父の先見
暗殺者
新潮文庫 1983
Robert Ludlum
The Bourne Identity 1980
[訳]山本光伸
もう10年ほどラドラムを読んでいない。あらかた読んでしまったせいもある。最初に何を読んだか、それも忘れるほど、次から次へと貪り読んだ。ぼくの80年代はロバート・ラドラムで埋まっていたようなものだ。
エスピオナージュといえばエスピオナージュ、ハード・サスペンスといえばハード・サスペンス。ラドラムの分野をうまい言葉で言いあらわすのは難しい。アメリカでは「ラドラムの奇跡」とよばれて、さしずめアレクサンドル・デュマやレイモンド・チャンドラーの再来のように騒がれた。
しかし、デュマでもないしチャンドラーでもない。ジョン・ル・カレでもなく、フレデリック・フォーサイスでもない。ラドラムはラドラムなのだ。ともかく力作が目白押しに発表されるので、これは駄作だろうとおもってもみるのだが、つい読まされ、興奮してしまっている。アメリカという国家に反意をつきつけているのが、つい読んでしまう最後のスパイスにもなっていて、実は作品のすべてが良質とはかぎらないのではないかと疑っているのだが、情けないことに読んでいるうちはそういうことも忘れていた。少なくともフォーサイスやジェフリー・アーチャーがどんどんつまらなくなっていったのに比べると、ぼくを十冊以上にわたってハメつづけたのだから、その手腕は並大抵ではないということなのだろう。
なかで傑作は、やはりこの『暗殺者』である。文庫本で2冊にわたる長編だが、読みだしたら、絶対にやめられない。
主人公はジェイソン・ボーンで、これがたまらなくいい。すでに『ボーン・コンスピラシー』で異様な魅力を発揮していたが、本書では主人公描写に抑制がほどよく効いていて、わかりやすくいえば大薮春彦のハードボイルドもののように主人公の信じられないような美化がなく、かえって“人格サスペンス”とでもいう緊張した効果が高まる。
本書のテーマは極上のライバルとの想像を絶する格闘にある。そこはアルセーヌ・ルパンに似ている。ただし、ルパンにもそういうところがあるが、そのライバルは容易に見えてこない。見えざる敵なのだ。見えない敵であるうえに、本書は原題を『ボーン・アイデンティティ』というのだが、そのタイトルに象徴されるように、主人公のボーンは冒頭から記憶喪失者として登場する。自分が何者であるかがまったくわからない。わかっているのは自分が嵐の海から瀕死の重症で助けだされたこと、コンタクトレンズを使っていたらしい跡、髪を染色したらしいこと、体の一部に刻まれた銀行の口座番号といったものだけである。そこから自分が何者であるかを嗅ぎ出さなければいけない。その自分の正体を知ろうとする負担に加えて、見えない敵の罠が迫ってくるのだから、サスペンスは多重に倍加する。
見えない敵はカルロスという。『暗殺者』というタイトルはこのカルロスのことである。これが徹底的に異常者で、そこは『羊たちの沈黙』のレクターを上回る。ただしサイキックなのではなく、殺害愛好者なのである。
物語は多重であって、多層である。その裂け目に謎がいくつも闇の淵を広げる。
ジェイソン・ボーンがしだいに知っていく自分の正体が、第1の謎である。これがけっこう恐ろしい。主人公が主人公らしからぬ正体をもっている。ついで、暗殺者カルロスの秘めた目的が第2の謎になる。この目的もしだいに恐ろしさを増していく。いったい誰がボーンの味方なのかということが第3番目の謎である。この手のドラマティックなサスペンスによくあるように、なかなか真の味方はわからない。やっと出会えた味方が恐るべき敵の手先だったという絶望感は、物語の全編に顔を出す。そして、カルロスの秘密のネットワークが何かということが第4の謎である。
しかし、以上の4つの謎が絡みながら進行していくなかで、最も巨大な謎が浮かび上がってくるというのが第5の謎の仕掛けになっている。それがどういうものかを、これから本書を読む読者のためには、ここに書くわけにはいかないが、それこそがロバート・ラドラムの最も得意な許されざる大仕掛けというもので、この最後の謎の究明がどのようにもたらされるか、物語がそこに向かっているのだということがうすうすわかってきたとたん、もう飯を食べようと電車に乗ろうと、トイレに行こうと電話がかかってこようと、本書は手放せなくなってくる。
これ以上の話をおもわせぶりに書くのはやめておく。ともかく、読みなさい。これに勝る案内はない。ヤワじゃないことだけを請け負っておく。
一言加えておけば、『ボーン・コンスピラシー』と『ボーン・アイデンティティ』を読み終わった直後から、ぼくは「ジェイソン・ボーン」というブランドで何かをつくりたくなっていた。“彼”はそれほど魅力がある男でもあった。