巻末に 山口昌男さんとの刺激に富んだ対談が収録されているのだが、そこでも強く主張されている。山口・シービオク対談は、いま読んでも実に多くのヒントを含んでいるものなので、面倒くさい人はここだけを読んだらどうかと、そんなお節介をしたくなる。

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