エリック・レイモンド
伽藍とバザール
光芒社 1999
ISBN:4895421686
Eric Steven Raymond
Cathedral and the Bazaar 1997以降
[訳]山形浩生

 神父であって古生物学者であろうとしたティヤール・ド・シャルダンが「ヌースフィア」を提唱したとき、この言葉は「精神圏」と解釈された。
地球に人類が登場してこのかた、猛烈な勢いで人々の活動が吐き出した“精神子”や“精神流”が地球のそこかしこを取り巻いてきたはずだから、きっと地球の大気圏の下にはすでに「精神圏」とでもいうべき対流層ができあがっているだろうという意味だった。ぼくはこのことを、ぼくの最初の著書『自然学曼陀羅』(工作舎)にとりいれた。
 フリーソフトウェア・プログラマーだったエリック・レイモンドは、このノースフィア(精神圏)をあえて「ノウ・ア・スフィア」と表記して「世界の情報編集のすべての集合所」のような意味につかった。むろんネット上の出来事を前提としたうえでのことである。時代の隔世を感じるが、いまおもうと、ぼくはずっとこのような時代がくるのを知っていたようにも思う。

 本書はネット上で読んだほうがよい。そういう性質を文体がもっている。実際にも、ネットでおこっている出来事を加味して書いている。
 レイモンドは最初「伽藍とバザール」を発表し、反響が大きかったので「ノウ・ア・スフィアの開墾」を出し、さらに経済の可能性を予測して「魔法のおなべ」を書いた。日本語版の本書では山形浩生によってこれらが一冊の中で組み上がっている。これはこれで、本書にふさわしい翻訳構成になっている。山形の解説も当時としてはサイコーだ。

 すでにリナックスが世界のパソコン・ネットワーク社会を席巻しているからいまさら言うまでもないのだが、エリック・レイモンドがリナックスの背後で動いている新しい動向と思想に注目したころは、まだフリーソフトはお金にもならないし、キラーソフトになるとも思われていなかった。それがあっというまにリナックス時代がやってきて(つまりはマイクロソフトをも揺さぶったのだから)、本書が何に気がついたのか、たいそう注目された。

 レイモンドが気がついたのは、まとめると次のことである。
 第1に、ソフト開発には見取図があって、チームがあって、それを細かく分担しながらミスをチェックする命令型の「伽藍方式」よりも、あるソースコードがあってそれをみんなが勝手に機能を追加したりバグを取り除いていくという「バザール方式」のほうが、ずっといい成果が出るということである。
 このことは、技術革新で一番重要なことが、どうしたらすぐれたアイディアを潰さずに成長させていくかにあるということから考えると、いかに優秀な方式であるかがわかる。だいたい技術開発は資金面かリーダーの堕落か、チームの不和かで難破するからである。バザール方式はこれをやすやす突破する。

 第2に、リナックスがまさにそうやってできあがったのだが、バザール方式は全世界の才能が使える。
 リナックス開発は世界を“才能プール”として使った最初のプロジェクトだったのである。ちなみにぼくは、このように世界の誰によっても可能な自主的参加によって生まれていく知識世界の自律的動向がありうることを「知財プールによる自律的なエンサイクロメディアの発生」と呼んで、はやくからその可能性を訴えてはいたのだが、本当のところをいうと、それがリナックスのようなフリーソフトから始まるとは予想できていなかった。
 ぼくは、ディドロの百科全書ゾラのルーゴン=マッカール叢書や、あるいはルーブル美術館やシアーズカタログに代わるものが生まれていくと予想した。
 しかし、リナックスであれエンサイクロメディアの発生であれ、それらがネット時代の「ノウ・ア・スフィア」(情報知性界)であることはまちがいがない。ただし、ここには「編集の相互作用」が絶対に必要なのだが、さすがにレイモンドはそこまでは触れられなかった。

 第3に、バザール方式は世界の経済の歴史からみても説得力のあるものではないかということを指摘した。
 そもそも人類がどのように経済を力のあるものにしていったかというと、未開の土地を開墾してそこから作物を得たことが最初のスタートだった。ではどのように土地を所有したかといえば、(A)そこを開墾することで所有する、(B)すでに土地をもっている所有者から借り受けて家畜を飼ったり作物をつくる、(C)所有者の土地を略奪するか、いつしか所有がはっきりしなくなった土地を占拠する、という3つの方法があった。
 これをネット世界にあてはめてみればわかるように、コンピュータ・ネットワークの中で何をどのように開墾するかということは、そもそもこうした経済社会の原点とかかわる行為なのである。逆にいえば、かつての古代中世の開墾者たちは最初のハッカーだったのである。いやいやアメリカの西部の開拓者だって、アルザス・ロレーヌに進出したヨーロッパ人だって、ハッカーだった。
 ここで開墾がプログラミングにあたっていることは、すぐに見当がつくだろう。すなわち、“そこ”にプログラミングを落とすことが「エルゴスフィア」であって「開墾作業スフィア」であり、そこからの作物が流通したり交換されることが「ノースフィア」の第一歩なのである。

 こうしたことに気がついたレイモンドは、ここからさらに突っこんで、今日の交換経済社会が「稀少性」を前提としている交換経済ではなくなっているのではないかと考える。
 従来の経済は稀少価値をつくることが富をもたらした。それが普及してしまえば、また新たな稀少価値をつくりだす。そのために他社に隠してでも特殊な機械を開発し、工場生産を有利に展開したくなる。
 ところが物資が豊かで余っているような社会では、稀少価値をつくりだす努力よりも、みんなにとってもっと便利で有効なものを共有したくなる意識のほうがずっと強くなっている。何をいまさら新たなエルメスがほしいものか、何をいまさら特殊で高価な時計がほしいものか。
 これをパソコン・ネットワークに限っていえば、とくにこの稀少価値というものがまったく役に立たないことがよくわかる。いまパソコンユーザーにとって必要なツールの大半は、ほとんどオープンソースで存在してしまっているわけで、高価で、誰にもノウハウが尋ねられも教えられもしないソフトなど、売れるわけもない。
 レイモンドは、このようなネット上の稀少価値型の経済性の終焉を、「交換文化」から「贈与文化」への移行だというふうにも捉えた。たしかに「交換」より「贈与」にシフトはしているが、これはどうも説得力がなかった。むしろ「新たな評価経済の登場」というふうに捉えたほうがいいだろう。

 本書はハッカー文化がもたらした大きな成果のひとつである。すでに本書の視点よりも鋭いものもそこかしこに出回っているが、出発点はここだった。
 なぜこんな本がうまれえたかといえば、ハッカーたちは、こうした新しい社会感覚にはもともと富んでいたからだ。かれらは「モノ」は使えば在庫が減るが、ソフトは使えば使うほど価値が増すことを知っていた。この感覚がわからない者には新たな経済文化はつくれない。
 ただし、この一冊から新しいITビジネスを引き出そうとするのなら、かなりのセンスが必要だし、ハッカー文化を外挿的にビジネスに活かそうとしても、たいていの企業は失敗するだろう。なぜならば、いまなお大半の企業には「ネットワーク・コミュニティ」という感覚が欠けたままになっていて、あいかわらずの伽藍方式にこだわっているからだ。日産のゴーン革命だって、結局は同じことである。これではリナックスはつくれないし、エンサイクロメディアは生まれない。
 おそらく新たな経済社会は、ネットワーク・コミュニティが生む「文化」がどのようなものであるかを予測できた者によって、きっと提出されるだろう。それは一言でいえば「情報文化技術」によって価値や評価が動いていく社会というものだ。
 実はぼくにはだいたいの見当がついている。どんな“知の通貨”やどんな“情報銀行”が必要かもわかっている。けれども、その青写真を発表するのはまだ早い。なぜなら、リアルな社会があまりに惚けてしまっているのに、ネット社会ばかりが夢を追っていていいのか、そのことがまだまだ気になるからである。
 しばらくは「負の領域」をこそ企業にも、地域にも、ネットワークにも持ちこんだほうがいいのではあるまいか。

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