モーリス・ルブラン
奇巌城
平凡社 1929 ポプラ社 1976 創元推理文庫 1965
ISBN:4488107044
Maurice Leblanc
L'aiguille-Creuse 1912
[訳]石川湧

 ほんとうは堀口大學が訳した『813』を選びたかったのだが、いくら探しても手元になく、何軒かの本屋にも入っていなかった。これはいずれ取り寄せなければなるまい。それほど大事な本なのである。
 もっとも物語や筋書を紹介したいわけではなく、アルセーヌ・ルパンその人にぞっこんのオマージュを捧げたいのだから、ここではルパンが登場するシリーズなら何でもいいということになる。それでは手放しすぎるというなら、一応は『813』『奇巌城』『水晶栓』『カリオストロ伯爵夫人』『金三角』あたりをベスト5ということにしておく。

  ともかくぼくは、アルセーヌ・ルパンのすべてが大好きで大好きでたまらなかった少年だった。むろん少年少女名作全集のたぐいで読んだ。挿絵には山高帽をかぶってマントをひるがえす片目のルパンが、つねに半分黒々としたシルエットで描かれていた。
 最初に夜を忘れて夢中で読んだのは『怪盗紳士ルパン』か『泥棒紳士ルパン』と銘打った大判ダイジェスト本だったとおもう。それを繰り返し読んだのである。
 そのため、いつかは高級な美術品や歴史的な宝石しか盗まない大泥棒になってみたいとひそかに決心したほどで、危ないことには、カルピスの味がする初恋まがいの少女たちに、「ねえ、ぼくはアルセーヌ・ルパンのような泥棒になるから、そのときは君はこっそり手伝ってね」と言いふらしていた。のちにそのころの美少女にあったとき、「あのセリフはけっこう口説きのセリフとしてはよかったわよ」と言われた。その美少女は太ったおばさんになっていたのだけれど。
 それほどルパンには憧れていたので、青年になってからも、20代になってからも、ルパンを読みつづけた。ただし、モンキー・パンチの漫画「ルパン三世」は好きにはなれなかった。あれはアルセーヌ・ルパンにはほど遠い。

 40歳のモーリス・ルブランがアルセーヌ・ルパンを“創造”したのは1905年のことだから、巷はベル・エポックの真っ只中にあった。気取ったダンディズムと富豪をからかうアナキズムが受けていたころで、てっとりばやくいえば、つまりはオスカー・ワイルドやアンブローズ・ビアスの時代だったのである。もうちょっといえば、E・M・フォースターだ。
 フランスではコルヴォー男爵マルセル・プルーストである。そこにはちょっとゲイの感覚もまじっている。
 そこにルーアンに生まれ育ったルブランの気質が加わった。ルーアンはジャンヌ・ダルクが殺された土地で、ルブランはこの土地の歴史感覚をいかした物語舞台に、ベル・エポックなダンディズムとアナキズムを理想的に装飾されたアルセーヌ・ルパンを“創造”した。おそらくはルブランの姉がモーリス・メーテルリンク一座の座員だったため、少年のころから芝居の登場人物の出現の仕方や引っ込み方に目を奪われていたのが糧になったのではないかと、ぼくはおもっている。
 もっとも、ルブランがルパンで大成功を収めたのは、編集者のピエール・ラフィットの炯眼もあずかっていた。ラフィットはルブランが最初に書いたルパンものを雑誌にすぐ載せず、同じ主人公の短編物語を10本も書かせた。これがルブランにルパンの際立つ特徴を思いつかせたのだった。アルセーヌ・ルパンは“編集的怪盗”でもあったのである。

 ルパンは絶対につかまらない怪盗ではあるが、おそらくそれだけでは大人気が出なかったろう。次のような条件が本物の紳士だけに与えられる勲章のように輝いていた。
 ひとつ、ルパンは大泥棒なのに城館かサロンにしか潜入しなかった。ひとつ、神出鬼没で変装の名人だった。ひとつ、美術品や宝物を失敬するにあたっては、その傍若無人の行為がアルセーヌ・ルパン自身の仕業であることを隠さなかった。ひとつ、洒落たヒューマニストであった。ひとつ、哀しい婦人を見ると放っておけないフェミニストであった。ひとつ、ニセモノやイミテーションを断固として許さなかった。ひとつ、資本主義の勃興に立ち向かうダンディ・アナキストであった。ひとつ、途方もない知識欲と調査力をもっていた。ひとつ、ライバルとの知恵くらべと死闘に生きがいを感じている男であった。
 こうした条件がアルセーヌ・ルパンをとんでもなくチャーングにしているのだが、推理小説の主人公としてルパンを成功させているのは、実はもっと別な性格付与にある。それは、アルセーヌ・ルパンが怪盗であって、同時に探偵だったということである。
 これによって読者はルパンの盗み方にぞくぞくするとともに、ルパンが見えない敵の罠を解読しながらその罠を潜り抜けていくスリルとサスペンスを堪能できた。そして、そのことがアルセーヌ・ルパンをして当時のフランスのサロンで最も話題になったヴァーチャル・キャラクターに仕立て上げた最大の理由だったのである。
 ぼくも、こう言いたい。盗めよ、さらば与えられん!

参考¶ルブランのアルセーヌ・ルパンを主人公とするシリーズは、創元推理文庫だけで18冊ある。『813』は新潮文庫に入っていたかとおもう。

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